あの頃彼女は綺麗だった、そして今は美しい」

無謀が夢と言う言葉にすりかわり、金を稼げない奴は罪だと言われた時代、夜ごと繰り出す社長さんはスナックでバーでホステス達に1万円札をばら撒き、マハラジャでは黒服が押し寄せる客を断るのに必死だった1980年代後半、不景気など来るはずも無いバブルの真っ只中だった。

東京への逃亡癖もようやく落ち着いてきた私は、あるスパゲッティやカクテルを出してくれる店へ頻繁に出入りするようになり、店のオーナーとも親しくなった。
このオーナーも私と同じで、田舎の暗さや閉鎖的なところを嫌って暫く都会暮らしをしていた人だったが、妙に気が合って常連客達とも段々親しくなり、男女7,8人のグループが出来て行った。

そして毎週休みにはみんなとテニスに行ったり、京都までビリヤードに行ったりと毎日が夢のような生活が続いていたが、どちらかと言うと女の子の数が多かったこのグループの男性陣は、結果的には「足」代わりになっていたようでもあった。
みんな当時の流行を気取って、流行っていることは一通りやってみようと言う感じで、特に女の子はワンレン・ボディコン姿に男を見下したようなところがある子が多かった。

ある夜、この日は平日だったが、12時近くになったのでもう寝ようと思っていたところへ、このグループの女の子の1人が突然訪ねてきた。
勿論こうした事は始めてだったし、この女の子と特別親しい訳でもなかったが、帰す訳にも行かず、私は部屋へ入れた。

彼女は「何か暇でさ・・」といって一つしかないソファーに座ったが、私はコーヒーを出して、昼間親戚から貰ったカステラを運んで、自分のベッドに座った。
「何か、あったの」
「別に何も」
そんな気まずい会話が続いたので、私は新しく手に入れた「天空の城ラピュタ」でも見ようかと話を変えた。

彼女は途端に嬉しそうな顔をして「えっ、ラピュタあるの」と問い返し、私はそれに頷いてビデオのスイッチを押した。
それから私達は並んでラピュタをみた。
大きく開いた肩がすぐ近くに見え、どこか一部分でも触れてしまえばそれで終わりの世界だった。
だが遠く600キロも離れたところにいる女の子と付き合っていた私はどうしても裏切ることが出来ず、彼女の肩に手を触れことができなかった。
エンドロールがながれ、井上あずみの主題歌が流れ、それも終わって2人の間には沈黙の時間がながれた。
彼女はそれじゃ今日は帰ると言い、私は「ごめんな」と言った。
「いいよ、分ってる、ラピュタ楽しかった」彼女は少し笑って玄関を出て行った。

このグループはその後も続き、みんなで旅行したり夏は海に行ったりしていたが、やがて1人結婚し、2人結婚、そして私も結婚して子どもができ、家の農業を手伝わなくてはならなくなったりで、すっかりこのグループには顔を出せなくなっていた。

それから十数年後、妻の都合が悪くなり、下の女の子の運動会へ代わりに出なければならなくなった。
しぶしぶ弁当を持って中学校グランド脇の土手で、子どもの走り競争など観戦していたが、何か面白いわけでもなくボーっとしていたら、後ろからポンと誰かが肩を叩いた。

振り返った私の目に入ったのは髪はボサボサ、化粧もしていなくて、トレナー姿ではあったが、昔2人でラピュタを見たあの彼女だった。
こう言う狭い町だから、いつかはどこかで出会うと思っていたが、まさかこんなところで出会うとは思いもせず、言葉に詰まった私に「余り変わらなかったね」と彼女は声をかけた。
だが、激変したのは彼女の方だった。
昔は長い髪にしっかりメイクをし、ぴちっとしたミニスカートが定番だった彼女の髪には白いものが混じっていて、化粧もしていない、よれよれのトレーナー姿だったのだ。

私達は少し距離を置いて土手に腰掛けた。
「どうした、何か大変なのか」と訪ねた私に彼女は昔のように少しだけ笑って「ううん、何でもないんだよ」と答えた。
また昔のように沈黙が続いた。
ただ、昔のように気まずい感じではなく、むしろ風に吹かれているような清清しさがあり、むしろこの場面では沈黙の方が嬉しかった。
「あんた、本当に何もかわらないね」
「そんな事はないさ、しっかりおっさんになってしまったからな」と言ってる途中だった。

