ちまたではテレビ事業の滅亡が囁かれているが、確かに毎度々々のバラエティー、誰でも先が読めるドラマ、どうでも良いようなクイズ番組、これらがゴールデンタイムを埋めているのだから視聴率が上がらないのも無理はない。
田舎のお年よりでさえ、最近のテレビはつまらない、NHKの歌謡番組か、ニュースしか見るものが無いとぼやいていた。
この原因は広告収入の減少により予算編成が難しくなっていること、パソコンよりは機動性で劣ることから、視聴者のテレビ離れが進んできているなどの理由があるが、本質的にはこれまでテレビがメディアの主流だったものが、ネット産業にその座を奪われてしまったことだ。
そのためこれまでの広告収入がネット産業に流れ込み、テレビ事業は、言い方は悪いが、もはや伝統産業の領域に入っているかも知れない。
事実地方のテレビ局は、これまでその地方ではある種のエリート会社になっていたが、現在地方のこうした民間テレビは大変な予算不足に陥っていて、イベント事業や旅行会社との共同企画、凄いのになるとソフト開発でしのいでいるテレビ局まであり、これまでとは違って「そろそろ危ないかも・・・」と言う部類の職業になっている。
そしてこれより深刻なのは新聞で、発行部数は年々減少し、こちらも広告収入はネット産業に取られ、行政との共同出版や趣味の教室、映画制作、出版などでかろうじて急場をしのいでいるが、スピード、コスト両面で劣る新聞の実情は岐路に立つ伝統工芸状態である。
こうしたテレビ新聞では面白いものなど作れる訳がない。
だからどのチャンネルを回しても面白くないテレビ、どれも同じような新聞が現れるのである。
加えてこうした予算不足は現場から人員削減が始まるので、どのテレビや新聞でも取材記者が少なくなっていて、現場取材をせずインターネットで調べて記事を書くため、それらしいがリアリティーの無い記事になるのである。
また地方に置いては、報道がどのテレビ、新聞も同じになっている原因として、記者発表がある。
つまり一度に全ての報道機関を集め、記者会見をするこの方式は、行政側とすれば一度で取材が終わり非常に効率的であり、取材する記者としても、いちいちアポイントを取って出かけなくても、指定された時間に行けば確実に取材できるメリットがあり、ここに両者の利害は一致するのだが、そのかわりどの放送局のニュースも同じになるのだ。
また一方的な取材でしかないため記者の検証もなく、ただ事実関係が伝えられるだけに終わる。
こうした方式はかなり前から政府や霞ヶ関では良く使われていた手法だが、地方の行政機関がこれを使うようになったのは、阪神淡路大震災後の神戸市が最初であった。
震災で忙しく、各報道機関と個別に会っていたのでは時間が無い、ここは記者発表で一度に済まそうと言うのが始まりだったが、これだと発表だけして後は「時間が無い」と厳しい質問から逃げられるので、大変便利だということになり、一時期神戸市にはいろんな行政機関からこの記者発表方式を視察に訪れていた。
そしてこの方式が全国に広まり、現在どの行政機関もこうした記者発表方式を取っている。
さらに厳しい状況は地方新聞だ。
事業が行政との共同企画に頼ることになり、行政を批判できない、そして新聞のローカル化である。
これは新聞記事をより地元密着型にするものだが、そのエリアは実のところフリーペーパー並だったりする、そのうえ地元の人は自分が新聞に載ったと喜んでも、非常に狭い地域だけしかその記事が載っていないことが分からず、小さな記事でも拾っていくことから、その記事に誘われて新聞購読をするのだが、世界的大事件より、○○新聞協賛大花火大会の記事が大きく紙面を飾るという北朝鮮並の新聞が出来上がる。
ひどいケースでは人口50万人都市で記者が1人と言う所もある。
通常こうした人口の都市であれば総局扱いで記者は10人前後いるのが普通だが、これは地方紙の話ではなくて中央紙の話だ。
少なくとも報道で言えば、これまであったメディアは間違いなく滅亡している。