「納税組合」

国家や権力者にとって、税の徴収は最も重要な課題だが、これを給料を払って専門の役人にやらせると、厳しくすれば批判が起こって来るし、甘くすると評判は良くなるが、自分の懐は苦しくなる・・・。
何か良い方法は・・・と考えたときに現れるのが、準自主納税だが、こうした考え方はそもそも為政者が考えたと言うより、自然発生的に現れたと思うのが妥当だろうが、恐らく原始社会の終わり、つまり原始共産主義社会が終わった頃から既に存在していたのではないか・・・今日は何やら馴染みのない言葉だが、この長い歴史を持つ半自主納税システム・・・「納税組合」の役割について考えてみよう・・・。

現在では田舎にしか残っていないかも知れないが、全ての税の徴収を村や地区で担当者を決めて、その人が各家から集金し、それを行政に納付する仕組み、これを「納税組合」と言い、この場合組合員はその地域に住む全ての住民を指すが、現在のように金融機関が発達していない時代には随分と便利な仕組みだったし、行政側も何の苦も無く税が徴収できて、双方大歓迎の制度だった。

無論こうした意味では行政が徴収業務を行わなくて良い分、僅かだがその地域住民に税金の還付ができていて、その還付額は納めた税金額の1割が相場で、その還付金は村や地域の予算に組み入れられ、各地域の事業支出や、祭りの経費に組み入れられたりしていた。
だが、こうした仕組みは、ある種封建的部分が残っていないとなかなか成立しない・・・つまり各家の税金の額が担当者に全て分かってしまうからだが、家によって格式や立場が固定している時代であれば、こんなシステムも容認し易いが、現代社会のように、個人の情報が保護対象となるような社会においては、この制度は確実に個人情報保護法に違反している。

ただ、行政にとってのこのシステムは今でもやはり業務軽減の立場から、魅力的な部分が多く、決して法律違反だから止めてくださいとは言わないのが実情で、例えば役人が集金に行っても「今は少し都合が悪い・・・」と断れても、隣近所の人が集金に来るのでは「そんな格好の悪いことはできない」と言う思いから断りにくく、従って税の徴収率は高くなるのだ。

昭和と言う時代まではこの仕組みは殆どの町内会や区、村で使われていたのだが、この仕組みが壊れてきたのは、貧富の差が無くなってきた頃・・・ちょうど昭和の終わりの頃で、経済の発展とともにみんなの収入が上がってきたこと、それに伴って地域社会が個人化し、地域社会の連携が希薄になって来たときから崩壊が始まった。
昔なら納税組合に入っていない・・・それはすなわち村八部の扱いだったのだが、人に自分の納税額を知られたくない若い世代は、平気で納税組合を脱退して行くし、引っ越してきた家庭などは町内会すら入会しない為、始めから納税組合など入らない家庭も増えてきたのである。

これに追い討ちをかけるように、税制の公平性の立場から行政は、それまで納税組合に還付していた還付金を大幅に削減、その還付はスズメの涙ほどになってしまった。
従来ならその地域の経費を負担できたり、納税組合担当者に僅かでも駄賃を払えたものが払えなくなり、これでは地域社会も納税組合を維持する意識は低くなっていく・・・また田舎ではお年寄りの一人暮らしが増え、担当者も集金が困難になっていくなど、急激に問題点が多くなってきた。

つまり制度が時代に合わなくなり、役割を終えようとしていたのだが、それにも関わらず行政の納税窓口は納税組合担当者に「金が集まらなければ、立て替えてでも払え・・・」と言うような暴言を吐くこともあり、これはひとえにその役人個人の認識不足が招いたものだが、こうした言葉に激怒した組合担当者と喧嘩になって納税組合が潰れるケースもあった。

また納税組合はおろか、行政は各区や村に、本来行政の責任で配布しなければならない広報刊行物などを、無料で配布委託をしているケースが多く、この場合には町内会などに入っていなければこうした刊行物はその家庭には配布されず、新しく引っ越してきた家庭と行政、町内会の間で紛争が起こることもしばしばになっている。

おそらく現在、納税組合と言う制度が残っているのは地方の田舎だけになっただろう、そしてあと3年以内にこうした制度は完全崩壊、5年と言う単位では消滅するのではないだろうか・・・。

