「仏教の成立」前編

インドのカースト制度、身分社会の成立初期段階、今から3000年前の形態は「バラモン」と呼ばれる僧侶階級が最上位で、宗教と学問をつかさどり、彼等が司祭する宗教を「バラモン教」と言い、この下に「クシャトリア」と言う武士、貴族階級があり、この階級が軍事、政治を行っていて、「ヴァイシャ」と言う上から3番目の階級が庶民階級であり、農業、工業、商業に従事し、納税の義務を負っていた。

そしてその下に「シュードラ」と言う奴隷階級があったが、この身分の者の多くは被征服民族だった・・・が、後世のインドでは社会の発達、分化に伴って多くの新しいカーストが生まれ、この4つの階級の更に下には4つのいずれのカーストにさえ属さない、最下層の賎民として「パリア」(不可触賎民)があり、ガンジーが社会問題として取り上げたのが、このパリアに属する人々の救済だった。

尚カーストの語源は、16世紀にインドを訪れたポルトガル人が、この制度をポルトガル語の血統、家系を意味するカースタと読んだことに、その歴史があり、このカースト制度は職業的、宗教的身分制度で、各カーストは職業を世襲し、他カーストとの間の結婚は禁止されるなど厳格なものだったが、こうした傾向は時代を経るとともに厳格化、細分化されインド社会の発展を妨げるものとなっていった。

バラモン教の経典はリグ・ヴェーダを中心にサーマ、ヤジュル、アタルヴァ、のそれぞれのヴェーダがあり、リグ・ヴェーダにはアーリア人たちがインドに侵入した当事の彼等の宗教、社会、風俗慣習などが記され、サーマ・ヴェーダにはインド古典音楽に関するもの、ヤジュル・ベーダは複雑な祭式が記されていて、アタルヴァ・ベーダには民間で行われた呪術などが伝えられているが、これらが成立したのは紀元前800年ごろと言われていて、これら4つのヴェーダを根本原理として複雑な祭式を行う一方、汎神的な哲学思想を展開・・・、太陽神ヴィシュヌ、火神アグニ、雷神インドラをもっとも重要な神として崇めた。

バラモン階級の支配力は非常に強大なものだったが、やがてこうした社会でもその宗教の形式化が進み、貴族階級による諸王国の統合が進んでくると、手工業や商業の発展が著しくなり、次第に農村を中心とした社会制度が崩れ始めてきた。
こうした状況を背景に、カースト第2位の「クシャトリア」や第3位の「ヴァイシャ」の実力がバラモンに対して高まり、バラモン支配に満足できない気運が成長してくる。

そして人々の要求に対して、バラモン教の中から更に深い哲学思想を持った「ウパニッシャッド哲学」が生まれてきたが、これは紀元前7世紀に成立した「ブラーフマナ」の巻末にある「ウパニッシャッド」(奥義書)の中に述べられている思想で、ブラーフマ(梵)と個人の中心生命であるアートマン(我)との究極的一致を説く深遠な思想を展開している・・・、がバラモンの形式的な教義に対する反省とはなっていても、結果としてバラモンの優位を更に深めたものと言うこともまたできるだろう。
この哲学は後に近代ドイツ観念論哲学に大きな影響を与えたといわれている。

またこうした流れと同時並行してバラモン教に反対する新興宗教が発生してくる。
これが仏教とジナ教であり、ジナ教はまたを「ジャイナ教」とも言い、釈迦と同じ時期、クシャトリア階級出身の「ヴァルダマーナ」がおこしたものだが、カースト制度を否定し、人生を「苦」と定義して解脱を説き、極端な「不殺生主義」を唱えたが、苦行の実践と戒律の厳守を必要とした点ではバラモン教との類似点があり、ヴァイシャ階級に支持されたこの宗教はインドで広く信仰を集め、今日なお多くの信者がいる。

