「食の浸食」

日本全土に存在する農業生産が可能な土地の面積はおおよそ510万ヘクタール・・・。

これに拠って日本国内で必要とされる食料の38%が賄われている訳だが、では残りの62%はどこで生産されているかと言えば、日本が食料を買っている輸入国の土地が使われている事になる。

この日本が食料を調達する為に海外で使用されている土地の面積は510万ヘクタールの3倍、1500万ヘクタールに及び、結果として日本は国内の食料生産可能な土地の3倍の面積を海外で使わせて頂き、その輸入国の人に農業生産に従事して頂いている事になる。

またこうした食料の生産には水が不可欠だが、食料の輸入は同時に食糧を生産する為に使われた水を輸入しているとも言え、こうして日本に輸出される食料生産の為に使われる海外の水は、小麦などの穀物5種、肉などの畜産品4種目だけを見ても1年間で631億㎥と言われ、この量は日本全国民が1年間に使用する水の70%にも及ぶ。

日本はこうして海外から食料品を輸入している事で国内の土地の地力を落とさず、また水の消費も節約している側面を持つが、一方で食料、農産物を日本に輸出している国の国土と水資源を大量に消費していると言う現実もまた免れず、主にアメリカ合衆国、中華人民共和国、オーストラリアの大地は年々歳々大地が塩を吹く「塩害」と旱魃に悩まされ、その面積は異様な勢いで拡大している。

テレビやネット配信でこれらを見る限り、我々は自身らとは関係の無い遠い国での話しのように思うかも知れないが、その原因の一端は我々の食料消費に拠って発生しているとも言えるのである。

更にこうして海外の土地と水を消費している日本が海外に輸出している物は主に工業生産品であり、自国に資源の少ない日本は海外から鉄鋼などの原材料費を輸入して加工し、それを逆に海外に輸出しているのであり、ここでも自国ではなく海外の資源を使っている。

見方を変えれば、日本は自分は痛まずに他国の国土をを痛めつけて生活していると言われていも仕方の無い状態に有り、実は2000年の段階で大まかな試算だが、地球で使える持続可能なエネルギーの総量と、全人類が消費するエネルギーの関係は、20%ほど人類が消費するエネルギーの方に傾いているとされる報告が「ドネラ・メドウズ」他、複数の研究者に拠って提唱されている。

土地面積に換算される人類の資源消費量は、その土地が生産に関して持続可能な期間や地力総量を得る事が出来ず、人類の消費速度の拡大に拠って20%が追い付いていない状態になっていると言う事なのであり、この追い付いて行かない部分の現実が塩害や旱魃が広がる速度と言う事なのである。

そして食料品に限らず、あらゆる輸出入生産物のコストの中で一番高いものが「輸送」であり、輸出入生産物価格で言えば30%から50%が輸送費に相当し、日本が海外から調達する食料品の為に使われる輸送エネルギー総量、これを「food mileage」(フード・マイレージ)と言うが、9100億t・kmにも及ぶと言われていて、この数値は日本国内の総貨物輸送量と等しい。

フードマイレージの概念は、輸送に関して必要となる化石燃料等の消費から、主に環境に対する負荷をエネルギー計算する事から、この数値が大きいほど環境に対する破壊影響が大きいと言われ、日本は工業生産品や国内農産物では環境に優しい事を謳っているが、その実食料輸入ではアメリカ合衆国の総量の3倍のフードマイレージを消費し、これを人口1人当たりに換算するなら、アメリカ合衆国の7倍にも及ぶ環境負荷をかけながら食料を消費している。

食料政策はその国家の根幹を為すものであり、長期的概念では世界支配の可能性を持つ重大な国家案件でもある。

環境に配慮し、自国の独立と自由を磐石なものにする為には、日本は今後食料の自給自足を目指さねば、そう遠くない未来に核戦争より先に、食料に拠って他国の支配に甘んじねばならぬ時を迎えるだろう。

日本政府の統計ではおよそ100年後に日本の人口は現在の半分になる計算だが、現実にはその速度はもっと早い。
25年後には現在の人口の75%、50年後には半分かそれ以下になる可能性が高い。

従って凡そ50年後には、頑張れば人口減少に拠って高齢化社会は解消され、食料自給率も90%近くになる可能性が出てくるが、問題は現在からそれまでの期間をどうするかと言う事だ・・・。

