「柿の実」

ご内儀が足を悪くされ、更に認知症を患われ、介護施設へ入所されのは一昨年の事だったが、子息子女のいない隣家の当主は以後一人暮らしで、野良猫だったグレーと白の一部縞模様の猫を可愛そうに思い飼っていた。
.
今年2月、その当主からかかって来た電話に隣家を訪ねた私は、かねてから膝を悪くしていた当主が完全に動けなくなっている事を知り、市の福祉事務所に救済を求めた。
.
それまでも困った事が有ったらいつでも言って欲しいとしていた私の元には、蛍光灯の交換や屋根の修理などの細々した依頼はあっても、「もうだめだ・・・」と言うような言葉は無かったのだが、その時の電話は「もうだめだ・・・」と言う一言だった。
.
こうして88歳の当主はご内儀と同じ介護施設に入所する事になり、隣家はついに空き家となってしまった。
玄関で不安そうにしながら、しかし警戒している猫に、私は「家に来るか?」と声をかけたのだが、やがて餌が無くなった隣家の猫は私のところで餌を食べるようになり、今では家の猫と2匹で夜は私の布団の上で寝ている。
.
おかしなもので、それまでいつも喧嘩ばかりしていた家の猫は、初めて家で餌を食べる事になった隣家の猫に、餌を食べるように勧めていたように見えた。
オス同士で決して仲良く出来ないはずのものだが、こうして見ていると猫にも「情」が有るのかも知れない事を思ったものだった。
.
先日、稲刈りも終わった事から当主の見舞いに施設を訪ねた私に、当主はまず猫はどうしているかを尋ね、元気にしている事を伝えると目を潤ませて頷いていたが、そろそろ柿が色付く頃だが食べてくれと言い、その際「そう言えば木の枝が納屋に届いていたが、あれは切ったか」と聞かれた私は、その話をすっかり忘れていた事に気が付いた。
.
隣家の柿の木の枝が家の納屋に寄りかかっていて、当主はいつも早く切れと言ってくれていたのだが、それをすっかり忘れていた私は家に帰ると早々、鋸を持って柿の木に上った。
「しまった、当主の言うように早く切っておけば良かった・・・」
夏以前であれば実が成っていないから枝は軽かったのだが、秋ともなれば枝の先に鈴なり状態で実が付いて、それが屋根に乗っている状態になっていた。
.
仕方なく梯子を持ってきて屋根に上り、そこから枝を切って50以上も実のなった柿の枝を下に落とした私は、屋根の上から何気なく隣家の玄関に目をやると、そこにはいつも昼になると暫くいなくなる隣家の猫が、なんだかしっかりした姿勢で座っていた。
.
「そうか・・・、今はお前が隣家の当主名代なんだな、お前、律儀な奴だったんだな・・・」
私は暫く屋根の上から猫の様子を見ていた。
.
枝に付いていた柿の実は勿体無いので全てもぎ取って、暫く置いて熟すのを待つ事にし納屋に運び、枝も細かく切って片付けた帰り際、毎年「好きなだけ取って食べてくれ」と言われながら、忙しさから一度も食べた事がなかった柿の実、その熟していそうな美しい黄色の実を選んでもぎ取り、カリッとかじってみた・・・。
.
「ああ、こんなに甘かったんだ・・・・」
思わず青い空を見上げた私の中から、嬉しいとも悲しいとも言いようが無い、何か熱いものがこみ上げた・・・・。

「下を見る」

私は納屋二階を仕事場にしているのだが、この階下には燕の巣が20ほども有って、毎年ここからは200羽を超える子燕が巣立っていく。

その為階下には農業機械を置いているのだが、それらにはブルーシートがかけられているものの、ちょと人には見せられない惨状となっていて、仕事で訪れた人などは燕の糞だらけの入り口で一瞬無言になる。

 

燕に限らず空を飛べる生き物と言うのは、その高さを飛ぶ為に下を見ない。

階下に巣が有る燕が階段から僅かに見える二階仕事場の窓の光に誘われて上がってくる時が有るが、そうした時必ず天井付近を飛びながら出口を探し、上がってきた階段、下を全く見ず、それゆえいつまで経っても元の巣に帰ることが出来ない。

 