しかしこうしたことを見てくると、インドでは戒律が厳しい・・・、または苦行を励行する宗教はその後も残ったが、こうした厳しい戒律を持たず、苦行と言うほど厳しいものを一般に求めなかった仏教は、この後900年はインドで繁栄するが、今日まで定着しなかった背景には、中世の政治的支配制度とは相反するものだった・・・と言うことができるのではないだろうか、すなわち古代から中世にわたる世界的支配傾向として「封建制度」やそれに似たものが各地に発生してくるが、バラモン教の階級制度や職業の世襲などは、封建制度とは言えないが、封建制度の特性を持っていて、これらが政治的支配にはとても便利だった・・・と言うことができないだろうか。

7世紀中期以降諸国が乱立し、数世紀に渡る暗黒時代を迎えたインドはやがてイスラムの支配を受けるが、こうした社会でいち早く国家を築くためにはバラモン教のような仕組みが有利に働き、人々の文化的復興意識も連動し易かった・・・と言う背景があり、バラモンの復興形であるヒンドゥー教や、全体からすると信者は少ないが、ジャイナ教などが今日までインドに定着したのではないか・・・と思うのである。

さて話は少し横にずれたが、ジャイナ教と同時期に発生した仏教は、ガウタマ・シッダールダ(紀元前566年~紀元前485年)が興したものであり、別名のシャカ(釈迦)とはシャカムニの略称で「シャカ族の賢人」と言う意味だが、ガウタマ・シッダールダはアーリア系のシャカ族が建てたカピラ国の王子として生まれ、衆生の苦しみを救おうと29歳の時に家を出て、バラモンについて学んだが、修行6年目のときバラモンの非を悟り、ブッダガヤの菩提樹の下に端坐し、始めて解脱の道を悟り「仏陀」となった・・・、時に35歳、以後諸国を巡って説法し、紀元前485年頃クシナガラで没した。

このガウタマ・シッダールダの起こした仏教の教えは紀元前6世紀末ごろから始まったが、バラモンが階級の別を厳守することに反対し、人間は一切平等であり、八正道(はっしょうどう)、つまり仏教で言う実践修行の要件とされる八種類の徳目、「正見」「正思惟」「正語」「正業」「正命」「正精進」「正念」「正定」を行うことにより、人間世界の苦(生、老、病、死)や煩悩から逃れられると説き、強権によらず人間の道義心を高めることによって、平和に社会改革を行うことを理想とした。
また徹底した無常観をとり、精神的修行を主張し、こうした教えはバラモンに不満をいだくクシャトリア階級からの支持を受けた・・・。

さて仏教に関する話の前編・・・殆どバラモン教の話になってしまったが、最後に私が好きな仏陀の逸話で、今夜はお別れです・・・。
強盗に襲われ、「動くと殺す・・・」と言われた仏陀・・・、しかし一向に慌てた様子も無く「何を恐れている・・・、動いているのはお前だ、私は何も動いてはいないのだよ・・・」と言う。
強盗に襲われたら一度こうした言葉を言ってみたいものではある・・・が、私だとアッと言う間にやられて終わりか・・・。

「進化の形」

ハチの祖先はアリ?・・・と考えている人もいるかもしれないが、実はアリはハチの進化形・・・、つまりハチが進化したものだと考えられている。
どう見てもハチとアリではハチのほうが羽根もあるし、強力な毒も持っている、地面を這いずり回って働いているアリからすれば、いかにも進んだ感じがするのだが、それを構成している生物的社会組織を比べると、アリのほうがハチより3世代ほど進んだ安定性と、生物としての自然適応能力を獲得しているのである。

つまり現在の段階で、もし環境が激変してもアリのほうがハチよりはるかに適応能力と耐性があり、アリは自身の環境に対する必要上羽根を持たなくなった・・・、と言うより必要としなくなったのである。
生物の世界では大きな生物より体積の小さい生物のほうが常に有利であり、こうした小さい生物は単体では大きな寿命を持たないが、種全体としてみた場合は、小さな種で繁殖能力を大幅に拡大していった生物種の方が自然環境に対する適応力が高い。

また運動能力や機能の面で、人間はどうしてもこれらに優れている生物のほうがより進化した形・・・と考えがちだが、実は後退したような進化もまた存在する。
今夜はそうした後退に見えて進化した「亜生物」ウィルスについての話だ・・・。