彼女は突然立ち上がり、「ごめん、下の子に障害があって・・・また今度・・・」と言うと、走ってグラウンドの端を無茶苦茶に走っている幼稚園の女の子を追いかけていった。
やがて彼女は女の子をつかまえ、手をつないで、幼稚園の先生の所まで連れて行くのが見えた。
私はいつまでも、彼女に視線を向けていたが、何かとても良い物を見た気がした。

人間が困っている時というのは、本人は大変なのだが、その時自分が持つ全ての力を使って何とかしようとしているときでもある。
即ちその人に最も力がある瞬間でもあるのだ。
こうした田舎の運動会は幼稚園から中学校までが合同でおこなわれ、彼女は私と話ながらも沢山いる子ども達の中でしっかり自分の子どもを見ていて、発達障害のその子が突然前後構わず走り出してしまったのを見ていたのだった。

走る彼女の後ろ姿には今まさに水を打って天に昇ろうとする龍、キリストを抱いた聖母マリアが重なっていた。

あの頃の彼女は綺麗だった・・そして今の彼女は・・・美しいと思う。

「聖徳太子の和」

田舎のおじいちゃんの家へ行くと、玄関に長くかけられたままになっている色紙があり、そこにはたいてい「和」とかの字が書かれてはいなかっただろうか。
日本人は「和」と言う言葉が好きである。
今日はこの「和」を始めて憲法に記したとされる男、聖徳太子を通して日本人が最も好きな言葉「和」とは何かを検証してみよう。

587年、今から1400年以上前だが、それまで絶対的な権力があった大伴氏が失脚、それに伴って大臣(おおおみ)の蘇我氏と大連(おおむらじ)の物部氏が急激に勢力を拡大してきた。
蘇我氏は大陸、朝鮮の帰化人達とつながりがあり、交易や国家の財政を握る新興勢力で、皇室と姻戚関係を結び権力を拡大していったが、物部氏は伝統的、保守的な軍事担当勢力で、急激に拡大していった蘇我氏とはことごとく対立していく。

おりから当時の用明天皇が、流行の兆しがあった仏教をこの国に受け入れて良いものか、会議に諮ったところ、仏教受け入れに賛成の蘇我氏は仏教反対の物部氏と中臣氏を策略で破り、両氏を宮中から追放してしまう。
これに怒った物部守屋(もののべ・もりや)は軍隊をととのえ、一発触発となるが、その年、用明天皇が崩御(亡くなった)、これにより両者の争いは天皇の後継者争いへと発展していく、世に言う「崇仏戦争」である。

物部守屋は起死回生の一打として欽明天皇の皇子、穴穂部皇子を天皇に擁立しようとするが、これに対して蘇我氏は敏達天皇の皇后(後の推古天皇)と用明天皇の皇子、聖徳太子と提携、穴穂部皇子を殺害、物部氏も滅ぼした。
蘇我馬子はこれで絶対的な権力を手にし、敏達天皇の皇后を推古天皇とし、聖徳太子を皇太子、実務担当「摂政」(せっしょう)としたのである。

だが、この時代朝鮮半島にそれまであった日本領、任那(みなま)日本府が滅び、これを奪回すべく新羅と幾度となく激突し、大陸中国では隋が南北朝の統一を終え、高句麗に圧力を加えていた。
また国内では、蘇我馬子の勢力は皇室をしのぐものにまで拡大、こうした情勢にあって聖徳太子は蘇我氏の顔色を伺いながらも天皇中心の中央集権国家の実現を目指していったのである。

どうだろうか、これほど「和」に遠い男が604年に制定したのが十七条の憲法であり、その第一文があの有名な「和をもって貴(とおと)しと為し、さからう事無きを宗となせ・・・」なのである。
権力闘争の中で、皇子を殺し、旧臣を滅ぼし、血で血を洗う骨肉の争いに巻き込まれ、朝鮮の任那日本府奪回に何度となく軍を派遣、新羅と泥沼の戦争を続けて行ったのである。
皆がよく知っているあの旧一万円札の聖徳太子とは別人のあり様ではないか。

