「あきさめよー」

「何だよ、酒ばっかり飲んで・・・見てるだけで腹が立つんだよ」その小柄な男は大柄で、どっちかと言うとごっつい感じの男にそう咬みついた。
「うるさい、お前に何が分かる」ごっつい感じの男は普段は温和で、穏やかな男だったが、このときばかりは虫の居所が悪かったらしく、そう言うが早いか、小柄な男を突き飛ばした。
「くそー・・・お前なんか死ねばいいんだ・・・」口を切ったのか、少し唇に血が滲んできた小柄な男は、そう言うと台所へ走り、戸棚から出刃包丁を持ち出すと、大柄な男に向かってそれを構えた・・・。

「殺すのか・・殺してくれ・・・」大柄な男は逃げるどころか、そのまま小柄な男に近づいていった・・・「バカ野郎・・・何をやってんだ・・・もう一人の少し長身の男は、やっと事態が緊迫してきたことがわかったのか、慌てて2人の間に入ったが、時既に遅し・・・小柄な男は大柄な男めがけて突進していた・・。
だが運が良いのか悪いのか、小柄な男は畳の縁につまずき転倒・・・その足が部屋を仕切っているガラス戸に当たり、そのガラスは砕け散ったが、出刃包丁は大柄な男性の手前で空を切ったのだった。

1980年代・・・この頃既に派遣社員と言う労働形態は確立していたのだが、現代の派遣社員、派遣会社から見ればひどいもので、イメージからすれば江戸時代の「両替商」や「口利き」と言った感じとでも言うべきか・・・、とにかく社長は刺青が入っていないと言うだけ、殆どヤクザで、労働者たちを仕切る派遣会社の社員も素性の知れない人が多く、このような会社を頼ってくる人もまた、何がしかの事情を抱えた人が殆どだった。

また大手自動車会社や電気メーカー、繊維メーカーなどは派遣社員の他に東北、九州、沖縄などから期間社員を募集し、冬の間仕事の無い地方の人達は職業安定所、現在のハローワークだが、そこの斡旋でこうした大手企業の期間社員として働く人が多かった。
だがこのように大手の期間社員はまだいい方だった・・・雇用形態は社員に順ずるものだったし、3人から4人で住まなければならなかったが、それでも1人1部屋が確保できる寮へも入ることができたし、雇用保険や労災保険も完備されていて、誕生日には小さいが、ケーキが支給されるところまで社員並みだった。

悲惨なのはこうした期間社員以外の派遣会社から派遣される労働者たちである。
こちらもやはり地方から集められた人が多かったが、寮と言っても会社が借りたアパートや一軒家、そこに10人ほどで住まわされ、保険や年金もなく、労災ですら入っていなかったが、給料は日給、それの半分ほど会社がピンはねし、文句を言えばクビ、労働条件も社員では到底許されない勤務状態になっていた。

冒頭の話は実際にこの時代の派遣会社に暫く勤務していた人が遭遇した1場面である。
彼は東北の出身だったが、この小柄な男と、大柄な男は沖縄出身で、一部屋に3人で住んでいたが、沖縄出身の大柄な男は酒で会社を潰し、逃げるようにこの派遣会社にもぐりこんでいたし、小柄な男もまた女性問題で故郷にいられなくなってこの会社にもぐりこんでいた。
だが大柄な男はこうした状況にもかかわらず、酒を飲んで働こうとせず、同じ部屋に住む2人からしょっちゅう金を借りて、返すこともなかった・・・そこで小柄な音が注意した結果が、この惨事だったのである。

大柄な男はアルコール中毒だった・・・やがてこうしたことは会社の知れるところとなって追い出され、その後の消息は不明、それからも次々新しい社員が入ってくるのだが、大方が社会に適合できない人、親から見捨てられた放蕩息子、詐欺師、暴力団関係者、破産した人、前科がある人と言った具合で、みんな派遣された企業で問題を起こすか、盗みを働くかで、3日と続く者はごく1部しかいなかった。