日本が盲目的に信じている経済力は、人口が減少していく日本国内の消費に鑑みるなら絶望的であり、世界経済もさまざまな長期的課題に拠って膠着状態になっている。
この状態は各国の努力では解消されない。
もはや超法規的事態、天の為せる業が必要な状態と言える。

現在先進国と呼ばれている国、それに順ずる国家、現在の経済大国の内2国か3国が経済的に崩壊する、戦争に拠って人口が失われる、或いは巨大災害に拠って壊滅的なダメージを受けるかの事態が無いと世界経済は浮上しない。

厳しいが経済は波であり、どこかで一度沈まないと浮き上がる事は出来ない。
経済の浮上はその前提に壊滅的な状態を必要とする。

中華人民共和国の台頭、アメリカ合衆国の次期大統領選挙に付随するトランプ氏の躍進は、歴史の気まぐれでそうなっているのではなく、まるで水が高い所から低い所へ流れて行く、当たり前にして絶対的な流れの為せるものであり、これを動かしているのは世界の人々の心の奥底に潜む「偽りなき声」、「欲望の形であり、自然界、生物界の摂理と言うものかも知れない。

地球の事は考えても他国の事は考えない。
自分の周囲の環境は考えても、今口にしている食料がどれだけ多くのエネルギーで作られているかを思わない者は、遠からずその他国に拠って「食」を侵食されるだろう。

日本の場合、自国の食の為に他国の国土と資源、労働力を侵食し、その食に拠って日本そのものが他国の侵食を受け易い状態にある、いや既にその食の侵食を受けているかも知れない・・・。

[本文は2016年3月4日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

「多在融合法則」

1つの点は角度を持たないが、この点の両端から点が連続するとそれは線になり、線が2本交差した時からそこには角度と言う旅が始まる。

直線は平面の概念が存在しない為、ここに角度を求める事は難しいが、いつかの限界点が存在するならこの角度は180度と言う仮定が為され、この180度の線にもう一本の直線が交差すると、その交差点の両端に角度が生まれ、更にこの2本の線に交差する第3番の線が現れると「三角形」が生じてくる。

直線から図形に至る経緯はこうして1本の線から2本の線、そして3本の線と言う段階を踏まねば成立しないが、この三角形が次の四角形や正方形に変化する過程では2種の概念が発生し、一つは3本の線が2点でしか交差していない場合で、簡単に言えば蓋が閉じられていない状態に4本目の線が2点で交差して四角形を形成するケース、もう一つは三角形のいずれかの角度を一つの角度とする三角形が形成されるように、三角形が直線に拠って切り取られた状態である。

直線から三角形の発展過程では「線が足りない」状態からしか始まらないが、三角形以上の多角図形では線が交差する角度を切り取ってもこれが形成され、三角形と四角形以上の決定的な差異は内角の和が180度と360度以上と言う点にある。

つまり「三角形」は平面と直線の中間過程に在ると言う事である。

また2本の直線では図形上必ず1本の直線が足りない状態が発生するが、三角形はそれ自体が完形の上に直線が持つ180度と言う仮定内角総和を確定総和として持ち、ビジュアル的にも例えば三角形の1辺を軸として左右対称になるように回転させて発生する立方体は必ず「円錐」であり、これは回転させても上下付近のどちらかには面が形成されずに「点」になると言う性質がある。

しかし四角形以上の図形では必ず上下付近に面が形成される直線が存在し、奇数辺と偶数辺に拠って交互に不束円柱とこの近似値円柱を形成しながら最後は円が回転した状態、つまり「球」を形成する。

そして長さが決まっている直線に、90度で交わる直線を軸として回転させると「円」が形成され、この意味では回転は一つのステップアップ、或いは次元の相違と言っても良いかも知れないが、そう言うものだと考えるなら、「点」から三角形の間にその後の次元ステップアップの要素が全て揃っている事になり、図形の回転と言う最終ステップが行き着く先は円の回転、簡単に言えば直線の回転状態に行き着く事になる。

我々は物事を統一場理論として考え易いが、その実こうして数学を見ていると現実には距離や体積が決まっていながら中は無限の在り様、始まりと終わりがどの場面でもそれに近付きながら決して一致する事のない状態に在り、幾つものステップ、次元が入り組んだ「多在融合法則」の中に在る。

