「初心」

世界三大テノールと評されたイタリアのLuciano Pavarotti(ルチアーノ・パヴァロッティ)は2007年9月6日、その71歳の生涯を終えたが、彼は生前多くのオペラ以外の音楽ジャンルとのコラボレーションを残している。

その中でアメリカ、ニュージャジー出身のロック歌手Jon Bon Jovi(ジョン・ボンジョビ)と、「Let it Rain」と言う楽曲をコンサートコラボレーションしているが、この彼等の歌の中に、その表情の在り様の中に、私は一つの目標と言えばおこがましいが、ある種の自分が目指すべき物作りの理想を思った事が有る、いや今もそう思う。

やんちゃなロックの道を駆け抜けてきた若者は、いつしかその道で一つの頂点に立ち、そして伝統と言うおよそロックとは相容れぬオペラの最高峰、パヴァロッティと一緒に歌うのだが、ジョンは太っているパヴァロッティに気を遣い乍会場に出てくる。

そしてジョンの声はどう表現したら良いだろうか、それはあたかも修羅の道を駆け抜け、そこから得られた平穏、或いは優しさと言ったものに彩られた頂点を感じさせるもので、やがてジョンのポジションからパヴァロッティへのポジションに移る時も、ジョンは終始気を遣って手を差し向け、パヴァロッティの朗々とした声がジョンとのコントラストを際立たせる。

しかしそこから流れてくるものは、やはり優しさで有ったり、もう少し適切な表現をするなら、穏やかさや「平和」と言うものなのである。

過激で「破壊」を旨とするロックが辿り着いたところと、繊細で一切の妥協を許さない伝統の、それぞれの頂点が互いに気を遣い、そして生まれた歌と表情はまさに「平和」とはこうした事なんだよ、そう言っているように聞こえるのである。

 

ジョンのパヴァロッティに対する「尊敬」に近い気持ちと、それに「一緒に楽しもう」と笑うパヴァロッティが楽曲の中に行き来しているようなのである。

物を作っているのは勿論食べていく為だが、でもそれが目指すところと言うものは、やはり人々を穏やかな気持ちにさせたり、或いは平和を概念させることが出来るなら、これ以上の事が有るだろうか・・・。

「平和」や「人に優しく」、「環境を大切に」など、私達は多くの綺麗な言葉を口にしているが、それらは本当にそうなのだろうか。

利益を得る為の方便の言葉で有ったり、又は利益の為の謙虚さになってはいないだろうか。

人間は年齢を得るに従って、その規模が大きくなるに従って「自分」から抜け出せなくなる。

まして互いに頂点か、それに近いところに在る者同志は中々妥協がしにくくなるが、このジョンとパヴァロッティを観ていると、頂点とは一番下も理解した、いや今この瞬間も理解できる人の事を言うのだろうと、そんな事を感じさせてくれる。