ビールス、バイラス、濾過性病原体などとも言われるが、細菌よりも小さく、10~300ナノメートルの粒子で、DNAかRNAかいずれか一方の核酸とたんぱく質を含み、自身で物質代謝やエネルギー代謝はできず、他の生物の細胞内でのみ増殖することから「生物」と言うことは難しいかも知れず、それゆえ「亜生物」と表現したが、普通はウィルスも微生物の一種と見做されている。
ウィルスが増殖するのに必要な情報は核酸の中に含まれているが、ウィルスは寄生する相手によって「細菌ウィルス」「植物ウィルス」「動物ウィルス」に分けられ、また含んでいる核酸の種類によってもDNAウィルス、RNAウィルスに分けられることがあるが、多くのウィルスはDNAウィルスに属している。

RNAウィルスには1本のRNAを持つもの、同種のRNAを2本持つもの(レトロウィルス)などがあるが、インフルエンザウィルスなどでは、8本もの異なるRNA分子を持っている。
そして感染した細胞でRNAがDNA に逆転写されるウィルスを「レトロウィルス」と言い、インフルエンザウィルス、HIVウィルスなどがこのレトロウィルスである。
ウィルスはかつては単体でも生物であったが、他生物の細胞内で寄生生活を続けるうちに、自身の物質代謝やエネルギー代謝の能力を失い、自己増殖能力のみが残って発展したものと考えられている。
つまり、機能を失ってしまったが、これも一つの進化の形なのである。

また生物や細菌などでは原因は解っていないが、進化の形として突然変異がある。
冒頭のハチで言えば、アフリカミツバチとヨーロッパミツバチの混血種で「キラービー」、殺人ハチと呼ばれる猛毒を持つハチの存在が知られていて、刺されると50%ほどの確率で死に至るものがあり、このハチが南米大陸から北米大陸に向かって増え続けている可能性がある。
これまでに数百人の死亡が確認され、数千頭の動物が犠牲になったと言われているが、その正確な数字はまだつかめていない。
ヨーロッパミツバチに比べ、アフリカミツバチは獰猛な性格を持っていて、1957年にブラジルの検疫所から逃げ出したアフリカミツバチが、ヨーロッパミツバチと混血を繰り返しながら、増殖している恐れがあるとされている。

ウィルスの場合、常に寄生する細胞によっての変化や、抗生物質の投与によって突然変異・・・と言うより「ゆらぎ変異」を起こしやすい性質があるが、こうしたウィルスよりもう少し安定した生物である細菌は、比較的突然変異を起こしにくい・・・と思われていたが、例えば溶連菌・・・、これなどは喉頭痛などの原因にはなりやすいが、本来一般的にどこにでも存在する常在菌である・・・、しかし1985年、この溶連菌が突然キバを剥く、アメリカで若い男性が感染したのはこの溶連菌だったが、なんとこの溶連菌は1時間に2・5cmのスピードで人体の筋肉組織や脂肪組織を侵食していったのである。

生きながらにして体をバクテリアに食べられてしまうこの病原菌は、単なる溶連菌との区別がつかなかったが、A群溶連菌(溶血性連鎖球菌)感染症、劇症溶連菌感染症と名付けられ、欧米では既にこの時点でも数百人の感染者を出していて、その死亡率は実に感染者の70%と言うもので、日々バクテリアによって体を侵食される痛みは想像を絶するものだったと言われ、その挙句に腐食しながら死に至る恐ろしい感染症だった。
日本でも1993年には感染者が40名、その内死亡したものは30名・・・と言われた、全く治療方法も無く唯見守るしかなかったのだが、それ以降はなぜか世界的に感染者数が減っていくのである。

また同じくアフリカで突然発生した「エボラ出血熱」などは、全く感染ルートが分からず、1つの村で次から次、口や耳、目、生殖器などから大量の血を噴出し、村人が失血死していった。
WHO はこの村を隔離し、外部との接触を完全に封鎖したが、初期段階で感染が空気感染であることが分からなかった医療関係者十数名、救護活動に当たっていたシスター10名などが感染して死亡した。
この感染症でも感染者の実に80% 以上が死亡していて、村は全滅か・・・と思われたのだが、感染ルート、病原体、治療方法の一切が分からないまま、その後この感染症は消滅してしまった。
つまり突然始まって、何もしないまま感染は収まったのだが、未だに再発の可能性は否定できず、いつまた猛威を振るうか予測すらできないのである。