椀を塗っている頭の上を出口を探して飛び回る燕に、「馬鹿だな、下を見ろ」と呟きながら、可愛そうなので仕事場の窓を開けると、そこから勢い良く外に飛び出していく。

これは、さては二階へ上がっても私が窓を開けてくれる事を承知しているからか・・・。

否、低い処に在る者は上が見えるが、高い処に在る者は下が見えないと言うことだ。

 

この事はよくよく気を付けなければならないが、上を目指して、高度な技術を目指している者は、この二階へ上がってきた燕に似ている。

何にせよ限りと言うものが有り、高度な部分を目指すときはこの限り付近を飛ぶが、天井と言う限り付近を飛んでいては、実は出口が見えない。

 

しかし下にいては有象無象と同じになり、ここに甘えては天井付近の景色は見えない。

だから常に下ばかり見ていてはいけないが、迷った時は「下を見る」事も肝要になり、この事は何を指すかと言えば「凡庸」であることを至上とすると言う事かも知れない。

 

天才の為す事は一見凡庸に見える。

我々は普通である事をつまらなく思うかも知れないが、自身のこれまでを振り返っても普通で有った事、当然の事がその当然に動いて来たかに鑑みるなら、実は普通である事はその反対の状況よりはるかに少ない機会だったと思わざるを得ない。

 

普通である事は大変難しい事なのであり、統計上の平均値は実際には一番少ない数値である事に同じで、上限と下限が見えていてこその平均なのである。

これを思うなら、水が流れる如く自然に、当然の事が当然のように流れていく事を畏れなければならないように私は思う。

 

すなわち派手な色彩で目立つ事は簡単で、言葉巧みな者は言葉で人を寄せる事も容易いだろう。

しかし塗りの職人の本分は人気を得る事ではなく、著名になって公演で稼ぐ事でもない。

技術を駆使して当然の形を当然たらしめ、人の世のどの場面に立っても違和感のない姿であることを至上と思わねばならないような気がする。

 

技術をひけらかし悦に入るのが目標ならそれもまた良いだろうが、私は自身がどんなに苦労した技術だろうが、それが使う人に気にならない事を本旨としたいものと思う。

技術や私の在り様など使う人に取ってはどうでも良い事であり、この自然の在り様に取っても何でもない事で、特に目立ちもしないが邪魔にもならず使われていくなら、これを私は至上としたいものだ・・・。

 

時に天井を飛ぶ燕に「馬鹿だな・・・」と呟きつつ、或いはその言葉は自身に向けられているかも知れないと、はっとする事がある。

「ストリップ」

表題から何かエロい話かも知れないと期待された方もおいでる事と思うが、ご期待に沿えず申し訳ない。

今日は輪島塗の「布着せ」(ぬのぎせ)の話をさせて頂こうと思う。

素地を補強させる為に漆で寒冷紗(かんれいしゃ)や麻の布を巻いたり、張ったりする事を輪島では布を着せると言ったが、布をかけるとも言いながら、布を着せると表現したイメージ力は中々風情が有る。

だがこの布着せ、輪島塗の歴史の中で常に絶対性を持った技法ではなかった。

むしろ数の点から言うなら、布着せされた輪島塗の方が少ないかも知れない。

大量、低価格製品の殆どは布着せされてはいなかったからだ。

この1回の工程を省くくらいでそれほど価格が抑制できたのかと思われるかも知れないが、実は布の厚みと言うのは、例えば製造されて30年くらい経過した輪島塗では、そこに厚みとして残っているのは布が半分、上塗り漆が半分しか残っていないものだ。

あの地の粉を使った厚い下地はどこへ行ったのかと言うと、研ぎ整形のときに削られ、経年劣化に拠って水分が無くなると、厚みとしては残れないのである。

それゆえ布を張った時には、それを張った部分と張られていない部分に段差が生じ、これを「惣身」(そうみ)と言う荒い粉を混ぜた下地に拠って埋める作業が必要になるが、この惣身が厚いと後年、製品になってからの劣化が激しく、製品強度を落とす。

従って段差を埋めながら、厚くない事が求められるが、結果としてこうした状況から惣身だけは埋まらず、輪島塗の下地は有る意味「布着せ」の段差を埋める為の工法とも言えるのである。

