「グラジオラス」

今年は早くからツバメがやってきて、その数も大変なものだった。
凡そ15組ものツバメ夫婦が2度卵を孵し、中には3度もヒナを育てた者たちもいたようで、おそらく今年だけで家から200羽のツバメが巣立って行く事になったのではないかと思う。
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そして今は最後の巣に5羽のヒナがいて、親鳥が一生懸命餌を運んでいるが、このヒナが飛び立てば私の夏も終わる。
だがきっと今年の夏の暑さはツバメたちに取っても結構堪えたのでは無いか、普通なら巣立って1週間ほどすれば家に帰ってくることはないが、どうも昼の暑さを避けているようで、日中は沢山のツバメが建物の中を遠慮なくバタバタと飛んでいる。
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また少し山の近くに有る畑へ出かけると、こちらには空を数え切れない程のオニヤンマが飛んでいて、私の姿を見かけると「誰が来たんだろう」と言うような顔をして近付いてくる。
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午前4時39分、まだ明けやらぬ道に自転車をこぐ私は、今日こそはスズメバチの巣を退治しようと、強力噴射殺虫剤を手に水利ポンプ小屋へ急ぐが、少し先の道に何やら黒い塊が転がっていた。
「さては狸が車に轢かれたか・・・」と思い近づいて見ると、それはいつも家に来て狼藉を働いていた隣家の猫だった。
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頭から血を流し、内臓が少し露出した姿で既に事切れていたが、「馬鹿だな、死んでしまったのか・・・」と声をかけた私は、その硬くなってしまっている亡骸を道の端に寄せ、明るくなって活動し始めたらどうにも手が付けられなくなってしまうスズメバチ退治に急いだ。
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先日田んぼに水を当てようとして、うかつにもポンプ小屋に近づいた私は、その木の壁の穴の中にスズメバチが巣をかけている事を見落とし、見事に首を刺されてしまった。
それで以後水を見に行く度に蜂に刺されていたのでは辛い事から、蜂専用の殺虫剤を買ってきて退治しようと言う事になったのだが、如何せん、僅かに薄明るくなった巣穴の付近には既に2、3匹のスズメバチが出て来ていた。
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仕方なく少し離れたところから巣穴に向け殺虫剤をかけたが、おそらくこのような事で蜂が巣を諦める事は有るまい、明日こそはもう少し早く来て、巣穴に直接殺虫剤を噴射してやると心に誓い、また自転車で猫の所に戻った。
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家の猫はいじめる、餌は横取りする、暑いのであちこち開けてある窓や戸から侵入し、食べられそうなものは全て食い散らかして行くギャング猫だったが、そうした事を咎めもしない私の顔を見て、僅かに「しまった」と言うような表情をする猫だった。
隣家の高齢者夫婦は2人とも足が悪く、特に当主は数日前に病院から退院してきたばかりだ、きっと飼い猫を葬ってやることもできまい、いやそもそも隣家には10匹以上の猫がいるから、こいつが死んだくらいの事では気がつかないかも知れない。
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「どこまでも手間をかけさせやがって・・・」
私は家に帰って新聞紙を持ってくると、それで猫をくるみ、自転車の前カゴに乗せて家に戻った。
そして川辺の土手に埋め、少し大きめの石を置き、畑に数本だけ残っていたグラジオラスを供えた。
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やがて完全に太陽が登った午前6時30分頃、サトイモに水をかけていたら隣家の当主の姿が見えたので、先程の顛末を話して聞かせると、意外にもどこかでそれで良かったと言うような話だった。
隣家でも他の猫をいじめ、やはり狼藉ざんまいだったようで、くだんの猫はどちらかと言えば嫌われていたようだった。
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「おまえ、誰にも悲しまれずに死んで行ったのか・・・」
私はいつも見つかると「しまった」と言うような顔をしていた猫を思い出した。
「馬鹿だな、本当に手間をかけさせやがって」
「仕方ないから、俺だけでも悲しんでやるよ、だが特別だぞ・・・」
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さっき作ったばかりの猫の墓の前で、そう心の中で呟いた私の前を沢山の子ツバメたちが舞い、スズメバチがアブが横切り、オニヤンマも赤とんぼもスイスイ泳ぐように飛んで行った。

 

