「博物館の軍刀」前編

「小官は皇国興廃の関頭に立ち、将兵に対し、人として堪へ得る限度を遥かに超越せる克難敢闘を要求し候、黙々として之を遂行し、花吹雪の如く散り行く若き将兵を眺むる時、当時小生の心中、堅く誓いひし処は、必らず之等若き将兵と運命を共にし、たとへ凱陣の場合と雖(いえど)もかわらじとのことに有之候」

これは第8方面軍司令官、今村均大将に「安達二十三」(あだち・はたぞう)中将が宛てた遺書の一部だが、ここで安達中将は「わが身は戦場に散って行った多くの若者と共に有りたい」、つまりこうして戦場に有って、あたら若い命を自身の命令によって散らせて行った、その時から既に自分の身の処し方は決まっていた、それは「死」しかない・・・と言っているのである。
この遺書の文面の彼方に、天を仰いで苦悩し、作戦を遂行させ、そして死んで行った多くの若者のことを思う、安達の涙顔が鮮やかに重なって見えはしないだろうか。
今夜は安達二十三と言う人の話である・・・。

安達二十三中将が生まれたのは、明治23年6月17日、名前の二十三(はたぞう)は彼の生まれた年に由来していたが、陸軍士官学校第22期生、陸軍大學校卒業後は参謀本部鉄道課勤務が長かった安達は、支那事変が起こると、歩兵連隊長、師団長、、そして北支方面軍参謀長と中国を歴戦していく。
安達は一言で言うと「厳格な武士」と言う感じだったが、大体軍人と言えども地位が上がって師団長、中将ともなればその敬礼も適当さが見えてくるものだったが、安達の敬礼はさながら、いつも初年兵のようにキチッとしたものだったと言われている。

またその風貌は眉が少し下がり、目もこれにあわせたように少し下がった温厚な顔だが、肥満気味のその体躯はなかなかの重圧感があり、見た目は少し厳しそうかな・・・と言う感じだったが、無口で決してお上手などは言えない彼が大変な部下想いであることは、彼の下で働いて来た者全てが語る安達の人物評である。
副当番の少年兵が汽車のコークス暖房の不完全燃焼で死亡した事故の時も、すぐさま司令部の暖房を中止し、寒さを我慢していた安達、決して無理な作戦は承認せず、どうしてもやらねばならないときは、まず自身が第一線に立っていた。

こうした安達の姿勢は「この人の下であれば決して見殺しになることはない、絶対見捨てない人だ」と言う大きな信頼に繋がっていた。
そしてこのような観点から見える安達の指揮官として要貞は、「人間」と言う言葉に尽きるだろう。
すなわち「人として実行可能な命令を出す」「部下が直面する苦難は指揮官もまた共有する」、この2点にあり、安達が東ニューギニアに赴任して以来、戦後に至ってもオーストラリア陸軍に大きな人気を誇っていたゆえんは、安達の軍人もまた「人」であると言う、基本理念があったからに他ならない。

安達が中国から第18軍司令官としてラバウルに赴任したのは昭和17年11月、だがその3ヵ月後、昭和18年2月にはガダルカナル島がアメリカ軍によって陥落させられ、ソロモン諸島と東ニューギニアはアメリカ、オーストラリア連合軍によって脅威に晒され、これに対して日本軍は10万の兵士を増員するが、各師団は分断され陸の孤島状態で、全く兵力を発揮することができず、そのうえ昭和18年6月30日にはナッソウ湾にアメリカ軍が上陸、これにより増員された第51師団は、壊滅の危機を迎えることになったのである。

司令官安達は第51師団長、中野中将に対し、こうした危機に際して決して玉砕を急ぐな・・・、と打電しているが、こうした安達の温かい打電に感激した中野中将は、かえって決死の覚悟を決め徹底抗戦するも、昭和18年9月4日、5日には今度はオーストラリア軍がさらに進軍し、ここに第51師団の命運は尽きる。
中野中将はいよいよ軍人らしい最後、例え叶わずとも闘って死のう・・・、玉砕を決断した。

