「箸の頭」

箸の市場はその90%を福井県が握っているが、その中には輪島塗の箸も勿論存在する。

 

一般的な輪島塗の定義、これは輪島漆器商工業組合の定義が参照されるが、布を着せたもので、輪島地の粉が使用されているもの、天然漆が仕様されている事を条件とする。

 

しかし輪島塗箸に布をかけたものなど存在しないばかりか、その大半は合成漆、つまりは漆風の塗料で塗られたものとなっている。

 

輪島塗と言う名称で販売されている箸には、作業工程と材料で判断するなら、大まかには3種の区分があり、その最下層にはカシュー(塗料名)塗りや、合成漆塗りが在り、その上には一応の下地をして天然漆を塗ったものが存在するが、この2種の強度、手触りは殆ど変わらない。

 

更に上位区分の箸は下地をして刷毛で上塗り漆を塗ったものが君臨する事になるが、それでも製造段階で下位のものと工法を同じくするものが在り、工法に拠っては上位クラスの箸でも下位クラスの箸と変わらない強度と言う場合が出てくる。

 

箸のキーポイントは先端と頭である。

良い箸は長く使っていても先端が磨り減って木地が出てくるまでには時間がかかるが、低グレードの箸はすぐに先端の塗料が切れて木地が出てくる。

1膳が500円以下の箸は殆どこの状態と言えるが、しかし購入時にこれを見分ける事は難しい。

 

それゆえ購入時に高級箸と低グレードの箸を見分けるには、箸の頭を見ると明白になる。

箸は胴体部分を長く作り、これを仕上げて最後に頭の部分を切って調整する方式が一般的だが、こうして製作しないと、塗っている途中に手で持つ部分が無くなるからであり、また乾燥時には長くなっている部分を、丸い小さな穴が開いている板に突き刺して乾燥させるからだ。

 

それゆえ胴体部分が仕上がった箸は、長く伸びた頭の部分を最後に切り取って、そこに下地をして上塗りを施して仕上げる事になり、この場合は先に仕上がっている胴体部分を傷めないように頭の角は鋭く切り立った状態でしか仕上げられない。

 

この工法は比較的高価な、例えば1膳が5000円以上するものでも用いられるが、基本的に頭の部分が抜ける、簡単に言えば頭の丸い部分が剥がれ易い欠点を持つ。

近年ではこれをごまかす為に下地を厚くして、角が研磨されたように見えるものも出てきているが、これでは更に剥離率は高くなる。

 

良い箸はこうした意味では頭の角が胴体部分と同時に仕上げられているものを指すが、この場合は頭の角はどこを触っても滑らかな感触となる。

 

ただし、こうした仕上げ方をするには、1本の箸を2回に分けて塗る必要が有り、これを複数回繰り返す配慮のある箸は、当然先端部分にも配慮が為されている事になる。

 

ちなみに夏未夕漆綾ではどうのような工法で箸を塗っているかと言えば、生漆原液を5回塗るが、この時先端部分を塗って乾燥させる時は、1本々々の箸を吊り下げて乾燥させる。

これに拠り、先端部分の漆の厚みを確保し、更にこうした工程を経て中塗り、上塗りと進んでいく。

 

が、では最後の上塗り時、1本の箸を2回に分けて塗る訳だから、必ずどこかにその継ぎ目が出てくる事になる、その継ぎ目が見えないのは何故か、それは企業秘密とさせて頂こうか・・・。

 

箸の頭の角を指で撫でてみて、そこが滑らかな箸は極めて少ない。

また無理して輪島地の粉を使っている箸は持った時硬く感じる。

生漆と言う最高強度の漆を塗り重ねたものは、意外にも仕上がりはとても柔らかく感じ、しかも強度は輪島地の粉や合成漆などとは比較にならない高さを擁す。

 

漆器のプロでも箸の頭の角に付いての認識が無い者は意外に多い。

それゆえ、私が塗った箸の頭の角を指でなぞる人間がいたなら、私はきっとその人間が何を生業としていても恐ろしく思うだろう。

幸いな事に目の前でそれをされた事は、今までに一度も無いが・・・・(苦笑)

