夏未夕漆綾「保勘平「ほうかんひら)様式」

 

Exif_JPEG_PICTURE
Exif_JPEG_PICTURE

漆芸技術下地の古典的様式は「生漆(きうるし)重ね塗り」ですが、これだと高価な材料を沢山使う事から、後に柿渋(かきしぶ)下地や珪藻土、或いは粉末混入下地が発生してきます。

これらの下地は確かに成型を容易にして製品精度を上げる事にはなりますが、生漆と言う最高強度を希釈する側面を持ちます。

1954年以降、東京国立博物館工芸課長、漆工室長などを歴任された「荒川浩和」氏が当時でもその著書の中で「せめて生漆くらい塗ってくれたら」と嘆いておられた時代から既に半世紀が過ぎ去った現在、表面的な美しさを求める余り砥粉(とのこ)は益々多用され、その強度はどんどん低下して来ている漆器に鑑み、夏未夕漆綾では2008年頃から古典様式下地を取り入れた製品を作って来ました。

そしてその過程で粉末添加剤(輪島地の粉)と生漆のみで糊や砥粉を使わずに表面硬度を上げる技法を研究して来ました。

この工法の一部は1930年から1947年くらいまで日本に存在しましたが、西暦2018年10月現在、同工法で製作される漆器は世界中に1つも存在しない事、また1930年代の技法に90%以上の改変が加えられている事から、夏未夕漆綾では所在地である「保勘平」(ほうかんひら)の地名を由来とする「保勘平様式」として技術確定させて頂きました。

工法の詳細は公開出来ませんが、たわしなどで普通の陶器と同じように扱って頂いても全く影響の無い表面硬度、更には硬い中にも独特の柔らかさを感じる手触りと言う、相反する命題を満たす漆器が出来たと言えるかと思います。

また古典様式の改変技法は一部で「保勘平様式」と同じ技法を用いる事、及び「保勘平様式」の下地にも用いられる事から、「保勘平様式」には2種類の表現が存在し、一つは掲載されている製品のような硬質表現、そしてもう一つは旧来から存在する「輪島塗」の「真塗り」に代表される滑らかな光沢仕上げが存在します。

が、こうした一見輪島塗と同じにしか見えない品でも、それを手に取った瞬間から夏未夕漆綾独特の柔らかさや滑らかさ、軽さを感じて頂くことが出来るかと思います。

「この、先に明るさの見えない世の中で、輪島塗などと言う優雅な物を遣っている場合じゃないよ」と思われる方も多いかも知れませんが、夏未夕漆綾の「保勘平仕様」を一度手に取って頂ければ、その価格以上の価値を感じて頂けるかも知れません。

もしかしたらこれが最初で最後の自分広告の記事になるかも知れませんが、自分を褒めるは愚かに思え、かと言ってけなせば惨めになる。

輪島塗を売るのは中々難しいな・・・と思います。

「保勘平様式」、どうぞ以後宜しくお願い申し上げます。

「空気振動と火山」

この1週間ほどの事だが、私の住んでいる三井町仁行付近で気象庁の震度計には反応しない振動が少し多くなっている。

直近では11月24日に7回、11月26日にやはり5回の振動が有り、感覚的には震度2くらいの振動で、ガラス戸がガタガタガタと大きく音を立てるほどだが、気象庁に問い合わせても地震としては記録されていない。

11月26日の例では11時5分くらいに弱い揺れがあり、同日11時40分にはかなり大きな振動が2回、そして午後1時30分前後、更に2回の大きな振動を感じたが、地震計には記録されていない。

これらの現象の原因として一番可能性の高いのは飛行機やジェット機の加速振動だが、これらの振動の前後に飛行機やジェット機の通過音は聞こえておらず、また次に可能性の有るものは隕石などの大気圏突入振動だが、この場合の振動は大きな音を伴ったり、或いはこうした数回に分けて何回も発生する可能性は低い。

通常隕石の突入振動は1回の場合が多い。

勿論流星群などに突入している時期は比較的隕石も多いが、これほどまで多く発生する確率は低い。

また花火や風の可能性も有るが、これらは目測や後の確認で排除される。

こうした経緯から、これまでの統計上一番確率が高いのは「火山性空気氏振動」の可能性であり、因果関係は不明だが、過去三井町で空気振動が多くなってから3日、遅くとも10日以内に霧島、桜島の火山噴火が発生したケースが6回、中央火山帯北関東付近の火山噴火が2回発生している。