布を着せていない輪島塗は段差が生じないから綺麗に見えるが、強度の点では少し劣る。

また納期に余裕が無い場合は砥の粉下地だけでも、綺麗に整形すれば立派な輪島塗に見える為、好景気で忙しい時ほど、豊かな時代ほど布を着せていない輪島塗が多くなるが、一方極端に景気の悪い時代でも材料の抑制から布を着せない漆器が多かった。

そしてこうした布を着せていない輪島塗の事を、裸下地(はだかしたじ)、或いは「ストリップ」と呼んだのだが、これがなぜそう呼ばれたか説明する必要はあるまい。

輪島塗の職人や塗師屋の親方は上塗りが仕上がった製品を見るだけ、触っただけで布が着せられているか否かを判断できたのだが、これは簡単な事だ。

軽くて厚みが感じられないのに、布の段差が無ければ「ストリップ」であり、重みや厚みが感じられれば布着せされた物と判断できたのであり、この布の段差は上塗りが仕上がっても見ように拠れば見える。

「いやー、綺麗な仕上がりの椀ですね・・・」

「あっ、いあやそれはストリップでして・・・」

「ほう、急ぎ物ですか?」

「全く今日言えば、明日にもくれと言う仕事でして・・・」

親方同士のこうした会話が昔は良く聞かれたものだった。

更に、輪島塗では寒冷紗の代わりに新聞紙や「漉し紙」(こしがみ・漆を漉す吉野紙)や、和紙などを張ったものも作られたが、これらは寒冷紗を使うよりは漆の量が半分くらいで済む為、材料が手に入りにくかった昭和6年から昭和30年、昭和60年代に流行したもので、その効果の程はストリップと全く同じだったが、何も着せていないわけではないと言う、中ば自己弁護の気持ちからそう言う技術も発展した。

時々古い漆器を修理していると、こうした寒冷紗の代わりに新聞紙を着せた漆器も出てくるが、何も着せないよりは例え新聞紙でもと思う親心を少し感じてしまう。

材料を削らなければならなかった中で、何とかしようとした親方や職人の姿が垣間見えるような気がするものである。

 

ちなみにこうした新聞紙の着せ物だが、面白い事に新聞紙の厚みはしっかり残っていて、やはりそれは寒冷紗よりは薄いが、下地の厚みのようになくなってしまう事は無いのであり、ついでに上手に剥がせば書かれている記事が読めるものも存在する。

 

布や新聞紙は「実」で有り、塗料、液体である漆はどこまで行っても「虚」なのである。

「放射線」

放射線被爆に拠る人体の影響に付いては、過去、一定の線量以下で有れば被爆しても安全だとする考え方が長く迷信的に信じられてきたが、こうした考え方を一定の数値を超えなければ影響が出ない「しきい値仮説」と言い、この一方で安全とされる微細線量でも影響は免れないとする考え方を「しきい値なし直接仮説」(LNT仮説)「Iinear non threshold hypoyhesis」と言う。

放射線微量被爆の危険度は実測数値では現す事ができず、ここでは単位被爆当たりの危険度が高線量被爆の場合と同様の比例数値であろうとする仮設もまた否定できず、一般的に放射線被爆では高線量被爆は確定的に人体に悪い影響を及ぼすが、微量放射線量被爆に措ける影響とは良い影響と、悪い影響を総称する「影響」が有り、微量放射線被爆に拠る細胞の活性化やX線治療技術など良い影響の事を「放射線ホルミシス」(radiation hormesis)と言い、「バイスタンダー効果」や「ゲノム不安定」などは微細線量被爆の悪影響側の側面である。

細胞一つ々々を分別して放射線を照射すると、直接放射線を照射された細胞に隣接する細胞も同様の影響を受ける事が解っているが、これを「バイスタンダー効果」と言い、この現象を想定するなら、単位面積当たりの放射能被爆線量は微量被爆の方が大きく影響を受ける事になり、遺伝情報の書き換えまでは及ばないまでも、これを正確に伝える部分が影響を受け、結果として遺伝情報が不安定化する現象、これを「ゲノム不安定」と呼ぶが、この効果でも微細放射線被爆の方が影響は大きいとされている。

また「放射線」とは分子をイオン化できるエネルギーを持つ電離放射線の事を言い、生命体が悪影響を被る事は原理的に確実なのだが、電気が流れる場所には必ず発生する電磁波なども広義では「放射線」である。