今、世界は鳥インフルエンザや動物性ウィルスを少し浅く考えている恐れが有る。
突然現れて、原因も分からぬまま気づけば消えていったH5N1を例に取るなら、人智で撲滅したのではなく、自然消滅した・・、なぜか「A群溶連性球菌」や「エボラ出血熱」のような、得体の知れない恐怖が拭い去れないのである。

「未亡人の共同執筆者」

世の中には不思議なめぐり合わせの人がいる。
さして望んでもいないのに大変な事業の手伝いをさせられ、しかも後世それほどの名声も残さず、唯黙って人生を駆け抜ける人がいる・・・、私はこうした人こそ本当の意味で尊敬に値すると思っているのだが、今夜は私が最も尊敬する女性の一人、「おみち」さんを紹介したいと思う。

「そうじゃない、何度言ったら分かるんだ、棒を書いたら左右の点々・・・、その点は下が止めだぞ、良いかこれを間違えるな・・・」
「棒の下は放しですか、止めですか・・・」
「そんなことも憶えとらんのか・・・、止めに決まってるだろう、その隣は弟だ、良いか弟の字は分かるか」

暑い夏の日、さしたる風も通らぬ粗末な部屋、セミの声がいかにも喧しく、丸うちわをパタパタやっても一向に涼しくならないので板間に放り出した老人の視線は、全くあらぬ方向に向いていた。
その傍らで長さ2尺8寸(約84cm)、幅1尺2寸(36cm)の机に向かい、額の汗をぬぐいながら、余りうまくない字で一生懸命紙に向かって奮戦している女の姿があった。

これは一体何の場面だと思うだろうか・・・、実はこの老人が滝沢馬琴であり、紙に向かって奮戦しているのが、この馬琴の息子の嫁の「おみち」さん、そしておみちさんが一生懸命書いているのが、かの滝沢馬琴の長編大作「南総里見八犬伝」である。

滝沢馬琴については、作家の「杉本苑子」女史がその著書「滝沢馬琴」で詳しく書いているが、1767に生まれ1848年に没した滝沢馬琴は、その81歳の生涯のうちで300もの「読本」(よみほん)を書き、その代表作がこの「南総里見八犬伝」であり、馬琴はこの時代を代表する売れっ子作家だったのだが、寛政年間以降、享楽的な心中話などの人情物語に対する幕府の規制が強まった結果、こうした八犬伝のような勧善懲悪主義的な通俗文学が流行していったのである。

こうした読本は歴史上の人物や事件、更には中国文学からの翻訳が素案になっていたり、場合によっては説話そのもの、ストーリーはそのままに脚本化したものもあり、雄大な思想の背景には儒教、仏教思想に基づく教訓を伴っていたので、幕府当局もこれを容認、もしくは快く思っていたに違いない、滝沢馬琴の読本はいずれもその構想のスケールが大きく、複雑な因縁が少しずつ解かれていくストーリーの心地よさから、多くの世人に愛された。

だが馬琴がこの「南総里見八犬伝」を執筆中のことだった・・・、「ああ・・雨が、雨が降ってきた・・・」家の中にいて馬琴はこう騒ぎ始め・・・、失明した。
そのショックは大きく、馬琴は一旦八犬伝の執筆を断念するが、その生涯に置いて集大成とも言える八犬伝の完成をどうしても諦めることができず、家族に口述代筆をしてもらうことを考えたが、彼の妻は寝たり起きたりで病弱だった、また息子も病弱で早くに他界していた。
残る候補は息子の嫁の「おみちさん」しかいなかったが、このおみちさん、それまで全く文学などには興味が無く、そもそも文字ですら名前の他に書けるものが少ないほどだったのではないだろうか・・・、江戸の町屋の平均的な主婦で、筆など持ったことすら無かったに違いなく、馬琴の書いていた読本に対しても、それほど興味が無かったのではないか・・・と思う。