これらの事から九州地方の方、北関東山沿いの方々に少し警戒をして暮らして頂きたいと思います。

そしてこうした因果関係の他に、同様の振動発生後、石川県能登半島に震度4以上の地震が発生したケースが2回、同じく北海道釧路地方に震度4以上の地震が発生した事例が2回、京都北部の深い震源域での地震発生が1回と言う統計が出ています。

多分霧島、桜島、或いは北関東付近の火山噴火の可能性が高いと思いますが、この時期としては温暖な気候が続き、そして最近は平年並みに戻って来ている感じがします。

古来より「大地震が発生する時は温暖なものなり」と言われていますが、正確には温暖な気候の後、ほぼ平年値に戻ってから、大きな地震となるケースが多いようです。

空気振動と統計上の可能性の話でした。

 

では皆様、今日も頑張って、行ってらっしゃい!

「天の怒り」・1

「随分死んだな・・・」一人の男が木片を焚火(たきび)の中へ投げ込みながらそういった・・・真っ黒焦げになって積み重なっているところは、まるで海鼠(ナマコ)のような容(かたち)だ。「近所の人もみんな死んでしまった。もう人間の世も今夜で終るのでしょう」そう言って老人は口をつぐんだ。
(杉重太郎・「火焔の中の幻覚」より)

1923年(大正12年)9月1日、午前11時58分44秒・・・、それは初め地面が低く唸るような音から始まった・・・、やがてその大勢の人間が地獄の底でもがくような音はどんどん近付いてくる、そして初めは瓶に入れられ振り回されているような大きな横揺れが、その後相次いで下から突き上げられるような衝撃を感じた頃には帝都東京の半分が瓦解していた。M7・9・・・、関東大震災はこうしてはじまった。
おりから昼飯時期のこと、各々の家では火が使われていたことから、あちこちで火事が発生し、その火が集まって秒速17メートルから30メートル近い火焔風を起こし、何十本とも知れぬ火焔竜巻となって帝都をなめつくした。

人々は火焔地獄の中を彷徨い、わずかな水を求め大富豪安田邸の池の中に身を沈めたが、いかに安田財閥の池とて所詮は池、幾多の老若男女が飛び込んだ池は、襲い来る火焔の熱で一瞬にして沸き立ち、水が見えぬほどに殺到した人達は、絶叫とともに茹でられ、或いは焼かれてしまったのである。

またこれはある兄妹の証言から・・・。
「何しろ親父も、母親も目の前でじわじわ焼け死んで行くんです。気が狂ったようにして死んで行くのを見ながらどうすることもできません。それも一度に焼け死ぬならまだしも、風が吹いてくる度に着物から肌からじわじわ一枚一枚焼かれていくんです。ですから風が引くと生き返ったようになるんですが、その間にそこいらの泥濘(ぬかるみ)から泥を掬ってかけるんですが、また風が襲ってくると火がついて燃えだすんです」

「周りは火の海でどこへも逃げるところはありませんでした。地べたにひれ伏して土に息をかけるようにしていなければ煙で喉が詰まります。死んだ人を上から被って火の風がやってくるのを待つだけでした」
「私は今年16になる妹と2人で両親とは2間ばかり離れた所にいたのですが、両親が焼け死んだのを見ると、妹はもうたまらなくなり、焼け死ぬのはいやだから私に殺してくれ…と言うんです。私もどうせもう駄目だから、一思いに殺してやろうと思いまして、2度まで妹の首を絞めたのですが、手に力が入りませんでした」

「早く、早く殺してよ・・・、と妹はせがみます。がその姿を見ると可憐しくてどうしても力が出ないのです。それで妹の細帯を解かせ、それを妹の首に巻きつけ、今度火の旋風が来たらもう最後だから、その時はきっと締め付けて殺してやる…と言いながら待ったんです・・・、そして有たけの力で目を瞑って絞めることは絞めたのですが、帯がすでに焼けていたと見えて、途中で切れてしまったんです」(婦人公論・大正12年10月号より)
この兄妹はそれからどうなったか・・・そうだ証言してくれているから、家族8人中奇跡的にこの2人は助かった。