我々は放射能と言えば過剰までに警戒するが、これと同等か親戚のような「電磁波」の事は考えない。

しかし、照明器具で頭から放射線を浴び、パソコンやタブレットが放出する電磁波で顔を洗っているようなものであり、後生大事に放射線発生源の携帯電話やスマートフォンを眺め、耳に当てている訳である。

近年電磁波と癌の関係を疑う学説も発表され始めているが、癌についてはその昔はこの病気そのものが知られていなかった為、癌による死亡例が少なかったと言う考え方の一方、電気や電化製品の普及に連動して癌の発症が増加しているとする考え方も出始めている。

便利さや経済重視の考え方が蔓延する今の世界だが、そう言う思想に拠って放射線と言う見えない現実が省みられない事は、もし線量被爆の影響が「しきい値」だった場合、ある日突然、大変な事になる可能性も秘めている。

「わたし・うれしい・・・」

人間には生まれながらに強弱がついていて、これは決して生命力のことではなくて、腕力のことでもないが、その関係に措いて2人きりになった時、どちらか片方が必ず主導権を握り、そうかと思えば3人になったときは、2人では主導権を握れなかった者が主導的になったりする・・・そう男女、年齢に関係の無い「人間力」のような差がある。

私はどうもこの「人間力」が弱いのか、友人と同じように街を歩いていても、キャッチセールスに声をかけられるのは必ず自分だったし、宗教の勧誘でもそうだった・・・、また電話の保険セールス、新聞勧誘などがなかなか断れない、セールストークだと分かっていても、言葉でがんじがらめにされて、結局読みもしない新聞を3社も購読していたり、宗教勧誘の人の話を長々と聞いていたりするものだから、家族からは「勧誘が来たら出てはいけない」とまで言われているが、確かに妻や母などが一言でビシッと断っているのを見ると、凄いな・・・と思ってしまうのである。

かなり以前のことになるが、妻の母親が老人性のうつ病になってしまったことがあって、遠く離れた大学病院へ診察を受けに行ったときのことだ・・・、こうした病院へは余り来たことが無い私は、妻と妻の母と一緒にその精神科のフロアで診察の順番を待っていたが、こうした診察科目だから、どことなくみんな元気がないか、反対になぜか用事もないのにうろうろしている初老の男性とかがいて、やはり普通の感じではなかった。

歴史がある古い大学病院と言うものは何となく作りが学校に似ていて、診察室やレントゲン室が横にずーっと並んでいて、その前に広い廊下があり、そこに硬いベンチが並んでいるのだが、その待合所のベンチに3人で座っていたら、突然遠くから何やら賑やかな声が聞こえてきた。

「わたし、嬉しい・・・」「わたし、嬉しい・・・」と言う言葉だけを繰り返しながら、両親らしい50代の夫婦に付き添われ、走るように廊下兼待合所を歩いてきたのは、多分20代前半ぐらいの女性だったが、誰が見ても一目で精神障害であることが分かった・・・白いワンピースを着ているのだが、裾をめくって足を手で掻いてみたり、両親が何度もスリッパを履かそうとしてもすぐ脱いでしまったりで、「わたし、嬉しい」しか言わない、顔は笑ったようににこやかなまま、目は完全に焦点が合っていなかった。

恐らくこの女性は病院へは何度も訪れているのだろう、近くにいた女性看護士さんは「○○ちゃん、元気だっだ・・・」と声をかけたが、その返事も「わたし、嬉しい・・」だった・・・が、それよりもっとびっくりしたのは、その女性が次の瞬間看護士さんの腰を抱いて、お尻を撫で回し始めたことだった。
いくら女性同士とは言え、この光景にはこの場にいた17、8人の人、その内半分ぐらいは付き添いの親族だったろうが、思わずギョっとなったに違いない、わたしも思わず目を伏せたが、「あら・・○○ちゃん、えっち・・」とくだんの看護士は笑っているのである。
そしてカルテらしきものを持って診察室へ入ろうと、「暫く待っててね」と女性に言うと立ち去ったが、女性は今度は廊下を行ったり来たりし始め、父親らしき人や母親らしき人が座っている所から、わたしたちが座っているところを、何度も何度もスキップを踏みながら往復し始めたのである。