この世界には絶対とか、完全とかは有り得ないのであり、こうした現実に晒させながら尚も人間はいつも「絶対」や「これこそが正しい」と言い続けるのである・・・。

「サバ味噌煮定食」

30年近く前、どう言ういきさつでそうなったのかは解らないが、最先端のデザインと伝統をコラボレーションしたものを創りたいと言うデザイナーから連絡が入り、そして私は東京へ打ち合わせの為に赴いた時があった。

そのデザイナーは当時新進気鋭のかなり知名度の高い人だったが、私よりは少し上の30代前半の人で、長い髪にジーンズにTシャツ、それに少し暗いグレーのジャケットで、顎鬚を生やした細身の男性だった。

とても人当たりが良くて、私の仕事に関する要望も許容範囲が広く、事務所での打ち合わせは3時間ほどで殆ど終わってしまったが、遠く能登から出向いてきた私に気を遣ってくれたのか、打ち合わせが終わったら「食事にでも行きませんか」と言われ、私は喜んでこれに同意した。

そして彼と2人で外に出たのだが、どうやら彼が私を連れて行きたかった店はその日休業だったらしく、彼は苦笑いをしてまた歩き始めたが、やがて1時近くになり付近に田舎者の私が喜びそうな店も無く、仕方なく近くに見える本当に普通の下町の食堂と言う感じの店の前に立ち、「ここでも良いですか」と言う彼に、私は「大丈夫です」と答えた。

そして中に入った私達だったが、そのデザイナーは私に「何にしますか」と尋ね、私はもしかしたらおごりかも知れないと思って650円の「さば味噌煮定食」を選択したら、彼も同じものを頼んだのを見て、「ああ、この人もいつも時間が無い人なんだな」と、漠然とそう言う事を思ったものだった。

でもそうした時間の無い人が、年下の私の為に食事の時間を割いてくれた事が私は嬉しかったし、彼の為であれば報酬如何に拘わらず全力で仕事をしなければと思った。

やがて「さば味噌煮定食」がテーブルに運ばれ、私達は割り箸を割って食事を始めたが、その店には棚の上に14型の小さなテレビが置いてあり、こんな時間にと思ったが何かの歌謡番組が放送されていた。

2人とも黙って食事をしていたが、そんな時テレビから「竹田の子守唄」が流れてきて、当時ユーロビートで「行け行けドンドン」の時代には相当流行遅れの曲に、このデザイナーはどんな反応をするのだろうと思って彼に目を向けたら、彼は箸を持ったまま食事の手を止め、下を向いたまま黙って聞いていた。

もしかしたら彼は泣いていたのかも知れなかった・・・。

私は彼を邪魔しないように竹田の子守唄の演奏が終わるのを待って彼に声をかけた。
「この曲は好きですか・・・」
「あっ、いやそうでも・・・」
彼は私に何かが見透かされる事を恐れたのか、一度肯定しそうになって、次にそれを否定した。

「私も暫く前には上野に住んでた時が有って、そんな時この竹田の子守唄とか、高橋竹山とかを聞くと、暗くてダサくて大嫌いなんだけども、何故か逃れらないところがありました」
「どこかで故郷の事を思い出してしまうんですね・・・」

私は黙ったままの彼にそう語りかけた。

竹田の子守唄は部落差別の厳しい環境を歌ったものだったが、確か「赤い鳥」と言うグループがこの楽曲を出したとき、一時放送が自粛された時期が有りながらも、多くのアーティスト達に「この楽曲にだけはどうしても勝てない」と言わしめた名曲だった。

これを聞くとどんなに浮かれた場面に在ろうとも、私は故郷の父母や祖父母が働いている姿を思い出したものだった。

私は部落出身ではないが、この楽曲に出てくる風景は田舎の私の暮らしとそう大きく変わるものではなく、今でもこの楽曲を聴いていると、驕った自分が本当は何者なのかと言うところへ引き戻され、現実の前に流され続けて来たその姿を恥ずかしく思うのである。

かのデザイナーもおそらく部落出身ではなかったと記憶しているが、新進気鋭のデザイナーと言う立場が、もしかしたら肯定しかかって否定した在り様に現れたのかも知れない。
だが人目もはばからずに楽曲に聴き入る姿に、彼のこれまでと自身を重ねた私が有り、コラボレーションは無事成功したが、それから暫くして彼の名前は消えて行った。

