「+-0の物」

全ての物質はエネルギーである事から、この地球で人間が作るものは、最初からゴミになることが決定しているものである。

物質の変化はそのエネルギーの質が汎用性を失って行く過程と言え、例えば石油などがプラスティックに加工された時点で、元の石油に戻すにはその倍以上の物質、言い換えればエネルギーを消費しないと再生する事が出来ず、それ以上にガソリンを使って車が走行した場合、燃焼してしまったガソリンのエネルギーは熱や運動に変化し、これらは今来た道を引き返したとしても未来永劫戻ってくる事は無い。

従って物を作る場合でも、それがどんなに素晴らしい物で有ったとしても、地球的にはゴミを作っている事になるが、木や漆は熱力学第二法則の外に有って、これらはいずれ失われて行き、また再生される「生物素材」と言え、この観点では+-0の物、最悪でもそれを製作するために失われたエネルギーのみを劣化させるに留まる、非エネルギー劣化物と言える。

こうしたエネルギーは、基本的に宇宙に存在するエネルギー総量が変化しないとするなら、人間が生存し続ける限りどんどん劣化したエネルギーで満たされて行く傾向の 対極に有る物と言え、それゆえに取扱いや製造作業に多大な人間の労力を必要するので有る。

だが今の社会はどうもこうした+-0の製造物、1000年、2000年前から存在する伝統的工業産出物から離れつつ有り、この点に鑑みるなら地球は加速度を付けてゴミ、或いは未来にはゴミとなるものを生産し続けている事になるが、経済はより便利なもの、より時間を短縮するものを世に出すことで消費を喚起し、この事が劣化エネルギー傾向に拍車をかけている現実を見なければならない。

つまり経済の加速は地球をゴミの星とする事の加速でもあり、この中でどの国家も経済の発展を目指すが、その結果はジワジワと自身の生活環境が首を絞められていく事が省みられていない。

もし経済や消費の発展がマイナスになるなら、おそらく熱力学第二法則のエネルギー劣化速度は遅くなるだろう。

人間は一番身近な事で言えば空気や自然を只の物と考え、それらを消費する事には何等躊躇が無いが、それらにしても有限で有る事を考える時期に来ている。

経済の発展ではなく、どうして影響を少なくしながら経済を縮小して行くかを考えなければならない時が訪れている。

少子高齢化社会は日本だけではなく、中国もロシアも韓国も同じ事で有り、この中で日本のそれは間違いなく一番先進的傾向を持っている。

集約して言うなら、これまで発展しか考えてこなかった経済に対して、日本こそが初めて縮小して行く経済のモデルケース、ある種未来に措ける世界経済の在り様、秩序を示していく事になるのかも知れない。

そしてもしかしたら人間が生きる意味は無いのかも知れず、例え輪島塗と言えども程度の差は有れ「物」で有る以上ゴミかも知れない。

でもそこに意味が無いと知った時から、それがもしかしたらゴミかも知れないと知った時から、そこから「人間」と「物」の価値が始まって行くのでは無いだろうか・・・・。

「中庸」

私は好んで輪島塗やその技術を「中庸」(ちゅうよう)と表現しているが、「中庸」とは物事の中間や妥協点を意味しているのではなく、「常」や「凡」を意図したもので、それは古典中国思想の「徳」の概念を基本にしたものだ。

水は仕方なく上から下へ流れるのでは無く、あまねく森羅万象の理によって「普通」に流れているのであり、事に無理のない状態、何かに止まっておらずして常に自由に動ける形、その状況に応じて最も理想的なところへ自然に動いていく事を至上と考える為だ。

素地形成に措ける接合でも米糊の強度は弱いが、その弱さを知っていれば一番長い接着期間を得られるものの、これを一般の民衆が全て認知する訳ではなく、漆器の熟達者ですら塗りに特化していればこれを認知するのは難しい。

それゆえ一定の強度と一定の接着期間、これは社会的な概念だが、漆を使ってあるとした場合一体どのくらいの期間それが崩壊しない事を社会が望むかによって、或いはどのくらい壊れた物までを許容できるかによって、漆器の強度は変化する。