 

「好色五人女」

京都、大経師屋(だいきょうじや)の女房「おさん」は当時この界隈で知らないものがいないほどの大変な美人、おまけになかなか負けん気が強くて、それでいて働き者、亭主とも仲が良く、また倹約家でありながら、亭主には粗末なものは着せない、良妻を絵に描いたような女だった。
そんなある日、亭主は仕事で江戸に赴かなねばならない用事ができて、しばらく家を空けることになったが、「おさん」の実家では、亭主がおらず女房の「おさん」だけでは店の切り盛りも大変だろうと言うことで、留守番にと、長年「おさん」の実家に奉公していた、茂右衛門と言う手代を大経師屋に差し向けた。

この茂右衛門はたいそうな堅物で、一心不乱に働く一方の男で、こうした男なら女での間違いもなかろう・・・と言うことだったが、実際茂右衛門は大経師屋へ来てもせっせと働き、またその言動も正直そのもの、本当によく働いていた。
そしてこんな茂右衛門の姿を見ていて、いつしか「おさん」の家の待女をしていた「りん」は茂右衛門に好意を寄せていった。

しかしこうした時代のこと、ろくに文字すらも読めない「りん」は恋文の1つも書けずに悶々としていたが、そんな様子を知った「おさん」は「りん」の恋文を代筆してやることになり、しおらしい乙女心をつづった恋文を書いて「おりんからだよ」と茂右衛門に渡した・・・、が、その手紙を「おさん」が代筆しているとも知らない茂右衛門は、返事におりんをからかったような文をしたためた。
「ま、ひどい、馬鹿にしているよ」文を読んだ「おさん」は、またまたおりんに成り代わって手紙を書いた。そしてとうとうある夜、茂右衛門におりんの寝床に忍び込んでくるよう約束させてしまう・・・、が、これはほんの悪戯のつもりで、人を馬鹿にしたような手紙をよこした仕返しに、「おさん」がおりんに成り代わって寝床に入り、茂右衛門をおどかしてやろうと言う魂胆からだった。

だが、そんな大事な夜・・・、おりんに成り代わって寝床に入った「おさん」は、昼間の疲れもあってか、いつしか深い眠りに入ってしまった。
そしてどれくらい経っただろう・・・、フッと目覚めてみると、着ていた布団は下に押しやられ、帯は解けて着物ははだけ、髪は乱れて・・・、どうやら眠っている間に茂右衛門と一線を越えてしまったらしかった。
「まあ・・、どうしましょう」おさんは呆然として途方に暮れる・・・、がしかし、首尾よくことが運べば、おりんを呼んで来ることになってなっていたから、この光景はもしかしたらおりんに見られたかも知れない、こうなっては人の噂は避けられない。

もはやこれまで、この上は身を捨てて命の限り愛欲に生きようか・・・、茂右衛門と一緒に死ぬまで・・・。
この話を聞いた茂右衛門も、おさんの覚悟に押され、自分も覚悟を決めた。
そしてこうした関係はもちろん人目に付かないはずはなく、ついに2人は京に居られなくなって、琵琶湖のほとりに立っていた。
そして手に手を取って、さあ行かん来世に結ばれることを願って・・・とそのときだった。

この期に及んで茂右衛門は何を言い出すかと思えば、こんなことを言い始める。
「死んでしまって来世が本当にあるのかは分からない、それならいっそのこと書置きだけ残しておいて、水死したと見せかけ、どこかへ逃げて一緒に暮らそう・・・」
なんとも女々しいと言うか、ある意味とても現実的な茂右衛門の言葉・・・・、しかし「おさん」の返事はもっとぶっ飛んだものだった。
「本当は私もそう思っていたの、こんなこともあろうかと思って店から500両持ってきたのよ」・・・だ。