こうした派遣会社のシステムは無一文で住所不定、前科があってもその日から食事にありつけ、作業服も貰えるし、とり合えず仕事さえしていれば、やがて小遣いぐらいは何とかなる・・・上手くいけば貯金もできるようになってはいるのだが、いかんせん殆どが社会的落伍者ばかりで、3度食べれたら大方はまた行方不明になるものが多かった。

この東北出身の男性の話は続く・・・労働者たちを車に乗せて企業に連れて行く役・・・つまり派遣会社のスタッフでも、「俺は一週間前に刑務所から出てきたんだが、金が無い・・・誰か車で撥ねてくれんかな・・・足一本ぐらいなら構わないんだがな・・・」とつぶやいているのを聞き、またある日には、一言も喋らない若い男性が入ってきたが、会社が契約していて「付け」で食事ができる大手電機メーカーの近くの食堂・・・、その新入社員はうなぎ定食を3人前食べて、会社の「付け」にし、翌日はもう行方不明になっていた・・・など応募してくるほうも結構なものだったらしい。

そして労働条件はきびしかった・・・。
3交替勤務で、交替なし勤務が週1回義務付けになっていたり、社員からのいじめ、期間社員ですら彼ら派遣社員を見ると差別した・・・一番危険な仕事や、部品洗浄、つまり揮発性物質を扱う場所での作業などは、歴代ずっと派遣社員向けの仕事になっていた。

この男性は3年近く同じ派遣会社で勤務したが、その間に移動した派遣先企業は9社にもおよび、この期間に入社した人は憶えているだけで200名近く、その全てが1年以内に辞めて行ったか、警察に捕まったか、行方不明だと言う。
スナックの女と2人で行方不明になった同郷のヤクザもいた、彼は車を置いて忽然と姿を消したが、「心根の良い男でした・・・」と懐かしそうに語っていた。

勿論この時代の派遣会社の全てがこのような状況だった訳ではないが、どうだろうか今の派遣会社とは一味も二味も違う深いものがあるのではないだろうか・・・。

ちなみに「あきさめよー」は、男性が沖縄出身の男性2人と住んでいた頃に習った、沖縄言葉だということだ・・・。
その意味は「あーあ」とか「どうしようもないな・・・」と言う意味らしい・・・。

「正法眼蔵・古徳」

まず表題の「正法眼蔵」・・・これの読み方だが、(しょうほうげんぞう、またはしょうぽうげんぞう)と読み、この教えは道元の仏法の集大成と呼べるもの、その奥義について書かれている・・・これは一般の我々がいきなり学ぶには余りにも深い・・・そこで出てくるのが「正法眼蔵隋聞記」(しょうぽうげんぞう・ずいもんき)と言う道元の高弟が記した、日々の暮らしの中で道元が語った教えを、記録したものから学んでいこうと思う。
正法眼蔵が煌めく閃光のように崇高で確固たるものなら、「隋聞記」は仏の温もりがある、やわらかさがあり、それゆえに我々のような一般人にも親しみ易い日々の教訓となるのではないだろうか・・・。

では今夜はまず「古徳」と言うものから始めようか・・・。

人はそれぞれ大きな欠点がある。その第一の欠点は「おごり高ぶる」ことであるが、このことについては仏典の中でも、他の書物でも同じように注意を与えているが、儒教の書に「貧乏な暮らしをしていても、おべっかを使ったり媚へつらいして、人の気持ちに取り入ろうとするような真似は、決してしない清らかな心の持ち主はあるが、お金や者をたくさん持っていておごり高ぶらない者はいない・・・」とある。

これはお金やものをたくさん所有することを制御し、おごり高ぶる心が起こってこないよう注意し、配慮せよと言うことだ。
自分は身分も卑しく貧しい人間だが、身分の高い人、良い家の生まれの人には決して負けまい、劣るまいと思う、人に勝とう、人より優れようと思うのもまた、おごり高ぶりの甚だしきものである・・・がこれはまだ制御がしやすい。