大きな体でリズムを取るパヴァロッティが見せる笑顔、そこには今も「初心」に在る彼の姿が光り輝いて、一瞬鼻の下に手をやるジョンの姿もまた然り・・・。

遠く及ぶものではないが、自身もかく有りたいと思う・・・。

「こだわりは女を背負って」

むかし、二人の修行僧が旅をしていた。
彼等は一人は仏門の先輩、つまりは兄弟子で、もう一人はその後輩の弟弟子(おとうとでし)だったが、ある村に近付いたとき、先日来の長雨のせいだろうか、道に大きな水溜りができていて、衣の裾をたくし上げなければ渡れない状態になっていたので、仕方なく二人は衣をたくし上げ、帯に挟んで水溜りを渡ろうとしていたが、そこへ年の頃なら18、19歳くらいか、若い女がやってきて、水溜りの前で難儀をしているようだった。
「仏門にある者は女に手を触れてはならない」、おとうと弟子は水溜りを前に渡れず、難儀している女を無視すると、先に水溜りを渡り始める。
そして当然兄弟子も自分の後に続くものと思っていた。
だがここでおとうと弟子は信じられない光景を目にしてしまう。
「娘さん、この水溜りは難儀なことだ、良ければ私が背負って渡ってあげようか」
何と兄弟子はそう言って娘に声をかけると、頷く娘を背負って、さっさと水溜りを渡ってしまったのだった。
「有難うございます。おかげで助かりました」
「なんの、これしき、お気を付けて旅をお続けあれ」
丁寧に礼を言う娘に笑って答えた兄弟子は、その足でさっさと先を急ぐ・・・。
これに対して面白くないのはおとうと弟子だった。
そも仏門にある者が女に手を触れることすら禁じられているにも拘らず、それを背負うとは何事か、邪な行い、いやこれをして姦淫とも言うべきものだ・・・。
おとうと弟子は鬼のような形相になり、面白くなさそうに先を行く兄弟子の後に続いた。
水溜りを渡るその以前までは、あれやこれやと話をしながら歩いていたおとうと弟子、しかしやがて、全く声も出さずに不機嫌そうについてくるおとうと弟子に気づいた兄弟子は立ち止まり、「どうした具合でも悪いのか」と尋ねた。
「兄弟子は仏法の戒律を犯し、女と語り、そして女に手を触れるどころか、それを背負うた。そも煩悩の中でも最も戒められるべき姦淫の罪を犯し、そして知らん顔をしている。どうしてこのようなことが許されようか・・・」
おとうと弟子の口からは、これまで溜まっていた不満が関を切ったように飛び出してくる。
一通りおとうと弟子の話を聞いていた兄弟子、しかしおとうと弟子の話が終わると、大声で笑いはじめる。
「おまえあの水溜りからずっと女を背負うていたのか、それは随分重く疲れたことだろう」
「また私が背負うた者は難儀に遭っている人だったのだが、お前には女に見えたのだな・・・」
兄弟子は更に大きな声で笑い続ける・・・。
この話は私が書いた以前の記事でも出てきたことがあるかもしれない。
また仏教の説話としても有名なものだが、水溜りを前に難儀している女を、女と捉えれば、その者を助けることはできない。
だがそれを女と意識せず、難儀に遭っている人だと思えば助けることができる。
してみれば姦淫の罪とはその対象が女であるか否にあるのではなく、自身の内にあることをこの話は説いている。
また同時に女に捉われ、それをずっと背負ったまま、鬼の形相で歩かなければならなかったおとうと弟子、彼が捉われたものは女だけではない。
「仏法」と言うものにまで捉われ、本来であれば、仏法を修める者ならなおの事、難儀している者に手を差し伸べねばならないところを無視した。
「仏法」に捉われる余り、「仏法」を忘れてしまったのであり、結局水溜りを渡って以降、彼はずっと背中に女を背負い、水溜りの近くを彷徨っていた事と同じなのである。
そして我々一般庶民はこのおとうと弟子を笑えるかと言えば、さに非ず。
更に愚かな事をしている場合がある。
実はこの話に出てくるおとうと弟子の有り様を言葉にするなら、「こだわり」と言うのであり、仏法のみならず、古来より人の有り様として忌むべき姿とされているものだ。
然るに現代社会はどうか、「こだわりの職人」、「こだわりの一品」などまるで「こだわり」を良いことのように用いているが、「こだわり」は本来人の有り様として褒められた状態ではないどころか、およそ物作りに有っても、人の姿勢に有っても、これは具合の悪い状態を指していて、そのような者が作った品など始めから評価の対象の外にあり、また人であるならそのような者は、周囲に悪い影響を及ぼすことしかできない事を指している。
「こだわり」は漢字で書くなら「拘る」と書くが、「拘」と言う字の意味は、基本的には「何かに捉まる」、「留め置かれる」「身の自由を奪われる」の意味を持っている。
それゆえ「こだわる」と言う事は、何かに捉まった状態を指していて、狭い中を彷徨っている有り様を示している。
冒頭の仏教の逸話で言うなら、修行僧のおとうと弟子は女を背負って苦労したが、これを自慢げに「私はこだわりの○○です」と言う者は、女によって水溜りに引きずり込まれている状態に気づかないかの如くの、愚かさを持っている。
その道に精通した者、またはそれを目指す者であるなら、少なくとも自分を形容する言葉くらいは自分で調べておくのが、その道を目指す者の謙虚な有り様であり、こうしたことも知らずに、自身を「こだわりの○○」と称する、若しくは人がそれを形容することを止めない者は、その時点で本来なら全ての信用を失うべきものである。
ゆえに「こだわり」を使うなら、自身を謙遜し、小さな声で恥ずかしげに使うならまだしも、「こだわりの○○」と呼ばれて喜んでいるなら、それは馬鹿にされていることを、誇らしげに自慢している行為だと言うことを知るべきである。
人は全く「こだわり」を持たずには生きられないが、これは自慢すべきことでもなければ人に誇れることでもない。
間違いなく「恥ずべき事」なのであり、「こだわりの一品です」と言われて料理が出されたなら、「巨人の星」の「星一徹」のように料理をひっくり返し、「たわけ!」と一喝するのが、正しい日本語の理解と言えるだろう・・・。