僅か素地の接合にしても、こうして社会と一緒に動いているのである。

漆器と言う伝統で有っても、それは常に社会や一般の他の物の環境によっていつも変化し、これで良いと言う物は存在しない。

「中庸」とはまさにそうした事を意味していて、例えば素地接合の場合、米糊では強度が弱く、シアノン系接着剤では強度は大きくともタイミングに弱いとしたら、これらの特性を程ほどに融合させた、漆と糊の組み合わせである「こく惣漆」がまさにその中庸と言うべきもので、漆の世界と中国古典思想の概念が同じように見えるのは、それが事の理だからである。

だから何等古典思想を勉強する事は無くても、人間は仕事や普段の暮らしの中からその原理を学んでいるのであり、その意味では我々個人が抱える問題も、社会全体が抱える問題も、その答えは全て眼前に揃っていて、唯それが見えるか、或いは見えていてもそれが実行できるか否か、と言うことなのかも知れない。

素地接合では木の断面を直接接合する事が望ましいが、近年はその利便性から「木工用ボンド」で木地接合が行われ、木工用ボンドの耐用年数は4年から6年であり、これを補強する為に漆と糊、それに焼成木粉(しょうせいもくふん)を調合した「こく惣漆」を、ボンド接合箇所に小刀で切り込みを入れ、中にねじ込む方式が一般的になっている。

ちなみにこの接合箇所の切り込みに使われる小刀は、塗師小刀「丹波」ではなく、「切り出し小刀」と言う雑用小刀が用いられ、切込みも接合面の一方向面だけを切り込む方式と、接合面の両方を切り込む方式が有り、前者を「片彫り」、後者を「両彫り」と呼ぶ。

その昔は素地製作と塗師が融合した形を持っていて、木地職は素地の部品が完成すると塗師屋へ連絡を入れ、そこで塗師屋から職人が来てこく惣漆で木地を接合し、木地製作者と塗り職が一つの部屋で共同作業によって素地を完成させたものだが、社会が個人的傾向を強めるに従ってこの形式は無くなって行った。

社会に措ける人間関係の弱さはまた、漆器の強度の弱さとなる良い一例と言える。

 

 

 

「空気隔離」

柿シブが漆器の下地材として登場して来るのは900年頃、実際に他の用途で使われ始めたのは600年頃と言われているが、これは日本独特の塗料であり、漆そのものには抗菌作用は無いが柿シブには抗菌作用、防カビ効果が実証されている。

元々は民間治療薬として使われ、それが布や紙の保護、例えば重要文書などが書かれた紙を保護する為などにも使われるようになった可能性が高いが、山村などでは衣服の染料として、或いは大切な器物の表面に塗って器物の腐食を抑制したりする用途が有ったとされている。

その製法はシブ柿が青い内に採取し杵などでついて潰し、樽に入れて3日ほど発酵させた後、これを絞り取って不純物を沈殿させたら上澄み液を掬い取り、1、2年醸成させれば出来上がるが、柿シブには「一番シブ」と「二番シブ」が有り、「二番シブ」とは最初に抽出した時に残った絞りかすに水を入れて再抽出されたものを言う。

基本的に古典工業資材の初期段階、その発見段階は「食」から始まり、それが工業用資材へと発展するか、「食」に適さないものが資材として発展するかの大まかな流れが存在するが、漆などもその原初は実を食べてみる事から始まったと考えられ、柿シブなどもその初期は火傷や切り傷などに塗って治療するゆえに、発展して来たものと考えられる。

漆の下地材料として用いられるようになった背景には、その生産の拡大に要因が有り、原初は1、2日の発酵液を搾り取って使っていたものが、やがては数年醸成させる技術が平安期に確立し、そこから建築材料として発展するに至って大量生産体制ができた。

この事から砥の粉などより比較的平易に柿シブが用いられる素地が出来上がり、そこから一般大衆が作る漆器に柿シブ下地が発展したものと言えるだろう。

従って柿シブ下地は上と下が有るなら下に位置づけられたが、この認識は後世の研究者達が強度だけを見て判断したものであり、正確には誤りと言える。

柿シブの漆下地としての難点は経年劣化による剥離性の高さだが、そもそも漆器表面の平面性や光沢の正確さと言う観点から、素地である木の木目を表面に影響させない事を考えるなら、漆下地の必要性の一角は素地との隔離性に有り、素地との隔離性とは剥離性の高さを意味している。