馬琴はおそらく必死でおみちさんを説得したことだろう・・・、盲目となった今日、自ら筆を持つことは叶わない・・・、唯一つの方法がおみちさんだった。
そしてこの家の収入の大方が馬琴の読本で成立していたこともあって、初めは「そんなことできません」と言い続けていたおみちさんも、次第に仕方が無い・・・と思うようになっていったのだろう。
こうして嫁と舅(しゅうと)のでこぼこ二人三脚が始まっていった。

しかし、この作業は一言で言って地獄だった・・・、冒頭のやり取りはその一場面だが、良く考えてみるといいだろう、日本の平均的な一般主婦が、盲目の舅が語るヘブライ語の聖書を聞いて、書き写さなければならないとしたら・・・いやおそらくそれより困難なことをやろうとしていた訳である。
馬琴は漢字の大家でもあったから、その頭の中には20万を超える漢字が入っていたと言われ、それらの中には微妙に違う漢字で、微妙に違う雰囲気を伴うものがあったり、前後または遠いところで書いたことが、今の場面で効力を発揮すると言うものもあった・・・、これを漢字を知らないおみちさんが聞き取って、紙に書いていくと言うことがどれほど困難なことか・・・と言う話だ。

これが、おみちさんが馬琴の弟子だったと言うならまだしも、今まで農業しかしたことが無い女性に、いきなり法務省法制審議会の報告書類を書け・・・と言っているようなものだ、辛かったに違いない。
朝早くからおきて掃除をし、ご飯を作って病弱な姑に食べさせ、盲目の舅にも食べさせなければならない・・・、洗濯が終わってやっと後片付けも終わり、舅のところへ行くと、待ちかねて機嫌が悪くなった舅からは容赦ない言葉がポンポン出てくる。

「本当にたわけだな・・・何度言ったら分かる・・・、その漢字は同じものが近いところで並ぶと、文章の流れがおかしくなるのだ・・・、だから同じ意味の違う漢字を使うのだ・・・、この前教えただろう」馬琴がいらついて大きな声を上げる。
「そんなもの、忘れました!、もう沢山です・・・、そんなに言うならお義父さんが自分でやってください」おみちさんは泣きながら表に飛び出す。
しかし、やがて涙を拭いたおみちさんは、気を取り直してまた静かに机に向かう・・・、少し落ち着いた馬琴がまた口述を始めたに違いない。

盲目となった馬琴にはおそらく焦りがあったはずで、そうした焦りの中で全く畑違いのおみちさんに、漢字1字1字を口伝えで教え、文章にさせたその熱意は並のものではない、また中年になって、もの覚えも若い頃とは衰え、そのうえ全く関心も無かったにもかかわらず、漢字の大家が使う20万とも言う漢字を勉強し、馬琴の世界を世に現した「おみちさん」はひとえに努力の人である。
そして今日、日本文学史上不朽の名作となった「南総里見八犬伝」は、完成したのだった。
号泣、怒り、忍耐、情・・・そうしたものの怒涛の中で耐え抜いた「おみちさん」がいなければ、今日私たちは「南総里見八犬伝」読むことはできなかっただろうし、それによって感動することもまた、できなかったに違いない。

世に名作と呼ばれるものは、極限まで追い詰められた作者の情念のほとばしりであり、不思議なことにこうした作品は、あらゆる困難の中で、嵐に浮かぶ小船のように危うくなりながら・・・、それでも必ず世に出てくる。
ここに人は天の意思を垣間見るのだが、その本質は人の情念が成せる業か、天の力が成せる業かは定かではない・・・。

「マニフェスト・デスティニー」

大西洋沿岸の13植民地から出発したアメリカ合衆国は、1783年独立、ミシシッピー川から東の地を得たが、1803年にはフランスからルイジアナを、1819年にはスペインからフロリダを買収して1840年までには独立当事の2倍の領土、その人口は3倍に増加したが、1845年にはメキシコから独立していたテキサスを合併し、その後メキシコ戦争の結果ニューメキシコ、アリゾナ、カリフォルニアなど広大な南部、西部地方を獲得していった。