とんでもない2人だが、さすが井原西鶴(いはら・さいかく)の面白さ、リアリティのある人間描写が成せる技、一応2人で心中するつもりで家を出てきているにもかかわらず、でもおさんはしっかりと500両を店から持ち出しているのだ。
おさんのこうしたしたたかさ、そのたくましさはある種「女」のそれが実に良く描かれている。
またこうした関係になってしまった・・・、もうだめだ「死のう・・」ではない、現実に即した極めて無理のないあり様、どれをとっても「女」の性と言うか「業」を感じさせるものである。

またこの時代、厳しい幕府の倫理規定があり、こうした不義密通は死罪になるのだが、一度タガが外れた女の覚悟と言うか、その崩れぶりはしっかりとした鋼(はがね)が入っている・・・、幕府のご法度にたてつき、どうにかして生き延びて、その生命と愛欲を楽しもうと言うのだ。

もちろん「おさん」に罪の意識がないわけではないが、それが悪いことだと分かっていても、タガが外れる機会に出会ってしまい、そこから先愛欲に溺れることが、では人間としてそれほど不幸なことかと言えば、そうだとも断言できない、そこに女らしいあり様を見てしまうのである。
源氏物語の女たちには、どこかしら初めから現実的なモラルが欠如している。
しかし「おさん」はこうしたモラルを知りすぎるほど知っていて、それでありながら女として、真っ向から対立しようとしているのである。

この事件の結末・・・、この後2人は丹波の山奥へ逃げ隠れるが、ついに見つかってしまい、街道筋を引き回された挙句、粟田口の刑場で殺される。
そして井原西鶴(いはら・さいかく)のこの物語は、或る実際にあった心中事件をもとにして書かれているが、それによると、事実は茂右衛門に惚れてしまった「おさん」が、下女の手引きで密会していた・・・と言うのが真相らしい。

おりんの代わりに寝床で・・・・と言う不自然さは、こうした事実を隠すためだったようだが、「色物語」を厳しく取り締まっていた幕府、そうした時代背景から井原西鶴と言えども少しだけ保身を考えてしまった・・・、つまりはじめから「おさん」が茂右衛門に惚れているのでは、不義になってしまい幕府から目をつけられる、ここはちょっとした偶然でそうなったことにしておけば、幕府の取り締まりもそう厳しくはあるまい・・・がチラッと頭をよぎったのではないだろうか・・・。

「主と精霊の御名の措いて」

1937年12月中国、日本軍による南京大虐殺が始まった頃のことだ。
中国・南京市のカソリック教区司祭マイケル・ストロング神父はある男を追っていたが、もはや日本軍の侵攻で占領状態となっていた同市、周囲の者はみな彼に避難する事を進めたが、神父は「だめだ、あれを逃すとこの世に地獄が訪れる・・」と告げ、やがて消息が分からなくなった。

ストロング神父が追っていた男とは、トーマス・ウと言う男で、この男に洗礼を施したのは誰あろうストロング神父なのだが、トーマスは5人の女と2人の男を残虐な方法で殺し、その肉は生のまま引き裂いて食べたことが分かっていた。
南京市南部管区警察署はこの凶悪な殺人犯の捜索を一週間も続けていたが、そこへ消息が分からなくなっていたストロング神父から、伝言を頼まれたと言う10歳くらい男の子が警察署に現れた。

だが男の子からメモを渡された署員は首を傾げた・・・、そのメモの内容とは「トーマス・ウは発見した、だが時間が欲しい、今から悪魔ばらいを行う」と書いてあったのだ。
どう考えても理解に苦しむ話だったが、容疑者のトーマスが発見されたとなれば、捨て置くわけには行かない、警察はメモに書いてあった場所へ急行したが、そこは南京市郊外の廃屋となっていた納屋で、到着したときには、既に日本軍の南京爆撃が始まっていて、南京の空は照明弾で赤々とした光に照らされ、周囲ではしきりに爆弾が炸裂している状況だった。