豊かな財宝に恵まれ、そのような財宝を集めることのできる力、徳分を持った人もいるが、このような人には親戚縁者や一門の関係者などが取り巻き、人もまたそれを許している・・・それをいいことにおごり高ぶるから、側にいる賤しく貧しい人達はこれを見て、きっと羨ましく思い、わが身の在りようを哀しみ不満に思うだろう。
このような人達の心の痛みに対して、富や力のある者は一体どのように気を配ったらよいか・・・、おごれる人には忠告や助言をするのが難しく、仮にそうしたとしても彼らが身を慎み、控えめな態度を取るようなことなど、到底望むべくもない。

また思い上がる気持ちなど少しも無いのだけれど、勝手気儘に振舞えば、傍らにいる貧しい人達は、それを羨み迷惑に思うだろう・・・このところに十分配慮して誤らないようにすることを、「おごりを抑え、高ぶりを控える」と言うのである。
自分の富んでいることに無責任であり、貧しい人が見て羨望したり妬んだり、不平不満を抱いたりする心情のあり方に無神経だったり、これを無視するような粗野な心を「思い上がり」の心と言うのである。

沢山のことを知っている・・・そのことをして人に勝ったと思っている・・・いや勝とうと思う・・・だがそれがいかほどのことか・・・、自分が人より多くのこと知っているからと言って、決してそのことをして誇りに感じ、思いあがってはならない。
自分より劣った人の不都合や間違いを言い、あるいは先輩や同僚たちの過ちを知って、これを悪し様に言い、罵り非難するのは思い上がりも甚だしい行為だ・・・。

昔から物事の真実を心得た人の前では負けても良いが、ものの理をわきまえぬ愚かな人や、その人がいる前で勝ってはならないと言われている。
自分が詳しく知っていることを他人が悪く理解して受け取ったとしても、その人の過ちを言って非難すれば、それはまた同時に自分が間違いを犯すことになる。
古人や先輩達の悪口を言わず、またものを知らぬ愚かな人たちの心を傷つけたり、妬みや不満の気持ちを起こさせるような場では、よくよく考えて発言に注意し、十分に心を配らねばならない。

人は他の悲運を見て内心に安堵し、他の幸運をうらやんで内に妬みの想いをいだく・・・、世に生きるとき、人は必ず他との比較において自身の位置を定め、幸も不幸も多くはそのような意識や構造の中ではかられる。
人の一生は、言うならば自己充足のための果てしない旅である・・・、それは「もの欲しさ」の旅、そしてそれはいつも他との比較においてである。

ここに人の「喘ぎ」があり、人は「喘ぎ」において生きることの喜びを知り、哀しさを知る、喜びも哀しみもこの「喘ぎ」の一様に過ぎない。
しかも人は「喜び」をうる為に喘ぎ、「哀しみ」そのものにおいても喘ぐ、あるときは「喘ぎ」それ自身が力となって「生」を支えることもある。
恥じらいを忘れ慎むを捨て、声高に自己を主張することは、いつの世にも言わば時代の正義として行われてきたに違いないが、しかし己を省みることなしに、無闇に叫ばれる自己主張は、そのまま根源的な人間喪失の主張となり、他との関係を破壊する契機となる。

自己主張にはどこかに「もの欲しさ」が付いてまわり、人の営みには必ず心に願い求めるものがある。
「謙虚さ」とは己と言うものへの限りなき反省と、自己存在の事実についての誤りなき「自覚」をその主としなければ、単に他に対する儀礼の一様式でしかない、固定化し儀礼化した謙虚さは、自己の醜悪さを隠蔽する為の一種の演技とも言えるだろう。

謙虚さの底には、人間的な痛みの共感があり、慎ましさの奥には人間の「さが」の本質的な虚構に直接する魂の共振がある、いたわりや思いやり・・・それを喪失したとき、その行為は傲慢な人間そのもの、凶器となって人の心を傷つけるに違いない。

