「火の車」

1m間隔に100円が1個ずつ落ちている道がずっと続いているとしようか・・・、それを拾いながら歩いていると、何とか1日暮らせるだけの金額になり、毎日それを拾いながら暮らしている者がいる。
だがある日、1mの間に100円が2個ずつ落ちていた、そしてその次の日には何と100円が同じ間隔で3個も落ちていて、こうなると半日も拾えば暮らしは十分どころか、酒も飲めるし美味いものも食べれるようになり、これは良いな・・・と思うようになった。

この者に100円を拾わせているのは、優しくそして余り物を考えない神様だったが、ようやく気づき始めた頃はすでに遅かった、100円を拾いながら暮らしている者の喜ぶ顔につられて大盤振る舞いしていたら、なんと道に落とし続けてやるべき100円硬貨が、袋に残り少なくなってなってきていて、このままではマズイ・・・と言うので今度は2mに1個に減らし始めた。

だがこれに俄然文句を言うのは「拾う者」であり、一度覚えた酒は毎日呑みたい、美味いものも食べたい、1日拾い続けて以前の半分以下とはどう言うことだ・・・と神様に抗議した。
神様といっても辛いもの・・・、所詮人気商売で人間の人気が無ければ神社は荒れ果て、神様の世界でも地位が低くなってなってしまうことから、何とかして人間の人気をつなぎとめておきたい・・・、そこで仕方なく来年の分の100円硬貨を使い始め、また1mに3個ずつの100円を落とし始めたが、こうなると3年分を1年で使ってしまうので、3年もすれば9年分の100円硬貨を使ってしまい、ついには神様もお金が無くなってしまった。
ある日、道にはどこまで行っても100円硬貨が落ちていることは無くなり、それを拾って暮らしていた者も何も食べることができなくなった・・・。

これは何の話だと思うだろうか・・・。
そうだ経済対策の話だ。
経済と言うのはいろんな理論があるが、それは起こった現象について、後から説明しただけと言えばそれまでのものであり、本当はその仕組みは単純明快なものでもある。
毎日食べる米やパンなどは、例えば今日のうちに明日の分を食べて貯めておく・・・と言うことはできない。

だからこうしたものの消費はそれ程大きな変動がないが、では食べ物以外の自動車や家電製品はどうだろうか、これらは今日壊れていなければそれ程慌てて買う必要は無く、本来社会的変動が少なければ、毎日売れる数は決まっているものでもあるが、それが他の理由で景気が悪くなった場合、毎日売れる数が減ってきてしまう。
そこで経済対策でエコカー減税や、エコ家電補助金制度が出てくる訳だが、これによりトヨタや日産などの自動車メーカー、大手家電メーカーなどの製品が一転して注文に追いつかないほどの盛況ぶりになる。

結構なことだ・・・が、よく考えてみると、これは本当なら1日に1台しか売れなかったものが、3台売れてしまっているのであり、このチャンスに・・・と思う消費者心理が、購買行動を前倒ししているのだ。

つまり今後2年ないし、3年の間に起こる消費、購買行動を先食いしてることになる。
3年で30台売れていく自動車が1年で30台を売り切ってしまい、ついでに経済対策が終わると、アッと言う間に残り2年の売り上げが無くなってしまうのだ。
もちろん最初の1年に出た利益はあるが、その前に他の理由で被ってしまった借金の返済に充てられ、その後また未来の消費を呼び込む方法が無ければ、そこで消費は失速してしまい、以前よりさらに経済が悪化する可能性があるのだ。

勿論、経済対策が終わった途端、まったく売れなくなると言うようなことは無いだろうが、それでも先食いした分は苦しくなってくる、また自動車で言えば、しばらくして世界経済が持ち直せば、当然原油価格の上昇も見込まれ、ハイブッリド車の消費につながって行く可能性も視野に入っているだろう。
だが、原油価格が上がれば今度は経済全体がまた失速し、根本的な経済が冷え込むだろう・・・、そしてもしこうしたときに経済対策期限切れ、基本消費の先食いによる消費低迷が起こった場合、日本経済は決定的な打撃を受ける。