むかし、この納税組合の担当者、つまり組合長だが、こうした役割と言うのはとても名誉なことで、区長や村長に次ぐ信頼があったのは、それなりの立場と金を着服しないだけの経済力、信用が無ければなれなかったからで、地域社会で認められたことを意味していた。
行政、政府は明治以降ずっと、このような一般住民感情や個人の名誉欲を、上手く使って税の徴収をしてきたのだが、明治以前はこれを村の代表者が一手に引き受け、その家は世襲制になっていた。
これが庄屋、十村の制度であり、この場合は為政者から特定の権限が与えられ、それなりの収益も出せる仕組みだった・・・が村民が問題を起こせば、その責任も取らされる厳しい立場だったことも付け加えておかねばならないだろう。

そしてこうした仕組みは名称こそ変わるが、大和朝廷・・・もしくはそれ以前から存在し、宗教においても江戸期には規模こそ大きくないが、同じ形態の集金システムが存在していた。
中央集権的体制では、このような仕組みでなければ、国民全体の動向は量れなかっただろうし、今日行われる国勢調査などもこの仕組みならば、容易かったことは想像に難くないが、個人の暮らしが楽になり、そして自由になった・・・地域の連携が壊れ、少なくとも1600年続いた制度も崩壊する・・・何とも社会とは不思議な生き物のようだ・・・。

「日本国憲法第九条」

この条文は六法全書の冒頭、第1章「天皇」の次、第2章に出てくるが、第2章はこの第9条のみが記載されていて、見出しは「戦争の放棄、戦力、交戦権の否認」となっているが、9条は2項あり、それは次の通りだ。
「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」
2項
「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」・・・・となっている。

日本国憲法は第2次世界大戦時まで有効だった大日本帝国憲法を、少し改正して終わらせようとした、松本蒸治国務大臣起草案(政府案)を拒否したマッカーサー率いるアメリカ占領軍GHQが起草し、交付したものだが、1946年8月24日に衆議院を通過、同年11月3日公布、1947年5月3日より施行されることになった。
この新憲法はGHQ,幣原(しではら)内閣の合同草案を出発点としたが、極東委員会に現れた国際的反ファッショ(全体主義)連合の力と、もう戦争はこりごりだ・・・と思う日本国民の要求とが、あらゆる反動を排除して成立したものだ。

だがこの憲法には弱点がある・・・特にこれまでも幾度となく改正論議に拍車をかけてきたのが、日本国憲法第9条である。
新憲法制定当時、戦争を永久に放棄し、戦力を保持しないとしたのは世界史上類がなく、その後もこれほど理想に満ちて、美しい条文はないと評されたが、この美しい理想を担保、保障する術が全てアメリカにかかっていたからである。

そしてこうした実情は日米同盟を通じて今も変わってはいない・・・相変わらず日本はこの平和憲法とそれを担保する「力」の間でさまよっているのである。
第2次世界大戦後勃発した朝鮮戦争により、日本は戦後経済を急激に復活させていったが、1949年4月、反共産主義連盟である北大西洋条約(NATO)が成立、翌年1950年2月には、この共産主義国家間の中ソ(中国・ソビエト)友好同盟条約が成立する中で、にわかに日本の自衛権の問題が論議されるようになるのである。

1950年1月、マッカーサーは年頭声明で日本の自衛権を強調し、やはりこの年の1月来日した、アメリカ統合参謀本部議長が、同じように沖縄基地の強化と日本の軍事基地強化を声明するのだが、これにより日本の自衛権論議が大きく高まり、日本の野党外交対策協議会は憲法9条の思想を強く主張する共同声明を発表する。
また同じ年の7月8日、マッカーサーは警察予備隊を編成する指令を出すが、これによって8月には警察予備隊が設置され、この予備隊の目的は米軍が朝鮮に出兵した後の、国内治安維持に対する応急処置が表面上の理由なら、これ以後の日本の再軍備に道を開くのが、その側面の目的だった。

アメリカが主導して作った平和憲法は、そのアメリカによって発足直後から既に放棄したはずの自衛権と名を変えた消極的交戦権に話が及んでいたのだが、1953年に来日した国務長官ダレスは、日本に対してMSA援助(反共産主義国援助協定、相互安全保障協定を含む軍事協定援助)を与える代わりに、35万人の軍隊を持つよう要望し、ついで来日した合衆国副大統領ニクソンは、「日本に平和憲法を認めたのは誤りであった」・・・とまで演説した。