何となく、そうなるんじゃないか・・・って気がしてた・・・。
そうこの場面では、みんながこの女性を恐れていたし、みんな自分のところへは来ないでくれと思っていた、私もそう思っていたし、だから女性が自分の前に来るたびに下を向いて、目を合わさないようにしていたのだが、看護士さんのあの対応を見れば明らかで、彼女がさっきみたいなことをするのは、そう珍しい事ではないのだ。

やがてその女性は私の前でスキップを止めた・・・そして下を向いているわたしに近づいてくるのが分かった・・・そして次の瞬間、ひざまずいたかと思うと、下から私に勢いよく抱きついた。
彼女はわたしの頬に頬を摺り寄せるようにして「わたし・嬉しい・・・わたし・嬉しい・・・」といい続け、対応に困った私は周囲を見回したが、みんな見て見ぬふり・・・「あーあやっぱりな・・」と言う感じで、隣にいた妻でさえ下を向いて顔を上げようとはしなかった。
少し離れたところにいる看護士さんに視線で助けを求めたが、その看護士さんの目は「暫く我慢してね・・・」と言っていた。

万策尽きた・・・、わたしは覚悟を決めて女性の肩に手をかけたが、わたしが引き離そうとすると思ったのか、女性は更に私にしがみついてきた・・・ああ・・この感触には記憶がある・・・そうだ淋しさと不安だ・・・。
人間は淋しさと不安がつのると、人にこう言うしがみつき方をする・・・、「わたし、嬉しい・・・」としか言わないが、この女性は不安なんだと気づいた私は、体の力を抜いて彼女の思うとおりにさせることにしたが、彼女は更に強くしがみついてきた。

時間にしてどのくらいだろう・・・恐らく1分も経過していまい、だが私には10分以上にも感じたが、そのうちさっき診察室に入って行った看護士さんが、診察室から出てきた・・・「あーら、○○ちゃん、良かったね・・・」と言って私に近づくと、女性の脇を抱えて私から離すと、手を繋いで今度は一緒に診察室へと入っていった。
その後から彼女の両親が、私の前を通って診察室へ入っていったが、その通りがけ、2人は私に「すみません、ありがとうございました」と頭を下げていった。

両親が気の毒だった・・・恐らくこの両親が死んでしまえば、彼女は1人で生きなければならないだろう、それを思うと私は胸が締め付けられる思いがした。
生物は進化のメカニズムとして、必ずその種族に3% 程の奇形を起こさせる。
その奇形の程度は軽いものもあるが重いものもある・・・、そしてこうした奇形は自然現象だろうが、人為的だろうが、あらゆる手段で同じ比率を持っていて、非常に不安定な存在で、生命力も弱い場合があるが、実はこの奇形の不安定さが自然環境が変わっていくとき、柔軟に対応し、次の次くらいの世代で完璧に変化した環境に順応した生命体となっていくのであり、地上の全ての生物は、こうして自身のうちから不安定なものを敢えて作り出し、それが次の進化の原動力になっている。

だから奇形がなければ生物の進化もないのだが、この奇形はあらゆる形で出てくるため、全てが可能性であり、こうした意味では遺伝だろうが、突然だろうが、障害を持つ人は未来の希望のために生まれた人達でもある。
だから、私たちは彼等に感謝しなければならないのだが、現代社会は表面上の優しさや美しさがあっても、それが現実になると目をそむけ、見ないようにしてしまう。

この大学病院で出会った女性が私に示していたものは性的な衝動だっただろう・・・だが彼女はそれをどうして良いのかが分からなかったし・・・これから先も彼女にその機会があるのかは疑問で、こうしたことは男性の障害者でも同じだろう。
障害者施設で働く職員は、恐らく日々こうした先の見えない問題に直面しながら、働いているはずである・・・が、こうした問題の解決策は無い・・・障害を持つ人にとっては、生き物の基本的な欲望を切り捨てられた状態での生活が余儀なくされている。 私たちは、このことを理解しておかねばならないだろう。

妻の母の診察も終わり、帰途に着いたとき、車の中で妻から、「若い女性によく、おモテになりますのね・・・」といやみを言われた私は、「あららら・・、下を向いて知らん顔してたのは誰だっけ・・」と返し、妻の母はそれを聞いていて笑った・・・妻の母の暫くぶりの笑い声だった・・・。