事実タスポカード導入により混乱したタバコ販売は、コンビニでは店頭販売だったことから、自販機からコンビニへの消費移動が起こり、このおかげで自販機でタバコを売っていた小売店の売り上げは壊滅的な打撃を受け、その打撃のおかげでコンビニは業績を向上させたが、これですら暫くすれば安定してしまい、結果として今度はまたコンビニの売り上げも落ちていくのである。
つまりタスポカード導入のおかげで一時的にコンビニの売り上げは上がったが、その影で小売店の大量廃業があり、またさらに今度はコンビニ業界の売り上げも落ちてくるのである。

資本主義の原理は常に拡大にある。
そしてこの拡大の先に待っているものは破綻であり、世界経済は100年のスパンで見たとき、必ず1度は破綻し、そこからまた経済活動が再開され、また拡大に向かい、そして破綻すると言うサイクルを繰り返している。
またこうした破綻に伴い、新たなる市場を求め、資本は外へ向かっていき、これは帝国主義の原理とも等しいものである。
今まさに経済的に世界は帝国主義国家間の戦争状態とも言えるのであり、こうした場合、資本がある国や資源がある国は保護主義へと道を転じ、持たざる国、経済的に弱い国家は武力で、または混乱を利用してそれを乗り切ろうとしていくものである。

日本経済はとても危うい状態にあり、国際的なあらゆる外交や交渉でも日本の影響力が弱くなっている背景には、これまで経済力で無視できなかった状態から、もはや経済的にも影響の少ない国家として、対外的に看做され始めているからである。

「青い空は少し悲しくて・・・」

「その企画では、だめだと思います」
「○○さん、それはどうして」
目が大きくクリッとしていて、少しきつい感じはするが、口元がきりっと結ばれているときの彼女の顔は、可愛いというよりは綺麗だったし、身長こそ低かったが輪郭のしっかりした姿勢は、ある種の精悍さも感じられ、社内では結構人気が高かった。

しかしこの女、なぜか私には徹底的に楯突くと言うか、逆らうと言うか・・・の態度で、同じように地方出身だからと思い、親近感を持っていたにもかかわらず、私の企画には必ず反対し、他の社員にはにこやかなのになぜか私には「ふんっ」と言った感じで、振り向いて去っていくとき、後ろに結ばれた長い髪が私の眼前をよぎる瞬間、その速度にまで憎しみを感じるほどだった。

勿論、私が彼女にセクハラでもしていたのなら、そうした態度もやむなしだが、そんなことは無く、何か気に障るようなことも言った記憶も無かったが、出向でこのデパートに来ていた期間を通して、結局彼女とはいつも対立と言う手段でしかコミニュケーションが取れなかった。

やがて私は生まれ故郷にある本社の経営が悪化してきたことから、北陸へ戻ることになり、それを機会に独立したが、東京から帰って1年半ほどのことだろうか・・・・、1本の電話がかかってくる。
そしてそれは懐かしくも苦々しい、くだんの徹底抗戦の女からだった。
「会えないかな・・・」、彼女はどう言う風の吹き回しか、少しばかり元気が無い声でそう話したが、思わず「会えない」と言おうとした私は、少し大人気ない気もして「いいよ」と答えると、彼女が待っている近くの駅まで車を走らせた。

彼女はこの地域の景色にはどこか溶け込んでいなくて、ベンチに座っていてもすぐに分かったが、下を向いている姿は昔よりは少し輪郭が弱くなっているように感じた。
「久しぶりだな・・・」
声をかけると、驚いたように私を見上げた彼女の顔は昔とまったく変わっていなかったが、わずかに憔悴した感じがした。

ちょうど昼食をとっていなかったので、私は彼女を誘って馴染みのレストランに入って定食を頼み、彼女も同じものを頼んだが、こう言うところはやはり仲が悪かったとは言え、その職業人らしい「気の短さ」だ、食事のオーダーは同じものを頼めば早くなる・・・、時間の無い者の考え方だった。

彼女の話は衝撃的なものだった。
彼女は米沢の近くの出身だったが、父親が土建会社をやっていて、その父親が亡くなったので、今度自分が後を継ぐことになったと言うのだ・・・、子供は自分1人しかいないし、母親はずっと体が弱く寝たり起きたり、他に選択の余地は無く、10日前に葬儀を終えて、東京まで荷物の整理に行った帰り、遠回りをして北陸にまで来たとのことだった。