かくて1954年3月、第5次吉田内閣によって日米両政府間にMSA協定が調印され、これに伴い6月に防衛庁設置法、自衛隊法が成立させられ、7月には防衛庁と15万人の自衛隊(陸上・海上・航空)が発足し、以後1957年以降アメリカ軍の撤退が始まると同時に、急速にこの自衛隊は強化されていくのである。
こうした経緯を考えると、日本の平和憲法第9条は、この時点で既に有名無実化していたのである。

しかしとにもかくにも表面上とは言え、日本の平和憲法が今日まであらゆる矛盾の中で、何とか成立しているように見えてきたことは事実で、その背景はひとえに「経済」の力によるものだ。
日本の経済力を見込んだアメリカは、日本の自衛権の代わりを米軍が担うかわりに、その代償を金銭に求める仕組みに変えていったが、湾岸戦争、イラク戦争を見ても明白なように、日本は既に事実上アメリカの要請を受け、集団的自衛権を行使している。

日本人からしてみれば「金を出すのは戦争ではない」・・・と思うかも知れないが、戦争、紛争、国家間の問題と言うのはどちらか一方の考え方だけが正しいのではなく、こちらに対して相手がどう認識したか・・・と言う問題がある。
日本が金を出してアメリカがそれで戦争を起こせば、相手国は日本とアメリカが敵国になるのであり、このことを避けて集団的自衛権を放棄していると言う主張は、通常の国際的概念であれば通用しない。

日米安全保障条約は、敗戦直後は占領政策とその国家をアメリカが守る形の、日本にとっては従属的な条約だったが、現在の安全保障条約は一応対等、双方性があることになってはいる。
だが日本が攻撃された場合、アメリカは条約によって集団的自衛権を行使・・・つまり日本に代わって日本を防衛する義務を負うが、アメリカが攻撃された場合、日本はその集団的自衛の義務を負っていない・・・つまりアメリカが攻撃されていても見殺しでいい・・・と言うことなのだが、その明確な不均衡を日本は「金」で払っていることになっている。

日本国憲法第9条・・・確かに一つの理想でしかない、またそれを守る術も日本は持っていない・・・だが太平洋戦争が終わって「もう戦争はこりごりだ・・・」と思った日本民族の「願い」がそこにはある。
つまらない言い回しで拡大解釈しては崩していく、または過激に改正論議を主張する、それを頑なに拒み否定する・・・・こうした議論はどことなく現実感がない。

「月のメッセージ」

さて今夜は月にまつわる少し不思議な話を一つ・・・怪しい感じはするが、こうした証言をしている人が、かなりの地位の人や専門家であること、また実際に公式の記録に残っていることを考えると、「それはデタラメだ」と一笑に付すこともできない話でもある・・・。それでは始めようか・・・。

1958年9月29日、午後8時30分、自宅で望遠鏡を使い月を観測していた明治大学教授、豊田堅三郎氏は「何だこれは・・・・」と首をかしげ、目をこすりながら何度も望遠鏡に浮かび上がる月を確かめた。
何と、月の中央、少し上よりの通称「晴の海」と呼ばれる暗い部分の下にある白く輝く部分に、まるで黒く墨で書いたように[pyaxjwa]の文字が二行になって並んでいるではないか・・・
「こんなことが・・・信じられない」豊田氏は思わずつぶやいた。

同氏は工学博士だったこともあり、こうした場面であらゆる可能性を考えてみたのだが、望遠鏡のレンズや内部に何か付着していないか、少し望遠鏡をずらしてみて確かめ、窓ガラスも確かめたが、窓は開いていてガラスの干渉は受けていなかったし、望遠鏡をずらしてしまえばその文字は写らなかった・・・つまりその文字は間違いなく月の表面に書かれていたのだった。
博士はさすがに自分でも信じられなくなり、居合わせた姪や近所の人達に代わるがわる望遠鏡を覗いてもらって、全員が見えることを確認したのである。