しかしここで安達からまた打電が入る。「撤退せよ」、日本軍ではめったに無い命令だが、安達は1人でも多く生きて帰れ・・・と言うのである。
かくて有名なサラワケット越え、標高4000メートルの山を越えての撤退が始まるのだが、この撤退は過酷を極め、衰えて死ぬもの、凍死、生きる気力を失って手榴弾で自決する者、がけから転落する者など、死者は1000人とも、2000人とも言われる壮絶なものとなった。

安達はサラワケット山の麓のキャリ部落まで指令部を進め、毎日山から命からがら、よろけながら現れる日本兵を、自身が泣きながら出迎えていた。
そしてこれから後もアメリカ、オーストラリア軍の進撃は続き、安達の第18軍は昭和19年4月24日、ウェワク付近で孤立、前はアメリカ軍に、後ろはオーストラリア軍に阻まれ袋のネズミになってしまう。

万事窮す・・・だった。
第18軍は海軍部隊も含めてその兵員数を昨年の半分、54000人にまで減らしていたが、このままでは10月には食料が無くなり、全員餓死するしか道が無くなった。
安達はここで一番手薄となっていた西部のアイタベ攻略を決意、しかしアメリカ軍が守備するこの地域の攻略は難航し、昭和19年7月10日から行われたこの攻略は、昭和19年8月4日には10000人の戦死者を出して中止に追い込まれた。

そして普通ならここで考えることはどうだろう・・・、当時の日本軍なら潔く・・・が普通だったろうし、それしか道は無いと判断したに違いない。
だが安達はここで持久戦に備えて、部隊の自給自足をはかっていくのである。
椰子の実から澱粉を採り、それを食料にしていく、また農園の開拓計画など、生活に関する基本計画は全て安達が立案し、その駐留地に村を作って行ったのである。

安達はまた原住民に対しても、自らが杖をつきながら酋長に面会して、膝をついて協力を求めていったが、こうした安達の無私で真面目な姿勢は原住民達にも感動を与え、やがて原住民達は進んで自分達の食料を、日本軍に提供してくれるようになって行ったのである。

あれほど肥満だった安達の体重はこのとき48キロにまで減り、持病だった脱腸が悪化、歯は殆ど抜け落ちていたが、安達はそうした自分を顧みることも無く、密林を超えて河を渡り、どんな遠いところにある小部隊であろうと訪ね、彼らを激励していた。
そしてこうした安達の働きで、第18軍は次第に住居小屋も増やし、栽培するイモ畑も拡がり、自給自足は軌道に乗り始めていたが、この間第18軍では1人の自殺者も出していない。

だが昭和19年12月、こうして息を潜めていた第18軍に再びアメリカ、オーストラリア連合軍の攻撃が始まる。
安達の第18軍はこれに対して果敢な抗戦をしていく、がしかし、ここで兵士もまた人間としたとき、自身や参謀が考えた作戦は、それは人間がなしえるものだろうか・・・と言う疑問をいだき始めた安達の作戦は鋭さを欠き、そうしたことが逆に兵力の温存に繋がって、結果として第18軍の被害は意外に少なかった。

博物館の軍刀・後編に続く

「木材乾燥」

良い企画やイベントと言うものは、その当日時の朝には終わっているものだ。

準備が万全であるものは、その準備をした者にとって準備が終わった時点で全てが終わっていて、当日の成功は既に過去のものとなっているはずである。

輪島塗の製作に措いても下からしっかり製作に力を入れたものは、完成した時点でそれが過去になっているもので有り、その時点で次の仕事や作品の事に思いが馳せているものかも知れない。

従ってここで完成されたものに留まっている者の品はどこかで「小さい」。

どんな仕事も一番下が危ういと、それは上に行って挽回ができない。

それゆえ輪島塗の製作に措いては地味では有るが、素地の段階が一番重要になり、ここで時間や自分の都合に追われ適当な事になった物は、最後になって素地強度の不安と言う決定的な事態を迎える事になる。

素地は椀などの「曳きもの」では歪みと「陥ち」(おち)を警戒しなければならないが、これには素地材料の乾燥と、木に腐りが入っていないかを確かめておく必要が出てくる。

木材乾燥で最も効果的な乾燥方法は、意外かも知れないが水分を吸わせて吐かせる動作を繰り返す事であり、例えば一年間泥水の中に浸し、次の一年間を日陰で乾燥させ、また1年泥水に浸す事を繰り返し、これを3回ほど続けると、その木材は完全に乾燥して歪みが無くなる。

