1・「死んでいるか、生きているか」

実は何をして生きているか、何をもって死んだとなるかは良く分かっていない。
人間だけではなく凡そ全ての生命は始原生殖細胞と言う設計図によって作られてくるが、この細胞は親から子へ、その子どもへと少しずつ情報を変異させながら繋がっている。だから見方を変えれば生物はこの始原生殖細胞の連続する器とも言える。
そしてこの細胞の不思議なところは、生まれる前に、男か女を決めている点であり、こうした事はその生物の機能的運命が生まれる前に決められていることを意味している。
つまり例えば女性が一生の間に排卵する数、男性が一生の間に放出する精子の数は、少なくとも女性に関しては生まれる前から数が決まっていて、男性に関しても凡そだが決まっている。
男女とも生物機能的な運命は生まれる以前、もしかしたらそれ以前から決まっていることになるのだ。

そして生殖に関しては環境、例えそれが人為的なものであっても、生殖機能はそれに順応する。
例えば貧しい国、戦争で多くの人が死んでいく国は生殖機能が早やく始まってくる。
これを調節しているのは殆ど女性の機能だが、古い記録では太平洋上のある島で酋長の妻になったのは7歳の女の子、その子が出産したのは8歳、その生まれた子供がまた女の子で、その子が他の島の酋長と結婚したのはこれも8歳、出産は同じく8歳と言う例や、古代の日本でも平均寿命が30代だった頃、出産年齢は10代前半が多かったと言われている。

また30年ほど前のブラジル、ここでも貧しい人達が住む地域では10歳未満の出産が他の地域よりは多かった事が知られていて、早い出産例では9歳の女の子の出産例がある。
さらに寒い地域では女性の出生率が男性の出生率より僅かだが高く、暖かい地域では男性の出生率が女性の出生率を僅かだが上回る。

人間の体は個々だが、それが人類と言う一つ大きな流れの中では或る意図をもってコントロールされているか、自主的な調整がされているように見えるが、こうした傾向は他の生物でも同じ事が言え、始原生殖細胞を大きな流れとして考えると、全ての生物は基本的に生殖可能な範囲が寿命で、それ以後は「まる儲け」と言うことになる。

その意味では個々の人間が「自分が、自分が」と言う考えをもっていたとしても、どこからどこまでが自分で、どこからどこまでを生きているか、死んでいるかと言う区切りはつけられないのである。
個々の生物は自身が生まれて来るとき親を選択できないが、同時に性別も選択できず、その瞬間から「死」が待っていて、それが明日、いや次の瞬間かも知れないのだが、連続する流れの中ではそれは「或る整合性」をもっているように感じ、これをもしかしたら「神」と感じたのかも知れない。

そして「死」は常に「生」と表裏一体のものだが、生物は自身に死が訪れた時、何も感じないかと言うとそうではない。
一定の割合、一定条件が揃うと生物の脳は自身の限界を判断する。
だがこの限界は体の衰えや破損、それを総合的に脳が判断して限界にしているか、脳が限界を作っているのかは疑問が残っている。

これは始原生殖細胞の話しにもどるが、非常に運命的な要素を秘めていて、もしかしたら始原生殖細胞は生まれる前から凡そその個体生物の寿命を決めているかもしれないからだ。
例えば肝臓に関して言えば、この臓器は人間の臓器の中で唯一自主再生する臓器なのだが、これが何の兆候もなく他の臓器は平常なのに細胞が自分から壊れていき、それで死に至ることがあり、こうした事態は医学的にも原因が分かっていないが、良くあることなのだ。

生物の生体機能を管理しているのは「脳」だが、この脳は恐らく自分で意識できて知る範囲以外、つまり自分が知ることの出来ない自分を持っている可能性は極めて高く、その中に「死」を含んでいないとは断言できない。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

4件のコメント

  1. 自分のような、他人から見たら、生ける屍(笑い)のようですが、今流行っているのは、屍なのに生きているように振る舞って、害悪を撒き散らす、いわゆるゾンビが、大増殖している様です。
    明治と比べちゃいけない気もしますが、当時の寿命を考えても、若い人が充分活躍していたし、敗戦でシベリア抑留されて、ウズベキスタンの首都にあるナヴォイ劇場を建築した時の数百人の部隊の長は当時25歳の永田行夫。
    戦後は、組織の枢要を占めるようになった人々は寿命の伸延と共に、そのまま居座って、ゾンビになり果て、伝統ある会社や議会では、今や過去の栄光の何倍もの害毒を流して居ながら、てんでお気づきでない(笑い)

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      植物の遺伝情報は結構いい加減で、すぐに隣接交配してしまいますが、人間のそれはかなりガードが固く、この意味では動物と植物との間にはかなり高い壁があります。
      こうしたガードは環境と言う現実に対処する能力を持っていて、前出の話で言えば、植物は動物より環境にたいして即時対応性が在り、動物はこれよりは遅いと言う事も言えるだろうと思います。
      しかし、人間のそれは植物よりは遅いものの、それでも適応していく能力が全く無いわけではなく、女性の出産年齢などは10年ほどで動いて行くし、寒暖の変化に対応する能力は遅くとも4年ほどで変化して行きます。
      ただしこれが豊かな地域だと環境をカバーするシステムが続く為、限界まで適応能力は働かず、気が付けば大きな環境の変化についていけない場合が出てきます。

  2. 或る研究によれば、完全変態昆虫は、蝶にしろカブトムシにしろ、実は、卵の時代から、羽になる細胞、手足になる細胞、その他が継承されながら、幼虫~サナギ~成虫になるらしい。つまりは変態する度に、ドロドロになって(これはこれで気持ち悪いが)再構成されるわけではなく、指定された細胞が変化して変態に対応する、その証拠に、卵の一定期間発生後の細胞を摘出すると、将来の対応する器官が失われるらしい。
    全て病気が遺伝子で決定されているわけでは無さそうだが、つまり環境の刺激によって、分かれ道が準備されていても、決定的な遺伝子もあって、それが発現して寿命となることもあるようだ。
    クマムシは、強烈な高圧・乾燥・放射線でも生き残って、環境が適度になると又活動開始、或る意味ヴィールスのようでもある、生き甲斐は人とは違うらしい~~♪

    最近聞かなくなったが、植物人間でも脳死も含めて人は、或る種の能力や身体に欠落があっても、その存在の価値と尊厳を些かも毀損するものではないが、物理的なものと哲学的なものを、ごちゃ混ぜにしないで、その希望になるべく添うように、周囲も応じた方が良いだろうし、それぞれ総合的に研究して、道標の1つに加えるべき時機が来ているようにも思う~~♪

    1. 小さな水溜りを避けていると、やがて大きな水溜りにはまってしまう訳ですが、これは生きている人間がどうしても避けられない傾向でも有ります。
      苦しいことや嫌な事は先送りしたいのが人情と言うもので、言うは易く行うは難しいものです。
      また我々は今自分を為している体を持って生きるとしているのですが、これには多くの細胞の集積と電気信号と言う側面が有ります。つまりはエネルギーの集合体と言う人間があるのですが、近年の物理学は反物質を認めてきていますので、これに拠れば終わりと言う時点に戻れなくても、それが存在するか、記録されている事が必要になってきます。
      われわれに取っては終わった事になっても、それはいつかの時点で止まったまま存在する可能性が出てくる訳です。
      意外に幽霊や亡霊は当たり前だったのかも知れませんね(笑)

      こめんと、有り難うございました。

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