だが私はこの男が好きである。
なぜならこうした男でなければ「和」など理解しようもないからだ。
血の海の中、それも肉親や幼きおりから世話になっている旧臣達のしかばね、その中で聖徳太子は何を思っただろう。
おそらく唇をかみ締め、天を睨んだにちがいない。
いつか争いの無い時代を・・・と願ったに違いない。
しかし、朝鮮半島情勢は一進一退を続け、最後は自身の弟である来目皇子を将軍にして新羅討伐軍25000人まで用意するが、この皇子の病死で討伐は延期されるのである。
その心中に争いの無い世の中に対する願い、祈りにも似たものが渦巻いたことだろう。

「和」は単に仲良くすることではない、反対しないことを「和」とは言わないのだ。
意見が合わなくてもその意見を尊重し、意見だけで相手の人格まで否定しないことだ。
だから反対しても「和」はあり、賛成していても「和」ではないことがある。
日本人の「和」は得して迎合に近いものがあり、その場は仲良くしていても帰ったら途端に悪口という例が多く、これは「和」ではなくむしろ敵対になる。

天台宗の開祖、最澄と密教の開祖空海のこんな逸話がある。
2人は互いにライバルで、お互いそんなに相手のことを良く思っていなかったが、ある日最澄が、空海に一つの経典を貸して欲しいとやってきた。
しかしいつも借りて行って帰さない最澄に空海は経典を貸すことを拒んだ。
最澄は仕方なく帰るのだが、空海は弟子達に「あの人の背中に合掌しなさい」と言うのである。
本は貸せなかった、しかし年下の自分に、しかも本当は良く思っていない相手でも知りたいと思うその気持ちから膝を屈してでもそれを求める、その気持ちは尊い・・・。
さすが、空海だと思わないだろうか。
これが「和」と言うものだ。

聖徳太子は謎が多い「万葉集」、「日本霊異記」を外せばその存在はあったのか無かったのかも分らなくなるし、十七条の憲法も「改新記事」の中には出て来ないことから後世付け加えられたのではとも言われる。
だが、聖徳太子がいなかったと言う決定的な根拠もまた無い。

この男その後も「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、つつがなきや・・・」とやるのだが、こちらも「日本書紀」と「隋書」の記述には違いがあるが、いずれにしても、国書でアジアの超大国「隋」の皇帝を激怒させる、何とも大好きな男なのである。

「和」は難しいことではない。ただ相手の意見を尊重することだ。
カエサルも似たようなことを言っている。
「自分の意見を聞いて欲しければ、まず相手の意見を聞け」

「邦人の安否」

2008年6月16日、テヘラン発共同通信は、この前年10月7日にイラン南東部の古都を旅していた途中武装集団に誘拐された中村聡志さん(23歳)が8ヶ月ぶりに解放されたことを伝えた。
イラン外務省で報道機関を前に、イラン政府や日本政府などに感謝すると共に、御迷惑をおかけして申し訳ございませんでしたと何度も頭を下げた若者の姿は何とも爽やかで、日本にもこんな若者がいたのだと思うと少し誇らしくもあった。

イラク戦争開戦直後、外務省の注意も聞かずイラク入りし、武装勢力に誘拐され救出されたときのあの若者達の態度とは大きな違いである。
またこの時は「日本が国家を挙げて人質を救うのは当たり前だ」と言うような誘拐された家族側の態度も問題になったが、中村さんの父親の姿は、子供を思う父としても納得できる態度で、人間的におごったところのない節度あるものだった。

解放に至った経緯に付いては武装勢力の要求は一切受け入れていないとしたが、イラン、日本の両政府、いろんな勢力が絡んでいる以上、こうした経緯に付いては説明できないのが普通である。
ただ思うことは、この青年がきっと自らをして自身を救ったのだろうなと言うことである。
武装勢力と言えども人間である、たとえ人質だったとしても、その人となりは真剣に闘っている者ほどより多くのものが見えたに違いない。
この若者を殺してはならない、と思う気持ちにさせられるものもあったはずであり、自身が信じる宗教上のプライド、イランという国家としてのプライドを今一度思い起させたかも知れない。

また感情を抑え、どんな事態にも礼節を忘れず、決して諦めない父親の姿は多くのイラン長老達に「何とかして助けよう」との思いを強くさせたことだろう。
全てはこの若者の有り様、しいては彼を育てた両親の有り様が、難しい事件を解決に向わせた大きな要因のようにも思えるのである。

