「ミンミン蝉の鳴く頃に・・・」

ぎらつく太陽、歩くと逃げていく舗装の水・・・。

頭上の小枝からはそれに追い討ちをかけるように「ミーン・ミンミンミンミ~」とけたたましい勢いで蝉が鳴く・・・。

何とも夏らしい風情だが、実はこのミ~ンミンミンと鳴く蝉、「ミンミン蝉」は意外と暑さは苦手だとも言われている。

それゆえ極端に夏の暑い地域には生息数が少なく、また湿度にも弱い事から、分布は山林の中と都市部周辺に多いとされているが、一方こうした環境の変化に個体を変化させて生息域を拡大する性質を持ち、この為同じ「ミンミン蝉」でも地域によって微妙にその個体の様相は違っている。

ミンミン蝉の個体変化、遺伝上の変化は他の蝉に比べると環境変化に適合し易い性質を持っているのだが、昆虫には良く見られる傾向で、色や形、大きさなどが環境によって変化し、固体統一形態ではない。

考え易く言うなら、人間でも住んでいる地域によって体型や髪、目の色、肌の色が異なるのと同じ事である。

ただ一様に涼しい夏の気候を好む事から、ミンミン蝉は北海道にも生息するが、西日本には東日本ほどの生息域が無い為、例えば山口県の人などにはミンミン蝉と夏が結び付かない、と言う場合も有るかも知れない。

ミンミン蝉は7月から9月頃までに発生するが、北に行く程早く発生は止まり、暑い地域ほど遅くまで発生する。

例えば北海道の気候に適合するミンミン蝉は、首都圏周辺の環境なら11月くらいまで生息する事が可能だが、実際には首都圏周辺での生息期間は9月中ごろまでである。

これは「遺伝情報の甘え」と言うシステムで、環境の厳しいところではギリギリまでその能力を伸ばすが、環境が豊かだと遺伝情報はその良い部分、美味しい部分を先取りして一杯になるからであり、このシステムは生物個体が一箇所に集中して自滅する事を防ぐ為のものでは無いか、或いは一つの種が長く繁殖する事を制御するシステムでは無いかとも考えられていて、当然の事だが人間も同じ性質を持っている。

気候的、理論的には11月でも首都圏周辺ならミンミン蝉は生息できるが、9月中ごろ過ぎには「ミ~ンミンミン」と言う声が聞こえなくなるのは、こうした生物システムの為であり、これに拠ってミンミン蝉の生息地域ごとの生息期間が定まっているものと考えられている。

が、しかし・・・。

私の住んでいる地域では10月4日、今朝も「ミ~ンミンミン」と言う蝉の鳴き声が聞こえてきている。

生まれてこの方9月初め過ぎにミンミン蝉の鳴き声を聞いた事は一度も無かったが、しかも当地は海抜90mの地域で、朝夕は気温が10度台前半まで下がるこの状態で、1匹なら何かの間違いと言う事もあるだろうが、あちこちから聞こえて来るのは如何なものなのだろう・・・。