また博士はこのスペルを調べてみたが、こうした英語のスペルは存在せず、、当時「十七夜の月に、英文字が書かれているのを確認した」と実名で発表した豊田博士のこの事件に対しては、何かの暗号ではないか、月面の地形と、太陽光線のあたり具合によって、そう言う陰ができたのではないか・・・、などの話も出たが、結局今に至ってもこの現象はそれを説明できる何の方策もないままなのである。

またこれは1954年に火星が地球に大接近したときのことである。
パロマ天文台では青色フィルターをかけて火星の写真撮影を行ったところ、火星の真ん中にくっきりと「W」の文字が現れていたのである。
天体望遠鏡の画像は倒立画像だから、実際には「W 」ではなく「M」・・・つまりMarsの頭文字ではないのかと言う話になったのだが、パロマ天文台の当時の責任者リチャードソン博士は「どう説明すべきか、誰か教えて欲しい」・・・と見解せざるを得なかったのである。

この「M」の文字・・・その後火星が地球に接近するたび出現しているのだが、今だこれが何なのかは解明されていない・・・、しかもおかしなことに、こうした話はその後1990年ごろを境に全く報道もされなくなったのである。

イギリスやブラジルでも非公式だが、一般市民が月に文字や、意味のないスペルが現れたとする通報が警察になされているし、その目撃例も比較的多かった時期があるのだが、近年こうした情報は全く報道されない。
完全に科学が説明できるものしか報道できない・・・いたずらに市民の混乱を招く・・・とする報道の姿勢があるのか、こうした怪現象そのものがなくなったのかは分からないが、なんとも余裕のない、夢のない社会になったものだと思う。

ちなみにこの「月のメッセージ」・・・どちらかと言えば、満月かそれに近い月齢の時の目撃例が多かったらしい・・・。

たまには英文でも書かれていないか、月を眺めようかな・・・。

「ルネサンス」

時々会合などに出かけると、必ず出てくる言葉に「ルネッサンス」と言うのがあるが、このルネッサンス・・・文芸復古とも訳されるが、その言葉の本質は何か分かったようで分かりにくい・・・。
また日本ではルネッサンスと発音している者も多いが、実のところ「サ」の発音はそれほど強くないことから、ここでは「ルネサンス」と発音させて頂くことにしたが、今夜少し格調高く、このルネサンスを考えてみようではないか・・・。

ルネサンスと言うと、文化芸術の復古革新を意味しているように思うかもしれないが、その背景にはイタリアルネサンスの口火を切ったのが、人文主義者たちであったこと、人文主義(ヒューマニズム)はもともとギリシャ・ローマの古典文献研究を言い、こうした古典の研究者が人文主義者と呼ばれたことから、復古のイメージが強いが、その古典の中から新しい「人間と自然の発見」・・・新しい人間観、世界観へと昇華していったものを指し、決して単なる古典への回帰や哀愁ではないことを理解しておかなければならないだろう。

またルネサンスとはそれ単体と言うより、ルネサンス、ヨーロッパの地理上の発見と、宗教改革をセットにして考えないと良く理解できない・・・これらはヨーロッパの近代化を告げる最初の重要なポイントで有るが、こうした事象には確かに新しい精神性が強く現れていて、例えばルネサンスにおいては、今までの「神」中心的な考え方に対して、人間中心的な考え方、人間の個性とその自覚がはっきり見られるし、地理上の発見、大航海には未知なるものを求めて進もうとする冒険的な人間の情熱、古い殻を破って新しい天地を求める自由な精神が伺われる。

そして宗教改革には腐敗堕落しきったカソリック教会に対する批判精神、純粋な信仰に生きようとする新しい宗教的情熱も感じられ、そうした意味では古いものを打破し、改革しようとする性格が見て取れるが、歴史は必ずしも一面からは判断できない。
ドイツやイギリスではルネサンスと宗教改革は不可分の条件となっていたが、イタリア・ルネサンスは確かに文化面では華々しい側面があっても、宗教的にはカソリック信仰と深く結びついていたし、ルターやカルヴィンの教義も、真に個人的な信仰の自由を確立していたとは言い難い。