今夜はここまで・・・。
道元の人間洞察は鋭い・・・そしてやはりわたしは今回も道元が誤りだとしていることに、見事にはまっていた・・・。
私は、僻み(ひがみ)で出来ていた事がわかってしまった・・・。

「死神」

徳川夢声・・・と言って知る人は少なくなったかもしれないが、この人は話術の大家だったが、同時に怪しい話にも通じていて、裏ではそうした話の大家でもあった。
この徳川夢声が面白い話をしていたことが記録にあったので、今夜はそれを少し紹介しておこうか・・・最近こうした怪しい話ばかり書いているから、そのうち私が「怪しい話」の大家になりそうだが・・・。

「死神にとっつかまったとか、死神に見放されて死ぬって所を助かったなんて、そんな話をするが、落語なんかにも死神が出てくるが、あれは実際あるんだな・・・」
では夢声の死神の世界へ・・・・。

死神の素性とは地獄界の役人で、役人と言えば聞こえはいいが、夢声いわく、「身分なんてものじゃなくて、ごくごく低い身分でね・・・だから死神自身も無責任でデタラメなことばっかりやってる・・・まあ、木っ端役人だな」
彼は閻魔大王から命令されると、死の目星をつけた人間を連れてくるため、無精たらしく人間界へのこのこやってくる・・・
しかし死神と人間の間には薄いベールのような膜があって、向こうからこっちには自由に入って来れないらしい。

死神にとっ捕まるのは、目星をつけられた人間を連れて行こうとする死神がしょっちゅう、無精たらしく付けまわしていることを知らない人間が、うっかりベールのそばに近づき、あちら側に間違って踏み込んだ時だそうだ・・・、向こうにはみ出すと死神が「やれやら、やっと捕まえた、さあ、おいで・・・」と言うことになる訳だ。
ところがその人間の代わりに、飼っている猫とか犬とかが、身代わりに向こう側へはみ出すと、「ええい、面倒くさい、これを連れて行ってごまかしておけ」と死亡台帳にしかるべく書き入れて、帳尻を合わせておく・・・まあ2,3年はそれで大丈夫だが、やがて不正はばれてしまう。

閻魔大王に呼びつけられて大目玉って訳だ、そこで仕事の穴埋めをするため、また人間界へのこのこ出かけていく・・・が根っからの無精者、無責任な木っ端役人と来ているから、仕事がうまくいかないと、また代用をとっ捕まえて帰ってしまう・・・と言うのだ。
「あの人は何度も死に目に会っているのに不思議と九死に一生を得ている、実に不死身な人だ・・・」と言うのはこうした事情があるかららしい。

愛知県海部市の主婦R子さん(当時32歳)はある日、明け方だったが、牛のかいばにする草刈をしていた・・・、牛に草をやるといえば大体が主婦の仕事で、朝方のことである、早く草刈を終わらそうと焦ったR子さんは、足場が悪いけどいい草が沢山残っている崖の近くへ行って草を刈っていた。
夢中で草を刈っていると上空をヘリコプターが通った・・・思わずそれを見上げたR子さん、崖から足を滑らせ10数メートル下に落下したが、以前にもそこではこうして草刈をしていて崖から落ち、死んだ人がいたのだが、R子さんが崖から落ちた真下にはクコの木が新緑の枝を広げていた。
R子さんはまずそこに落ちてクッションになってから、その真下にいたヤギの背中に落ちた。
当然ヤギは押しつぶされて圧死したがヤギのお陰で彼女は無事だったのである。

このR子さん、やがてのこと妊娠し、胎児が8ヶ月頃になった時のことだが、ある日の土曜日、夕方から急に体の具合が悪くなった・・・、夕食も余り喉を通らず、夜8時には食べたものを戻してしまい、熱が出始めた。
やがてその熱は高熱になり、ガタガタふるえだした・・・夫のTさんは慌てて近くの産婦人科医院へ走ったが、医師は旅行で不在、いったん家へ帰ったTさんはそこでR子さんが訳の分からない発作を起こし、容態が急変したことに慌て、今度は助産婦を連れてきたが、手が出せない状態、ついにR子さんは急死してしまうのである。