イランと日本の関係は意外に深い。
1979年パーレビ国王を打倒したイスラム最高指導者ホメイニ氏の時代でも、石油調達の為にアメリカの目を盗んでイランとの経済関係を続けてきた日本は、イラン、イラク、パレスチナなどの中東諸国間では少なくともアメリカやEUよりは許される国でもあるのだ。

1990年8月2日、イラクがクウェートに侵攻し、翌年1991年1月17日、アメリカ主導で「砂漠の嵐作戦」が発動、湾岸戦争に及ぶことになったときも、日本はイラクのフセイン政権とは経済的関係でアメリカやEU諸国よりは親密な関係にあった。
だからイラクがクウェート侵攻後、外国人を全て国内に留まらせ人質化したとき、アメリカやヨーロッパ諸国と同じ扱いを受けた日本の駐イラク外交官の1人は「日本はイラクに対してこれまで欧米よりは親密な援助協力をしてきた、同じ人質でもアメリカやヨーロッパ諸国より優遇された扱いを求める」と抗議するのである。名前は忘れたが、なかなか骨のある外交官だった。

だがブッシュ大統領(2008年現在のブッシュ大統領の父)に引きずられ、石油の利権欲しさに日本は湾岸戦争の戦費の大半を拠出し、その挙句戦争終了後クウェートが日本に示した感謝の意向は「そう言えば忘れていた」くらいの苦いものになったことを憶えているだろうか。

そしてもう1つ、アメリカに敵対する国や民族にとっては日本と言う国は少し特別な国でもあるのだ。
キューバ革命でカストロと共に戦ったチェ・ゲバラは革命成立後、早い時期に日本を訪れている。
当時直接会ったのは2008年に首相を務めた福田氏の父親、福田赳夫氏だが、30分ほど会って、素っ気なく帰している。
だが、こうした日本の扱いにも関らず、チェ・ゲバラはたいそう喜んで帰国したと言われている。
その理由は、勿論当時砂糖の大量輸出先が日本だったことも去ることながら、日本と言う国が世界で唯一アメリカと戦争をした国だったからである。
テロと戦争は凡そ概念の異なるもので、アメリカに直接戦争を仕掛け、その領土の1部を空爆した国は後にも先にも日本だけなのである。

だから現代社会にあってもこうしたアメリカを敵対視する民族や国にあって、日本神話はどこかでその人達の心の中に希望として残っているのである。
イスラム原理主義、中南米の武装集団、アルカイダ、こうしたテロ集団や革命家の中では僅かかも知れないが、日本人は国家ではなく民族としてアメリカに戦争を仕掛けられる心を持つ民族なのだと言う憧れが残っているのである。

中村さんを助けたものの中には意外かも知れないが、こうした過去の日本が犯した
過ちや、失敗に次ぐ失敗を繰り返した中東政策でさえどこかで僅かだが幸いしたのではないだろうか。
だが、これから2ヶ月後、8月26日、アフガンで拉致されたNGOペシャワール会の伊藤和也さん(31)は残念ながら殺害されて発見された。

その後この事件に関しては報道機関も一切伝える事はなくなったが、遺体の状況からどうやら伊藤さんは拉致される途中、助けるために武装勢力と応戦した村人が発射した銃の流れ玉に当たって負傷、それで犯人グループが放置していったため死亡した可能性が高い。
不幸な事件となってしまったが、中村さんと伊藤さんの明暗を分けたものは、一つはイランとアフガンと言う国、国家情勢の違い、そして予期せぬ事故の発生だったのではないだろうか。

今イランがアメリカやEUと交わした協約からアメリカが離脱し、関係が悪化しようとしている。

アメリカがパレスチナをめぐってイスラエルを支持し、日本にも同様の対応を取ることを強要した時、オイルショックを覚悟の上でこれに対抗した田中角栄政権、その要因は石油の確保だったが、古来より軍は何の為に動くかとするとき、その応えは国利、「利」の為であり、「利」は徳目の8割を乗せて行く車のようなもの・・・。

命の恨みに次ぐ正当な理由と成り得るものである。

アメリカの顔色を伺っているのではなく自国の石油を確保し、今こそアメリカとイランの間に入って、世界の平和の為に力を尽くす事が出来る、チャンスと言えるのではないだろうか・・・。