もしかしたら電動の蝉が鳴いているではないか、このまま11月まで鳴き続けたら、絶対何か起こる・・・。

いや、今の段階でも充分おかしい・・・。

村人達は一様に不安そうに話しているが、まあ、先の事など誰も分かるはずも無い。

取りあえずこの事を記録しておこうと思う。

「戦争と平和」

平和と言う言葉は戦争と言う状態に対して、その対語として存在するもので、人間はこれを明確に概念として頭の中に描くことは出来ず、これをして言うなら戦争と言う現実は存在しても、平和と言う現実は戦争ではない状態としか表現できない。
英語のピース(peaca)、フランス語のぺ(paix)は、ラテン語のパックス(pax)をその語源としていて、それは協定の締結(pactum)による戦争の不在(absentia belli)を意味している。
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従って平和と言う言葉の意味、それがどんな状態であるかと言うと、戦争状態の終結が国家間の協定によって実現した、またはしている状態を指している。
即ちここで平和を考えるなら、戦争状態の合間の状態を指しているのであって、そもそも戦争と言う概念や現実がなければ、平和と言う概念もまた成立しないのである。
これが欧米の平和に対する基本的な概念だ。
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だが例えばインドではどうか、インドの「アヒンサ」(ahimsa)は包括する、包容力、または不殺生をその概念に内在させているし、日本語の平和もまた中世以降の仏教史観をその内に包括しているため、そこには単に戦争がない状態を指すだけではない、漠然とした幸福感も含まれてくるのである。
それ故、欧米の平和の概念は戦争と言う「主」に対する消極的概念だが、日本やアジアなどに存在する平和は、少なくとも状態を意味しない分、積極的概念であり、この観点から言えば中世ヨーロッパの民衆の中にも似たような平和の概念は存在した。
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その民族特有の文化を維持するために必要な物質的、精神的基盤(subsistence)を保護することを平和の意味にしていたのである。
だが近代西洋文明はやはりフランス革命の影響だろうか、例えばこうして中世付近には存在し得た漠然とした概念を明確化、文書化しようとした瞬間から狭義的概念へと変質して行き、そこには誰もが理解可能な概念、つまりこれが正しいかどうかはともかく、「平等」の精神が入り込んできたために、平和の概念が狭められた状況が存在してしまったように見える。
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また極端にリベラルな見かけが必要とされる近代欧米文明にあって、そこに中世には存在した宗教的不合理性が排され、数学的な理論展開が必要とされたに違いなく、こうした思想をあたかも真実の如く見せてきたのが、資本主義の行き着く先であった帝国主義だったと言うこともできる。
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そして世界はこうした欧米の平和概念を基本にしてこれまで動いてきたが、その結果がアメリカによるイラク攻撃であり、アフガニスタンへの侵攻である。
ここに見えるものは狭義の平和を用いて、この平和を維持するために戦争をするという、狭義の平和思想の空間的拡大、支配であり、これは平和の概念が広げられることと相反するものであることは言うまでもない。
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現代社会が持つ平和に対する概念は、基本的に明文化できるものではなく、これを明文化したものは、その大きな概念の一部にしか過ぎないが、この狭義の平和を用いてそれを推進しようとすると、宗教や伝統を包括した広義の平和とは対立が起こってくる。
これが現在の国際社会の状況であり、平和の概念とは、およそ同じ民族どうしであっても例えば民衆と官僚では違い、農民とサラリーマンでも違う。
これを統一した概念にしようとすればどうなるか、そこにあるのは必要最低限の平和、つまり戦争のない状態をして最終目的にしか出来ないことを、あらかじめ理解しない者には、永遠に平和など分かろうはずもなかったのである。
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またこうして平和に干渉した「平等」だが、この対語は「不平等」ではない、平等の対語は「自由」であり、平等と自由は同時には存在できない。
ゆえに現在我々の社会に存在する自由も平等も、限定されたものであり、純粋な自由も平等もこの地上にその存在が許されてはいないばかりか、求めてもならない。
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およそ生物として後代に子孫を残せるものは、その最も優秀なところから順位が優先されるのは自然の理であり、ここに平等を求めるなら、その社会は1人の王とそれ以外の奴隷、この内奴隷で有れば平等は成立するが、生きていたい、明日も生きたいと願うなら、その瞬間から平等などその個体内に存在し得るものではなくなり、自身が求める平等は、自身がそう思えるだけで、決して「他」に取って平等とはならない。
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平等の精神の根底に潜むものは、その出発点から始まって「比較」であり、この意味で平等とはその思想の始まりからが不平等を意識したものとならざるを得ず、初めから矛盾なのである。
また自身の自由は「他」の自由を奪い、「他」の自由を尊重すれば、そこに自身の自由は存在できない。
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自由とは常に全体に対する「個」であり、これを突き詰めれば確かに平等へと行き着き、同じように全てが他と均一であることを望み、これを突き詰めるなら、そこには完全なる自由が顔を出すだろうが、この状態はどう言う状態かと言えば、世界に自分1人しか存在しない状態を言う。
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平和、自由、平等、これらは何かの形を持たず、日々人により時間により動いているものであり、存在していても言葉に表すことはできず、また文字にもすることは叶わない。
それ故これを止まったものと考え、何かの突起を見つけ、それに先鋭化し具現化した場合は、いかなる時も過ちとなり人々に不幸をもたらす。
これが戦争である。