更に1857年アラスカをロシアから買収し、1860年には33州に及ぶ大陸国家となっていたが、このような領土的発展は急速な西部開発運動と結びつき、フロンティア(開拓線)の西進と言う現実を生み、絶えず未開の土地を開拓して西進するアメリカ人の中に、自由で不屈の個人主義を養うとともに、アメリカ社会の固定化を防ぎ、「膨張はアメリカ人が神から委ねられた天命である」と言うマニフェスト・デスティニー(膨張の天命)と言う思想を植えつけた。

またフロンティアと言う言葉はここでは開拓線と訳したが、単なる境界では無く、マニフェスト・デスティニーと深く連動したものであり、アメリカ人の精神と生活をきたえ、独立、自由にして進歩的な人間と社会を生み、民主主義の発展を支えた精神でもあり、こうした西部の開発に伴い北部と南部は政治体制、政治組織、貿易政策、奴隷制度などで利害関係が対立していった。そしてともに西部を味方に付けようと言う動きになり、例えばミズーリの連邦加入を巡って南北が対立したが、ミズーリ協定(1820年)によって、南部の主張どおりミズーリ州を奴隷州として認める代わりに、同州以北を将来自由州に編入することを協約して、決定的衝突は一時的に回避された・・・。

この自由州と奴隷州と言うのはアメリカのフロンティアが西進するに連れて、将来州となるべき地域で黒人奴隷を認めるか否かに関して、北部と南部の利害が対立、ミズーリ州までは奴隷制度を認めるが、メイン州では奴隷制を認めない自由州とするとともに、将来北緯36度30分以南を奴隷州、以北を自由州とする協定が結ばれたが、1854年カンサス・ネブラスカ法案の成立によって協定は破棄され、奴隷州か自由州かの決定は住民投票にゆだねられることになった・・・、この結果奴隷州の拡大の可能性が高まり、南北の対立は更に激化していった背景を持つ。

もともと南部は植民地時代からタバコ、米、藍などの生産が盛んだったが、単純で過激な労働を必要とするため、17世紀末から黒人奴隷が多く使われるようになっていった・・・、こうして単一作物を奴隷の労働によって生産するプランテーシュンが発展し、特にイギリス産業革命による需要の拡大に伴って綿花栽培がめざましく発展、黒人奴隷数も1790年には65万7千人だったものが、1860年には384万人に増加していた。

このように奴隷制と自由貿易に基礎を置き、自由な州権分立を望む南部に対して、早く、1830年代に産業革命を迎えていた北部は、原料、食料の供給地、生産品の市場として西部と結びつき発展していた。
そのため国内市場の安定と生産物の保護貿易を推進する中央集権的国家統一を望んでいたが、こうした南北の対立は特に南部の黒人奴隷制度の存在が、北部の発展にとって必要な労働力の確保と、国内市場の拡大を妨げる要因となったとき、破局は避けられないものとなっていったのである。

ストウ夫人の「アンクル・トムズ・ケビン」(キリスト教的人道主義の立場から黒人奴隷の悲惨な生活を描いた著書)の出版など、北部における奴隷制度廃止の気運は次第に高まり、1854年北部産業資本家を中心に「共和党」が結成され、奴隷制廃止運動が全国的規模で拡大、1860年、共和党のリンカーンが第16代大統領に当選するに及んで、この南北対立は決定的なものになった。
熱心な奴隷制廃止、中央集権論者であるリンカーンの当選を機に、1861年民主党の地盤である南部諸州(11州)は合衆国から離脱し、ジェファーソン・デヴィスを大統領に「アメリカ盟邦」を形成し、首都はリッチモンドに定められた・・・、そしてこの対立はついに武力衝突となり内乱「南北戦争」(1861年~1865年)が起ったのである。

戦況は、はじめ南軍(司令官リー)が優勢で、一時はゲティスバーグに侵攻したものの、激戦の末北軍に撃退され、リンカーンは北部の有力な産業と人口を背景にしぶとく戦争を継続するとともに、1863年1月奴隷解放令を発し、300万の全奴隷を解放して戦争目的を明確にした。
その後、北軍の司令官グラントは勢力を回復し、海軍で南部を封鎖、1865年4月南部のリッチモンドを占領して南北戦争は北軍の勝利となり、合衆国は統一を取り戻した。
これによってアメリカは実質的な連邦国家体制を完成させ、著しい資本主義の道を開いていくのである。