「天変地異」

日本の元号、つまり平成とか昭和とか言うあの呼び方だが、これが切り替わる基準の一つは天皇の崩御(亡くなること)だが、これ以外にも江戸時代では徳川将軍の死去、そしてもう一つ、大きな災害でも元号は切り替えられている。

この考えのもとは、日本独特の「穢れ」(けがれ)と言う思想から派生しているもので、即ち、大きな罪を犯した者でもその者自体の罪は、例えば悪いもの「魔」に憑依されたから起したのであって、その「魔」をお祓いすれば良いという考え方だ。
こうした考え方が政治に結び付くと、古来日本では大きな災害、天変地異は時の政治家の悪政によって天罰が下ったと考えられていたことから、払拭するため為政者は大規模なお祓いを行い、元号を変えて再スタートを切ることで「穢れ」を祓ったとしたのである。

今朝はこうした天変地異の中から地震と国家に付いて考えてみようか・・・。

古くは大雷(おおかみなり)と呼ばれていたことから、地震と雷は同じものと考えられていたようで、太平記に出てくる楠正成(くすのき・まさしげ)の通機図解(つうきずかい)と言う書物の中でも一つの雲の形で、それが出たら大雷か地震が起こると書かれている。

そしてどうも昔からこの地震を当ててやろうと言う試みも多く為されたようで、戦いに次ぐ戦いに勝利するため日食の時期、天候、そして地震を読む、と言った試みはかなり重要な戦略上の研究課題になっていたようである。
国が乱れれば地震が起こると言う話はまことしやかに歴史の中で生き続けるのであるが、もともと地震が起こる度に政治が悪いからだと考えていたのであり、どちらが原でどちらが因かは微妙なものが有る。

1703年、元禄地震(M8.2)、1707宝永地震(M8.4)が起こり、その2年後1709年には「生類憐れみの令」で有名な徳川綱吉が死去している。
1751年、一晩で漁村が海底に沈んだ「越後高田の地震」が起こったこの年、暴れん坊将軍で有名な徳川吉宗が死去、その後天保の大飢饉がピークを迎える1828年には「越後三条地震」が起こる。

1846年、アメリカ東インド艦隊司令官ビッドルが浦賀に入港、開国を迫った翌年「善光寺地震」が起こり、ペリー提督が国書を持って浦賀入りした翌年1854年には安政東海地震、安政南海地震が1日違いで発生、翌年には安政江戸地震まで起こっている。
また日本初の経済恐慌が起こった1891年(明治24年)には死者7273名を出した濃尾地震が起こり、株式相場が大暴落をし、米の値段が5ヶ月で3倍に跳ね上がった大不況の中で1923年、関東大震災が起こるのである。

さらには第2次世界大戦前後には1943年鳥取大震災、1944年東南海大震災、1945年三河大震災、1946南海大震災、1948年福井大地震と地震の集中攻撃にさらされた。
そして戦後最長の不景気が底を打った、つまり不況がもっとも深刻な1983年、日本海中部地震が起こり、104名が亡くなった。

バブル経済が行き詰まった1993年、第40回総選挙で自民党が敗北、細川連立内閣が誕生した年には釧路地震、北海道南西沖地震が起こり、珍しく自民、社会の連立内閣となった村山内閣発足の翌年1月、阪神淡路大震災が起こっている。

また2007年、年金問題と閣僚の不適切発言、事務所経費の不正計上で国民の不信を買って四面楚歌となっていた安倍政権を能登半島地震が襲い、さらに農林水産大臣の自殺や防衛大臣の不祥事、バンソウコウ大臣の出現に至って、もはや国内の混乱と不信がピークに達したとき新潟中越沖地震が起こるのである。

その後福田政権へ移って石油高騰、物価の値上がり、サブプライムローン問題と混乱は更に拡大し、それに合わせるかのように2008年6月から7月、岩手や宮城で大きな地震が頻発、それまでにも千葉や北関東でも中規模地震が頻発していたのだが、極めつけは民主党政権が混迷の極みに達した2011年、菅直人政権下で発生した東日本大震災と言えるだろう・・・。