この原理は「珪化木」(けいかぼく・化石化した木材)とは別の組成だが、それに近い。

ただ、これだと木材の乾燥だけで5年、6年と言う時間を要する事になり、一般的には煙で半年以上燻して乾燥する「燻蒸乾燥」(くんじょうかんそう)の方式が持ちられ、これでもほぼ90%の乾燥を得る事が出来る。

また素地材料になる木の腐りだが、これは素地選択時に判断するしかない。

しかし注意しなければならないのは台風や強風に曝された木で有り、この場合木が強風で限界を超えてしなった際、木の組成が破壊されたにも拘らず、そのまま成長を続ける事が有り、こうした木は外からは解らないが、木材に加工したとき鱗が剥がれるように細かい組織破壊が起こってくる。

素地材料の選択ではその木材が近年強風に曝されていないかを調べておく、つまりは産出地域を調べておく周到さも必要な事だ。

そして椀以外の素地でもこれは同じ事が言え、シナ合板などを使用する場合でも、基本的にシナ合板は木を大根の桂剥き(かつらむき)状態にして張り合わせ、その上から表面研磨が為されている為、表面は薄い木粉に覆われ、それを静電気と弱い樹脂成分が固めた蝋状態になっている事から、綺麗に見えて実は塗装をはじき易い傾向を持ち、合板は必ず対角線上に歪むと言う事を認識しておく必要が有る。

「拒否され得べき情報」

殺人事件に措ける死体遺棄場所、死体を隠した場所や凶器の投棄位置、逃走経路など、その犯行の当事者か若しくは当事者と事情を共有できる者でなければ知り得ない情報を知っている者は、犯行を犯した当事者かそれに順ずる者としてまず容疑がかけられる。

これらの情報は発生した犯行の最も重要な部分であり、尚且つその当事者か、犯行が行われた時間に犯行現場にいた者以外にそれを知る者が存在し得ない事から、警察の初期捜査の段階では物的証拠以上の証拠能力を有している。

そしてこのような知っていると自身の大きなリスクに繋がる情報の事を「管理対象情報」と言い、自身が厳しく管理しないと、その情報を認知しているだけで将来重大な危機に見舞われる為、事の次第が殺人事件のような重大なケースでなくても、自分がその情報を管理できる自信が無い場合、該当情報はそもそも認知する事を拒否する必要が出てくる。

これを「認知拒否対象情報」と言う。

認知拒否対象情報は基本的に社会や政治的混乱、治安の悪化によって増加してくるが、近年個人同士の通信がインターネットによってランダムに平易になっている社会では、政治的混乱や治安の悪化状況以上に急激に知っていると不利益を被る情報が増大して来ている。

オレオレ詐欺、投資関連詐欺、結婚詐欺にデート商法、不動産の故意に不利益を与える取り引き、インサイダー取引に措ける他社マイナー情報など、その当場は一見大きな利益やチャンスに見える情報が、後に大きな禍をもたらすケースは全てこの「認知拒否対象情報」に相当するが、それ以上に気を付けなければならない情報は個人のプライベート情報となっている。

ここまで毎日女が殺され、夫が妻と愛人によって殺される、或いはストーカーによって殺害される事件が頻発している社会ともなると、下手に異性の連絡先などを知っているだけで、その対象者に悪意が無く偶然殺されたとしても、関係者として事情を聴取されるぐらいの事が発生する確率は高くなる。

日頃から良いなと思っていた受け付けの女性にやっと携帯の電話番号を教えて貰い、それで初めて電話したまでは良かったが、その翌日同女性が都内のホテルで殺害された場合、たった一度前日に電話しただけで、着信履歴から捜査段階の初期には最重要参考人になる可能性があり、それで無くてもこうした無差別殺人が横行する世の中に有っては、例え捜査の結果疑いが晴れたとしても、どうして個人的な連絡先を知っているのかと言う事実の発覚に伴う民事上、つまりは夫婦間ならば不貞の嫌疑が発生する可能性が有る。