何人か見物人がいたが、それをかき分け、捜査隊が納屋に入ってみると、そこにはストロング神父の後ろ姿があり、その数メートル離れた真向かいには、真っ裸になった若い男がナイフを持って立っていた。
不敵な笑みを浮かべ、見る角度によっては大変な老人のようにも、また若い女のようにも見えるその男の顔は、かなりの変貌ぶりだが、間違いなくトーマス・ウだった。
そしてその目は周囲の炎が映ってそう見えるのか瞳が赤く輝き、ストロング神父をあざ笑うように、上から見下すように眺めていた。

しかし捜査隊がそれより驚いたのは、その納屋の棚に乗っているものだった。
女の足が7,8本束にして縛って置いてあるかと思えば、その隣にはまるで薪でも積むように切断された腕が何本も積み上げられ、男女何体もの胴体や頭が切断され、無造作に積み上げられていたのである。
どうやらトーマスが殺した人間はこれを見ても、5人や10人ではなかったのである。

「我が名を知りたいかストロング」、男は神父に向かって笑い声のような声を発したが、その声はかん高く、トーマスの声とは別のものだった。
「イエズスの御名において命ずる、トーマス・ウを解き放て」ストロング神父はトーマスの言葉を無視し、祈りを続ける・・・、しかしストロング神父がもう一度命令を繰り返そうとしたそのとき、「この男はもはや我が一部だ、いいか、この男と俺の力は死の力と同じだ・・・、最高の力なのだ、そしてこの男は俺についてくると決めたのだ」・・・とトーマスの声が遮った。

そしてこれを無視してまたも神父の祈りが続く、「お前の名を告げよ・・・イエズスの・・」ストロング神父がここまで言ったときだった、突然納屋が燃え出し、全体を覆った大きな火炎の音で、神父の最後の言葉がかき消されてしまった。
日本軍の焼夷弾かも知れない、あるいは近くに落ちた爆弾のせいだったかもしれないが、納屋はアッと言う間に燃え盛る炎に包まれてしまったのである。

捜査隊は慌ててストロング神父に移った炎をたたいて消すと、数人がかりで彼を納屋から引きずり出したが、このときすでに神父の意識はなかった。
逃げる際捜査隊の何人かがトーマスの様子を目撃した・・・、が、そこで見たものはこの世のものではなかった。
トーマスは燃え盛る炎の中でニタニタと不気味な笑いを浮かべ、その顔が急に物凄い速さで次から次へと別の顔に変わっていった・・・、日本人、ロシア人、黒人、朝鮮人、イギリス人、老人、若者、男、女とまるで特殊撮影を見ているように、それらが現れては消えていき、そのどの顔もニタニタ笑っていたのだ。

そして最後に現れた顔は憎しみに満ちた表情で、運ばれるストロング神父を睨み付けていた。

納屋から引きずり出されて暫くすると、神父は意識を回復したが、開口一番「しまった・・・あれは失敗だった・・・」と言うと、突然胸に鋭い痛みを感じたのか、発作のように胸を押さえて苦しみだし、これを見た捜査隊によってすぐに病院に運び込まれたが、重体で次の日の夜まで精神錯乱が続いた。

このことがあってから2日後、南京は日本軍によって陥落、日本は約5万人の兵力を投入して南京を侵略したのである。
南京市はまさに地獄と化してしまった・・・、日本兵によって引きずり出された中国人家族は、殴られ蹴られたうえに土下座の格好をさせられ、それを日本兵が足で踏みつけ、おもむろに首を刎ねた・・・、多くの人が銃剣と機関銃の練習用の的にされ、虫けらのように殺されていった。

またこれは日本国内の教科書では決して書かれることはないだろうが、一列に並ばせた子供たちの首を、次々刀で刎ねる将校もいた、女はみな暴行されてから殺され、妊婦は腹を裂かれ、体内の胎児を取り出されて母子ともども殺された。
まさに血の池地獄がこの世に現出したかのような光景が、繰り広げられてしまったのである。

1948年・・・・、ストロング神父はアイルランドの療養所でひっそり暮らしていた。
誰が来ても何も話さない、この10年誰かに見張られているようで、夜もうつらうつらとしか眠れず、それほどの年齢でもないのに髪は真っ白、まるで老人のような姿になり、その瞳は虚空を見つめる、抜け殻のような人になっていた。
「とても暗い・・・、それに刺(とげ)がある・・・・」
1937年、あの南京の納屋で何があったのか、その全貌は神父が持ち去ってしまったが、これがストロング神父、最後の言葉だった。1948年、10月のことだ・・・。