「危険な理解」

AI,人工頭脳で言うところのフレーム理論、これは「共有の場」を意味するが、例えば正直に生きるとした場合、この正直の範囲は相反した命題までも包括し、限界が無くなる。
正直と言う言葉に限らず、人間の言語や語彙には相反命題が存在していて、常にその場、その時、または相対するものによって同じ言語でも同じ意味を為していない。
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正直に生きるとした場合でも、それは社会的に正直であることと、人間として正直で有ること、生物として正直で有る事とは同じにならず、社会的正直であれば金に執着する事は決して褒められたことにならないが、「金が欲しい」は人間的には正直な言葉と言え、ここに言語や情報が伝達され、それが理解されると言う経過の中には「共通の限定」が必要になってくる。
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言語はそれ自体が「縛り」であり、ある種の限定だが、それでも漠然とした価値観は無限に近い範囲を持ち、この中では僅か2人だけの間で為される情報伝達でも、極めて不完全なものにしかならない。
そこで人間の言語には「今どこで話している」かと言う言語の限定が必要になってくるのであり、ここで正直と言う命題を社会的なものに縛った状態、限定した状態を「フレーム」を付ける、若しくはフレームと呼ぶ。
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だがこのフレームはそれがAIで有ろうが人間で有ろうが決して一致する事は無く、そもそも人間の思考回路、感情などの情操構成は、人間の中に存在しているそれぞれの専門分野の自分が、400から人によっては700程存在していて、それら一つ一つが世界を持ちながら、全体の自分と言う世界を構成し、時間経過や場、その他環境によって常に変化し続ける事から、本質的に「今自分がどこに在るのか」を特定できる瞬間が無く、従ってフレームが出来たとしても、それは常に揺らいでいる。
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だから人の話や感情はどんな場合でも完全に理解することはできず、仮にフレームと言う共通の場に有ったとしても、その事が次の瞬間には移動していない保証は無い事から、大まかな点ではフレーム付近に多くの自分が集まっていると言う程度のものでしかない。
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旅行の話をしている時、その場では旅行と言うキーワードが特に意識される事無く「場」に存在し始め、ここでもし政治の話題が出てきたとしても、それは旅行と言うキーワードから飛んで行ったものと言う事ができるが、フレームの重要な部分は複数形に有って、単体、若しくは複数でも相手が存在する為に発生してくる事である。
このことから言語には「理解して貰いたい」と言う意思と、「理解したい」と言う動機が有って、意識せずとも社会が共通に持っている基本フレームに相互が自主的に参加するプロセスが存在する。
しかしこうしたプロセスの本質はそこに事実の正確さや客観的整合性が存在しているから始まるのではなく、この入口は「感情」である。
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事実と言うものと、人間がそれをどう判断するかは同じでは無い。
アフォーダンス理論(affordance theory)によるところの「環境が生物に提供する価値や情報」は、情報が存在自体とそれを判断する側のどちらに有るかを定義するものだが、赤い花は主観ではない。
ゆえ人間がその花を見て赤いと判断した、その情報は赤い花が提供している情報である。
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しかし、問題はこの「赤い」と言う色である。
前文にも有るように、それぞれの人間は自身の内に各専門的な分野の400から700程の自分を持ち、それらが複雑に絡み合って自分を形成している。
この400から700程の自分は子供の頃はランダムに絡み有っているが、これが大人になっていくに従って社会と接触することで少しは整理が付くものの、誰かと同じプロセスを辿る確率は皆無である。
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それゆえ一人として自分以外の人間が同じ赤とは認識できないのであり、ここで赤い色はイメージ補正が為された状態で認識される事から、人間は安定した赤い色を認識しながら、誰一人として正確な赤を認識する者はいないのである。
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赤い花は正確には太陽光の入射角度で違って見えるはずであり、この点では天気の良いに見る赤い花の赤と、曇った日に見る赤い花の赤は違うはずだが、一人の人間の中では同じ赤に見えるように意識修正が為され、この意味では情報は常に自分の脳によって歪曲されている事になる。
つまり事実は事実として存在しながら、それをどう判断するかは自分が行っていると言う事であり、人間の中では事実は存在できないのである。
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その上自分が思っている赤と言う色は、時間や場所、環境によっていつも揺らいでいて、一瞬たりとも同じである事が無いにも拘らず、自身の内には絶対的なものとして存在している。
このことから、自分が思う赤い色は絶対に他人に伝えることはできず、カラーチャートを見ればそれで影響されて自分の赤は吹っ飛び、そこに有るのは「大体こんなもの」と言う赤の色なのであり、人間はこうした環境で相互が理解しよう、または理解したと思っている訳である。
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そしてフレームはこのように不安定で、根拠の無いものだが、それでも赤と言う言葉のフレームにより、細部では異なるものの近似値では赤で有る事から、微妙な勘違いでも大まかな情報を伝達できるのであり、ここでのキーポイントは相手と言うことだ。
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情報の伝達は言語のみでは伝達できず、人間は基本的に同じ瞬間を持たない事から、その瞬間の全てのアフォーダンス、(物質が発する情報)によってやっと少しはマシな情報になるのであり、ここでは視覚のみならずその質感や言語のニュアンス、微妙な表情やシルエットのアフォーダンスによって、より高い精度の情報伝達が可能となる。
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つまり人間が本当に理解し合うと言う事は、その人間なり、アフォーダンスに直接会うと言う事に他ならず、現実に相対する存在が有っての話なのである。
緻密な描写で描かれたリンゴの絵が伝える情報は、そのリンゴの全ての情報の4%くらいだろうか、その程度のものだ。
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パソコンやiphone で見る動画やメールは絵と同じ情報で有り、その本質は「理解して貰いたい」「理解したい」ではなく、自分の中に存在する400から700程の、専門的だが不完全な自分が暴走した状態の情報処理、つまりは大部分が妄想や都合良く補正された情報認識になる。
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これは物質が持つアフォーダンスに比して非常に危険な理解と言える。