デザイナーと言う回転の速い流れの中で生き残って行くのは大変な事で、彼もまたそうした流れの中に在る事を当時から知っていたのかも知れない。

私は竹田の子守唄を聴いて涙を流す人間の事は好きだ。
でもそれ以上に、その涙を人に見られまいとする人間の事がもっと好きだ。
誰よりもその人間を信じる事ができる。

彼もまたどこかで時にはこの「竹田の子守唄」を聴いているだろうか・・・。
そしてそのおり、故郷を思い、涙を流せる人で有り続けてくれているだろうか・・・。
出来れば死ぬまでにもう一度彼と一緒に仕事がしたいものだ・・・。

竹田の子守唄は遠い昔には私に故郷を思い出させてくれたが、今は故郷に在る私には、彼を思い出す楽曲になった。

彼もまた私の故郷になったのだろう・・・。

「株の適正価格」

この世界のあらゆる物質、生命を含めてその価値を問うなら、全てのものは価値が存在しない。

我々が思う価値とは人間社会の物質的、精神的需要に拠って成立し、この需要は普遍性と汎用性を持ちながら時と場、そして人の事情に拠って多くの例外、いや全てが例外に拠って構成されている。

それゆえ我々の世界で価値に措ける「適正」、平均値は存在しても、その平均値そのものと時系列上の安定性は現実には有り得ない。

あらゆる物質、人間も含めた生物の価値は0から100まで有るとしたら、この内0と100を排除した区間を彷徨っているのが普遍的な価値の在り様と言え、適正な価値と言うものは存在せず、発生してきた結果、現実は全て適正と看做すのが正確な理解と言える。

株価に措ける適性な価値もまた、こうした人間社会の原理から逃れる事は出来ず、日経平均株価が20000円でも8000円でも、全てその時の価格は「適正価値」である。

社会や人間の需要と供給の関係、世界情勢、該当国の政策と国力と言う、世界のあらゆる状況や人間の需要がパズルのピースとなって、瞬間々々の画像を構成し、これが常に変化して行く。

この中ではあらゆる事が時間系列上に並ぶ事象でしかなく、この事象は現実には止められないが人間はどうしてもこれを自身の事情に拠って止めたがる。

そこで自分が最も希望とする事象の場面を「適正」と考え、常にこれが正常な状態と考え易いが、そもそもあらゆる事象は時間経過と共に変化して行くのが正しい在り様と言え、これを止めて考える事自体、その考えが整合性を持っていない。

日経平均株価に措ける適性価格など初めから無いのであり、適正価格言う個人の欲望の集積が招く妄想とも言えるかも知れない。

また国際社会は株価を経済の重点事項と考え、各国とも株価と通貨取引こそが経済のような考え方を持っているが、株も通貨も取引の一つの形態に過ぎない。

もし株取引の秩序が完全に崩壊しても人間は次の方法を必ず考え出す。
株価が0になったとしても日本国民が明日から食うにも困るかと言えば、絶対そうはならない。
「景気」と言う亡霊を恐れ、本来恐れ無くても良い事を恐れているだけである。

人間が生きて行く過程に措いて、株価などが占める重要性はさしたるものも無い程度の事で有り、これを生死に関わる重要性にしてしまった者たちだけがそれを恐れるのであり、世界中の大多数を占める一般庶民は有史以来常に底辺の最低限の暮らししかしておらず、この最低限の暮らしの者に取って株価変動の影響は少ない。

景気が良かろうが悪かろうが庶民の暮らしなどそう大きく変化する事は無いので有り、どんな状況もそれが長く続く事もないのである。

国際的な景気低迷をみんなで嘆く必要は無い。

企業は株価ではなく、地道な生産と販売活動をおろそかにする事無く、民衆もまた景気と言う亡霊に踊らされずに質素倹約に努め、動ける者はどんな仕事でも良い働いて蓄財の道を歩むなら、株価の低迷などそよ風のような心地よさでしか無くなるだろう。

また日本のマイナス金利だが、ここまでやっても日本の円が下がらないのは、世界情勢が日本より悪い為で、しかもこの状態はそう間単に改善されない。
だが一方こうした状態は日本がどれだけ円を印刷してもその価値が下がりにくい事を意味している。

これは有史以来人類文明で初めてのチャンスのように私は見える。
日本はこれを上手く使えばこれまでの世界経済の秩序を壊し、新しい世界的な経済秩序を築く事が出来る可能性を持っているように思える。