そして、彼女は私に「ごめんなさい」と一言、それに対して私は「なぜ」と答えたが、私が本当は彼女のことが好きだったと言うと、顔を上げた彼女の顔は一瞬でバラの花が咲いたようになり、自分もそうだった、でも私が長男でいつか帰ってしまうことを知ってから、そのことで物凄く腹が立ち、ずっと反発していた・・・と語った。
彼女はそれを言いにわざわざ北陸まで遠回りしてきたのだった、そしてここでこんな話をすると言うことは、彼女は私にお別れを言いに来たのだ。

彼女らしい「かたのつけかた」だが、これから先、土建会社を仕切るのは大変なことになる、ましてや彼女は女だ、その道はとても険しく、失敗するかもしれない、でも彼女はそれに命を賭けるつもりなのだ。
だから昔の自分と決別するために、心に引っかかっていた私に本当のことを告げ、心おきなく先に向かおうとしていたのだった。
そしてこの場面で私に自分と付き合ってくれとは言わないのは、自分が土建会社を継がねばならないことからも分かるだろう、自分ができないことを人に求める女ではないし、それより何よりも彼女は同情されたくなかったに違いない。
だからせっかく過去の因縁が氷解したとしても、これは素晴らしい「別れ」の場面だったのである。

こんなことがあって翌年、彼女が私に仕事を頼んできたので、それが仕上がったとき様子を見に行こうと思った私は連絡を取り、米沢の近くの駅で待ち合わせたが、そこへ迎えに来た彼女は何とグレーのベンツを運転していた。
「さすがに土建会社の社長は違うな・・・」などと言い、ベンツの助手席に乗り込んだ私は、何気なく後部座席に目をやったが、そこには白いヘルメットと長靴が下に置かれていて、座席は図面や地図などが散乱していた。
また彼女は紺色のワンピース姿だったが、もともと色白だった昔の面影は無く、健康的な小麦色の腕で狭い道路をベンツですり抜けていくのだった。

彼女はその後ほど無く結婚し、子供が生まれたが、今度は婿殿を社長にし、自分は専務になってこれを支える形にしたようで、業績も順調だったらしく、それから年に1度くらいの割合で私のところへも仕事が来たが、以後は仕上がるとこちらから送ることにして、直接会うことはなかった。
だがそれも今から10年ほど前からは、まったく仕事が来ることも無く、年賀状や暑中見舞いのやり取りしかなくなっていたが、5年ほど前に年賀欠礼があり、旦那が亡くなったことは薄々感じてはいた。

そして今年のお盆、8月16日、突然彼女から10年ぶりくらいに電話がかかってきた。
彼女の電話はいつも衝撃的だが、今度は何かと言うと、なんと「倒産」だった。
仕事が無く、旦那も亡くなってしまったし、これ以上続けていても借金が増える一方・・・、この際家や財産のすべてを失って何とかなるならと思って、土建会社を倒産させた・・・と言うのである。
子供もすでに大きくなったし、後は母親の面倒を診ながらアパート暮らしだけど、スーパーのパートも始めていて、これはこれで「金」を工面する心配も無く、なかなか良い・・・と話す彼女の声は、どこかすっきりしたと言う感じの声だった。

私がまだ相変わらずの小規模超零細企業をやっていることを話すと、そんなの早く辞めて、どこかパートにでも出れば余計楽になる・・・などと言ってもいた。

男と女のこうした関係とはいいものだ・・・。
肉体関係などたかが知れている。
若いころはどうしても男は女を女と見るし、女は男を男と見てしまう・・・、がしかし、その前にともに働き、頑張った来た同志、仲間であり、それがこうした年齢になると自然に男女を越えたものになっていく。

青い空は少し哀しい・・・、そして私はいつも辛いときは心の中に緑の草原をイメージする、風に吹かれて1人で立っている姿を思い浮かべる。
何も無い、そして孤独・・・、だがすべてはこれからだ、これから始まるのだと思っていつも頑張ってきた。
そして電話で彼女の声を聞いていると、何となくこいつは自分と同じなんだな・・・、いつも1つのことが終わったら、そのときが何かの始まりのやつなんだな・・・と思い、いつかまた、何かの機会で一緒に仕事がしたいものだな、いつかきっと・・・・そう思った。