つまり漆表面の平面性や美しい光沢は素地と表面漆の隔離性によって得られ、その意味で絶対的隔離性は「空気隔離」であり、漆が素地に対して空気を挟んで浮いている状態こそ究極の下地と言えるのであり、ここで完全な空気隔離が不可能な場合、それが剥がれるか剥がれないかの限界点で剥がれずに存在している概念もまた、至上の塗りの概念と言える。

またこの「空気隔離」の概念は現在建築の思想に繁栄され、内壁と外壁の空間が持つ温度の絶縁性は近代建築の重要な思想となっているが、広義で覆うと言う意味では建築のこうした概念も、漆と素地の関係も同じである。

ここに古くは一般大衆の粗雑な漆器と判断されたものも、そこにはこれから先10年、20年の単位では時代の最先端を行く技術となり得る可能性を秘めているのである。

「主と従」

神社でお供え物を乗せる際に使用する「三方」(さんぼう)などは、その上部盆状の構造が縁よりも底の板が外に出る構造になり、その下に高い台が付いているが、こうした構造は元々上部の盆状の構造と高い台が分離して使われていたものと言う事が出来る。

現代社会では三方は全て一体になっているが、その昔は盆を台に乗せて使われていたものと考えられ、こうした意味では物の構造と言うのは漢字の発想と極めて近い事がわかるが、もう一つには盆の構造として何故底板が縁より外に出ているかと言う事である。

構造強度として底板を縁の4枚の板で囲んだ構造の方が強度は高く、製造も容易であるにも拘らず、わざわざ底板を縁より外に出すのは一体どう言う理由が有るのかを考えてみるなら、そこに「三方」の本質が「板」で有る事が見えてくる。

つまり三方は基本的に底板となっている「板」に起源が有り、それに縁が付き台が付いて、やがて縁や台が装飾的に発展したものだったのである。

始めは唯の板だったが、それでは何かを乗せると落ち易く、そこで板の上に簡単な縁を置き、やがてその縁が固定されて使われるようになり、そして台にこうした縁の付いた板を乗せて使うようになり、その台もいつしか利便性から固定されるようになった。

あの三方の一番重要な部分とは板の部分な訳で、その他は本質的には付属なのである。

物の形にはこうして起源が有る場合、時代を経ると本質部分が一番面積が少なくなり、また装飾も施されない事になるので、その形の解釈は曖昧になるが、一方装飾も施す事が出来ないと言う意味では、その部分がその形の本質で有る事を証明してもいると言う事になる。

そしてこうしたお盆の形で有り乍、縁よりも底板が出ている構造の物は、全て三方と同じように神道の儀式に起源を持ち、この事は仏事茶道用具に措いても同じで、形は盆で有り乍それぞれに用途ごとの名称が付加されている。

折敷(おりしき)、茶道の「ふちだか」、寺の三方、掛盤(かけばん・大名膳)等はどんな素晴らしい装飾が施されていようと、その基本は一枚の板を起源とし、この起源を尊重する事の重要性は、合理的強度の考え方を超越したものである。

縄文時代と弥生時代では日本の文化が全く異なった変化を示し、その原因は朝鮮半島渡来の文化形成であり、ここに縄文時代に存在した日本の文化はことごとく失われたが、神道などでは土着文化が新文化に吸収される形で今に残っていると言われている。

三方や折敷になどに見る板に対する考え方は、若干朝鮮半島渡来の考え方とは異なる思想が感じられる。

もしかしたら三方の底板の思想は縄文文化を今に残す足跡なのかも知れない・・・。

 

もしどこかで底板が縁よりも数ミリでも出ている盆を見かけたら、それを盆と呼称してはいけない。

解らなかったら、それを出してくれた人に尋ねると良い。

この場合、尋ねる事は恥ずかしい事ではなく、むしろ尋ねる人は「知る人」となるのである。

 

「郷社祭」(ごうしゃまつり)