「始皇帝の歴史的意義」

中国の古代王朝としてはまず殷、周が存在しているが、伝統的な歴史観、つまり伝説としては太古の世に三皇、五帝と呼ばれる聖天使が現れ、いろんな発明をして人々の生活を豊かにし、世の中を太平に治めたとされている。
この内、五帝の最初が「黄帝」であり、この帝は世にはびこる悪を滅ぼし、黄河流域に初めて国を建てたとされているが、後世漢民族の始祖として尊敬され、五帝の最後が「舜」(しゅん)になっているが、その「舜」に帝位を譲ったのが「堯」(ぎょう)と言われ、こうした帝位を譲る形の皇位継承のあり方を「禅譲」(ぜんじょう)と言い、古来より中国の中ではもっとも平和的で理想的な皇位継承と考えられてきた。

この「舜」が黄河の治水に功績のあった「禹」(う)に帝位を譲り成立したのが「夏」王朝であるが、何分この夏王朝の話は後の「周」王朝の文献に記されるのみで、実際にあった王朝なのか、伝説上の王朝なのかが明確になっていない。
よってここでは中国最古の王朝を「殷」として話を進めるが、この「殷」も「周」もその国家規模は河南地方を中心とする華北の地に限られたもので、その支配体制も封建制とは言え、それは各地方に自治を許し、その上に成り立っている、緩やかな統制にすぎないものであった。

もっと判りやすく言えば、今日われわれが知る契約による封建制ではなく、本家や分家のつながりで構成されている社会であり、従って秦の始皇帝がこうした亜封建制諸国をことごとく滅ぼして全国に郡県制を布き、中央集権的官僚支配体制を確立したことは、中国の歴史上画期的な事件であり、これを成し遂げた始皇帝こそは、まさに中国最初の偉大な皇帝と言うべきものだ。

それにもかかわらず、始皇帝は歴史上ローマの皇帝ネロと並び評される暴君とされているが、その原因とされているのが極端な思想弾圧政策である。
がんらい理想化され、伝説となっていた周の政治体制に憧れを持つ儒学者たちの中には、秦の政治を法による強制的な統治として非難するものが少なくなかった。
始皇帝は異論をなくする為、民間にある詩経、書経、諸子百家の書物を没収して焼き捨て、儒教の説や政治批判を唱えるものを死刑にすると厳命を下したが、これが「焚書坑儒」として後世の学者たちから非難され、永く暴君の汚名をを冠せられる原因になったのである。

しかし「焚書」については医学、薬学、卜占(うらない)、農業の書物は除外していただけではなく、朝廷や博士が所蔵する古典類の書物はそのまま保存されていたので、始皇帝は儒学書、儒教学問を全面的に否定したわけではなかった。
また「坑儒」に関しても、実はその前に国家統一を完成させた始皇帝が、もはや手に入らぬものは「不老不死」のみであり、何とかこれを手にしたいと思い始め、この話を聞いた諸生たちが、「不老不死の妙薬を探してまいります」と言って始皇帝を謀り、大金を貪った詐欺事件があり、始皇帝はこの事件に連座した諸生、430余人を捕縛して坑殺したのである。

諸生、儒生とは言うが、その中には儒者は殆ど含まれておらず、この事件に連座した者たちは神仙道を説く、方士と言う修行者たちだったのである。
始皇帝が民間の政治批判を禁じ、思想統一をはかったことは事実であるが、ではそれまで学者たちが理想としていた「周」の社会はどうだろう、狭い範囲の国家、親戚縁者による支配であれば、それは「徳」と言う理想でも治められたかも知れない。