「聖母マリアの涙」

 

イタリアのテレサ・テスコと言う女性は、数年前に自身が撮影したファテイマにある聖母マリア像の白黒写真を引き伸ばし、自分の部屋にかけておいたのだが、1974年の夏の夜、眠ろうと思い部屋の明かりを消そうとしたそのときだった。
おかしなことに、ふと目が行った聖母マリアの写真の顔の近くで、何かがキラッと光って見えた。

「なんだろう」と思ったテレサは思わず写真の近くまで行って確かめたが、なんとその聖母マリアの写真の目にはは涙がくっついていて、涙ははじめ小さな水滴のように透明だったのだが、次第に赤みを増して膨れ上がると、真っ赤な血の涙となって流れ落ち、聖母の心臓あたりにたまるのだった。
そしてこの血の涙はそれから800日も流れ続け、多くの人がこの不思議な現象を実際に目撃し、その様子はたくさんの写真ににも収められた。

勿論、こうした話だから聖母マリアの写真を入れた額に、何か仕掛けがあるのではないか・・・、と疑うものも多かったが、額には何の仕掛けもないばかりか、実際に涙が流れているにもかかわらず、写真の裏側は完全に乾いた状態だったのである。
だが聖母が血や涙を流すという話は、実はそれほど新しい話ではなくて、その事例は古くから記録されているが、他にもブラジルのポルト・ダス・カイシャスでは、1968年、300年前のキリストの木像から血が流れ出し、血は木像に描かれた傷口から周期的に流れ出し、信者がその血を採って自分の体の傷に塗ったところ、傷は驚くほど早く治ったと言う話まで広まった。

またアメリカ・ペンシルバニア州エディンストーンでは1975年、聖ルカ教会の高さ70センチのキリストの石膏像、この両手から赤い血が流れ出したが、このようにキリスト像の場合、キリストが処刑されたときに受けた額や両手、胸の「傷」から出血し、聖母マリア像では両眼から血や涙を流すのが特徴だった。

1953年、シシリー島シラキュースのマリア像が涙を流し、その涙は8日間止まらなかったが、このときはマリア像の涙が科学者によって成分分析され、その結果聖母マリアの涙の成分は、まさしく人間の涙だったとされている。
また1960年、ニューヨークのアイランド。パークに住む女性が、自宅でマリアの肖像画に祈りを捧げていたところ、普段は祈りのため閉じられているマリアの瞼が開き、大粒の涙がこぼれるのを目撃したが、これは翌日、教会の牧師によっても同じことが目撃され、教会の記録にも残されている。

そしてこれは日本での話しだが、秋田市湯沢台のカトリック修道院にある、高さ1メールほどのマリア像・・・、どこと無く日本的な顔つきのこのマリア像は、1960年代前半に日本人彫刻家が桂の木を彫刻したものだったが、1973年、突然このマリア像は両眼から涙を流し始める。
またなんとそのマリアの右手には十字架の形で血が滲み出したことまであり、さらに不思議なのは、このマリア像を写真撮影すると、なぜか写ったり写らなかったりしたらしい。
秋田大学医学部ではこのマリア像から流れた涙と血について成分を調べた記録が残っているが、涙は人間の涙と成分は同じ、また血についても人間の血液で、その血液型はB型だったと記録されている。

そしてここから面白いところなのだが、その記録の末尾には「聖母マリアがその血と涙で表したかった悲しみとは何なのであろうか、それを人々はどう理解するのだろうか・・・」と締めくくられているのである。

私の幼年時代、社会には終末思想と言うものが流行した。そして現在でも一定年齢以下では確実にこの思想が存在しているとも言われるが、終末思想とは、未来において確実に人類の終わりが来ると信じていることを言い、これが自身の寿命でもいつか終わりが来ることとあいまって、未来にはどんなことがあるかは分からないが、絶対的な存在から与えられる「滅亡」が必ずあり、それを避けるためには・・・行いを正したり、人を愛したり・・・などと言う一種の宗教観に近いものにまで発展していった思想がある。