「共存」

2008年9月25日、1度絶滅した朱鷺(とき)がついに日本の大空を舞った。
関係者は長年の苦労に涙を流して感激し、多くの見物人もこれを喜んで眺めた。
ニッポニア・ニッポン、学名でも日本を代表するこの鳥は、昭和30年の時点で数羽しか残っておらず、それも昭和50年代には絶滅したとされていたが、日本の空にもう一度朱鷺を・・・と願う多くの人達、中国政府の協力もあって、ようやく中国の朱鷺を親にした孵化に成功、地道な飼育と自然環境で餌を取れるよう訓練までして、選ばれた10羽がこの日新潟県の大空に放たれた。

しかし現地で朱鷺が放たれた時点で1羽が既に行方不明、同じ年の12月16日には山でメスの1羽がタヌキなどに襲われて捕食された残骸で見つかった。

思うに、人間と言うのは何と残酷で傲慢な生き物なのだろう。
1度自然の状態で滅んでしまった生物を、もう一度空に舞う姿を見たいと言う1部の人間の意志によって無理やり復活させ、それを飛ばして喜ぶ、このありようは何なのか。
自分が見たいと言うだけで、自然と言う摂理がなくしてしまったものを蘇らせる、このことがいかに危険なことなのかを関係者や、のんきに空を眺めた人達は考えたことがあるのだろうか。
朱鷺は昔から農家にとってはサギと同じように害鳥だった。
苗を植えた田に入って餌を取るため、苗が踏まれ、そこだけ米が取れなくなるのだが、こうしたことを言う人間が日本には1人もいないのが不思議である。

日本野鳥の会と農家は天敵同士のようなもので、片方はサギの巣を保護しようと監視までして、片方は何としても巣を落として、サギの数を減らさなければと必死の攻防である。
またカモなども、実った米をあぜ道に沿って食い荒らすため、農家はその巣を見つけたらすぐに卵は持ち帰り、ゆで卵にする有様で、家の父親などは野鳥の会と聞いただけで、「帰れ」の一言だった・・・。

自然と言うのは2つの面がある。
一つは住んでいる者の自然、そうしてもう一つは見る者の自然だが、住んでいる者の自然とは生活に密着していて、そこには大局的な生物体系や、景観、あるものを守ろうとする概念が無い。
片方、見る側の自然は、大局的な生物体系や保護の概念があっても、そこに暮らす人達のことは考えられていない。
近年こうした実体が無視されて、地域住民の暮らしに不都合な問題が発生することから「世界遺産」の指定を受けることを躊躇する地域があるのはそのためだ。

日本と言う国は不思議な国である。
全ての地方自治体が、当地の産業は「観光」がメインになっていて、「観光」をスローガンにみんな協力させられているが、その実そこの地域で観光産業などほんの1部なのであり、では観光産業が他の産業のために何かすることが有るかと言えば、何も無いのである。
日本の全地域がうちは観光で・・・と言っていてどうしてこれが成立すると思うのかそれが分からない。
コインばくちで、みんなが表に賭けているのと同じなのだ。

朱鷺を巡っては北陸の各県がこの次の放鳥場所となることを環境庁に陳情しているが、観光業者はそれで良いだろう、また多くの関係ない者も賛成だろう、だが直接被害が出る可能性のある農家は、苦い顔で賛成している者もいることを知って欲しい。

数年前から家の田んぼの用水付近に2匹のサンショウウオがいて、多分オスとメスだとおもうのだが、年々大きくなってきているが、これは特別天然○○物の○○サンショウウオではないかと思う。
だが、私はこの話を家の両親には話したが、一切口外しないように口止めしている。
もしこれが発覚すれば、その付近は保護地域になり、人間が手をだせなくなり、毎日のように見物客が来て・・・になることは間違いなく、その結果それまであった綺麗な環境は荒れて、最後はサンショウウオが住めなくなるか、死んでしまうかどちらかになるのは、目に見えて分かっているからである。