しかしその外の幾多の小さな社会を治めるとき、相互信頼による理想主義的思想の支配は、実際のところ全く通用しなかったのではないか・・・、だからこそ中国はこの時期春秋戦国時代と言う、500年にも及ぶ混乱の時代を迎えることになったのではないか、つまりそれまでの親戚縁者による国家形態から、より広い国家への成長に従って、相互信頼や理想主義的相互理解と言う形なき形態から、契約や法、罰則と言った、理想や信頼を担保する制度の必要が現れたのではないだろうか。

春秋戦国時代には諸子百家と言って、多くの思想家が世に現れ、その中で次第に道徳や信頼と言ったものが、実は統一された価値観があって始めて成立すること、またそれを形として示す方法が、あらゆる次元で考えられたに違いない。
孔子は道徳をあらわすのに「形式」を選択した、韓非子は「限りない疑い」を、そして実際に中国統一を成し遂げるために、始皇帝が選んだ道は法と罰則による支配だった。

つまり、形のない「徳」や「信頼」に法と言う紐をつけ、その先に「懲罰」と言う錘をつないで「心」を担保させる仕組みを作ったのであり、こうした有り様はおよそ、その後アジアの支配形態のみならず、世界的にも支配形態として大きな影響を及ぼし、その意味で始皇帝は宗教や主観的理想論などの方法に頼らず、この世界を人の世とした上で、人が治めるとしたら、どうあるべきかを世界で始めて示したとも言えるのであり、それは漢以後の学者たちが非難するほど暴虐なものだったとは決して言えない。

中国に最初の統一をもたらし、外敵 を退け、中国民族としての国境を確定させ、中央集権的官僚支配を打ち立てた始皇帝・・・、彼は偉大な帝王だったと言うべきだろう。

始皇帝の「秦」は15年で滅んだ・・・、しかしこの秦帝国の国威は外国にも及び、外国人が中国を「シナ」と呼ぶ名称も、秦(Tsin)がその語源とされている、すなわちヨーロッパ、イギリスでは(China)、フランスでも(China)、ドイツでは(Cina)、インドのサンスクリット語では (Cinasthana)チナスターナと称され、日本でも江戸時代から用いられている「支那」の語源は、やはりこの「秦」から来ているのである。

「遠い日の食卓」

ロンドンの東、緯度もロンドンよりは少しばかり上がるかもしれないが、コルチェスターと言う都市がある。
ここで知人の家の夕食会に招かれた私は、彼ら夫婦の4歳になる娘のプレゼントにと思い、可愛らしい人形を買って奇麗にラッピングしてもらい、家を訪ねた。
10月頃のこの地方の気候は日本からみるとかなり寒い、また心なしか日が落ちるのも早く感じるが、そんな中で窓からこぼれるオレンジ色の灯りは何かとても暖かく、そしてどこかでホッとさせてくれるものである。

ドアを叩くと、そこに現れたのは懐かしい友の顔だった・・・、「お招き頂き、ありがとう」・・・、「何を言ってるんだ、早く入れ」形式ばった挨拶に、肩を抱くようにして友人は私を室内に招き入れると、ブロンドが美しい彼の妻と娘を私に紹介し、私はプレゼントを彼等の娘に差し出したが、彼女は大喜びですぐに箱を開け、人形を取り出すと両手で抱きかかえ、何度も何度も高くかざして嬉しがった。

通常こうした時代、まだ日本ではヨーロッパの夕食と言うと、まるでフルコースのディナーでも出てくるように思っていたかも知れないが、一般家庭の食事などはバブリーな日本から比べれば質素なもので、パンにスープ、ポテトにハムか、薄く切ったステーキなどがあれば、それでかなり上等なものだった。

私たちは友人の妻が作った料理を前に一通りの挨拶を終えると、祈りを捧げ、さっそくスープをすくったが、暫くして彼の妻は私に話しかけた・・・、「何かお気に召さないことでもあるのですか」、どうも彼女は私が食事中全く喋らずに食べているのを見て、怒っているのかと思ったようだった。

これに対して私の友人は妻に笑いながら「彼はサムライだから・・・」と言い、「サムライは食事中に喋ってはいけないことになっているんだ」…と説明した。
適当な説明ではあるが、ある種言い得て遠い友人の説明に、まったく理解ができない彼の妻・・・、私は日本の話をした。