そして葬儀には夫のTさんが産まれなかった子供とR子さんを不憫に思い、棺おけには大きな人形を入れて山の共同墓地に運んで穴の中に棺を納めた・・・そして読経とともに親族が焼香をしているときだった・・・急に穴の中の棺がドンドンと音を立て始めた。

にわかには信じがたいことに親族は「空耳だろう」とお互いを納得させようとしたが、そうしている間にも、またドンドンと棺がなる・・・、これはおかしい、と言うので棺の蓋をこじ開けてみると、なんとR子さんが息を吹き返していて、ついでに腹が痛いと言うので、棺おけのまま担がれて山を下りたが、その暫く後に男児を出産した。

当時2度も九死に一生を得たR子さん、死神に見放された人として近所で有名になったが、このR子さんが崖から落ちるとき、上から見ていた者がいた・・・と証言している。
朝方、R子さんしかいなかった崖の上にいた者とは、白いよれよれのシャツに茶色のだぶだぶズボン・・・ささくれになった日傘をかぶり、顔は真っ黒で描いたような目に、先がぎざぎざの歯で笑っていたのだが、その体を透かして後ろの草が見えていた・・・・とのことだった。

おかしな話だが、伊藤晴雨氏も死神を見たとしていて、彼もまたズボンの色や顔の色が少し違うが、このR子さんの証言に良く似た死神をスケッチに描いているのである。

死神・・・できればお会いしたくないものだ・・・。

「ノアの箱舟」

1872年・・・バビロニアの都ニネヴェの遺跡が発掘されたとき、偶然、古代王室の図書館跡が発見されたが、内部には楔形文字を刻んだ粘土板がぎっしり納められていて、発掘に当たった考古学者、言語学者たちは歓喜の声を上げた。
さっそくその楔形文字の解読が進められたが、その中に紀元前2600年ごろに書かれたと推測される古代叙事詩のテキストを見つけ出した・・・これが今日世界最古の物語と称されることになるギルガメシュ神話であり、その連続する粘土板の11番目の板にどこかで聞いたことのある有名な話が出てくる。「おお、芦小屋よ開け、壁を理解せよ。ウバラ・トゥトウの子なるシュリッパクの人よ、汝の家を壊し、船を造れ。汝の財宝を運び去れ。汝の生命を追い求めよ。物を捨て汝の生命を温め、あらゆる種を船に乗せよ。汝の造る船はその大きさを定めた、その幅と長さは等しい、屋根を葺け」
英雄ギルガメシュの祖先ウト・ナピシュティムは大神エアからそう告げられ、方舟は7日のうちに作られ8日目の朝が来た・・。

夜が明ける頃、水平線から暗雲がもくもくとわきあがり、雷神アダドは暗雲の中で轟きわたり、神シュルラトとハニシュは雷神の使いになって山、里を走り回り、下界の神エラガルは大地の基を抜き、神ニヌルタは豪雨をもたらし、下界の神アヌンナキは松明を高くかざして、国を焼き尽くさんとする様相・・・アダドの激しい豪雨は天にも達し、光明は暗黒となり、大地は壷のように打ち砕かれた。
7日が経って嵐がおさまったとき、「人間は全て土になった・・・」

どうだろうか・・・このギルガメシュの叙事詩・・・どこかで聞いたどころかノアの方舟そのものではないだろうか・・・。
おそらくイスラエル人たちがバビロンで虜囚となっていた時に学んだこの伝説は、後にイスラエルの話として脚色され、旧約聖書に組み込まれたに違いない。

1927年から1929年・・・アメリカ・イギリス共同調査チームは古代メソポタミアの墓地を発掘調査したが、ここでどんどん深く掘り進んで行くと、ある深さから突然土の層が激変した・・・純粋な粘土層に行き着いたのである。
この粘土層は厚さ25メートルにも及び、堆積状況から明らかに水の力でそこに運ばれたものとされたが、粘土層を境に上部と下部では、発掘される遺物の様式が明確に異なっていた。