「夢の話」・2

金縛りは、極度の肉体的疲労、精神的疲労によって起きるとされているが、現実にはそれだけでは説明がつけられないものもあり、こうした状態は100の例の中に1つくらいは超自然現象が含まれていると考えた方がいいのかも知れない。
金縛りはうたた寝状態の時に起き易く、体が動かなくなり、声を発しているのだけども回りには聞こえていない。

金縛りが解けるのは体の一部、例えば指先でもいい、少しでも動けばその瞬間から解けていくが、一般に仰向けで寝ているか、枕の高い部分が首に近いところに当たっている状態で寝ている時に起きやすい。
金縛りは夢と現実が混同して起こることから、自分の部屋で夢の部分の黒い影が顕れることがあり、その恐怖は筆舌に尽し難い。
傾向として思春期から25,6歳までに多く、女性の場合は子どもを出産したら金縛りに会わなくなったと言う人もいる。
3歳くらいの男児に多いが、夜中突然起きて、どこか壁の一部を指差して泣き出す、と言うようなことが続くことがある。
この場合、その男児にはその部屋で何がしかのものを見ていることになるが、大人には見えないのは、現実と夢の境界が明確になっていない為で、年齢を重ねるごとに解消されていく。

またこれは余談だが、動物の行動はたまに注意して見て置いた方が良いだろう。
犬や猫は時々不自然な方向に視線を送っていることがあるが、例えば皆で食事中、猫だけが、逆方向に何かを追いかけながら見ている、しかしそこには何も無いという状態、これは実際に何らかの気配か磁気性のものがそこに存在している可能性があるからだ。
犬の視力は比較的弱く、もしかしたらカラーで見えていないかもしれないが、猫と同じで磁気や電気には反応する。
猫の視力は抜群で、しかも磁気を視覚的感覚で捉えているのではないかと言われているが、いずれにせよ人間には見えないものを見ているときがあり、こうした場合は注意が必要になる。

金縛りの対処方法、一人で寝ないこと、仰向けで寝ない、必ず右側を向いて寝る、手を胸の上に置かないなどの方法で解消されることがあるが、起きていても金縛りに会う場合は、分裂症を引き起こし易いので専門医に相談した方がいい。

「夢占い」
歯が抜ける夢は夢の中では最悪とされているので、出来るだけ行動は控える。

葬式の夢はその内容とは違い、比較的良いことがあるとされている。

水に入る夢はこれもそれほど悪い夢ではない。

お金を拾う夢はその内容に反して何かを失うか、既に失ったときに見ると言われている。

何かを貰う夢も、余り良くなくて、何かを失うと言われている。

友人知人に殴られる夢は、その友人知人との関係が近くなると言われている。

同じように怒られる夢も、何かが改善されていくとなっている。

花の夢は何か心配ごとがあるときに見ると言われている。

原始の地球の夢を見る時は、風邪を引く兆候、同じく恐竜やアンモナイトが動いている時代の夢も風邪を引きかけているときに多い。

親戚縁者の夢、基本的に夢に出てきた人が遠くなるものとされているが、病人の場合は他界する前に夢に出ることもあると言われているので、一度訪ねてみるべきだろう。

食べ物を食べている夢はやはり、何か失うか失った後に見ることが多い。

空を飛ぶ夢は、何かのストレスにさらされている可能性がある。

追われる夢は内容に反して割といい夢になる、事態が新しく展開していく兆しがある。

人間の脳は不思議な働きをしている。
例えば、寝ていても脳の一部は稼動していて、万一の危機に対処する仕組みになっている。
この場合視覚よりも聴覚が先に目覚め、しかも急速に覚醒させるため、音を大きく拾うのである。
うたた寝状態で、誰かが戸を開けたとき、普段ならそれほど大きな音に聞こえないのだが、ひどく大きな音に聞こえて目が醒めるときなど、まさにこうした脳の作用によるところだし、交通事故の瞬間などは普段の4倍以上の情報処理能力を発揮するためスローモーションのように見えるはずである。
だがそれでもどうしようもない時、体のダメージが著しく、もはや生命の維持が困難だと脳が判断した時、脳は痛みや苦痛を排除して安らかな夢のような感覚を用意する。
これが脳が感じる最後の感覚で、最強にして一生の間にただ1度しか発揮しない、この1度のために用意されているプログラムである。