3・「人は何を見ているか」

死の概念は旧石器時代中期、つまりネアンデルタール人が活躍していた頃からその形跡を見ることができる。
旧石器時代は100万年続く時代区分だが、ネアンデルタール人達が発生した中期は第3間氷期、つまり地球は温暖な気候だったが、その後第4氷河期が訪れる旧石器時代後期には、クロマニョン人を代表とする我々の直接の先祖となるホモ・サピエンスが発生し、このネアンデルタール人達のような旧人は滅んでしまう。
人類の文明の殆どはこのホモ・サピエンスの頃に劇的な発展を遂げる。

どちらかと言うと原人に近く、脳容積こそ大きくなったものの、前かがみの姿勢などは原人の要素を残していたネアンデルタール人、しかし第4氷河期が始まる頃、彼等は洞窟に身を潜め、火を焚いて暖を取り、マンモスなどを狩猟して生計を立てていたが、死者を埋葬することを知っていた。
洞窟の脇に穴を掘って死者を埋葬したと思われる遺跡が発見されたのである。
これはどう言う意味を持つか、つまりネアンデルタール人達は「死」に対して宗教観があったことを示しているのである。
その遺跡の遺体の上には花束も置かれていた。

脳容積では原人が1000cc,ネアンデルタール人1200cc,現代人が凡そ1500ccであることから、とても高度な知能があったとは思われていなかったネアンデルタール人、しかし彼らは「死」を悲しい事だと知っていた、そしてそれを敬うことを知っていたのである。
人類は少なくとも10万年前には「死」の概念を持っていた、それが悲しいことも知っていた、そしてそれ故に死者を恐れ、蘇ってはならない死者の姿を恐れる歴史も始まっていったに違いない。

人は死ぬと、どうなるのだろう。
まず、脳がこれまでだと諦めた瞬間、それまであった苦痛が消え、何とも言えない幸福な感じになり、その瞬間一瞬にしてこれまでの人生の全てを見ることができると言われている。

その後、なぜか横たわる自分の姿や、それを囲んで泣く家族達を、斜め上から見下ろすように自分が眺めていることに気づくらしいが、こうした話は「金縛り」を幾度に渡って連続して経験した人の中で、最後には金縛りをコントロールできるまでに至った人などが、同じように自身の体が宙に浮いていって天井付近でゆっくりひっくり返り、寝ている自分の姿を見ているとする話と良く似ている。(この時、非常に感動的なのだが、なぜか早やく戻らないと危ないと言う危機感もあるらしい)

そしてこれが終わると、突然暗闇を落ちていくとも上っていくとも分からない状態で、移動し始め、その時間は相当長いと言われていて、それが終わるのは遠くに見える光、それはトンネルの出口らしいが、そこに吸い込まれるまで続き、そのトンネルを出ると今まで見たことのないような綺麗な花畑が現れるらしい。(らしいとしか言えないのは自分で確かめた訳ではないからだが、自分の目で確かめようとは思っていない)

そしてこれから先には何がしかの「川」がある事は臨死体験者が共通して言っているのだが、この辺からそれぞれの証言はばらばらになっていく。
また殆どの宗教でも死後の世界はある程度表現されているが、どれが正しいかは判断できない。
だが、どうやら幽霊は死ぬと大方の人がそれにはなるようだ。

自分の亡骸とそれを囲んで泣く家族を見ている自分、その姿は家族や医師には勿論見えていない訳だが、こちらからは見えている、この状態は多分「幽霊」と言う状態なのだと思うが、どうだろう。
そしてこの時の自分が何であるかが問題なのだが、前編で出てきた魂、霊が反物質で出来ているとする仮設を使うなら、死んで体から抜けたこの反物質は意志を持っていることになるが、これが時間と共に別のところへ移動してしまい、その後は不明になってしまっている。
つまりこれは、脳が死んでから以降も何らかの働きをしていて反物質と連携しているか、反物質そのものが脳の記憶の一部を記憶しているかのどちらかになるのだが、いずれにしてもその記憶はそんなに長くは続いていないことが分かる、

人間の生体活動は全て脳の電気信号で動いているし、脳そのものも微弱電気信号で、記憶したり、ものを見たり聞いたりしている。 我々が見ているもの全ては太陽光や照明から発せられた光の反射光を目で集め、それを脳が画像処理して感覚として見せている。 また音も空気振動を捉えてそれを解析して聞かせているのはやはり脳だ。

味覚、嗅覚、触覚もこれは変わらないが、脳の電気信号が異常をきたすと「現実の幻覚」を見るし、聞くことになってしまう。
例えば麻薬などで脳の信号が異常になると、幻覚はその人にとっては現実だし、目を閉じて光が入って来ない状態でも、人は明確かつその場は現実意外の何者でもない「夢」を見ている。
だから目で見たもの全てが現実ではないかも知れないし、本当はどこまでが現実で、どこまでが幻覚か、視覚や聴覚では判断できないものなのである。