だが、隅田川では全身焼けただれて、男とも女とも分らぬ死体が無数に流れ、橋のたもとでは死体の間に頭から焼けただれて片足になっている者、背中を一面焼かれて動けずにいる者など、瀕死の男女が幾人も死を待つようにうなだれ、少しばかりの空地には、僅かばかりに命を拾った人が集まり、焼けたトタンを屋根に名ばかりの小屋を作っていたが、死人の匂いも、半死の重傷者の声も耳に入らぬか、貰った玄米の握り飯をガツガツかじっている・・・、これが地獄でなくて、地獄がどこにあろう。

またこれは東京駅付近、翌日にここを歩いた人の話だが、降車口近くで足元を見ると、糸でからげた紙筒みがあり、何かと思って見てみると、そこからは生後いくらも経たない嬰児の片足が、紙の破れ目から覗いていた。
そしてこうしたことが全く目に入らず、人々はそれを蹴とばして歩いていたのである。(大正大震災大火災・より)

さらにこれは震災後3日目、横浜でのことだが、泥まみれの浴衣を着て憔悴しきった感じではあるが、どこか興奮しているような30前後の女が歩いていた・・・、一見してその有り様から、今度の震災で焼け出されたどこかのおかみさんであることは明白だったが、やがて山の手の避難所にきたその女は、そこの人混みにまじってウロウロしている2人の子供を見つけると、「あ、いた、いた」と叫びながら嬉しそうに走り出した。
その様子を見て誰もが、ああそうか、生き別れになっていた子供を見つけたのだな・・・と思ったのだが、次の瞬間その女は傍に落ちているレンガを拾うと、その子供たちの頭を滅多打ちにして殴りつけた・・・、女は気がくるってしまっていたのである。(婦人公論・大正12年10月号)

この震災と大火で正気を失った者の数はわかっていないが、こうして気が狂った者や、嬰児がいた女性などでは、ショックから乳が出なくなった者が多数あり、それが原因で子供を失った女性も多かった・・、彼女たちが髪を振り乱して苦悩する姿が見えるようだ・・・。

火災は9月3日にほぼ鎮火したが、両国橋はまだこのとき燃えていたと言われる。
本震以来続く余震は114回にもおよび、人々はその揺れの恐怖から、避難しようと東京駅に殺到していた。
この地震と火災による被害は焼失家屋46万5000戸、死者9万1300人(この内4割の38000人が被服廠跡地などでの焼死だった)、被災者は140万人、帝都東京の半分が焼失したことになる。

そして震災から3日後の記述にはこうある。
「しかし、失うべきものは全て失い、生きていることすら不思議と言える今、彼らは新たなる生への力をよみがえらせつつあった」
「3日午後の豪雨に、野宿していた避難民はぬれ鼠となったが、やがて日比谷、上野などにはバラックが建ち、その周囲にはスイトン屋、あずき屋、牛丼屋、床屋などが軒を並べ始めた。行方不明の家族の名を書いた旗を担いで、焼け跡を彷徨う人、その傍では鉄道隊、電信隊、工兵隊などの軍隊が焼け跡の修復に着手しはじめていた」

「ここから出して・・・」

埼玉県飯能の仏子駅近くにある山林・・・、ここへ2人の男がメジロを獲えようとやってきた・・・、2人とも秋田県仙北郡仙南村の出身で、出稼ぎに来ていた農業、塚本吉春さん(35歳・仮名)と、同じく武田仁さん(42歳・仮名)だったが、メジロは保護鳥だったものの、売ればまずまずの値がつくことを聞いたことから、2人とも上京して以来競輪に足を突っ込んでいて金がなく、競輪をする金欲しさからメジロ獲りを思いついたのだった。

しかし馴れないメジロ獲りは思うようにいかず、1時間ばかり山林の中をさまよったが、そのうち一服しようと言うことになり、2人は適当な切り株に腰をおろし、煙草に火をつけた・・・、が、武田さんが山林の中にある草むらで何か変わったものを見つけた。
はじめアベックでもいるのではないかと思ったが、どうも動く様子がない、先に立ち上がった塚本さんが近寄っていくが、そこから妙な臭気がしていて歩みを止めた、そこで後ろから来ていた武田さんが塚本さんを追い越して前へ出てみると、それは布団(ふとん)に何かが包まれた状態のものだった。