このサンショウウオは私が田んぼを作っている環境で、少なくとも5年以上は暮らし、この環境に適合している。
即ち私とサンショウウオは「共存」しているのだ。

「秋の味」

深い山を分け入る訳ではなくても少し山に入れば、周囲の小さな雑木などに巻きついた、細長いスペードの真ん中に折り目が付いたような小さな葉っぱを付けたつる草があり、このつる草にねずみ色の2cm程のジャガイモ状の実が沢山付いているが、これが「むかご」と言って、このつる草の根を掘って行けば、「山いも」を掘り出すことができるが、「むかご」は畑で栽培している「自然薯」(じねんじょ)にでも同じようなものが実をつける。
 
しかしこの「むかご」、現在でこそ何か高級食材のような扱われ方をしているが、田舎ではあくまでも「代用品」、粗悪なものとしての位置づけしかなかった。
つまりは基本的に食料がある時代には無視されるものでしかないのだが、太平洋戦争当時の食料のなかったとき、子供達はこれを山で採ってきて、それを茹でておやつ代わりにしたり、また醤油で煮て惣菜代わりとしたものだったが、この「むかご」の青臭さと芋が混ざったような味は、ある種辛い時代を思い出せる「不味さ」である人も多いことだろう。
 
先日「田舎の食材再発見」なる地域セミナーがあり、誘われてこれに参加したおり、ここで都会から来た料理アドバイザーなる女性が作った、「むかご」を塩で米と炊き込んだ「むかご飯」なるものが出て来たのだが、気持ちは有り難かったが、余りの不味さに私は飲み込むようにして一膳食べるのが精一杯だった。
これは本来食べるものではなく、人に出せる料理ではない貧乏料理だ。
あくまでも非常時であればこそ、仕方なく雑草を食べるのと同じ概念のものでしかないが、近年これを美味いと感じる人がいると言う事は、実に奇妙なことだとしか言いようが無いが、味覚にまで価値反転性の競合が始まっているとしたら大変深刻な感じがする。
 
人間は現状を維持しようと言う部分と、その現状を壊そうと言う部分の2つの相反する性質が同体になって精神を構成している。
だから価値観は常に守ろうとするものと、それを壊して行こうとする動きが同時に起こって行くのだが、日本のようにバブル経済が崩壊してから以降、あらゆる価値観が混乱してしまった国家に措いては、その価値観が高い方向性を確定できないことから、より劣悪な方向に絶対的なものを見る傾向になり、しかもそこに絶対性を見ることからより劣悪なもの、劣悪なものへと価値観が向かう、これを「価値反転性の競合」と言うが、こうした傾向は本来の大道を否定し、劣悪なものが表となっていく傾向を示す。
 
芸術で言えばあまりも極端な民芸志向が発生すると、一流のものはそれが一流であることをして否定されるのと同じことが起こってくるが、これは本当はコンプレックスの裏返しでしかなく、つまりは本流の道があらゆる価値観で混乱したら、元々貧相な傍流が一時的には注目されたに過ぎず、「本質」の前には絶対立つことができない。
 
考えても見れば分かることだが、「山いも」が有って「むかご」が有ったら誰が「むかご」を好むかであり、この場合「むかご」の方が美味いと言う場合は、その脳による自己暗示でしかない。
すなわち人間の味覚もまた脳がそれを感じさせているものであるから、人間にとって本質の味とは常に固定されてはおらず、それが文化的土壌や慣習によって少しずつ変調を起こした場合、どれが美味くてどれが不味いかの基本を失い、そこで自称味覚音痴の食通が、己の歪んだ精神から来る歪んだ感覚で、「これは美味い」と言ったものを信じ込む傾向が出てくる。
 
そして自分の価値観が無いと、味覚と言うものですらこうした流行と言う虚飾によって変質させられることに気づかず、それを絶対だと信じこんでしまうが、例えばこれまでは本質であった「山いも」が出てきても、精神的に自身で味覚を歪めてしまった者にはこの味の客観的判断ができず、自身の価値観を否定されたくないがために、更に頑なになって自身の価値観に絶対性を信じることになるのである。
 