この傾向はキリスト教「ヨハネの黙示録」から引用されたキリスト教的思想の発展といえば、キリスト教信者から怒られるか、どちらかといえばキリスト教を勝手に膨らませたものが多く、当時の社会に対する警鐘とも、扇動とも判断しかねるものだった。

こうした聖母が涙や血を流す現象は、1960年から1970年末まで、その発生報告がとても多い。
しかし1989年を境にこうした聖母マリアの奇跡はまったくマスコミから姿を消し、その後は忘れられたかのような感じである。
聖母マリアが涙や血を流してでも人間に伝えたかったことと言えば、当時の消費崇拝社会、環境に対する配慮の無さや、人間的「質」の下落であっただろうか・・・、そしてそれに対する神の怒りが、人間に降りかかることに対する悲しみだっただろうか。

だとしたら今の時代こそ、聖母は涙や血を流して人間に警鐘を鳴らさなければならないが、こうした話はここ20年近く聞いたことが無くなった。
これはどう言うことなのだろう・・・、もしかしたら慈愛に満ちた聖母マリアにさえ人類は見捨てられた・・・と言うことなのだろうか。

こう言う最後の書き方こそ、終末思想家の特徴だった・・・。

「妖精の偽造」

 

小学生、おそらく5年生くらいだっただろうか、私は学校の図書館で面白いものを見つけたが、それは魔女の本だった。
魔女は殆どが挿絵で、たまに不鮮明な大昔の写真が載っていて、大体が頭巾をかぶった怪しげな女性がなにやら手に持っている写真だったが、この手の怪しさに興味を覚える癖はすでに子供のころから備わっていたようで、それからと言うもの暫く、私は毎日授業が終わると図書室へ入り浸り、おかしなもので、それまではまったく話したこともなかった、どちらかと言えば大嫌いだった図書委員の1年上の先輩と仲良くなった。

そして彼女もおそらくこうした話が好きだったのだろう、それから自分が持っている本まで図書室に持ってきて私に見せてくれたが、その中で衝撃を憶えたのが妖精の写真だった。
「コティングリーの妖精」と言うその本にはイギリス・ブラッドフォード近くのコティングリー村に住む2人の従姉妹、フランシス・グリフィスとエルシー・ライトが1916年から1920年までに撮影したとされる、5枚の写真が掲載されていた。

このとき1916年の段階でフランシス9歳、エルシーが15歳だが、フランシスが踊るような仕草をしている脇で、体長15センチ前後、背中にトンボのような4枚の透明な羽が生えた、きれいな女の人が草の上に座っていたのである。
この衝撃は半端ではなかった。
正直、夜も眠れず、あんなものがどうして存在するのか、自分なりに考えてみたが、どれだけ考えても結果など出ようはずもなく、それからと言うもの、私は毎日魔女や妖精について調べ始めたが、どうも本の後書きにもあったように、捏造写真ではないか・・・と言うことで決着したのだった。

やがて高校生になったころ、叔父さんから使い古したキャノンAE-1を貰った私は、初め景色や家族などを写していたが、同じ高校に小学生のときの図書委員の先輩がいることを知り、彼女の友達3人と私のSF仲間である友人の5人で、美術クラブを結成し、本格的に写真や絵画を勉強することになった。
そして写真好きの顧問、この男性教諭は物理の先生だったが、合計6人で最初に取り組んだのが「偽造写真」だった。

この成り行きは勿論、小学生のときに妖精の写真を絶対に本物だと信じて疑わなかった先輩と、これは偽造では・・・と疑った私の対決から始まったのだが、ファッション雑誌から女性の写真を切り抜き、この背中に死んで落ちていたオニヤンマの羽を貼り付け、それを草むらの上に置き、これを撮影するのだが、どうしても切り抜きらしさが残ってうまく行かなかった。

だが、かろうじて逆光と半逆光での撮影、曇り空で露出不足気味の撮影で、どうにかこれが妖精らしく見えることが分かったが、それにしても被写体の切抜きのクォリティーがやはりうまく行かなかった。
そしてここで問題になったになったのが、当時15歳と9歳の少女が、ああしたクォリティーの切抜きができたのか・・・、と言う疑問と、やはりエルシーの写真の妖精には圧倒的な存在感があることだった。
彼女たちが最後に撮影した妖精は、半透明だったが、これも多重露出を使えば簡単にうまく行くが、フランシスに話しかけるように飛んでいる妖精の動き、その表情はどうしても同じものが写せなかった。