また地理上の発見にしても、12世紀以来の十字軍運動、特にイベリア半島における国土回復運動の延長線上と見るべき性格も持っている・・・皆がルネサンスと言って思い浮かべる時代14世紀、15世紀、そして18世紀末ごろまでの時期は、明確に新旧が入れ替わっていたのではなくて、古いものと新しいものが拮抗しながら、次第に近代ヨーロッパ(市民社会)が形成されていったのであって、今日我々が抱くような、ガラリと何かが変わるようなものではなかったのである。

そしてルネサンスの精神は大まかに次の要点がある。
その一つは「現実の肯定」と言うものだが、封建社会の解体と都市の発展などの社会的機運を背景に、封建的伝統によって束縛されない自由、独立の精神と合理主義精神が芽生え、自然や人間を神中心的な見解から解放し、現実をあるがままに肯定する・・・人間を人間として理解し、その独自の価値を承認する考えが発展してきた。
「うるわしの青春も、とどむるによしなし、さあれ人々よ・・・今を楽しみてあれ、明日は定かならねば・・・」ロレンツォ・デ・メディチの言葉は現実生活の肯定と、享楽を示すものである。
また「人間は自らの欲するままに自らを形成しうるのであり、神のごとくにも、獣の如くにもなりうる力を持っている」としたのは15世紀の人文主義者ピコ・デラ・ミランドラであり、人間性の絶対的肯定が現されている。

そして二つ目は個性の尊重と自覚について・・・この現実的人間の肯定は、神の模倣物としての人間と言う、キリスト教的価値基準を崩壊させる意味があり、そこから何者にも拘束されない個人、自覚した我、精神的存在としての個性を持つ行動的な個人と言う思想が現れた。
「万能の天才」は究極として現れる・・万能の天才の典型アルベルティは、「人は欲しさえすれば、自分の力で何事でもできる」と断言した。
またこの個性の解放、尊重は「私の仕事の目標は名誉である、幼少の時から自分の名の不朽なるを望んできた」・・・とペトラルカをして語らせ、ここに強い近代的な名誉欲を生み出し、更に強烈に自己中心的な考えに発展していった。

人間の表現・・・これが三番目になろうか・・・この個性の尊重が人間の心の動きや、感情などへの深い関心をもたらし、例えば文学における性格や心理の描写、絵画における肉体美の表現などにも影響を与えていった。
聖母マリアは神の子の母、天国の女王としてではなく、地上の1婦人としての理想像として表現される・・・、ボッティチェリは聖母マリアを女性美の典型として描いたが、それはフロレンスやベニスの家庭や、街頭で普通に見られる女性の姿であり、こうして美の世界でも、信仰からの解放が始まっていったのである。

また自我の肯定は個人主義の発展を促し、その個人主義はまた「我が故郷はこの世界・・・」と言う民族や地域を越えた、人間と人間が人文主義的教養によって結ばれようとする、世界市民「コスモポリタン」の思想へと繋がる。

長くなった・・・がこれが最後・・・自然は神によって作られ、人間を乗せる台座にしか過ぎない、と考えられていたキリスト教的自然観に対して、自然それ自体の持つあるがままの美しさが表現されるようになり、岩石や樹木そのものの美しさを認め、自然美を称えて登山の為の登山を試みた、(つまりそれまでは理由がなければ登山はしなかった・・・と言うことだが)ペトラルカのヴァントゥール山登山は、こうした自然に対する新しい感覚の現われである。

このような感覚は更に自然の認識にまで進むが、それはあるがままの自然を背景に、あるべき自然の姿、法則的な自然を見出すことにまで発展し、絵画における遠近法、肉体描写における解剖学の研究などに繋がっていき、この自然の認識が、近代自然科学の出発点となっていったのである。
レオナルド・ダヴィンチの「モナリサ」は実に7人とも9人とも言われる女性の解剖によって描かれていると言われている・・。

私はこのルネサンスと言うものが、とても傲慢に感じて余り好きではなかったし、人通りの少なくなった商店街の再開発に○○町ルネサンス・・・とか言う名前をつけることに非常に違和感があったが、それもこれも個人の解放と自由・・・に繋がっているのだろうか・・・。