ああ、これはいけない。
たまには料理の話でもしようと思っていたのが、また自身の歪んだ価値観で社会を見た話になってしまった・・・。
 
話を本題に戻そう・・・。
山いもは、例えば「むかご」の付いたツルを見つけたとしても必ずその下に有るとは限らないが、「むかご」が付いたツルの位置を覚えておいて、このツルが枯れた頃にその場所を掘ると収穫できる。
そしてこの場合「山いも」を折らずに掘るのは大変な作業になるが、こうしたことを考えると、斜面に生えているツルを憶えておくと、斜面は横から掘るのでこれは作業が楽になり、比較的簡単に「山いも」を収穫できる。
 
それから持ち帰るときは「山いも」が折れないように比較的真っ直ぐな木の枝を3本折って、これを「山いも」を囲むように添え、それをつる草で軽く縛って持ち歩くと、家まで折らずに持ち帰ることができるが、この「山いも」を綺麗に洗ったらすりおろし、別にダシの利いた味噌汁を作って置いて、この味噌汁を「山いも」をすりおろしたものの中に適量、恐らくは量的に半分かも知れないが、加えてよくかき混ぜる。
そしてこれをあたたかいご飯の上にかけると、何とも優雅な秋の味覚と言うものになろうか・・・。
 
またこれと同時に旬の食材で言えば「カツオ」を先に味付けをしないで焼き、冷めたら実をほぐしてそれを千切りにしたたっぷりの大根と味噌で煮ると、これもまた何とも言えないこの季節の味がするが、こうしたものと白菜の一夜漬、それに里イモと豆腐や油揚げ、キノコとニンジンの煮物、更には「アジの開き」などがあれば、これで五菜が揃うことになる。
 
これらを朱か黒のお膳に、やはり漆器の器に盛って乗せ、それを縁側へ持って行き、なめこの火鉢を脇に置き、織部の杯で熱燗を傾け、夜風にあたりながら星を眺める・・・。
更に願わくば、目の前の田んぼに舞台などが組まれて、そこで白拍子などが舞えば、もうこの世に未練などないであろう秋の風情と言うものに違いない・・・。
 
「今都会ではむかごが注目を浴びていて、大変高級な食材になりつつあるんですよ、田舎には沢山良いものが有るんですが、そこに住んでいる人はなかなかこうしたものの価値に気が付きません」
「そこで私達のような都市の視点で客観的にものを見ることが重要になってくるのです」
セミナーで都会への発信を熱く語る、私より少し若いくらいの女性アドバイザーの言葉、しかし私は都会へ発信するために毎日ご飯を食べているのではないのだが・・・。

「神の手」

第一次世界大戦が始まって間もない頃の1914年8月23日、圧倒的軍事力を誇るプロシア(ドイツ)軍と戦っていたイギリスとフランスの連合軍は、ついにベルギーのモンスで完全にプロシア軍に包囲され、ここに引くも進むも、そこには「死」有るのみの状態となってしまった。