またこうした機会だからと、当時流行っていた未確認飛行物体、UFOの写真も偽造を試みたが、こちらは比較的簡単にうまく行った。
ガラス窓の内側にプラモデルのUFO を貼り付け、PLフィルターをつけて写す、円盤を何回か投げてもらってそれを写す、夜空を背景に線香花火を動かし、シャッターを開けたままにしておくと、見事に星の軌跡に逆らう謎の光が撮影できた。
ついでに、先輩にモデルになってもらって多重露出撮影で「心霊写真」まで偽造してみたが、この場合、写した写真、それをもう一回写真に写せば、怪しい角度になってよりリアリティーが出ることが分かった。

そして大人になった私が金を貯めて最初に買ったのが、ニコンFAと言うカメラで、もちろん新品ではなく中古だったが、このカメラは当時ニコンの技術の粋を駆使したカメラで、レンズがオートフォーカスとマニュアルに分かれていて、互換性がなかったニコンでは唯1機種、マニュアルもオートのレンズも使えるカメラだったが、相変わらず諦めが悪く、このときもまだ、たまに妖精の写真に挑戦していた私は、1980年代後半だと思うが、新聞の記事でコティングリーの妖精写真が偽造だったことを知った。

晩年まで写真の偽造に関して、これを否定していたエルシーとフランシス、しかし死を目前に偽造を告白した・・・とのことだった。
しかし彼女たちは妖精を見たことは事実だとしていたし、フランシスは最後の写真、半透明の妖精が写った写真だが、あれは本物だといい続けていた。

私は確かに高校生まではこの妖精の写真を偽造だと疑っていた。
だが、おかしなものだ、写した当人たちが偽造を告白してしまっていても、今は逆にあれは本当に妖精の写真だったのではないか・・・、と思っている。
それはどうしてか・・・、今自分が持っているカメラや他の機材、写真歴30年の未熟ながらもその技術、それをしても当時15歳と9歳の少女たちが撮影した、あの妖精たちを偽造できないからである。

もちろん今のデジタル技術であればこうしたことも可能かもしれないが、1916年では無理だ、しかも使われたカメラは、おそらく私が1980年代に手に入れたカメラより、はるかにとり回しが難しいカメラだったに違いない・・・、にもかかわらず、どうしてあのように見事な妖精の写真が撮影できたのだろうか・・・。

もしかしたら本当に妖精はいるのではないか・・・・、私は年々その疑いを深くしている。

「エアコンよ永遠に・・・」

現代の私たちの暮らしは、エネルギーや資源を大量に消費することで成立している。
そして世界のエネルギー消費は年々増加し続けていて、その勢いは21世紀に入って中国やインドの躍進に伴い加速をつけてきている。
また他の開発途上国の経済発展も目覚しく、こうした背景から、世界のエネルギー事情は年々ひっ迫してきているのが現状であり、国際経済は原油価格の高騰、それによる物資の調達価格の高騰、景気後退、原油の値下げ、原油価格値下げによる経済回復、そしてまた経済が復興すると原油価格が高騰すると言う、石油価格循環型経済になっている。地球上で採掘可能な化石燃料は、いまだ発見されていないだろう未発見資源も含めて、石油換算で5・9兆バレル、天然ガスが6・3兆バレル、石炭などの固形資源が24・5兆バレルと推定され、全体でも36・7兆バレルだと言われている。(IIAS,1998年)
これに対して、将来のこうした化石燃料の需要と供給の関係は、正確に予測することは困難だが、例えば世界人口が100億人で飽和状態になり、経済の成長により1人あたりの平均エネルギー消費量が、現在の日本人なみになったと仮定し、そのエネルギー需要の90%が化石燃料によって供給されたらどうなるか・・・。

現在は採算性を考えてその利用が大きく抑制されている石炭を使っても、2100年には需要の半分しか供給できず、2200年には3分の1しか需要を満たせなくなる。
石油に至っては現在の段階でも全エネルギーの半分を供給しているに過ぎず、2200年には地球上の全埋蔵量を採掘し尽くしてしまう。
つまり古生代や中生代に1億年以上もかけて蓄えられた、大切な化石燃料は400年もすれば使い果たされることになり、これは石炭を換算した場合で、石油だけをとれば2100年には現在の半分、2200年には採掘終了・・・、あくまでも推定だが190年後には完全になくなってしまうことになる。