この意味で言えば例えば既婚男性に取っては若い、或いはそうでは無い年齢を問わず関係の無い女の情報は常にリスクと背中合わせと言う事になり、これは既婚女性が夫以外の男性の情報を所有しているケースも同じである。

それゆえここでは異性を対象にしたが、世の中がおかしくなってきていて、その中で心を病んだ者が多くなっている現実は、基本的には自身がどうしても必要とする情報以外の個人情報は、男女問わず所有しない注意が必要になってくる。

これが「情報開示拒否」と言うリスクに対する先守防衛措置となる。

つまり今後関係がなさそうな人の情報、特に電話番号や住所などは、例え相手が教えると言ってもこれを拒否するセキュリティが必要な時代なのであり、この他にも明確に対象者そのものがリスクを抱えている場合や、男性に取っての女性、女性に取っての男性の連絡先の認知は勤務先を限度に留めておく注意力が求められる。

情報の共有はリスクの共有でも有り、この点では明日自身がリスクに遭遇した場合、自身の情報を知る者にはその情報の重要性に比例した嫌疑がかかり、こうした病んだ社会の中に有ってはいつ自分もリスクに遭遇するか、また自身が情報を共有している者がリスクに遭遇するか予想が付かず、その確率は年々増加している。

そしてこうした意味からもう一歩発展した考え方をするなら、現代社会のように明日歩いていて通り魔に殺される可能性の完全否定が出来ない社会に措いては、溢れる情報の80%が「認知拒否対象情報」か、それに準ずる情報になり、相手が情報を開示しようとすればするほどその情報は「情報開示拒否」事案の可能性が高まるのである。

多分古代にもこうした事を考えた人はいたのだろう。

「君子危うきに近寄らず」とはまさにこうした事を言い、現代社会ではもっぱら「君子、危うき情報に近付かず」と言う事になろうか・・・。

情報や知識がリスクになるかリターンになるかの分岐点は個人の事情によって分岐する。

従って個人が色んな事情を抱えている場合の情報は大部分がリスクになって行き、元々リターンの情報は数が少ない事から、リターン情報の中に在る者はリスク情報には近付かず、リターン情報と経済、権力構造は一致する為、ここに情報を巡っても階層社会が出現するが、こうした構造は基本的に最も初期の政治形態である「原始共産主義」「村社会」から始まって同じである。

所得税で国家が運営されている状態、言わば生産で国家が運営されている状態では情報や知識はリターンになるが、日本のように既に消費税型社会、マイナスを補填する為の運営になっている国家では殆どの個人が事情を抱える事になり、ゆえに情報や知識がリスクの中を彷徨う事になる。

悲しい事だが大部分の情報がリスクか、結果リスクにしかならず、積極的に開示される情報は最もリスクが高い情報と言えるのである。

積極的に開示される情報は開示する側に利が存在するから開示され、こちらに利が発生する情報は常にこちら側には閉ざされているのが正しい姿なのである。

「東京の雪」

一度は故郷へ帰ったものの、すぐまた田舎暮らしが嫌になり、家出同然で知人を頼って上野に着いた私は、取りあえず仕事を探そうと歩いていた。

どこへ行けば良いのか分からず、多分浅草寺裏側の付近だったと思うが、ぶらぶらしていてふと電柱の張り紙に目が止まった。
『時給1000円、随時面接可』のその張り紙に引かれ、何人もの人に道を尋ねながらその会社と言うか事務所までたどり着いた私は、一瞬で「しまった」と思い帰ろうとしているところへ、幸か不幸か中から人が出てきてしまった。

「何だおまえは」その50代後半の目つきの悪い男は上から下まで確かめるように私を見て胡散臭そうに尋ねた。
「はい、張り紙を見てきたんですけども」とっさにそう答えるしかなかった。
すると男の態度は急に穏やかになり、「そうかおまえ働きたいのか」と言うと「まっ、中へ入れ」と私を事務所に招き入れた。

社長との出会いはこうして始まったが、彼がその筋の人であることに気付くのにそう時間はかからなかった。
だが社長は良い人だった。
田舎から出てきたと聞いただけで目をうるませ、「俺が必ず一旗上げさせてやる」と言って、その晩は鮨屋に連れて行ってくれた。
またアパートも共同トイレ、風呂なしだったが敷金、礼金無し、家賃1万5000円のところを紹介してくれた。