しかもご丁寧に丸められた布団はしっかりと女帯で広がらないように縛り付けてある・・・、「この臭いは、死体でもつつんであるんじゃないか・・・」及び腰の塚本さんが言うと、武田さんはギョッとした様子で後ずさりした。
「おい、あれは何だ」塚本さんが布団包みから3メール程離れた所を指差したが、そこには雨露に濡れた封筒のようなものが落ちていて、武田さんは布団包みを大きく遠回りしてそれを拾い、ぺしゃんこになった封筒をはがして中味を取り出してみた。
「これは謄本らしいな・・・」そう呟いて武田さんがぴっちり張り付いている謄本をそっとめくるように開いてみると、なんとそこには秋田県仙北郡仙北村、吉田重雄・長女・信子(仮名)とあった。

不思議なことにその謄本の住所には2人の村の隣村で雑貨を営んでいる、彼らも知っている家のことが記されていたのだった。
この謄本と布団包みが何かしらの関係があるとすれば、布団包みの中はおそらく吉田信子と言うことになり、すでに死んでいるだろうことは2人とも容易に想像がついた。
こうしたことにはからっきし度胸がない塚本さんは、もうすでに逃げ腰だったが、武田さんはそれでも思い直したように、草むらの布団包みに近寄っていった。

その様子を背後から塚本さんが見守る・・・、「何かわかったか・・・」塚本さんが武田さんに声をかけるが、一向に返事がない、やがて慌てふためいて走ってくる武田さんは声もあげずに走り続けて、それを追うように塚本さんも走り出した。
武田さんの顔色は青くなっていて、目が泳いでいた、「ううう・・・」武田さんは言葉にならない声を上げながら走り続け、やがて県道が見えるところまで来ると立ち止まった。

「どうしたんだ・・・」塚本さんはハアハア言いながらも武田さんに尋ねたが、「よくは分らないんだが、女の髪の毛みたいなものが布団の中から見えた・・・」…武田さんはそこまで言うと地面に腰をおろして、右手を目の前で左右に振って、何かを振り払おうとしていた。
「それじゃ女の死体か」
「はっきりとしたことは言えないが、間違いない、あの臭いは死体だ、とにかくこんなところにいて関わり合いになったらめんどうだ・・・」
2人は急いで山を下りて仏子駅から飯能まで戻ると、ゲンが悪いと言うので近くの食堂で焼酎を2,3杯あおると、勤め先の建設会社の飯場へ帰って寝てしまった。

ところがその翌日未明のことだった。
武田さんは恐ろしい夢を見た・・・・、昼間のあの山林の場面が目の前に現れたかと思うと、くだんの丸められた布団包みが隣にあって、それがムクムクと動き始め、やがてその布団の中から大福餅をひねるとアンコが出てくるように、中から押し出されるように女の髪の毛がはみ出してきたのだ。
夢の中の武田さんは動けなくなって、そのままその様子を見守るしかなかったのだが、その次に目の前に現れた光景は絶叫ものだった・・・。

なんと今度は丸まった布団から女の顔が出てきたかと思うと、布団の生地で顔がこすれ、皮や肉がずるずると崩れていくのだった・・・、それはもう凄い光景で、ただ右の眉の上に古い切り傷があるのは見えたのだが、とにかくその若い女が「外へ出してくれ・・・出してくれ」と武田さんに頼むのだ。
武田さんは必死で逃げようと思うが、これがまた一向に逃げられない・・・、夢の中で必死になって叫んでいた。

隣で寝ていた塚本さんは未明、聞いているだけでも恐ろしくなるような武田さんの唸り声で目を醒まし、慌てて武田さんを起こした。
「ああ・・・、助かった夢だったのか」武田さんは塚本さんの顔を見ると、心底安心したように額の汗を拭ったが、怖かった夢の話をしながら煙草を取り出そうと、枕もとに置いてあった上着のポケットを探った武田さんの顔色がまた一瞬にして変わった・・・、その手が掴んだものは何か封筒のようなものだったのだ。
「うわー・・・」武田さんは慌ててその掴んだ封筒のようなものを放り投げたが、それは何と昨日の謄本だった。