石川県輪島市三井町本江(わじまし・みいまち・ほんごう)に所在する「大幡神杉伊豆牟比咩神社」(おおばたかんすぎ・いずむひめじんじゃ)の主要大祭が「郷社祭り」だが、同大祭は輪島市三井町仁行地区(わじまし・みいまち・にぎょう)と輪島市三井町本江地区の祭りながら、昭和60年前後までは能登一円から縁者が集まる大きな祭りだった。

本来は5月2日が大祭だったが、日本政府の連休法案の改定により、例年祝日となった5月3日に大祭が変更された。

同祭は基本的に宵祭り、本祭、後祭で構成され、昭和60年頃までは仁行地区、本江地区では三日三晩飲み明かし、誰が来訪しても各家では酒や肴が振舞われる盛大な祭りだった。

大幡神社には沢山の市が立ち、実はこうした市の主神である市神を祭っているのが本江地区であり、郷社祭りの本来で有る「神杉比咩(姫)命」を祀っているのが仁行地区である事から、この大祭の本来は仁行地区を発祥とするものと見做される。

郷社祭りの起源は「猿鬼退治」(さるおにたいじ)の逸話から始まる「儀式祭」であり、能登一円を荒らしまわっていた猿鬼を退治するために、出雲大社へ相談したところ、出雲から八百万の神々が参戦し、気多大社(けたたいしゃ)を総大将、大幡神杉比咩神社を副将として猿鬼退治が始まり、大幡神杉比咩が舞を踊って猿鬼をおびき寄せ、それを気多大社軍が討ち取った故事にちなむ、相談が祭りとなった珍しい祭りである。

それゆえこの祭りの主要行事は仁行地区、本江地区の当屋各2名と給仕、各区長と見届け役、参議の中村地区の代表と区長それぞれ全員に同じ儀式を同じ回数繰り返す儀式が祭りになっている。

神輿は輪島市三井町「市の坂地区」を除く全区から参社し、近隣の熊野町、打越地区からも神輿が集まった為、神輿の数だけでも9つ、獅子舞が1組出る大規模なものだった。

またこの大幡神社は平安時代中期905年から967年に編纂された「延喜式」(えんぎしき)にも名前が残る古社で、出雲大社遷宮には三井町仁行松尾谷から杉の木が切り出され、出雲に寄進された記録が残っている。

猿鬼退治は、おそらくならそれまで既存した縄文勢力であり、これを取り込んで行った大和朝廷との関係に鑑みるなら、気多大社も大幡神杉神社も出雲大社との関わりが深く、出雲が大和朝廷に従って行った経緯と同じ経緯を辿って行ったものと考えられる。

悪逆の限りを尽くした猿鬼は能登一円を逃げ回り、最後には大幡神杉比咩の剣で刺し貫かれて命を落とす。

そして討伐軍副将だった大幡神杉比咩はこの後尼僧に姿を変えて猿鬼の供養をしたとされている。

大幡神杉伊豆牟比咩の命は軍神である事から、逆らう者には容赦が無いとされている為、古くからこの大祭日に仕事をすると、その家には不幸が訪れ、怪我人が出ると言われている。

先代の宮司は白山比咩神社宮司だった「山崎宗弘」宮司だったが、彼はよくこの神社だけは特別の「何か」が有ると言っていたものだった。

私は毎年この祭りが来るたびに祖母と先代宮司を思い出す。

40を過ぎて、子供もいた私に寝たきりの祖母は500円をくれて、郷社祭りで何か欲しいものを買えと言ってくれたものだった。

また私たち夫婦は、金も無く結婚式も挙げていなかった。

見るに見かねた先代宮司は「3万円出せ」と言って、それでお供え物や必要なものを揃えて私たち夫婦の結婚式を挙げてくれた。

生涯忘れ得ることなど出来ようか・・・。

今日は私の家から500mほど離れた氏神神社、大幡神杉伊豆牟比咩神社の大祭「郷社祭」の本祭・・・。

大幡神杉伊豆牟比咩神社を畏れ、今は亡き先代宮司に敬意を現し、酒を飲み、肴をつまみながら郷社祭をお祝い申し上げよう・・・。