「朴葉飯」(ほうばめし)

朴木(ほうのき)は木材の硬さとしては中の少し下、つまり若干柔らかい方の部類に入る木だが、この繊維は大変緻密で滑らかな事から、細かい細工を要する加工品の材料としては古くからの実績を持つ。

漆器の素地としても「椀」「曲げ物」「指物」「朴木」と言う具合に、輪島塗では一つの素地形態の一角を占めるものだが、30年ほど前は飾り蜀、仏壇の装飾、茶棚やテーブルなどに用いられたものの、現在はこうした大型なものよりブローチや小箱などの小型加工品が主流となっている。

朴木を使った輪島塗素地は、1980年前後までは「朴木屋」と言う素地分業制の一つの部門を占める、素地加工の中では最も高度な技術を要する部門だった。

従って「朴木屋」を称する家は、その加工品に必ず朴木を使用する事を鉄則としたが、現代の輪島塗の「朴木屋」は必ずしもこの範囲が厳守されている訳では無い。

輪島塗の分業制は他分業制を侵さない事をして、自身の存在も守られる形態だったが、厳密には平成に入った頃から低迷した輪島塗需要に拠って、一分業制だけに留まっていると生活が成り立たない状態が発生し、この中で営業が塗師屋、塗の職人は営業を侵さないと言う塗師屋と職人の関係、蒔絵部門の作家主導主義に拠る、営業枠への進出などに拠って、まず塗師屋と職人の分業が崩壊し、次いで素地は塗を侵さないと言う素地と塗の分業範囲が崩壊した。

この事に拠って従来は「朴木」と言う分業枠に在った木地屋も塗を手掛けるようになり、現在では元は朴木屋でありながら、塗師屋を名乗っている場合も有り、下地職人や蒔絵師が塗師屋を称している場合も在る為、区分としては1990年以前の塗師屋と、これ以後の塗師屋の公的概念は同じではない。

現在の輪島塗は各分業制が入り乱れた状態にあり、この意味では誰がどの分業制を自称しても構わない「フリー分業」と言う形態になっていて、皆が必要に応じて必要な分業区分を名乗るのが一般化している。

さて難しい話はここまで・・・。

今朝は何の為に「朴木」の話をしたかと言うと、朴木の葉っぱの話がしたかったからで、朴木の葉はとても大きくて、長さは50cm、幅25cmを超える、とても大きな葉が春になると出て来る。

私の住んでいる輪島市三井町では大半が林業と農業を生業にしていたから、昭和40年代までは6月が田植えになっていて、この忙しい時期の弁当として「朴葉飯」(ほうばめし)と言うものが存在した。

ご飯に塩を入れたきな粉をかけ、それを大きな朴の木の葉っぱで包み、十字に紐をかけて結わえた簡易弁当、味も平時で有ればそれほど旨いとは思えない代物だったが、厳しい田植え作業の合間に開いて食べると、朴木の香り、きな粉の香りが大変素晴らしく、とてもおいしく感じたものだった。

幼い頃、山間地の田んぼへ両親が田植えにいく時、私は一輪車に乗せられて、皆の昼飯で有る「朴葉飯」を沢山抱えて行くのが仕事だった。

山は緑が濃くなり、遠くの道では狐がこちらとの距離を測りながら私たちを見ていた。

そして、私は時折「朴葉飯」の紐をほどいて中を見ながら、早く昼にならないかな・・・・と思っていたものだった。

 

