「危険な理解」
「朴葉飯」(ほうばめし)
朴木(ほうのき)は木材の硬さとしては中の少し下、つまり若干柔らかい方の部類に入る木だが、この繊維は大変緻密で滑らかな事から、細かい細工を要する加工品の材料としては古くからの実績を持つ。
漆器の素地としても「椀」「曲げ物」「指物」「朴木」と言う具合に、輪島塗では一つの素地形態の一角を占めるものだが、30年ほど前は飾り蜀、仏壇の装飾、茶棚やテーブルなどに用いられたものの、現在はこうした大型なものよりブローチや小箱などの小型加工品が主流となっている。
朴木を使った輪島塗素地は、1980年前後までは「朴木屋」と言う素地分業制の一つの部門を占める、素地加工の中では最も高度な技術を要する部門だった。
従って「朴木屋」を称する家は、その加工品に必ず朴木を使用する事を鉄則としたが、現代の輪島塗の「朴木屋」は必ずしもこの範囲が厳守されている訳では無い。
輪島塗の分業制は他分業制を侵さない事をして、自身の存在も守られる形態だったが、厳密には平成に入った頃から低迷した輪島塗需要に拠って、一分業制だけに留まっていると生活が成り立たない状態が発生し、この中で営業が塗師屋、塗の職人は営業を侵さないと言う塗師屋と職人の関係、蒔絵部門の作家主導主義に拠る、営業枠への進出などに拠って、まず塗師屋と職人の分業が崩壊し、次いで素地は塗を侵さないと言う素地と塗の分業範囲が崩壊した。
この事に拠って従来は「朴木」と言う分業枠に在った木地屋も塗を手掛けるようになり、現在では元は朴木屋でありながら、塗師屋を名乗っている場合も有り、下地職人や蒔絵師が塗師屋を称している場合も在る為、区分としては1990年以前の塗師屋と、これ以後の塗師屋の公的概念は同じではない。
現在の輪島塗は各分業制が入り乱れた状態にあり、この意味では誰がどの分業制を自称しても構わない「フリー分業」と言う形態になっていて、皆が必要に応じて必要な分業区分を名乗るのが一般化している。
さて難しい話はここまで・・・。
今朝は何の為に「朴木」の話をしたかと言うと、朴木の葉っぱの話がしたかったからで、朴木の葉はとても大きくて、長さは50cm、幅25cmを超える、とても大きな葉が春になると出て来る。
私の住んでいる輪島市三井町では大半が林業と農業を生業にしていたから、昭和40年代までは6月が田植えになっていて、この忙しい時期の弁当として「朴葉飯」(ほうばめし)と言うものが存在した。
ご飯に塩を入れたきな粉をかけ、それを大きな朴の木の葉っぱで包み、十字に紐をかけて結わえた簡易弁当、味も平時で有ればそれほど旨いとは思えない代物だったが、厳しい田植え作業の合間に開いて食べると、朴木の香り、きな粉の香りが大変素晴らしく、とてもおいしく感じたものだった。
幼い頃、山間地の田んぼへ両親が田植えにいく時、私は一輪車に乗せられて、皆の昼飯で有る「朴葉飯」を沢山抱えて行くのが仕事だった。
山は緑が濃くなり、遠くの道では狐がこちらとの距離を測りながら私たちを見ていた。
そして、私は時折「朴葉飯」の紐をほどいて中を見ながら、早く昼にならないかな・・・・と思っていたものだった。
かなり前だが、子供が小さかった頃、朴の木の葉を取って来て「朴葉飯」を作った私は彼らにそれを食べさせたが、その評価は散々なものだった。
やはり「朴葉飯」は山と田植えの味だったか・・・・(笑)
「言語の理解」
「お願いしたい事が有るのですが・・・」
毎週日曜日の朝9時に電話することが決まっていた私は、その日もいつもの公衆電話で5000円分の100円硬貨をポケットに入れてダイヤルを回していた。 この頃はまだ携帯電話と言えば、信じられないかも知れないがアタッシュケース程の大きさがあり、価格は100万円という代物しかなく、とても一般庶民が手にできるものではなかった為現在よりはあちこちに公衆電話があり、東京へ出て間もない私は部屋に電話を引いていなかったことから、遠距離恋愛中の彼女へ電話するときはいつもこうして公衆電話を使っていた。男も女も暫く付き合っていればいろんな悪知恵が働くようになるもので、長電話を注意されていた彼女のために、ホテルに勤務している彼女の両親が絶対出勤している日曜日の午前9時に電話するようになっていたのである。遠距離恋愛中の2人の電話などたわいないもので、せいぜいが近況報告、そして好きだ愛しているで締めくくられるのだが、電話が情報源の全てと言う状況では僅かな言葉のニュアンス、接続詞の運用のまずさで疑心暗鬼に陥ることも多く、大抵前回電話したとき掘った墓穴を何とかカバーし、また新たな火種を作る作業を繰り返していたものだ。 いつも使っているこの公衆電話がなぜ都合が良かったかと言えば、この電話は狭い路地の中にあって長電話していても後ろからせかされることがなかったからだったが、その日は珍しいことにボックスの外で髪の長い、いかにもキャリアウーマン風の女が私の電話が終わるのを待っている様子だった。 この手の女は大体気が短いことに決まっていたから、暫く電話を続けていれば諦めて他へ行くだろうと思っていた私は気にせず電話を続けたが、女はなかなかいなくならなかった。 「すみませんでした」私はその女に軽く会釈をしてその場を立ち去ろうとした。 「何かご用でしたか」立ち止まった私に女は「すみませんが、ここへ電話して貰えませんか」とメモ用紙に書かれた電話番号を差し出した。 「会社の名前と部所を聞かれたらどうします」 女が可哀想だった。 次の週から私はこの電話ボックスを使わなくなった。 女とはこれ以来会うことはなかったが、それにしても私が本名を使って電話しても、それが女からの電話であることが薄々でも察知できる男と、面識すらない男に恋人への電話を依頼する女、2人の電話テクニックは相当なものであり、親の目をかすめて電話している私たちは何かが浅い気がしたものだった。 切れそうな糸を辿ってでも関係を続けたい女、2人の女の情念に何か大切なことを判断できずにいる男、実に恋愛の醍醐味はこうした危うさにあるのかも知れず、こんな絶望的な関係であっても未来はどっちに転ぶか分らないのが人の世と言うものなのだろう。 |