また脳は自分が感心のあるものは大きく鮮明に見せているが、関心のないもの、どうでも良いものは小さく、下手をすれば色さえ付けていないかも知れないほど、いい加減に見せている。
これは聴覚でも同じで、感心のある話はそのイントネーションや僅かな呼吸まで鮮明に聞かせているが、これがどうでも良いような話だと、殆ど記録さえしていないばかりか、聞いた直後に消去しているかも知れないのである。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

4件のコメント

  1. 丈夫なネアンデルタール人と現代人に近いクロマニョン人が食物~住居などを巡って、死闘を繰り広げて、ネアンデルタール人が滅んだと言うのは全くの空想で、発音器官が未発達で、その環境で生きるための意思疎通に不足を来して、徐々に圧迫されて滅んだらしい。ミツバチは、ダンスで有名であるが、その環境で生きて行く情報伝達が充分で繁栄しているようだ。

    生物は自分の環世界が見えていれば、多分充分に生きていける。チンパンジーの知能は、人間に置き換えれば5~7歳位という判断が有る、イエネコは4~5歳程度という話も有って、面白けれども、ヒトはアフリカのチンパンジーが住んでいるところで、同じようには生きていけないし、ネコのように生のネズミやヘビを食って生きていける訳ではない(笑い)

    共産党支持者は、アンパンマンのシイ委員長が立派に見えるし、進歩的文化人は、アベ総裁が、ヒゲのないヒトラーに見えているかも知れない。ずっと昔の事だけれども、寮で一緒にテレビのボクシングの試合を観ていたら、「ボクサーは、みんな歯が悪くて、休憩時間に入れ歯を洗浄している~~♪」・・これはご愛敬だが、1人も死んで居ないし、嵩が獣医学部1個に激昂している人々には、5歳以下の乳幼児が、世界では毎日1万人以上死んでいるというニュースや日本で自殺者が年3万人を越えていると言うのは、全く聞こえていない。
    国会をずる休みして、ヒアリングと称して官僚を吊し上げている人たちには何が見えているか、話し合ってもお互いに理解は出来ないだろうが、一歩引いて理解する努力はした方がよいかも知れない。

    脳は目が見たまんまを見ているわけではなく、経験や合理性で修正して「見て」居るようだが、それには正解も幻視もあるだろうけれど、この溝は、永遠に埋まらないようにも思える。
    見たいように見えるらしいから、目撃証言は、聞く方も話す方も、充分気をつけた方がよい。
    自分は、もしかしたら、或る種のカレイドスコープを通して見えているのかも知れない~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      人が死ねば葬儀をし、墓を建ててお盆や彼岸には花を供えてお参りする。
      これらは誰の為のものかと言えば、生きてそれを主催している人間のものであり、その人間の死者に対する思いが形になったものと言えるでしょう。
      つまり全て「自分」である事を考えるなら、本質は形ではなく自分の中の思いの強さと言えるかも知れません。それゆえ形は大切ですが、その形に拘る必要は無く、その時自分に出来る事を形として為せば良く、例え葬儀に出なくても死を悼む気持ちが有れば、葬儀に出席していながら明日の仕事の事を考えているよりはまだ救いがあるだろうと思います。
      また今の日本人は情緒不安定です。それゆえ激高する割には醒めるのが早い。感情が長く続かないと怠惰が大きくなる。
      直近の考え易い事を考え、難しい話は先送りし、考える事すらしなくなる。
      5年後には間違いなく日本の福祉制度は大きな問題に直面し、10年後には半分の履行が不能になり、15年後には完全に不履行になる。このことが解っていながら憲法改正、働き方改革な訳です。

  2. 近所の大霊園2つに、偶に行きますが、十数人の参列者が墓参や儀式をしている事に遭遇する事があります。
    失礼にならないように望見して故人と参列者の事を考える事もあります。殆どはそれぞれ波瀾万丈でも特段の物語は無いでしょうが、中には家元とか大きな遺産~特殊な血縁関係など有って、自分には想像も着かない、心象風景が拡がっているのでしょう、偶には、不謹慎にも、何人かの独白を1人で想像すると、又別の景色に見える気がする事もあります~~♪

    1. 黒田総裁はもう金融緩和が効力を発揮するだけの規模の手は打てず、しかも辞めれば日本経済は崩壊と言う中で現状に対する意欲を失っている、この事は安倍総理も同じ事で、既に彼らは抜け殻状態で自身の道を必死で探して誤りを犯している。そしてこうした状態に全く危機感の無い国民もまた現状に対する意欲を失っています。
      高齢者だから明日を考えなくて良い訳では無く、生きるに高齢に若年も無い。
      既に棺おけに足を突っ込んでいるから現状に対する意欲を失ってしまう。死は決して綺麗なものではなく、そこに極楽や天国なども無く、死は苦しい。現実に見える死を直視するなら、死ぬまで適当に暮らして、などと言う考え方は言語道断である事を、この自然と現実は示している、そう私は思っています。

      コメント、有り難うございました。

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