「転校」

「おお、景気はどうだ」「いやー散々だな」
こうした挨拶が当たり前になってきたが、日曜日、久しぶりに知り合いのところへ遊びに行っていたら、そこの子どもで小学4年生の女の子が、「今日は午後からお別れ会がある」と言って慌てて支度していたので、「こんな時期に何のお別れ会だ」と尋ねたら、仲のいい同級生が明日引っ越すので、お別れ会は今日しかないんだ、との話が返ってきた。

随分急な引越しだなと思っていたら、知り合いが、「仕事が無くて少し都会で仕事を探すらしいんだが、それも40過ぎると厳しくてな」と缶コーヒーを差し出した。
何でも完全に仕事が無くなったので、この町を出て働くことにした両親に付いて行く為、子どもも転校していくことになり、それで今日のお別れ会になったらしい。

この話を聞いた私は、随分前のことになるが、やはり今のように景気が悪くて、辛い時代のことを思い出した。
当時まだ会社に勤めていた私は、上の子が今のこの子よりもう1年上、小学五年生くらいだったと思うが、よく社長から子ども達のお守り役を頼まれ、何かと甘く、お菓子を買って貰えるので、彼らも私になついていたが、ある日この内長女が、学校から泣いて帰ってきたことがあり、どうしたのか尋ねたら、仲の良かった同級生が今日から突然いなくなり、家へ行ったけど誰もいなかった、と言う話を聞いた。
それで社長にそのことを話すと、社長はその家の人が昨夜、夜逃げしたことを教えてくれた。
この時社長の長女は、そう言えば○○さん、昨日「家にはもうお金が無くなったんだ」と話していたことを思い出し、さらに泣き出してしまった。

また当時この会社は、会社と言っても従業員が自分を含めても6人しかいない程度のものだったが、それでも「使ってもらえないか」と訪ねて来る人が、月に2人はいた。
高台にある松の木の枝で首を吊る者も年に3人程いた年もあった。ひどい時代だった。
だが、今はそれより仕事が無い時代になったが幸いなことに自殺者はいない。
してみれば、ひどいひどいと言いながらもまだあの頃よりは日本は豊かなのだろう。

NHKでドラマ化された「海峡」と言う番組だったと思うが、嵐の中で船から船へ一枚の板を渡って乗り移る場面があり、板の下は鉛色の荒れた海、幼い姉妹がそれを渡るのだが、怖がっている妹を前で励ましながら板を渡っていた姉が、ふと振り返ると後ろを歩いていたはずの妹の姿がなかった。
大声で妹の名前を呼ぶ姉、しかしそれを船頭か船主かは忘れたが、長靴を履いた中年の男が黙って抱え、板を渡らせる、そう言う場面があったが、不景気になると私はなぜか、このドラマの1場面と社長の長女の泣き顔を思い出す。

辛くても終わったことを悔やんでいる間に自分が死んでしまうとしたら、助かった者は何も言わずに自分の幸せのために全力を尽す。
それが生き残った者の使命であり、義務だ。

もうあんな暗い時代は見たくないが、もしこのまま不景気が続けばまた、あのような時代が訪れるかも知れない。
今この瞬間にも辛い選択を考えている人もいるかも知れないが、そうした人に言うことは「どうか、人も自分自身も殺さないで欲しい」それだけだ。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. つい数日前まで、ワイドショー、ニュースも基本的にはワイドショーでしょうが、「忖度」系の話しばっかりでしたが、もうすっかり忘れて「タックル」問題一色~~♪

    北のカリアゲが、劇場型のトンネル爆破ショーも形無し。

    子供の7人に1人が貧困家庭に育っている、という話は、どこの国の事やら、最近はニュースも無し。

    有効求人倍率は、軽く1を越してから長い、と言う事は、働き口がないのではなく、働けない状態にある人も多いと言うことだろうけれど、その改善の方法、大きく分ければ、働ける状態にするか、働かなくとも貧困では無い状態を作ると言う事だろうけれども、票に結びつかない事には、選挙の洗礼を受ける人々は興味が湧かない~~♪

    どんな議会でも20~30%位は、一定の要件を満たして、本人にその気があれば、抽選会に参加できる事にして議会に送り込めばよいかも知れない。暴走したり、役立たずに成らないように各種の点検が出来るようにもすべきだろうけれど。

    九州で「赤ちゃんポスト」が出来て、年間十数人は、受け入れられて居るようだが、警告を発した人のように、何百人と言う事はなかった。駄目なら、又考えて行えばよいだけだと思えるが、「それで100%上手く行く確証は有るのか~~♪」と言う馬○が後を絶たず、手詰まりの状態を脱する試行も為されていないと共に、それこそ、他人の不幸に対する「共感」もないようで、自由とか福祉とか、言葉だけが世に満ちていながら、出来る事から始めると言う事が忘れられた社会になってしまったのかも知れない~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      民主主義など本当は人々が幸福と思える暮らしを実現する為の一つの手法にしか過ぎませんが、これを守る為に民衆の暮らしが犠牲になっては意味が無い。
      また民主主義、平等、庶民感覚だから良いとも限らない。モンスター化して統合失調症状態の若い主婦が集まって話している事など、恐ろしくて聞いていられない状態のもので、これらが参加してくる社会は平等で民主的かも知れないが衆愚にしかならない。同様に自己顕示欲の権化と化した笑顔の素敵な地域協力隊上がりの小太り青年の考える事などたかが知れている。必ずその地域を滅亡させる。チャーチルは民主主義は最低だと言っていたし、ビスマルクは「私はてめーみたいな若造が大嫌いだ、しかしそんなてめーまでもがこうして意見を言えるこの国を有り難く思う」と言っていたかと思います。
      私は彼らほど偉大ではないですが、同じ気分で暮らしています。つまりいつの時代もそう大きな変わりは無いものなのだなと言う事を思うのですが、民衆は衆愚ですが、個々の人は偉大であり、最初に器に入っている多くのものを考えるから難しいのであって、個人々々の繋がりが有って、それらの総称が民衆である事を考えるなら、きっと政治も行政も建設的になるだろうと言う気がします。しかし、いずれにしても今のこの国にそれは望むべくも有りませんが・・・(笑)

      コメント、有り難うございました。

現在コメントは受け付けていません。