「おお、神よ、我々に力をお貸しください」
進退極まった兵士たちはもはやこれまでと、天に祈りを捧げる。
刻々と迫ってくる最後の瞬間、もはやプロシア軍はその眼前にまで迫っていた。
その時だった、迫り来るプロシア軍と包囲された連合軍の間に、どこからともなく黄金のマントを翻し、白馬にまたがった十字軍風の騎士たちの一軍が現れたかと思うと、彼らは一斉に何千と言う矢を放ち、その矢はまたたく間にプロシア軍兵士たちを倒していき、ここに連合軍の退路が開けたのである。
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モンスでの苦戦は後方に有る病院でも話題になっていたが、もはや絶望視される中、1914年8月26日になると次から次へと傷を負った兵士たちが帰ってきた。
そして彼らは一様に天の軍が、天使達に助けられたと証言したのである。
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このことは敵で有るプロシア軍でも記録が残っている。
それによると、8月23日、連合軍を包囲したプロシア軍の前に突然白い大きな光が現れ、それと同時に体が動かなくなったと言うのである。
また別のプロシア軍兵士はこうも証言している。
「違うんだ囲まれたのは俺たちだった。俺たちは何千と言う古い装束の兵士たちに囲まれ、彼らから何千と言う矢を受けた」
「でもおかしいんだ、俺は10本ほどの矢に射貫かれたが、血も出なければ死にもしない、ただ体が動かなくなるだけなんだ」
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またこれはヘルシンキ大学のウィレニウス教授の調査資料だが、そこには1939年ソビエト軍がフィンランドに侵攻したおり、圧倒的軍事力を有するソビエト軍に対して、これと互角に戦い撃破したフィンランド軍の奇跡、いわゆる「雪中の奇跡」に付いての記述があり、ここでは当時冬の寒さを甘く見たスターリンと、白い服を来てゲリラ線で戦って行った、フィンランド軍の意識的な差に付いて述べられている。
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実に11月から戦争を仕掛けたスターリンは、この年の冬が氷点下40度以下の厳しい気象条件下の戦いになることを予想しておらず、為にソビエト軍の死者はその82%までが凍死者だったのである。
更にウィレニウス教授の資料には先程の意識的な差に付いて、中々興味深い記録が残されている。
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そこではやはりプロシア軍に囲まれたイギリス、フランス軍と同じように、ソビエト軍に囲まれたフィンランド軍兵士の話としてこのような証言が残っている。
「私たちがソビエト軍に囲まれた時、こちらはゲリラ戦ですから精々が数十名単位しかいませんでした」
「それをソビエト軍は何百人もの兵隊で囲み、銃で撃ちまくりでした」
「でも12月24日のことでした、私たちは囲まれて万事窮す、これで終わりかと思って天を仰いだんです」
「そしたら突然空が眩しい光に覆われ、その眩い光の中に翼をはやし、光の十字架を掲げた天使が浮かび上がってきたんです」
「これを見たソビエト軍は大慌てでした。その隙に私たちは逃げることが出来たんです」
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なるほど、神が後ろにいてくれるなら、「死」すら容易いことかも知れない。
この意識の差がソビエト軍を撃破したフィンランド軍の力の源だったのかも知れない。
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そしてこれは新聞にも配信されたことから、知っている方もおられるかもしれないが、1973年5月、第4次中東戦争中の出来事だった。
ヨルダン川ではエジプト・シリアの連合軍がイスラエル軍と対峙していたが、この当時のイスラエル軍は既に戦争で資金も食料も底をつき、もはや限界の状態だった。
それに対しエジプト・シリア軍は実にイスラエルの24倍と言う重火器類を装備し、ここで一挙にイスラエルを殲滅すべく、戦車部隊を集結させていた。
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エジプト・シリア軍の戦車は大挙して確実にイスラエル軍に迫ってくる。
イスラエル軍兵士たちは誰もがこれで終わりを覚悟し、残された選択はもはやどう死ぬかしかなかった。
「神よ・・・・」
大方の兵士たちは覚悟を決めた後、目をつむって死を待っていた。
が、しかしやがて何かがおかしいことに気づく。
たしかにエジプト・シリア軍の戦車軍団の音は聞こえるが、その音がなぜかいつまで経ってもこちらへ近づいて来ないのだ。
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エンジンは出力を最大にして唸り声を上げている、恐ろしい程に早い回転となったキャタビラは砂をもうもうと巻き上げ、凄い勢いとなっている。
しかしどうしたことかエジプト・シリア連合軍の戦車は一向に前に進んでいなかった。
そればかりか暫くすると唸りをあげて前進の出力を最大にしている戦車軍団は、前進しようとしながら少しずつ後退していくのだった。
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「なんだ、これは一体どう言うことなんだ」
これにはさすがにイスラエル兵士たちも我が目を疑った。
しかしやがて後ろのイスラエル軍兵士たちからポツポツとこんな声が聞こえて来る。
「神だ、神の手だ・・・」
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何とこんな事があって良いものだろうか、エジプト・シリアの戦車軍団とイスラエル兵士たちの間に突然光輝く巨大な手が現れ、その手は侵攻して来る戦車軍団を押しとどめたかと思うと、今度は少しずつ押し返していたのである。
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気象現象でもごく稀にだが、空に大きな人の顔のような雲が出現する事が有り、凄いものになると、目の部分がウィンクしたように見える場合まである。
全く人間の手としか言いようのない大きな手が出てきたように見える雲も有れば、空間が直線で切られたように見える現象もある。
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私も今度何か困ったときが有ったら、少しだけだが「神よ・・・」と言ってみようかと思う・・・。