「輪島塗の工程」

輪島塗の工程は135工程とも147工程とも言われるが、現実には20の工程を超えず、その半分は研磨工程である。

輪島塗は大別して下地(したじ)「研ぎ」(とぎ)「上塗り」(うわぬり)に区分されるが、下地の時は漆に米糊や砥の粉、それに珪藻土焼成粉末である「地の粉」(じのこ)が調合されたパテ状の半流動状態の漆が使われる為、例えば丸盆などでも平面を塗った場合、これが乾燥するまでそれに隣接する内縁や裏面などが塗れない。

ちょうどコンクリートを施行した直後、そこへは誰も入れないのと同じで、下地漆の乾燥は早いときで4時間、冬季などでは14時間かかる事から、一箇所を塗ったらその当日は他の箇所を塗れない為、この一箇所ごとを1工程と換算した結果、135とも147とも言われる工程になったのである。

基本的には「素地調整」「こく惣」(こくそう)、「着せもの」(きせもの・布補強)「着せもの削り」「きせものけずり)、「惣身」(そうみ)「一辺地」(いっぺんじ)「二辺地」(にへんじ)「三辺地」(さんべんじ)までが下地工程になり、ここまでの工程の全てに研磨調整作業が伴うが、ここでの研磨は「磨き」と言い、「研ぎ」との区分は水を使うか否かと言う点になる。

つまり下地工程の研磨では水研ぎが無い訳で、研磨材は「荒砥石」(あらといし)や古くは「鮫皮」(さめがわ)や「木賊」(とくさ)等が用いられたが、「木賊」は茎にケイ酸が蓄積されて硬化している為に、古くから研磨材料として用いられていたものの、現在は殆ど乾性紙ヤスリ・ペーパーに添え木をしたもので研磨されている。

そしてこうして下地が終わったものを水研ぎする工程が「研ぎ」の工程で有り、「地研ぎ」(じとぎ)「中塗り」(なかぬり)「こしらえもの」、「小中塗り」(こなかぬり)、「拭き上げ」(ふきあげ)までを指す事になるが、ここで出てくる「中塗り」や「小中塗り」は重要な工程だが、それほどの技術を必要としない。

従って「中塗り」の工程は通常弟子がいれば弟子が塗り、下地職人が塗る場合も有れば、暇な時は上塗り職人が塗ったり、工場長である「筆頭」が塗ったりすると言うような工程で、特別に専門職を置く場合でも現役を引退した者、或いは発送業務専属の女性が塗っていると言った場合も有り、この「研ぎ」の次の工程が最後の工程で有る「上塗り」(うわぬり)になる訳で有る。

輪島塗の工程は現実には14工程が基本工程になる。

しかしその14工程を行う為にはそれぞれに研磨や研ぎ調整が必要になり、漆からゴミを除去するために吉野紙を使って濾過したり、寒冷紗(かんれいしゃ)を塗り器物に張る為にそれを切断する作業等々、全く見えない作業や研磨して消えてしまったものに費やされる工程が圧倒的に多い。

それ故に私などは見えないものによって輪島塗が為されていると思うのであり、実に全質量の10%しか光を発していない銀河「ダークマター」もまた然り、などと思ってしまうのである。

最後に、研磨で世界最高水準の技術はカメラや望遠鏡などのレンズなどを研磨する技術がこれに相当し、総合的な塗装技術ではグランドピアノなどの塗装研磨仕上げが世界最高水準になると思う・・・。

 

「アザゼル」

聖書レビ記16章弟8節から10節にかけて「アザゼル」と言う言葉が出てくる。
この中で、司祭は2頭の山羊(やぎ)についてくじを引いて、1頭はヤハウェ(神)に、そしてもう1頭はアザゼルの為にとあり、神のために選ばれた山羊は生贄として奉げられるが、アザゼルの為に選ばれた山羊は司祭がその頭に手を置いて民の罪を告白し、その後人のいない荒野へ放たれるのである。
では2頭の山羊を神と分けた形になるアザゼルとは何者だろうか。
これに付いて教会へ問い合わせると、ある神父は口を閉ざし、またある神父は「話したくない」と答えた。

またゼカリア5章弟6節から11節、ここに「エファ升の女」が出てくる。
エファ升とは円形の桶のことだが、この中に女が入っていて、「これは邪悪だ」と聖霊が言い、やがて別の2人の羽が生えた女が来てこの升を運んでいくのだが、邪悪だとしたこの女は、なぜかシナイの地で家を建てて貰いそこで置かれると言うのだ。
この女の正体は何で、彼女を運んだ別の羽の生えた2人の女は神の側か、邪悪の側なのか。