かなり前だが、子供が小さかった頃、朴の木の葉を取って来て「朴葉飯」を作った私は彼らにそれを食べさせたが、その評価は散々なものだった。

やはり「朴葉飯」は山と田植えの味だったか・・・・(笑)

「言語の理解」

人間の言語に対する理解は「語彙解析」(ごいかいせき)、「統語解析」(構文解析)、「意味解析」「文脈解析」などが相互に影響しあって解析されているが、「統語解析」(syntactci analysis )では簡単な文章と複雑な文章を読むときの「後戻り」の仕方と文法の関係から、人間が文章を読んでいて理解できなくなると、文章の冒頭や直前に戻るのではなく、人間の記憶特性である「長期記憶」と短期間記憶を貯蔵しておく「短期記憶」のうち、短期記憶に貯蔵されている比較的顕著な特徴にまで遡っていることが知られている。
 
つまりここから言えることは他人の文章を読んでいても、それを理解する翻訳機能は「自分のもの」が使われていると言うことである。
また「語彙解析」(lexical analysis )については、例えば「上」「下」または「右」「左」と言う言葉を人間が読むとき、私たちはこれらを一見同じ時間で理解しているように思うかも知れないが、実はこれらの言葉に対する理解度には「差」が生じていて、基本的には情報を処理する時間に措いて相違点がある。
 
「上」と「下」ではどちらも同じに感じるかも知れないが、人間はその文字に対する関心度、つまり自分に関係が深い、またはより使用頻度の多い言葉に対して僅かながら早く反応し、その一つの文字が含有する意味の多さでもその反応が違い、一般に意味を多く含有するものほど情報処理時間が多くなる。
 
そして「意味解析」(semantic analysis )では、実験データとしてわかっていることだが、人間が文章を声に出して読む時、視覚(目)は実際に読んで発音している言葉より少し先の言葉を見て理解している。
このことから文章を声に出して読んでいるときには、先に広がる文章の意味を予測している事になり、この延長線上には「文脈解析」(contextual analysis )と言うものが存在している。
 
「清は和子に花を上げました。彼女はそれをとても喜びました」
この言葉を発音した場合、では「それ」とは何か、また「彼女」とは誰かを、人間は瞬間的に理解していると思うかも知れないが、これは実は「理解」ではなく「推定」を行っているのであり、ここで言う彼女が「和子」であり、「それ」が「清が花を上げました」と言う、行為の間に横たわっているものは連続性と言うものでしかなく、この連続性をして習慣上人間は推定をして、人の言語を自身で組み上げているのである。
 
言語の情報処理については、19世紀後半には既に神経生理学的な言語に関わる「ブローカ中枢」と「ウエルニッケ中枢」の存在が知られていたが、「ブローカ中枢」はその役割として「発音」や「調音」と言った運動能力的な制御を行っている。
このことから「ブローカ中枢」が人間の脳の「運動野」の近くに存在していることも偶然と言うことでは無いと思われている。
一方、「ウエルニッケ中枢」の働きは、主に言語の意味を理解する機能を制御していると考えられているが、人間の脳の大きな特徴は、言語機能系の神経が脳の左半分に集中して存在している点にある。
 
またこうした言語だが、言語を失う障害と言うものを考えると、そこには大別して2種類の要因が発生してくる。
一つは「知覚機能」の障害から来る失語、そしてもう一つは「言語機能」の障害による失語であり、このことから言語には入り口と出口があり、流れを持っていることが理解できるが、一般に言語はそれを理解する能力が失われても、言語を組み立てる能力を失っても「外」に対しては同じようにしか見えない。
 
だが人間がこうした2つの要因で全ての言語や理解を失うのかと言えば、厳密にはそれは違う。
このことは1893年、フランスの「デジェリーヌ」によって解説されているが、例えば人間の脳の「大脳左半球後頭葉」にある視覚中枢と、左右の脳半球を繋ぐ「脳梁」がともに損傷を受けると、話すことや聞くこと、書くことについての障害は起こさないが、読むことが出来なくなる障害を起こし、これを「純粋失読」と言うが、大脳左半球視覚中枢を損傷すると、基本的には右半球視覚中枢で左半球が受けるべく情報も処理することは可能だ。
 