こうしたことから世界のエネルギー安定供給のためには、好悪の別ではなく、すでに実用化され実績のある原子力の重要性が高まるだろう・・・、そしてエネルギー技術のような社会的基盤整備には時間がかかるため、対策は危機が発生してからでは遅い、危機回避にはエネルギーに余裕のある現在からそれを実行しておく必要があり、これからの国際社会はすでに自動車を見てもそうだが、安全で環境に優しい「電気」の時代へと移っていくだろう。

だが日本の原始力発電計画は、ウランを燃やして発生したプルトニウムを燃やす形式に重点が置かれ、これをプルサーマル方式と言うが、とても問題が多い。
ウランとプルトニウムでは、核分裂断面積や核分裂時に発生する中性子の数、遅発中性子の割合などが異なるため、ウランを燃やすために設計された軽水炉でプルトニウムを燃やそうとすれば、さまざまな不都合が起こってくる。

さらにプルトニウムはウランの数十万倍の生物毒性があるため、再処理や燃料製造の工程でも安全性が犠牲になる。
日本は現在イギリスとフランスで再処理してもらった分離プルトニウム43トンを保有しているが、分離プルトニウムの保有は核兵器製造の疑惑が避けられないため、日本は使いに道のないプルトニウムを保有しないと国際公約してきたが、実際はその疑惑は深まるばかりの現実に追われている。

日本がこうした現状に追い込まれたのは、ウラン型の原子炉で燃やしたウランの後処理の問題があったからだが、ウランは燃やすとその質量が増えてプルトニウムになり、このプルトニウムはかなり不安定な物質だが、これがウランよりはるかに大きなエネルギーを発生させることから、プルトニウムをウランで薄める再処理をして、これを燃やすことが考えられた訳である。

しかしプルトニウムは高速増殖炉で燃やして初めて資源となるが、日本の高速増殖炉「もんじゅ」は試運転を始めた途端に停止し、以後の高速増殖炉開発の見通しは暗いものになった。
これによって日本は燃料として使い道のないプルトニウムを大量保有していることになり、IAEA(国際原子力委員会)から北朝鮮やイラン以上に危険な国では・・・と言う目で見られ、何が何でもこのプルトニウムを始末する羽目に、つまりプルサーマル方式での原子力発電に追い込まれているのである。

また深刻なのは、原子力の経済性が大きな犠牲になっている点で、青森県六ヶ所村で試運転中の再処理施設は、年間800トンの使用済み燃料を処理しながら、40年間動く計画になっている。
したがって完全に計画通りに稼動すれば、32000トンの使用済み燃料を処理する。
一方電気事業連合会は再処理費用を11兆円と試算していることから、使用済み燃料1トン当たり約4億円かかることになるが、イギリスとフランスに委託してきた再処理費用は1トン当たり2億円、恐ろしい話だが倍の費用だ。

そのうえ、この再処理施設が100%稼動することなど有り得ない、また11兆円と試算された費用も、到底そのような金額では収まらないだろう。
ただでさえ電力自由化の波に洗われ、原子力が重荷になっている電力会社にとって、プルサーマルは、やればやるほど経営が圧迫され、破綻していくのである。
そしてこうしたリスクは地方の電力会社である九州電力や、四国電力が真っ先に負わされようとしている。

また2008年の電気料金の価格制度改定を見れば分かるように、都合が悪ければ制度を改定して、電力会社の経済的破綻を国民が負担するようなことが、ないとは言えない。

ちなみにエネルギー資源は経済的発展地域やその国家、上位10カ国ほどでその全消費の80%が消費され、残りの20%をその他の全世界で分けて使っている。
日本がいつまでもこの上位10ヶ国の中に入っていられるとは限らないのだ。
いつかエアコンは付いていても、電気が使えなくて冷房ができない・・・などと言う時代が来なければ良いのだが・・・。

 

※この記事は2009年8月5日、他サイト掲載用に執筆されたものです。