粘土層下部にはいくつかの文明が混じった状態、並存した複数の文明が認められ、スメールと、スメール文明以前にこの地方で居住していた人種に属するものと思われるものが混じっていたが、粘土層上部には純粋なスメール文明の特徴を持った遺物しか出てこなかったのだ。
こうしたことから考古学者たちは、この粘土層をノアの大洪水跡と考え、この粘土層のすぐ上に埋まっていた楔形文字粘土板を解読・・・ノアの大洪水は紀元前3700年頃に実存したと推定した。

だがこのノアの大洪水・・・規模は世界的な規模と言い難いことはその後の聖書解説にも現れるが、最大でも長さ650キロメートル、幅150キロメートルと言った現実的な規模で、局地的な氾濫現象だったようだが、地震による被害に加え、激しい台風の接近によって、ユーフラテス川の下流が津波に襲われた結果だと説明されている。

洪水伝説は世界各地で伝わっていて、その数は100以上に及ぶが、こうした世界各地に共通して伝わる洪水伝説から、氷河期が終わり間氷期に移行する課程で、世界的な洪水が発生したとする考えもあるが、私見として言わせて頂くなら、およそ古代文明は農耕の都合から大きな河川の近くで成立した・・・・そこで数年単位で起こるものは河川の氾濫である。
だから共通する大きな災害と言うよりも、こうした伝説は各地で起こり易い災害であった・・・そのことが後世共通した巨大災害と推測される要因になった・・・と思うのである。

ノアの方舟が漂着したとされるアララット山はトルコ、イランの国境を接する辺りに位置しているが、標高5157メートルのこの山は1840年7月2日、突然噴火するが、噴火口がなく山腹に亀裂が走ってそこから溶岩が流れ出し、このため山腹の万年雪や氷河が融けて、なだれが頻発した。
そこでトルコ軍が派遣されたのだが、このトルコ軍の一隊が山頂付近に到着したとき、片方の氷河から古代の船のへさきが突き出ているのを発見、近づいてみるとその構造物の中には、黒褐色に塗られた3つの部屋があったとされた。

それで「これこそノアの方舟に違いない」と騒いだのは、ふもとの僧院であり、来る人ごとに双眼鏡で眺めさせたが、1855年、方舟の発見に生涯を賭けていたF・ナヴァラがアララット山に登り確認したところ、単なる天然の露出岩だったことが判明する。
しかし1883年、トルコ兵の発見から43年後、シカゴ・トリビューン紙が偽りの情報であることを承知でこれをスクープ・・・「アララット山にノアの方舟!」の見出しで発表し、世界的注目を浴びるが、冒頭のバビロニアの発掘が行われた年代を比較するとお分かりの通り・・・この年代はノアの大洪水跡の発掘で、世界中がノアの大洪水ブームとなっていた頃なのである。

これとは別になるが・・・
1960年9月、トルコ陸軍陸地測量部のデュルピナール大尉は、東トルコ山系の航空写真を投写機にかけて調べていたが、その1枚の乾板上に何かゴミがついているのに気がついた・・・それでゴミを落とそうとするのだが、これがなかなか落ちない、おかしいと思いルーペで見てみると、なんとアララット山の山腹に巨大な船の形が浮き出ていたのである。
対比測でこの船の大きさを測ってみると長さ135メートル、幅23メートル・・・そうだ、聖書の記述にある寸法と一致したのだ。

この報告によって直ちにトルコ陸軍の調査隊が現地に向かったが、くだんの方舟は標高1800メートルの地点にあり、あたり一面厚い溶岩で覆われ、船型も溶岩で縁取られていた・・・内部は柔らかい土が入っていて緑の草が生えていたが、トルコ陸軍陸地測量部長ソイダン少佐はこの方舟について、船の化石と思われるが、溶岩と地形からこうした形状が形成される可能性もありうる・・・とも発言している。