しかし、こうした視覚的な情報を言語情報に変換する場合、大脳右半球から左半球に局在する言語中枢に情報が送られなければそれが変換できない。
このために左右の脳を繋ぐ「脳梁」が損傷を受けると、視覚情報と言語変換が繋がらず、したがって読むことが出来ないと言う状況が生まれるが、ではこれによって人間は書かれた文字や図形からの情報を全て失うのかと言えば、書かれた情報を音声に変換し、「聴く」と言う情報に変換すれば、これが理解可能であり、また簡単な図形文字なら指でなぞって、その運動情報からも図形や語彙表現文字などは理解が可能なのであり、さらには情報の変換がなされなくてもこれを処理する場合も有り得る。
 
これはどう言う意味かと言えば、純粋失読と言う事態に陥っても、例えば「花」と言う文字を見て、純粋失読の人が花の絵を選べないかと言うと、文字を見て花の絵を選ぶケースが存在するからだが、もともと視覚と言う情報と、言語情報が完全に別ならこうしたことは有り得ないことから、人間の脳は違う情報からでも、簡単なものなら総合的に理解することができる何らかの仕組みを持っていると言うことになるが、これはもしかしたら「折れた紙の原理」かも知れない。
つまり一度折り目が付いた紙は、伸ばしてもまた同じところが折れやすくなるのと同じ原理で、脳が情報を理解している可能性もあると言うことだ。
 
人間は現在に措いて使われている言語の複雑さ、その意味の高等な部分に措いて「言語」と言うものを比較的進化した形の新しいものであるように思っているかも知れないが、自然界では実に多様な音声言語が存在し、鳥もそうなら虫もそうだし、また音声の原理である「音波」を使って情報を処理している生物もあれば、人間の神経情報伝達手段である「電気信号」での反応が確認できる微生物も存在する。
 
このことから比較的「本能」の部分とは切り離された形で考えられ易い言語は、その実あらゆる生態系に備わった基本的情報手段であり、それは視覚や聴覚、運動機能などとも繋がった、遥か太古の生命から続く一つの流れの中にあり、人間はこうした他の生命の声や情報に、今更ながら多く耳を傾け、またそれを直視しなければならないように思う・・・。
あらゆる生命の音声表示や鳴き声は人間の為にあるのではない。
彼らが生きるためのものである・・・。

「お願いしたい事が有るのですが・・・」

毎週日曜日の朝9時に電話することが決まっていた私は、その日もいつもの公衆電話で5000円分の100円硬貨をポケットに入れてダイヤルを回していた。
この頃はまだ携帯電話と言えば、信じられないかも知れないがアタッシュケース程の大きさがあり、価格は100万円という代物しかなく、とても一般庶民が手にできるものではなかった為現在よりはあちこちに公衆電話があり、東京へ出て間もない私は部屋に電話を引いていなかったことから、遠距離恋愛中の彼女へ電話するときはいつもこうして公衆電話を使っていた。男も女も暫く付き合っていればいろんな悪知恵が働くようになるもので、長電話を注意されていた彼女のために、ホテルに勤務している彼女の両親が絶対出勤している日曜日の午前9時に電話するようになっていたのである。遠距離恋愛中の2人の電話などたわいないもので、せいぜいが近況報告、そして好きだ愛しているで締めくくられるのだが、電話が情報源の全てと言う状況では僅かな言葉のニュアンス、接続詞の運用のまずさで疑心暗鬼に陥ることも多く、大抵前回電話したとき掘った墓穴を何とかカバーし、また新たな火種を作る作業を繰り返していたものだ。

いつも使っているこの公衆電話がなぜ都合が良かったかと言えば、この電話は狭い路地の中にあって長電話していても後ろからせかされることがなかったからだったが、その日は珍しいことにボックスの外で髪の長い、いかにもキャリアウーマン風の女が私の電話が終わるのを待っている様子だった。

この手の女は大体気が短いことに決まっていたから、暫く電話を続けていれば諦めて他へ行くだろうと思っていた私は気にせず電話を続けたが、女はなかなかいなくならなかった。
さすがにこれでは落ち着かなくなった私は、彼女に外で自分達の電話が終わるのを待っている人がいることを伝え、また後で電話すると言って受話器を戻した。
用意した100円硬貨はまだ半分以上残っていたが、これはこれで嬉しいような少し淋しいような・・・。