仕事は「女の時間割と金貸し」だった。
クラブの経営と、デートクラブにはなっていたが、どう考えてもいかがわしい感じにしか思えないもの、ホステス専用の金融業を経営していたのだった。

しかし、この社長きわどいことをしていながら従業員のホステスはじめ、やたら女に人気があり、一緒に歩いていると声をかける女は一人や二人ではなかった。
この社長が紹介してくれたアパートは木造二階建て、築年数は数十年というものだったが、四畳半2間にキッチンが付いた部屋が6つあり、4部屋は先に住人がいた。

私は1階の左端から2番目の部屋だったが、隣はバーの経営をしていると言う男性で、40代後半にはなっていたように思えた。
また、一番右端には会社員と言うことにはなっていたが、30代半ばの女性、2階には芸能関係の仕事をしていると言う50代の男性、その一間隣には特殊な女優業、若作りはしていたが30代後半だろうなと言う女性が住んでいた。
つまりこのアパートには私を始め、まともな人間が住んでいなかったのである。

だがこうした環境でもみんな私には優しかったし、バーの経営者の男性や特殊な女優業の女性はしょっちゅうみんなを招いて焼肉や、すき焼きパーティーを開き、酒を飲んだ。

東京へ出てきて3ヶ月目くらいのことだったろうか、二十代で一番年が若かった私は男性二人からは「○○ちゃん」と呼ばれ、女性二人からは「○○」と呼び捨てになっていて、この晩もバーの経営者の部屋でみんなして酒を飲んでいたが、以前から金を貯めこんでいると評判になっていた30代半ばの女性に私は「どうしたら○○さんのような一流の営業になれるんですか」と尋ねた。

すると彼女はおもむろに私の右手をつかんでその上に新聞チラシを一枚乗せると、彼女の左手が下に添えられ、チラシの上からは右手が乗せられた。
「あったかいだろう。こうして100グラムのものなら100グラム、200グラムのものなら200グラムの力でそっと上から押すんだよ」
「もっと重いものならもう少し力を入れて押してやるんだ。そうすれば客はパンフレット1枚でも買ったような気になる」
彼女は少し苦笑いして私の手からチラシをとって下に置き、ヤキソバを箸ですくった。
これには一同「おー」と言う歓声があがったものだった。

だが、彼女はこの8日後自殺する。
東京に雪が降るのは2月が多い、これは春へと気候が変わるしるしで、太平洋側を低気圧が通りやすくなるからだ。
その日も晴れていながら東京には小雪が舞っていた。
朝7時ごろだっただろうか、「あぁー」と言う深い叫び声に私やアパートの住人は思わず飛び起きた。
見つけたのは彼女の母親と家主だった。

前日娘からかかって来た電話に異変を察知し駆けつけた彼女の母親は、荷造りロープを首に巻いてぶら下がっている娘の足を抱え、首に負担がかからぬよう持ち上げようとしていたが、その行為が既に意味を為さないことは誰の目にも明らかだった。
芸能関係の仕事をしている男性が近くの公衆電話まで警察に電話しに走り、部屋には私とバーの経営者、そして彼女の母親が残されたが、人間の足が地面から離れている光景と言うのは耐えがたく冒涜的なもので、彼女の母親は私たちに「頼む、降ろして欲しい」と何度も何度も懇願した。

バーの経営者はテレビの台からテレビを降ろして上に乗り、「○○ちゃん、下支えてて」と言うとロープをほどきはじめた。
このアパートの畳間には小さいけど床の間がついていて、その部分は他のかも居より高さがあり、上は簡単な欄間がはめ込まれていて、そこにロープが巻かれていたが、簡単にはほどけなかった。
台所から包丁を持ち出したバーの経営者は私に「しっかり支えて」と言うと一挙にロープを切ったが、彼女の腰から腹へ手を回し支えていた私は、ロープが切れた瞬間はずみで彼女を後ろから抱きかかえたまま一緒に倒れ込んでしまった。

顔に彼女の長い髪がサラサラとかかり、一瞬彼女が「○○が私に手を出すのは10年早いわよ」と少し笑って振り向くのではないか、いやそうあってくれと思った途端私の目から涙がこぼれた。