ヤフーブログ以外の方が昨日のコメントに関し、これが読めないとのご意見が数件寄せられた為、昨日のコメントを記事にさせて頂いた。

尚、今日は日本全国「暴風雨」に警戒して頂きたく、お願い申し上げます。

[本文は2016年2月14日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

「能登半島珠洲市沖群発地震に関して」

2023年3月29日未明から活発化してきている能登半島珠洲市内陸、珠洲市沖の群発地震に付いて、2019年から始まった同地域の群発地震は、震源の分散化、地震波伝搬地域の遠隔傾向から、性質上は大地溝帯〈フォッサマグナ〉内で発生する群発地震の傾向と酷似していた為、金沢大学、及び気象庁が採用する地殻内部の水溜まりに拠る滑り地震仮説を排除し、科学的仮説が付かなくても、出現する現実の事象と傾向の統計的な解析から、この地震に関する注意喚起をさせて頂いた。

1993年2月7日、現在発生している能登半島珠洲市の震源に近い場所を震源としてM6.6、最大震度5強の地震が発生したが、この地震に付いての記録は実に不可解なものが多かった。

震央は海域なのだが「直下型内陸地殻内地震」とされ、つまり地震としては海域地震だが、その原動力は内陸地殻に在ると言うニュアンスの表現をしていて、地震発生後行われた金沢大学、新潟大学の調査報告書も、一時は発表されながら、その後まるでそんな話は無かったかのように消えてしまっている。

現在の金沢大学が出している仮説肯定の為、過去の調査報告書の重要性が省みられなくなったのかも知れないが、今般の群発地震の傾向に鑑みるなら、震源の移動分散、前震傾向、地震波伝搬地域の遠隔傾向と、小さな地震が群発長期化している点を除けば、ほぼ1993年の能登半島沖地震との共通点は多い。

1993年の地震余震では新潟県上越地方が最大震度となったケースが有り、可能性としてはこの地震の要因が、想定範囲より広い範囲を要因として、発生している可能性が有る。

珠洲市では2023年3月29日未明から震度3の地震が3回、それから2023年3月30日午前5時までに5回の微震が続き、観測されない更に微細な揺れも続いている。

1993年の地震の時も、本震が発生する95日前から震度1,震度3の地震が頻発し、2月7の地震に至った。

この地震に関する記録は、調査結果がはっきりしなかったのか、或いは後の学説の為に排除されたのかは不明だが、記録の消失が多く、確か金沢大学の当時の調査では、珠洲市沖の断層に付いても発表されたように記憶しているが、この記録が残っていない。

記録上は震央と、そこから40km離れた輪島市の最大震度が同じになっているが、1993年当時、珠洲市には国土庁の地震計が設置されていなかった為であり、この地震の最大震度は震度6,或いは震度6弱だった可能性が在る。

珠洲市の群発地震は、その傾向としてはフォッサマグナ内、長野、岐阜県境で発生する地震と酷似している。

こうした傾向を考えるなら、珠洲市でも震度5を超える地震発生の可能性は低いと考えられるが、2023年3月29日から少し傾向の変化が見られる。

どこかで震度6クラスの地震の前震傾向の様相が現れて来たような、申し訳ないが予感でしかないが、そんな気がする。

今回の頻発する中、小規模地震が前震で有る場合、大きな地震となる時の震央は、第一が珠洲市西北部沿岸の海域、第二に新潟県上越市である可能性が高く、もしここで大きな地震が発生しなかった場合は太平洋側のどこかと言う事になるが、この場合時期は数年単位、場所の特定は現段階では不可能である。

今般の群発地震に関して、ここ3年間の地震発生回数を時間毎に集計した、時間別地震発生周期では、23時から翌日の3時までが一番数が多かった。

昼か夜かと言えば「夜」の確率が昼間発生する確率より2%多い。

特に23時から翌日の3時前後の周期が多くなるかも知れない。

 

晴れた日は恐ろしい・・・。

雨の日に地震が来ないかと言えば、そう言う訳でもないが、雨の日の地震は中規模以下になる場合が多い。

大きな地震は晴れて良い天気、気温が上がって風が止まった状態を好む、か、もしかしたらそう言うシチュエーションを地震が用意するのかも知れないが、そんな日の、そんな瞬間、遠くからゴーと言う小さな音が聞こえて、次の瞬間、やって来る。

石川県、新潟県上越地方、佐渡島地方の方々は、花見も楽しみながら、ご自身の身を守る用意周到さも、お忘れなきよう・・・。

 

 

保勘平宏観地震予測資料編纂室  文 責  浅 田  正