難解な説明であったかったかも知れないが、現在アメリカにある2大政党の民主党と共和党は、こんな時代からの歴史を持っているのであり、アメリカ社会に根底的に眠る拡大思想は、西部開拓時代から培われてきているものなのである。

では最後に1863年11月、ゲティスバーグで行われた、リンカーンの戦没者を葬る式典での演説を聴いて、この話を終わりにしようか・・・、ちなみにこのときのリンカーンは、我々が知っているような立派なあご髭をまだ生やしていない、彼があご髭を生やすのは、この後1人の少女の「髭を生やしたほうがカッコいいわよ」・・・と言う勧めに応じたものであった。
ご静聴・・・ありがとう。

生き残っている我々こそ、むしろここで戦った人々が、かくも雄々しくおし進めてきた未完成の事業に、この地で献身すべきであります。
むしろ我々こそこの地で、我らの眼前に残された大いなる責務に献身すべきであります。すなわち、これら名誉ある戦死者より一層の献身を受け継いで、彼等が最後の全力を挙げて身を捧げたその主義のために尽くすべきであります。
これら戦死者の死を無駄死に終わらせないように、ここで固く決意すべきであります。
「この国に、神の恵みのもとに、自由の新しい誕生をもたらし、また人民の、人民による、人民の為の政府が、この地上から消え去ることのないようにしなければなりません」

「石鹸を下さい・・・」

「おーい・・・、石鹸はどこだ」洗面所で顔を洗おうとしていた吉田喜平さん(仮名)は妻のふみさん(仮名)を呼ぶが、ふみさんもやはり首をかしげるばかりだった。
「どうしてこうも毎回石鹸が無くなるんだ」
喜平さんは釈然としないまま、また新しい石鹸を出したが、吉田家ではここ1年ほどこうしてたびたび石鹸が無くなっていて、まあ石鹸ぐらいのことだから大騒ぎして近所に迷惑がかかるのも・・・と思い、黙ってはいたものの何となく気にかかる毎日を送っていたのだった。

この日も前日喜平さんが自分で新しい石鹸を出したのに、もう無くなっていたのでこうして騒いでいたのだが・・・、「おかしいとは思わんか・・・」そうした2人の会話を聞いていた喜平さんの母親がポツリとこぼした。
「何となくいつも2の付く日に石鹸が無くなっているんじゃないか・・・」と言うのだ・・・、言われてみれば確かに今日は11月12日、「加代子はもうこの世におらんのかも知れんな・・・」喜平さんの母親はうつむいて呟いた。

喜平さんには加代子(仮名)と言う娘がいたが、どちらかと言えば外交的で派手好みの加代子さんと喜平さんの母親、つまり加代子さんにとっては祖母になるが、2人は普段から折り合いが悪く、加代子さんは行儀作法にうるさい祖母に対し、とても反抗的だった。
当事加代子さんは高校1年生だったが、よからぬ男との付き合いが始まり、学校から指導は受けるは、夜遊びで帰宅時間が遅いはで、ある日ついに朝帰りした加代子さんに激怒した祖母は「あんたのような子は家の恥だ・・」とまで言ってしまう。

翌日加代子さんは家出・・・、八王子の伊藤と言う家でお手伝いとして住み込みで働くことになったのだが、ここまではこの伊藤家の人が気遣ってくれて喜平さんたちに居場所を連絡してくれていて、気が変わったらまた高校へ復帰できるように・・・と言ってもくれていた。
しかしここでも彼女は余り素行の良くない男と知り合い、毎晩のようにその男とバーへ遊びに行き、ろくに仕事もしないばかりか頻繁に朝帰りを繰り返し、伊藤家へ来て3ヶ月目ぐらいだろうか・・・、未成年と言うのに酒に酔って朝帰りをした加代子さんを、伊藤しずえさん(仮名)がたしなめたが、それを根に持ったのか翌日になると、加代子さんは実家へ帰ると言ったまま行方不明になってしまったのである。