もちろん昨日それはあの山林に置いてきたもので、到底武田さんのポケットに入っているような代物ではなかったのである。
ここに到って2人はある覚悟を決めた・・・、それは塚本さんも武田さんも故郷を出て3年、真面目に仕送りをしようと思いながらも競輪に手をそめてしまい、すっかり実家には連絡もとらなくなり、勿論仕送りもしていなかった・・・、このままでは格好もつかず、おまけに職場も転々としていて、簡単に言えば音信不通、行方不明状態だったのだが、ここまでのことがあっては黙ってはいられない、警察へ届けようと言うことになった。

2人の通報を受けた飯能署ではさっそく捜査を始めたが、吉田信子さんは確かに秋田県仙北郡の出身で、この10ヶ月前に好きになった青年との失恋がもとで急に上京し、2、3の仕事を転々とした後、4ヶ月前には船橋にいたことがわかり、その船橋の病院関係者から話を聞いたが、2ヶ月ほど前に突然いなくなったとのことだった。
飯能署は病院で誰か患者との関係がなかったかも調べたが、その中で1度だけ彼女にデートを申し込んで、一緒にお茶を飲んだことがあると言う男性患者に話を聞くことができたが、これも特にその後の関係はないことが分かった。

ただこの男性患者の証言から、信子さんの右の眉の上あたりに古い切り傷があったことは確認され、これは秋田の両親の証言とも一致していた。
そこで飯能署は山林にあった布団の包みは、行方不明になっている吉田信子さん(22歳)と関係があるものとして、狭山署と協力して大規模な山狩り調査を行ったが、仏子駅から西南3キロメートルほど入った天王山南斜面の雑木林の中に、赤紫の掛け布団と敷布団が30平方メートルにわたって散らばり、信子さんのものと思われるハンドバッグ、自著名入りの手帳やその紙片が散乱しているのを発見した。

だが、奇妙なことに信子さんの死体はどこにもなかったのである。
そしてこの事件はそれから後も解決せず、信子さんの行方も分からないままになってしまったが、奇しくも同じ村の出身者で、行方不明になっていた2人の男性が故郷に戻ることになったのである。

「その時日本は・・・」

1973年10月6日中東、この日エジプト軍がスエズ運河を渡り、ゴラン高原ではシリア軍の機甲部隊が轟音と共にイスラエルへ侵攻した。
第4次中東戦争の勃発だが、エジプトとシリアによって南北から挟み撃ちになったイスラエルは、三週間に及ぶ戦闘で苦戦を強いられたものの、一時は形成を逆転させスエズ運河を逆にエジプト軍を追う形となり、エジプトのカイロまで100キロの地点に進軍、ゴラン高原でもシリア軍を押し返し、首都ダマスカスに迫る勢いになる。

またアラブ諸国はエジプト、シリアの支援策として、イスラエルを支援しているアメリカに圧力を加えるため、イスラエルを支援、支持する国のすべてに対して、石油輸出を停止する「石油戦略」を発動する・・・、同年10月7日にはOAPEC「オペック、アラブ石油輸出国機構」の閣僚会議で石油産出削減が決議されていた。
これが第一次石油ショックへと繋がるのだが、結果としてエジプト、シリア軍はやがて再度イスラエルに対して反転攻勢を強めていく。

戦況がまた不利になってきたイスラエルは、占領地の一部返還という形で譲歩し、エジプトと停戦協定を結び、今度は和平交渉に入るが、その背景は4度にわたる戦争による両国の疲弊と、戦争のたびに活発化するパレスチナ難民問題があったからだ。
1977年、エジプトのサダト大統領がイスラエルを訪問、翌年1978年にはアメリカ、キャンプ・デービッドでカーター、アメリカ合衆国大統領の仲介により、エジプトのサダト大統領とイスラエルのベギン首相が会談し、1979年3月26日、エジプトとイスラエルの平和条約が締結された。