この2つ、アザゼルとエファ升の女を正確に答えてくれる教会は意外と少ないかもしれないが、2つとも正体は光に対する闇である。
アザゼルはサタンを指し、エファ升の女は恐らくアシュタロテ、メソポタミアではイシスと呼ばれた豊穣の神だが、ユダヤ教では姦淫によりこの世に悪を振りまく存在とされている邪教神である。
だが、不思議なのはこうした邪悪なものをなぜ神は滅ぼしてしまわず、家を建ててやったり野に放ってしまうのだろうか。

まずアザゼルから見てみようか、サタンはもともとナイル川のワニの神だったものが、ユダヤ教では元聖霊のルシファと重ねられ、サタンはこうした経緯からワニの神としての性質を持っていて、アダムとイブが知恵の実を食べたのに対して、命の木の実を食べたのでは・・と言う研究者もいる。

また他の説では神が沢山の聖霊を創ったためその精霊達が地上の女と交わり、そこからよからぬものが多く生まれたとしているものもあるが、ヨブ記では神が多くの聖霊を招いたとき、そこにサタンも来ていて、神が「あなたは何者?」と問いかけ、サタンは「旅の者です」と答えているが、そもそも神にしてはサタンに何者か訪ねる必要など始めからないはずなのでは、と思ってしまう。
さらに、こうした邪悪な者に対していくらお祓いの儀式だとは言え、サタンの為に山羊を、サタンのためにである。

そしてエファ升の女、アシュタロテはもともとバビロンで豊穣の神として信仰を集めていた女神で、エジプトにその像が残っているが、数え切れないほどの乳房を持つ女神像だ。
豊穣の神とは穀物の豊作と、多く子どもが生まれることを祈願するためのものだが、ユダヤ教は結果として民族的に交わることをその教えの中で厳しく制限したのは、他の民族が民族同志で交わって行ったため、国とか民族が崩壊していったことを良く理解し、それを防ぐ手立てを取っていたのではないだろうか。

またこうして邪悪な者を滅ぼさなかったのは、実は滅ぼせなかったのではないだろうか。
どうもこうした記述からユダヤの神が後発の神だったからで、もともとあった近い宗教と区別をつけるため、古い宗教はそれが盛んな地域で押し固めて、自分達の宗教を守る形にしたということだったようでもある。

古代バビロニアの遺跡から出土した印章にはアダムとイブの物語に非常に近い物語がレリーフになったものや、命の木に関する記述が多く刻まれた粘土板が出土されている。
このため創世記でアダムとイブが食べた知恵の実の他に命の木があり、「この木をケルプ達と・・・に守らせた」(創世記3章24節)とする記述から、この2つの実を食べれば神になれるとした伝説がまことしやかに言い伝えられたのは、神はイブ達が知恵の実を食べた後、命の木に厳重な警護を付けたからであり、サタンはイブより先にその両方の実を食べたのではとする説がここから出てくるのである。

「サタンに何者?」と訪ねるのは神の方が新しかった可能性があるのではないか、そしてアザゼルにせよ、エファ升の女にせよ、何か人事のようなこの軽さは何だろう。
まるで昼間はサラリーマンやってますが、朝、新聞配達のアルバイトもしていますと言ったような、職務主義的邪悪さが感じられる。
神と善悪を巡って激しい攻防を繰り返しながら神の儀式ではのこのこ出向いてお祓いに参加しているアザゼル、まるでどちらでもどうでもいいような羽の生えた女、そしてなぜか邪悪なのに家を貰って住むエファ升の女、それによって実際血の償いをしなければならない民衆、なぜか現代の我々が住む社会と重なって見えないだろうか。

また黙示録20章弟7節から10節に出てくるゴクとマゴクは神の民に最終的に逆らう民の総称として用いられているが、これはエゼキエル書では北、つまりロシア、アルメニアなど北方民族や小アジア民族を指していることが明白であることから基本的に悪魔としての概念ではないが、女の偽預言者が未来を訪ね、それに答えるペルゼブブは固体悪魔になっている。

ペルゼブブはハエの王と呼ばれるが、実はバビロニア、メソポタミアでは情報を教えてくれる神、神託、予言の神としてあがめられていた。
だから聖書中個体名詞を持つ悪魔はサタン、アシュタロテ、ペルゼブブであるが、いずれもその地方の古代神でもある。