「言い訳」

大体こうした事と言うのは、今日だけは勘弁してくれ・・・と思うような忙しい時に起こるのだが、その日も納期に追われ時間がなく、頭から蒸気を吐く思いのところへ1本の電話がかかってきて、それは始まった。
電話の相手は久しぶりに聞く同じ村の伯母からだったが、同じ村と言ってもこの村は総延長で7キロメートルにも及ぶ長さと、それを2乗した面積があり、仕事場から伯母の家までは、おおよそ1キロほど離れていたが、その伯母が家の近所に住む婆ちゃんが、下の道を歩いて行ったと言う報告をしてきてくれたのだった。

この婆ちゃんは家のすぐ近く、30メートルほど離れたところに住んでいるのだが、認知症で1人暮らし、息子夫婦は100キロ離れたところで暮らしていて、放っておくと行方不明になる可能性が高いため、村の皆が少し離れたところで姿を見かけると、家へ電話してきて、それで私が迎えに行くことになっていた。

この村には70軒の家があり、それが15軒ほどのまた小さな地区に分かれているのだが、この15軒ほどの地区にはそれぞれ2人から3人の認知症の人がいて、こうした人は放って置くと行方が分からなくなってしまうので、誰が決める訳でもなく、その地区で昼間車を運転できる人がこうした高齢者の救護に当たっていて、一番端の地区は、行政には非常に非協力的な私がその役割をしている。

勿論民生委員などもいるのだが、こうした狭い田舎の民生委員と言うものは権威職みたいなもので、大方が自己顕示欲の塊のような人が多くて、ひどい場合には煩くなったら暴言を吐いて脅してしまうような者までいることから、おいそれと頼んでも、そこまでは面倒見てくれないのが実情だ。

またこうした認知症の高齢者は施設へ入れて・・・と言う話もできないことはないが、国民年金しか貰っていない高齢者が、月々10万円以上かかる施設へ入れないし、こうした費用が払えるほど、離れたところに住む子息が優雅ではない場合は、やはり近所の人が何とかするしかないのである、
本当は親の面倒は子供が見るのが正しいだろう・・・だが遠く離れたところに住む息子夫婦には子供がいて、そこを離れると仕事がなくて生活ができない。

たまにそうした経緯から、家へその息子・・・、と言っても私よりはるかに年上だが、彼とその妻が来て「いつもお世話になっています・・・」と深く頭を下げる姿を見るに付け、何も言えないのである。

そしてまあ、こんな村にも若い・・・と言っても全員が50代以上だが、それがいない訳ではないが、みんな昼間は働きに出かけていっていて、残っているのは高齢者だけになり、それで昼間も自宅で仕事をし、農業もやっている私のところへは、あらゆる問題がが舞い込むのだ。

だが、こうした高齢者たちは自分が小さい頃には、菓子をくれ、イタズラすれば怒ってくれた人達だ・・・言うならば私が私で有り得たのはこう言う人達のお陰でもある・・・、私は生きている間、何とかなる間はこうして頑張りたいと思っている。

「婆ちゃん、帰るよ・・・」車で迎えに行った私は婆ちゃんを車に乗せ、自宅まで送り、それから今は隠居している私の母に暫く相手をしてやってくれるように頼み、落ち着かせるのだが、こうした年齢になると皆同じことを言うものだ・・・生まれた家に帰る・・母や父に会いたい・・・と。
私はこうした言葉を聞くと胸が熱くなる。

一生懸命働いて、子供を育て、必死で生きてきて最後は1人暮らし・・・どうしてこんな社会なのかな・・・と思う。
そしてこうした仕組みも、もうそう長くは続かない、私が老いて認知症になった場合は誰もたすけに来てはくれないだろうし、よしんば一人暮らしで死んでも発見されないかも知れない・・・。
でも自分の目の黒い内は、そう言う思いをさせないし、ここから見える田んぼは毎年必ず、秋に小金色の稲穂で満たしてみせる。

月に1度はこうして緊急な出動があり、年に1度は山での行方不明者の捜索、そして数年に1度は火事を消しに行っている私は、仕事の納期がどうしても間に合わないことが出てきて、クライアントに必死で謝っている事があるのだが、いつもは言い訳ができないから、今夜はブログで言い訳をした・・・。

この記事は今から10年前に書かれたものだが、今では田畑はイノシシに追われ自身の母も世を去り、高齢者と言われる人の姿すら、めったに見かけないようになってしまった。

この静けさが何故か恐ろしく感じる。