「すみませんでした」私はその女に軽く会釈をしてその場を立ち去ろうとした。
だが意外なことに、「お願いしたいことがあるんですけど・・・」と引き止めたのはその女だった。
どうやら女は電話より私に用事があったようだが、勿論私はこの女とは始めて会ったし、会社の関係者とも思えなかった。
年齢は20代後半、もしかしたら30くらいか、グレーの薄手のロングコートはそれなりにセンスの良いものだったし、コートより僅かに濃いグレーの網タイツの足を覆う茶色のブーツも決して安いものではなかった。

「何かご用でしたか」立ち止まった私に女は「すみませんが、ここへ電話して貰えませんか」とメモ用紙に書かれた電話番号を差し出した。
その顔は何か困った様子ではあったが、「電話ならご自分でかけた方がいいのではないですか」と私は答えた。
「それが、私だと切られてしまうんです」
「それはどう言うことですか」
「ここへ電話すると女の人が出ます。そしたら部下だと言ってXXさんはいますかと言って呼び出して欲しいんです」
女は全てが伝えられない苦しさをごまかそうとして微笑んだが、その表情から私は全てが分った。
この女は不倫中だったのだ。
電話すれば既に夫との仲を疑われていることから必ず妻が電話に出て、女からの電話は酷い罵声と共に切られてしまうことになっていたのだろう。

「会社の名前と部所を聞かれたらどうします」
「○○のXXと答えて下さい」
「私の名前は何と名乗ればいいですか」
「それは何でもいいんです」
「失敗しても知りませんよ」
「はい」女はパーと花が咲いたような笑顔になったが、そのことからこの女、こうして人に電話を頼むのは初めてではないことが何となく分ってしまった。
呼び出し音が止まって電話に出たのは女だったが、その声の表情からかなり警戒し、不快になっている様子が伺えた。
「○○会社の○○と申しますが、XXさんをお願いしたいのですが、御在宅でしょうか」
「どう言った御用件ですか」丁重で明るく話した私に対して電話先の女の声は暗く重かった。
「わたくし、XXさんの部所で仕事をさせて頂いております。明日の会議に使う資料のことで少しお伺いしたいことがありましてお電話させて頂きました。お休みのところ恐縮です」
この程度の電話なら仕事でしょっちゅうしている私にとってどうと言うこともない作り話だったが、男からの電話、しかも会社関係の話題だったことから、電話先の女も安心した様子が伺え、「暫くお待ちください、今かわります」と言って奥へ歩いていく音が聞こえた。
暫くして「はいXXです」と言う男の声に電話は切り替わった。
「あなたとどうしても話したいと言う人から頼まれました。これで電話を代わっても大丈夫ですか」
私のこの言葉に依頼人が誰かをすぐ理解したこの男は「はい、ありがとうございます」と答えた。
私は両手を差し出して電話に出たがっている女に受話器を渡し、ボックスから出た。
ガラスの戸が閉まり、その中で女は何度も何度もおじぎしていたが、それに軽く頭を下げて私はこの場を立ち去った。

女が可哀想だった。
見ず知らずの男にこうして頼まなければ好きな男に電話することさえ適わない、それに電話先の女は男の妻なのだろうが、男と女の仲を既に知っているからこそ、こうした事態に陥っているのだ。
もしかしたら妻と離婚して女と結婚するとでも言っているのだろうか、どうして分らないのだろう、妻を恐れて電話さえ制限されている男にそんな覚悟などないことが・・・。
歳下の私相手に「ありがとうございます」と言わなければならない男のこの姿が「愛」か・・・。

次の週から私はこの電話ボックスを使わなくなった。
もしかしたら、と言うよりあの電話ボックスを使っていれば必ずあの女に出会うことになるだろう、そしてまた電話をかけてやればその内親しくなって女と付き合うこともできたかも知れない。
美人だしスタイルや趣味も良さそうで「いい女」だった。
だが私は哀しい女を見るのが辛かった、その弱みに付け込んで親しくなろうと言う姑息さも嫌だったが、それに第一この2人の恋愛を手助けする責任は私が負うべきものではなかった。

女とはこれ以来会うことはなかったが、それにしても私が本名を使って電話しても、それが女からの電話であることが薄々でも察知できる男と、面識すらない男に恋人への電話を依頼する女、2人の電話テクニックは相当なものであり、親の目をかすめて電話している私たちは何かが浅い気がしたものだった。

切れそうな糸を辿ってでも関係を続けたい女、2人の女の情念に何か大切なことを判断できずにいる男、実に恋愛の醍醐味はこうした危うさにあるのかも知れず、こんな絶望的な関係であっても未来はどっちに転ぶか分らないのが人の世と言うものなのだろう。