この方舟は1916年にもロシアの飛行家によって、空中から確認されていたらしいが、湖のそばに巨大な船の骨組みを確認した・・・船体の上部に穴が開いているようで、船側には双開きの大きな扉があり、その片方は破損している・・・としていて、トルコ軍が撮影した空中写真でも同じように見える。

紀元前3世紀、ペルシャの祭司ペロッソスの記録によると「ゴルデア山(アララット山の古代名)の上にシストロス王(ペルシャのノア)の船の遺物があり、今も見ることができる・・・この地の者はそこからアスファルトの被服をはがし、薬として使っている」となっている。
古代バビロニアの人はこの方舟の存在を知っていたようだ・・・また聖書でも方舟、つまり幅も長さも同じとしながら、実際書かれている記述では長さと幅がちがうのは、このアララット山の船を知っていたからで、この船に合わせて寸法を記述した可能性が否定できない・・・。

ノアの方舟は本当に存在したのだろうか・・・もし存在したのなら過去、この地域は少なくとも1800メートルまで水没したことになるが・・・そんなことはあり得たのだろうか・・・。

「名月を取ってくれろと・・・」

私は母親に背負われた記憶が無い・・・。
勿論甘えたことも無ければ、何かで手を引かれて・・・と言う記憶もない。
農業や炭焼きで忙しい父や母はいつも家にいなっかた、その代わり祖母がきっと幼い私を見てくれていたのだろう・・・祖母の畑を手伝わされた記憶はたくさんあるのだが、この祖母は明治の女を絵に描いたような人で、転んでも起こしてくれたことなど1度も無かった。
だから私はどれだけ転んで痛い目に会っても自分で立ち上がるしかなかったし、誰も助けてくれないものだと思っていた。

毎年夏になると私の仕事場付近は、なぜか大勢の子供やその親たちでにぎやかになる。
普段なら7時を過ぎると人っ子一人いなくなるのだが、6月から8月まではひっきりなしに車が止まり、何組もの親子・・・大体父親と息子と言うかケースが多いが、そんな人達でごった返し、一体何をしているのかと思えば、みんなカブトムシやクワガタを捕まえに来ているのだ。

この辺は山の中なので街燈が灯ると、そこをめがけてカブトムシやクワガタが飛んでくる・・・、勿論こうした街燈の付近には他の細かい虫や蛾といったものもたくさん飛んでくるのだが、夜小さい子供を連れた父親や時には母親、おじいちゃんと言った感じの人が車で訪れ、じっとカブトムシが飛んでくるのを待っているのである。
夏休みが始まる7月後半ともなれば夜中12時でもこの付近はこうした人達で賑やかなことがあり、たまに夕涼みでもしようかと外へ出ると、ばったり出くわし、びっくりすることもあるが、本当は仕事場の電気を点けたままにして置けば、一晩に1匹や2匹のカブトムシ、クワガタはこの窓にぶつかるのだが、この季節は細かい虫も来る為、夜は内側から光が漏れないようにしてある。

また少し気が引ける話ではあるが、私は本当はこうした親子にカブトムシが捕まらなければいいな・・・とも思っている。
別に親子に恨みはないが、虫は子供に捕まるとその後悲惨なことになるし、早くに死んでしまう・・・特にセミなどは地面の中に5年から長いものだと10年もいて、やっと成虫になったら今度は寿命は1週間から10日しかない。
むかし、長男がまだ幼かった頃、セミを捕まえる・・・と言うことで出かけていって、お父さんが一番下手で1匹も捕まえられなかったし、長男が捕まえたセミも2日経ったら寿命が短いことを説明して逃がすようにした。

そしてこの辺の川はそんなに釣りをする人もいなかったから、ソーセージをつけてもウグイやハヤが面白いほど釣れる・・・がこれも釣った後「食べるのなら家へ持って帰るが、そうでなければ川へ返すように」と子供に教えたが、食べる以外に生き物を殺す、つまり慰みものになって死ぬ者の立場を考えるように・・・と言う話をした。