そしてここから先は、捜索願に基づいて捜査した刑事が調べた加代子さんの足取りになるが、その後加代子さんは男と遊びに行っていたバーでホステスとして働いていたが、この店で働いていたのは7ヶ月、結局加代子さんはこの店の支配人と関係ができてしまい、この支配人の内縁の妻が同じ店でホステスをしていたことから、関係がばれて店を追い出されてしまったらしかった。

それからの加代子さんの行動は随分華々しいものだが、立川の繁華街にあるバーでまたホステスとして働いていて、ここでは約3ヶ月しかいなかった割には人気があったと言うことだった。
「彼女はどんな客にも恋人になったふりをするのがうまかった・・・、男出入りも相当なものだったんじゃない」と話すのは当時彼女と一緒に働いていたホステスの談だ。

その後、新宿花園町にあるアパートを借りた加代子さんは、新宿のバーでホステスとして勤務し始めるが、「彼女は若かったけれど、彼女に付いている客は多かったですね・・・、日野、八王子、立川方面からきたと言う客が多かった・・・」と店のバーテンやホステスが語っている。
「どういう関係だったんですかね・・・、彼女の客同士が店でカチ合わせになって、酒が入っているもんだから、喧嘩になったこともありましたね」と言う話もあった。

そしてその年の12月12日のことだが、加代子さんは午後3時過ぎ、銭湯に出かけ、4時には帰ってきていたが、それから身支度を整えると、4時30分にはアパートを出て少し早いがいったんバーに顔を出した。
だが外から男の声で電話が入り、「ちょっと出かけてくる」と言って店を出た。
これが彼女の最後の姿となった・・・、加代子さんはそれから消息が分からなくなり、持ち物から身元が分かって家族に連絡されたが、昨年の夏休みに家出してからここまで1年4ヶ月・・・、これが加代子さんの足取りだった。

それから1年後の12月12日、ちょうど喜平さんの母親が「2の付く日に・・・」と言っていた日から1ヵ月後のことだったが、朝食を終えて畑仕事に出た喜平さんは近くの丘陵地で土地の造成作業が始まったことを知り、同じように畑仕事に来ている近所の男性と話をしていたが、その作業現場で何か起ったらしく、急に騒がしくなったことに気づいた。
「何かあったのかのう・・・喜平さん、騒いでいるのはなんでやろ」近所の男性が声をかけてきた・・・、2人はクワを置いてその造成地へ向かって歩き出した。

野良犬が盛んに吠え立て、あたりは騒然となっていたが、喜平さんたちはその中でヘルメットをかぶった作業員に声をかけた。「何の騒ぎですかの」そう問いかけると、「死体が出てきたんだよ、それも若い女の死体が・・・」その作業員は警察に連絡するんだと言って、息を弾ませながら駆け出していった。
何となく胸騒ぎがした喜平さん・・・、急ぎ足でその現場へ行ってみると、なるほど人間の形をした塊がそこには転がっていたが、死体とは言ってもミイラみたなもので、泥ではっきりしなかったが、確かに顔は若い女だった・・・、しかもそれは加代子さんだったのである。

警察ではこの死体を鑑識に回したが、水で表面の泥をを除いた検証医は腰を抜かした。
なんとその死体は石鹸状になった若い女の「死ろう」・・・、つまり人間の形そのままで表面から中までロウソクのロウで固められた状態の死体・・・、これがロウの代わりに石鹸で成されていたのである。
いかに検証医と言えどもこんな死体を見たことはこれまでに1度もなかった・・・、第一「死ロウ」現象自体が、土葬死体や犯罪によって土中に埋められた死体全てのうちで、何百万件に1件有るか無いかの珍しい現象で、それがロウの代わりに石鹸ともなれば、こんな完璧な状態の死体など、どんな文献でも知られていなかったのである。

この死体は加代子さんに間違いはなかった。
そして他殺らしいことは推測できるが、犯人は不明・・・。
加代子さんはどうしてこんな実家に近いところで埋められていたのだろう・・・。
また喜平さんの家から石鹸が無くなっていたのは、加代子さんが石鹸を欲しがったからだろうか・・・。