彼女の体はまだ弾力があったが、腰から足まで排泄物が流れ、冷たくなっていた。
すかさずバーの経営者は押入れから布団を取り出すとそれを敷き、私と二人で彼女を寝かして上から毛布をかけた。
彼女の目は堅く閉じられ、口は半分開いたまま、鼻からも汚物が出ていたが、彼女の母親はその顔を拭き、奥にかかかっていたタオルをかけた。
暫くして警察官が二人やってきて「何で死体を降ろしたのか聞かれたが、母親が「どうしても見ていられなかった」と言うとそれ以上何も言わなかった。

私は7歳年上の彼女が好きだった、姉のように慕っていた。
ネクタイの締め方がゆるいと、すぐ「それじゃ一流の人に会ったときバカにされる」と直してくれたのも彼女だったし、彼女のシャツはいつもピシッとノリが効いていて、スーツはダークグレーか深い紺色、余り高くないヒールの黒い靴は埃一つ付いていないほどに磨かれていた。

時計も茶色のベルトのシンプルなものだったし、ネックレスや指輪も一切付けていなかった。
姿勢が良くて同じ歩くのでも私とは違って颯爽としていたものだった。
いつも憧れていたし、彼女のようになりたかった。
彼女は時々私に「○○はいつかきっと大きな商いをするような男になる。その才能がある」と言って励ましてくれた。

以後今日までスーツを買えばダークグレーか深い紺色、シャツは白、靴下と靴は黒、時計は革のベルトでシンプルなものと言う私の美意識は彼女のものだ。

自殺の原因についてはあくまでも噂話でしかないが、マルチ商法に手を出していたのではないか、また先物取引をやっていたなどの話が出ていたが、明確な原因は分からないままだった。

このことがあって数日後、さすがに連絡先ぐらいは教えて置こうと思った私は、母親に社長の事務所の電話番号を連絡先として教えた。
程なく母親から社長にことの次第が伝わり、私は社長から殴られる、「てめーだけ面白おかしく暮らせればそれでいいってか、俺はそんな奴が一番嫌いなんだ」社長は本当に怒っていた。
これ以降私は都会へ逃げることをやめた。

でも、今も晴れていながら小雪がちらつく天気には東京を、上野を思い出す。
右手を出して目を閉じると、彼女の手の重さを思い出す。
あれから30年近くの歳月が流れた。
もし今彼女が私を見たら何と言うだろうか、「手を出すのは10年どころか100年早い」と言われそうで、せつない。

「葬式・後編」

さて葬儀が終わってからだが、いよいよ棺桶の蓋に死者の長男か孫が釘を打って、棺桶は白木の輿(こし)にのせられるが、この輿は台座に棺桶をのせてその上から屋根付きの輿を被せる仕組みになっていて、全体的には白木だが部分的には赤や緑、白などの装飾があり、簡単な神輿(みこし)のようなものだ。
この輿を死者の縁者が神輿と同じように担ぎ、その後を参列者がぞろぞろと付いて行くのだが、棺桶は火葬場に付くと輿から外され窯に積まれた薪の上に乗せられる。

僧侶によって読経が唱えられ、皆最後の別れをするが、この窯は長方形の土塁を内側から四角く削り取ったようなもので、人が寝た状態で入れる土の箱のような形になっていて、1面には風通し穴があり、高さは90センチほど、この中に薪が縁の高さまで敷き詰められてその上に死者が入った棺桶が乗っているのだ。

むかし、この村でもお金持ちは輿も一緒に燃やしたと言われているが、私の知る範囲ではこの葬儀用輿は燃やされず複数回、壊れるまで共同使用されていた。
こうして最後の別れが終わると、殆どの参列者は帰ってしまうが、10人前後の縁者や希望者は火葬場に残り火の管理をする。
薪に火が付いて棺桶が燃え始める頃になると死者の体は手足が伸びた状態になろうとして棺桶を破り、その勢いで窯から落ちることがあるからで、また通常火葬は夕方から始まって朝方までかかるが、時々部分的に焼け残ることもあり、こうしたことがないよう夜通し見張るのである。