田んぼには6月たくさんの蛍が舞う・・・毎年農薬の量を調整し、少なくしてきているから、農業用水にはたくさんの蛍の幼虫が育っていて、夏の少し前には空と地面に2つの銀河があるように見え、多くの人が車を止めてこの景色を楽しんでいく。
蛍はハザードランプの点滅・・・あの光の周期が好きらしく、車が止まってハザードランプをつけると、そこへたくさん集まってきてまるで夢のような世界だ・・・。
この景色が見たくて名古屋からわざわざ訪れてくれた男性もいたが、彼は体中蛍だらけになりながら、一生の思い出になったと喜んでいた。

オニヤンマもこの辺にはたくさんいるが、特に山の中の畑などでは空を本当にたくさんのオニヤンマが飛んでいて、体長20センチくらいの奴だと人間が来ると、何だこいつは・・・と言うように近くまで見に来るのである。
このオニヤンマ、黄色と黒のストライプの種類と、もう1つ水辺には黒と瑠璃色のストライプの種類があるが、グリーンシャインカラーと黒のストライブの種類が一番大きい・・・そして彼らは「風」が好きなので、扇風機などを回していると、そこへ向かっていくのである。

能登半島地震があったとき、このオニヤンマの幼生がなぜか成虫になれずに、この年オニヤンマの数が極端に少なかった。

同じ年の夏の夜、近くの自動販売機へ冷えたコーヒーを買おうと思って外に出た私は、自動販売機の下でたくさんの細かい虫たちに混じって、ヤゴから成虫に脱皮して余り時間が経っていないオニヤンマが落ちているのを見つけ、すぐ手を出したのだが、そのオニヤンマは必死で私の指につかまろうとし、指から自分のTシャツにとまらせて家まで帰ったのだが、このまま蛍光灯のある部屋へ入ると、飛ぼうとしてそれで羽を傷める・・・仕方なく、Tシャツにとまらせたまま、自分も外で星を眺めてオニヤンマの羽が硬くなるのを待った。

オニヤンマはヤゴから脱皮して成虫になっても暫くは体も羽も柔らかく、羽や体が硬くなるには4時間から6時間かかり・・・、その間に落下したりすると飛べなくなるばかりか、蟻の餌になってしまう。
このオニヤンマは幸いなことに、脱皮後2時間以上経ってから落下したらしく、羽は挫傷していなかったが、それでもこの状態で飛ぶと羽は弱くなり、そのことを分かっているからこのオニヤンマは私にしがみついたのだ。

またオニヤンマは夜は飛ぶことができないから、そもそもこうした時間に脱皮が始まること自体おかしいのだ・・・普通なら朝方早く脱皮して、午前10時から11時ごろ飛び始めるのが本来の姿だが、この年は何かがおかしかったのだろう・・・オニヤンマの数が少なくなった理由はここにあったのだ。

私は結局朝方の2時までオニヤンマに付き合い、羽も硬くなったので夜露にあてて更に硬くなるよう、家の外壁につかまらせて眠った。

翌日朝・・・まだオニヤンマは外壁にとまっていた・・・が次に見に行った10時ごろにはその姿が無かった。
そして屋根の近くを何かが飛んでいるので見上げると、くだんのオニヤンマらしき・・・いや絶対そうだと確信していたが、それが高く高く舞い上がっていった。

私は子供が小さいとき、セミやトンボを捕って欲しいと言われたとき、この「名月を取ってくれろと泣く子かな」と言う歌を思い出していた・・・それほど虫を取るのが嫌だったのであるし、なぜか母の背中を覚えていない自分が少し悲しかった・・・。

また父親に虫を取ってくれと頼んだことも1度も無かったが・・・今の時代はこうして親が夜遅く車で連れてきてカブトムシを探してくれる・・・・優しいのか・・・いや・・・優しいのだろう。

追、この話は10年ほど前に書いたものだが、時の流れとは何と恐ろしきものか・・・。

この10年で、子供の姿は1人も見えなくなった・・・。