この間に1947年に国連がイスラエルを認める決定をした「パレスチナ分割決議」は事実上の効力を失い、アラブ諸国の応援を得てパレスチナ解放機構(PLO)が成立していたが、1974年、国連がこれにオブザーバーの資格を付与する。
この背景はアラブ諸国が打ち出した「石油戦略」によって、アラブ諸国側につかざるを得なくなったアメリカ以外の加盟国と、孤立化したアメリカ、イスラエル…という図式が国連の中で出来上がっていたからである。

アラブ諸国はさらに1975年、ユダヤ人のエルサレム回帰運動、すなわち「シオニズム」をレイシズム(人種差別主義)であり、アラビア民族、アラビア人に対する差別思想並びに、差別行動であると非難し、1975年11月10日の国連総会は、この主張を採択し決議案の一文に加えたが、この時点からイスラエルは国連をアラブ寄りの組織である…と思い始めるのであり、2008年のパレスチナへの軍事攻撃の時も、国連の決議など全く無視する行動の原点は、こうした歴史的背景の結果なのである。

シオニズム主義に関しては別の機会に詳しく解説するが、その基本的な精神は「シオンの土地に帰ろう」・・というものであり、神がユダヤ人に与えたとするシオンの地に対する憧れと、信仰上の精神的な回帰思想のことであり、1975年の決議は、1991年12月の国連総会で、決議の撤回が採択され事実上削除されたが、こうした右へ左への対応はイスラエル、アラブ諸国双方からの不信を買う結果となっている。

そして1973年12月、日本ではこの中東戦争によって石油が入らなくなり、狂乱物価が発生・・・、トイレットペーパーが対前年比150%、砂糖も51%の値上げとなって、人々はスーパーなどの小売店に殺到するのであり、翌年1974年1月7日からは、電力節約のため民間テレビ放送局の深夜放送が中止された。
この狂乱物価はひとえに日本の認識不足がその要因なのだが、当時遠い中東で戦争が起こったからと言って、さほどのこともあるまい・・・と思っていたら、アメリカに追随していた日本はアラブの非友好国として、石油輸出量の削減措置を受けてしまったのである。

石油の90%を中東のイランとアラブ諸国から輸入していた日本は、絶望的な状態に追い込まれたのだが、この国家存亡の危機の最中、アメリカのキッシンジャー国務長官が日本を訪れる。
当時田中角栄首相と大平正芳外務大臣がこれを出迎えるが、その際キッシンジャーはアラブ諸国の石油輸出禁止政策に対して、日本が慎重な対応をするように・・・」と話している。
これはどう言う意味かと言うと、アラブから石油が入らないからと言って、イスラエルを見捨ててアラブ側に走るな・・・と言っているのだが、これに対して田中角栄首相が「もし中東から石油が全く手に入らなくなったら、アメリカがその分の石油を日本に提供してくれるのか」と尋ねるが、キッシンジャーは「それはできない」と答える。

この会談は日本、アメリカ双方が譲歩できず、結局物別れに終わったが、この会談の後、当時の二階堂官房長官は「日本の中東政策の大幅な修正」を口にしていることからも分かるように、これ以後日本の中東政策はアラブ寄りに変更されていった。
そうして日本はイスラエルの、占領地からの完全撤退を求め、これが実現されなければイスラエルとの関係の見直しを検討する・・・と声明を出す。

日本は石油燃料に依存している間は中東問題ではいつも苦渋の選択をさせられる…、が、それはまた一つの光明でもある。
日本はイスラエルとは良好な関係を継続しながら、パレスチナにも支援をしている。
このことはどう言うことかと言うと、宗教上の第三国である日本が、これからアラブ諸国に友好国を増やしていけば、いずれアメリカ以上に中東諸国の信頼を得やすいと言うことだ。
特に注目すべきはイランだ・・・、かの国は革命前から革命後もずっと石油を通じて経済的交流があった国であり、こうした背景から日本こそがイランとアメリカとの和平を調停できる、もっとも有力な国の一つでもあることを自覚すべきだ。

そしてこうしたイランとの関係強化を突破口にして、中東での親交を促進し、このことが結果としてアジア・イスラム諸国への発言力も高めることになるだろう。

力による正義、力による平和は真の正義や平和と為る事が出来ない・・・。