この火葬番は誰が残っても構わず、女、子供も特に制限されていないが、夕食と夜食の料理や酒が葬儀をした家から運ばれ、それを飲み食いしながら死者が燃えていくのを見ているのである。
こうした料理や酒を運ぶ時は、暗い山道を上がって行かなければならないので、3人から4人で運ぶことになるが、一人は明りを灯す役で、むかしは明りが提灯だった。

しかし火葬場とは言え間仕切りも何もない天井の高い10坪ほどの倉庫のような建物、対面する2方には広い出入り口はあるが、戸は付いておらず仮眠をとることもままならない状態、床は土間どころか土であり、外は深い山の中で、1晩中番をするのはかなり過酷だったことから、料理の運び役が火葬番の交代要員を兼ねているときもあった。

話は少しずれるが、私は村の長老に何で火葬場には戸がないのか聞いたことがあって、長老曰く、この火葬場の下の道は山へ上がる人が必ず通ることから、戸が立っていれば中が見えない分、余計恐くなるからだと言われたが、他の各地区の火葬場もやはり戸が立っていなかったことを考えると、何かまじない的な意味もあったのかも知れない。

こうして朝までに死者は骨だけになり、縁者がそれを拾って葬儀は概ね終わるが、これから後も読経があったり、後片付けがあったりで、葬式があると村人は3日仕事にならない為、短い期間で多数の死者が出たときは神主にお祓いしてもらうこともあった。

怪談の時期は過ぎ去ったが、私は7歳頃、この火葬場で恐い目に会ったことがある。
私の両親はこの頃炭焼き(炭を作ること)の仕事をしていて、山で窯に火が入ると家に帰ってこられないため、夕飯や朝飯を家から山まで運ばなければならないことが時々あった。
その日も祖母が作った夕飯の弁当を持って山へ向った私は、両親の仕事を見ていて帰りが遅くなり、くだんの火葬場近くにさしかかった頃には既に周囲が薄暗くなっていた。
何度見慣れていても火葬場と言うのは感じの悪いもので、近くには溜池まであってそれらしい雰囲気を醸し出していた。

火葬場の少し手前にさしかかった時だった、突然「おーい」と言う声が聞こえ、私は歩みを止めた。
耳をすませてみる、するともう1度「おーい」と言う声が聞こえ、それは間違いなく火葬場から聞こえているのだった。
私はもうだめだと思い、全力疾走で山道を駆け下りたが、その背後からはまだ「おーい、おーい」と言う声が追ってきた。
ひたすら走って家へ帰り着いた私は、その晩「今に地獄の鬼が火葬場から迎えに来る。ああ、もう来る」と怯えながら一睡もできなかった。

やがて朝になって学校へ行く時間になったので恐る恐る外へ出た私に、声をかけたのは近所の爺さんだった。
この爺さん時々子供をからかったり逆にからかわれたりの、なかなかひょうきんな爺さんで、子供にはある種の人気があった人だったが、この人が私に「きのう、お前に餅をやろうと呼んだのに、なぜ逃げたんだ」と言うのである。

この瞬間、私を追いかけていた火葬場から来る地獄の鬼は木っ端微塵に砕け散った。
話はこうだ、この爺さんは火葬場の近くで炭焼きをしていたのだが、昼飯や夕飯を火葬場の窯で火を起して作っているような豪快な人で、その日も夕方腹が減ったから火葬場で法事に貰った餅を焼いて食べようとしていたところへ、私が通りかかるのが見えた。
「なかなか感心な奴だ、餅でも一つやろう」と声をかけたが、火葬場からお呼び出しがかかったと思った私は全力疾走で逃げるので、何度も何度も呼んだが私は更に早やく走って逃げた、子供の割りには変わっ
た奴だと思ったと言うのだ。

今では笑い話だが、当時私は真剣に自分はこれで終わるんだと思った。
それにしても人を焼く火葬場の窯で餅を焼いて食べるこの爺さんの神経は大したものであり、こうして今の年齢になってやっとあの爺さん一体どう言う生き方をしてきたんだろうと考えられるようになった。

爺さんが死んだのはこのことがあった4、5年後くらいだっただろうか、中学生になっていた私は葬式で菓子を拾うことが恥ずかしくなっていた。