私のグランドマザーはサムライの時代の次の時代(明治)の女で、私は彼女に育てられた・・・・、そうそこでは食事中に喋っていると殴られるか、厳しく怒られる。
しかも食事を長い時間かけて食べているのは非常にだらしないとされ、できるだけ早く食べることが良いとされ、不味いとも美味いとも言ってはいけなかった。
そもそも食事を作るのは、その家では食事を作るプロである母親か祖母が作るのであり、こうしたプロの仕事に文句を言うのは言語道断だが、これよりもっと悪いのは自分が作りもしないのに、それに批評を加えることだった。

特に養われている身分の子供が美味いなど言うのは100年早かった、またさらに怒られるのは食事中に笑うことであり、汁物やおかず、ご飯などは残すことなど恐ろし過ぎてやったこともなかったが、多分やれば次の食事はさせて貰えなかったに違いない。
また、男子たるもの厨房に入るのはご法度でもあったが、そこはやはり女の聖域、子供であっても男がそんなところでウロウロしていると、「男がこんな所にいるものではない」と怒鳴られたものである・・。

友人の妻はこの話に目を丸くした・・・、多分とても大きなカルチャーショックを受けたのだろう、だがその反面少し面白かったのか、もっと日本のことを聞きたいと言うことになり、私は更に話を続けた・・・。

日本では笑うことは恥ずかしいことであり、人を馬鹿にしていると思われるので、男は特に歯を見せてはいけないことになっている。
また笑うと言うことは、自分に自信がなくて相手に媚を売らなければならない状態でもあるとされることから、海外で日本人が言葉がわからず、ただニヤニヤ笑っていれば何とかなると思うのは大きな間違いだ・・・、そんなものはただの馬鹿者だ。
そして日本では多くを語るものは信用がない、ぺらぺら喋っているとそれだけで警戒され、決して人の心をつかむことができず、不信感から理解しあうどころか、人が離れていく・・・。

友人はさらに大きな笑顔になり「クラシックな男だからな・・・」と呟くとともに、妻の方に顔を向けたが、彼の妻はまったく唖然とした様子だった。
「まるで軍隊みたい・・・」、また彼らの娘はこう言った、「グランマザーはクイーンなの」・・・、これは良い意見だった。
「日本では年を取ると、みんなからクイーンやキングのように尊敬されるんだよ」、私は椅子に深く座り直して、誇らしげに答えたが、ついでにこうしたことを子供に教えてくれるのは「女」の人であることも付け加えたものだった・・・。

あれから、かれこれ20年近く・・・、わが身を省みれば、日曜日にはしっかり女房子供のために昼食を作り、ついでにその際各人にオーダーまで聞いていたりする。
周りを見れば、みんな同じように取って付けたような軽薄な笑顔で囲まれ、ぺらぺら喋ることは自己主張と名前を変えてまかり通っている。
年寄りは後期高齢者と呼ばれ、保険証ですら差別を受ける社会・・・、私が祖母や母と言った女たちから「男はこうあるべき」とされた男はどこに行ったのだろう。

優しいと言う言葉は危い、それは裏を返せば自信がないことの表れであるかも知れない、私などもう少し稼ぎが多ければもっと家族から尊敬され、その結果オーダーを取って食事を作ることも無いだろうが、悲しいかな稼ぎが少ないから、こうしてご機嫌を取らなければならない現状を鑑みるに、実に男の責任を果たしていない結果として、この姿があるのである。

また自分に自信があれば、そんなに無理して笑顔を作らなくてもみなが必要とするだろうに、それ程の力がないから、こうして引きつった笑顔でも見せて愛想をしておかなければならない・・・、子供の頃、そんな者は男のクズだと言われた、そんな者にしっかりなってしまっているのである。

いかん・・・だんだん落ち込んできた、これ以上こんなことを考えるのはよそう、悲しくなる・・・。

 

※ 本文は2009年7月、他サイトに掲載した記事を再掲載させて頂いいたものです。