よくヨハネの黙示録がいろんな予言をしていると言うキリスト教関係者は多い。
だが、ヨハネの黙示録的話は旧約聖書を読めば何度もでてきていて、それを視覚的にダイナミックにしただけであることが理解できるはずである。
またこうした普遍性の高い内容は、孫子の兵法と同じで、殆どの事柄に当てはまるものなのである。

聖書のこの記述は当たっています、この記述もそうです・・・だから神を信じるべきなのですと言う勧誘、終末が来て審判の日が来る、その時救われたいとは思いませんかと言うキリスト教関係者はおおいが、これは最も神の教えに遠いものであると思う。

そもそも神を信じているなら聖書の記述など当たっていようが、いまいが関係ないことだし、予言があったとしても、それによって自分の何が変わると言うのか・・・。
どの道そうなることなら、例え明日世界が滅びようとも私達は何も変わらないのである。

ヨハネの黙示録には終末の時、偽りの救世主が現れ、世界を混乱の底まで導くとされているが、救世主を求めるから偽りが顕れるとも言えるのである。
神の袖に隠れ、自らの小さな概念で信じた聖剣を振り回す者は多くの人を傷つけるだろう。

「タイミング破損」

木と木の接合と言う状況は「椀」や「盃」などの漆器ではその状況が少ない。

椀の球形の部分と高台(脚)の部分を別々に曳き、それを接合して得られる対費用効果は、これを同時に一つの木片から曳いた場合の強度的対費用効果に劣るからだが、「雑穀片口」(雑穀を入れておく口の付いた鉢)や直径30cmを超える大きな皿や盃の場合だと、本体と脚を別々に曳いて接合する時が有る。

それゆえ漆器素地の接合と言う状況は「椀」等の丸いもの以外、もっぱら箱やお盆などの素地形成に措いて多用されるが、丸いものでも丸盆や小判型の弁当箱など、基本的に側面と底板が分離している状態のものは全て角形群として看做す事になり、素地接着には木工用ボンド、シアノン系接着剤、米糊、「こく惣漆」(こくそううるし)等が使われ、この中で一番強力な接着力はシアノン系接着剤である。

だがシアノン系接着剤はタイミングに弱い。

一種の「気」のようなものかも知れないが、例えば昔から伝わる「鎌いたち」のような状態、或いは空手の瓦割りのようなもので、何かと何かが揃った状態には簡単に外れる。

これに対して米糊と木工用ボンドはほぼ同じ強度で、シアノン系接着剤ほどの強度は無いが4年くらいの持続強度と、タイミング破損耐性強度が有り、これは米糊や木工用ボンドがシアノン系接着剤より「柔らかい」事に起因している。

つまり素地収縮に適合する「ゆとり」が有るのだが、硬度の有るシアノン系接着剤には「ゆとり」が無く、その分タイミングで外れてしまうので有る。

また輪島塗の素地接着でもっとも信頼されている「こく惣漆」は、米糊10に対して漆を100%から150%加えて練り合わせ、そこへ「こく惣粉」(欅の粉末を焼成したもの)を1割から4割加えたものだが、この強度は水分がなくなるに連れ劣化する為、通常の強度は5年から10年となる。

更にこの「こく惣漆」にはもう一つ蛋白質反応の漆が有り、この場合は漆と小麦粉を練り合わせたものを指すが、接着漆は乾燥したときの硬度が高く、素地加工に用いると刃物が全て刃こぼれを起こす事になるゆえ、一般的にこの漆が使われるのは割れた陶器補修の「金継ぎ」、上塗り用の刷毛を挿す(作る)時や、塗師小刀などの柄を挿す場合などに使われる。

そしてこれらの事を総合すると、短期間で強力な接着力を得るならシアノン系接着剤が有効であり、4年から10年の中期間、有る程度の強度で持続接着を得るなら木工用ボンドや「こく惣漆」、接着力は比較的弱いが長期に渡って持続接着を得るなら米糊と言う事が出来るだろう。

尤も、素地接着はその接合構造による構造強度に起因するところが一番大きいが、こうした接合構造強度で一番強度の有る構造は「一升枡」(いっしょうます)などの角に用いられている「連続組み方ほぞ」で有り、この場合は接着剤を用いなくても必要強度が始めから得られている場合が有る。

面白いものだが、接着強度が強くなると、タイミングと言う訳の分からないものに弱くなって、その結果接着期間が事実上短くなり、接着力が弱まるに従って持続接着力は長くなり、一升枡などでは接着剤すら必要とせず、いつまでも形を留めるので有る。

強度とは一体何なのだろうか・・・。