2.「死とは何か」

動物、例えば身近な例を取れば、猫は死期が近づくと家から出て行くという話が多い。
これは自分の死骸を人目に晒さないためだと言われているが、カラスなどもこうした傾向にあって、滅多にその死骸が目撃されない、また野生の象はやはり死期が近づくと群れから離れ、その墓場となっている場所へ向うと言われている。
ツバメは雛が孵(かえ)った瞬間から育たない雛を巣から落としてしまう。
それ以後どれだけ人為的に巣に戻してもやはり巣から追い出してしまうのだが、ではこのだめだと判断する親鳥は何を見て判断しているかと言うと、全く分からないのだ。

こうした生物がその死期を悟った時、それは体の衰えを脳が判断するのか、脳がそう決めたのかはわかっていない。
またツバメの親鳥が見ているものはもしかしたら「勘」である可能性があり、始原生殖細胞の周期が短い鳥類のそれは、人間よりももっと身近なところに存在している可能性がある。

動物もそうだが人間が死んだ直後と直前、つまり呼吸が止まる少し前と、呼吸が止まって五分後の体重を計ると、死後の方が360グラムから480グラムほど体重が増えると言われている。
この記録はもっと細かい数値を出している場合もあるが、詳細な記録を拾うと少しこうした幅があるようで、ここでは幅を持った表示をしたが、これはその重さこそ違うが犬や猫、少し微妙だが鳥類にも見られるとされている。

もし人に魂なるものがあり、それが死後抜けていくとしたら普通軽くなるようにも思うが、これに関して人間を構成する物質の中には「反物質」の存在があるのでは無いかと言う見方がある。
反物質とはその物質特性の反対の性質を持つ物質、つまり体重で言えば、50キログラムの体重の人に500グラムの質量を持つ反物質が混じると、その人の体重は49,5キログラムになってしまうと言う物質(ダイエット中の人にはとても興味深いかも知れない・・・)が人間には含まれて生まれて来るのでは・・・と言う考えかただ。
この考え方でいくと、人も動物も魂があり、それは「反物質」で出来ていることになる。

ではこの反物質の正体は・・・と言うことになるが、これの存在は確定性未来、つまり運命が肯定される事から、時間軸に措ける瞬間の中の世界観、他者にはその瞬間で終わった形に見えるが、本人はその瞬間の中で存在してしまう可能性が出てくる。

人が死ぬ時、周囲では苦しそうに呼吸するその姿を見て、ああ、さぞや苦しいのだろうなと思うかも知れない。
しかし、生物の脳は一定以上の苦痛には遮断機能を持っていて、これは「夢の不思議」でも出てきたと思うが、この時当事者は違う安らかな景色を見ているのだと思う。
それはその人が一生の間に見てきた全ての光景、そしてそれを全て認めることが出来た瞬間に違いない。

どんな生き方をしても人は過去を拭い去ることは出来ない。
だから死ぬ瞬間、脳はその全てを「これで良かったんだよ」と思わせてくれるに違いない。
そしてそれは紛れも無く自分自身であり、この地球に生命が誕生して37億年、幾多の絶望的な試練をくぐり抜けて今日に至った生物と言う大きな流れの中で、自身の存在がちゃんと意味を持っていたこともきっと教えてくれるはずだ・・・。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. あっち側へ逝って、質量が減るのなら、霊魂が抜けるから、って分かり易いのだけれど、増えるなら、浸透圧調節や防御機構やらが機能しなくなくなって、体表から周囲のもの、特には水分・気体と細菌が体内に侵入して、なんても考えられますが・・・実は、生きているときは色んなものに縋って居て、それから解き放たれ、その力が失せて、元の重さになった~~♪

    臨死体験者の帰朝報告会では(笑い)一様に似ていて、多分にステレオタイプの気もしますが、ボンヤリした川の向こうに、何とも香しいお花畑があり空には蝶やら鳥やらが有り、人が三々五々語らっている、見たいな・・これはハッサンサバーが、ハッシシで手なずけて、暗殺者に仕立てたときに、若者に吹き込んだ天国のイメージ、そこには妙齢の美女が君を待っている~~♪

    チャールストンヘストンが出た映画、ソイレントグリーンでは、ホーム(日本のホームと実質的に同じようにも見える、勿論悪いわけではない~~♪)での最後の景色は、やっぱり良き幼き時の偽の記憶とお花畑の景色~~♪

    星新一だったか、地球が滅びるときに、生命誕生の歴史が目の前に幻灯のように蘇り、アメリカ人のような(小さな脳味噌の巨大恐竜)動物の進化や哺乳類誕生の有様が、眼前で展開して、それは人が死ぬときに思う自分の一生の物語の地球生命版、言葉は忘れたが、アンブローズビアスにも、似たような風景が有ったようにも思う。

    芥川の蜘蛛の糸のカンダタが居た地獄は闇鍋のような、良く言えば寄せ鍋のような印象だが、お釈迦様にからかわれて、一本の蜘蛛の糸を垂らされて、弄ばれたが、この世のかなりの人々もこんな感じで有ろうかと思うときもあるが、それはそれで、仕方がない~~♪

    夢と現は人と蝴蝶がそれぞれ夢と覚醒の交替で、生きている内は何かしら思わないと、飽きるので(笑い)それなりに奮闘もして、意味づけが終わろうと半ばであろうと、立体の中の微かな点はお終いで、何もない。暫く誰かの記憶には残るかも知れない、生来、重度の障害を持っている者は、一生涯或る種の良き夢の中で生きているとして考えた方が、周囲のものは幸せかも知れない~~♪

    自分は閻魔様の前に引き出されたら、多分、舌を抜かれると思う(笑い)が、お目々も、耳も口も引っこ抜かれるのに比べたら、軽いものかも知れない~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      死は誰の為のものかと言えば、それは生きている者の為に有ると言えるかも知れません。
      死は生きている者で無ければ認知することが出来ない。死んだ人間に死は意識できず、死を知っている者は生きている人間でありながら、生きている者は死を知らない。
      空海が言った生の始まりに暗く、死の終わりに暗いはけだし名言だったと思います。それが何かは有るだろうと思われながら、でも生まれた者、生きている者には見えない、知ることが出来ない。つまり暗い訳です。
      唯父親の介護などをしていて最近思う事は、例えば介護の期間が予め20年とか言う単位である事が解って、その期間の間に自身が死んでしまう事も解ったとしたら、自分は親の面倒を見ながら暮らして行く、或いはそれで一生を終える事に耐えられるかどうか解らない。
      して見れば知らない事は有り難い事でも在り、生きる希望なのかも知れないと思います。
      世の中には知って良い事と悪い事がある。
      若い頃は知ることは全て良い事だと思ってましたが、こうした年齢になり、有る程度の過酷な経験もしてみると、全てが正しい事であるとは限らない。そこに存在する無知も、愚かさも、もしかしたら悪ですらそれがそうである意味があるのかも知れないと、そんな事を思います。

      コメント、有り難うございました。

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