「人面瘡」

「ご主人様、止めてください」
「良いではないか、悪いようにはしないぞ」
「あーれー」
「むふふふふ・・・・」

と言う訳で女房に隠れて下働きの女に手を付けてしまった反物問屋の庄左エ門、やがて女と関係を続ける中で、今度は女から女房にばらすと脅され金を要求されるようになる。
婿入りの立場で女房に浮気がばれるのは如何にもまずい、かと言ってだんだん図々しくなる女の言う事を聞いているのも厳しい・・・。

「仕方ない、殺すか・・・」
で、女を殺して離れた山の中に埋めたが、どうやら事の次第は発覚する事無く時が過ぎたある日、股の付近に腫物ができてきて、それはどんどん大きくなり、やがて人間の顔のようになってくる。

口と思しき部分からは時々誰かが呟くような声が出てきて、試しにそこへ飯を入れてみると、その腫物の顔は飯を食べ、酒を入れるとそれも飲んだ。
そして次第に何か食べさせないと自分の呼吸が苦しくなり、腫物の顔は「いいのか、女を殺した事をばらすぞ」と庄左エ門を脅し始めるのである・・・。

これが「人面瘡」(じんめんそう)である。

慶長から元禄の初め、江戸時代初期と言う事になるが、京都出身の僧「浅井了意」が記した「伽婢子」の九巻に出て来る「人面瘡」が一番広く知られる記録となるが、平安時代前期から既に伝承としては発生していた「人面瘡」、現代解釈では皮膚硬化症の一種、或いは化膿した皮膚の表面が人間の顔に見えたものとされている。

そして江戸時代には浅井了意を初めとして、この「人面瘡」をモチーフにした奇譚、怪談が数多く書かれ、一つの奇譚区分が形成されるに至ったが、その背景は幕府に拠る色恋沙汰話の締め付けを怪談噺にして逃れた経緯が一つ、もう一つは幕府の統制主義に拠って発生する理不尽、つまりは幕府の政策による理不尽を怪談噺に拠って仕返しする、憂さを昇華する意味合いが存在したものと考えられている。

それゆえ「人面瘡」は殺された女や身分の賤しい者が祟り、それに拠ってその殺した側の人間、または親族の体に人間の顔が現れ、食べ物を食べたり、言葉を話したり、時には毒を吐き出して人を罵倒するなどの話が多いのであり、この傾向は平安時代から既に始まっていたが、平安の「人面瘡」にはもう少し範囲の広がりが存在する。

恨む側の方の範囲が人間だけに特定されていないのであり、例えば鹿などの獣、虫までもが理不尽な目に遭った時の祟りとして、体にその獣や虫の顔が浮かび上がらせる伝承が存在するのである。

尤もこうした伝承の多くは平安時代の記録ではなく、平安期に存在したとされる話の伝承が江戸末期から昭和初期に記録されたものが多い為、必ずしも平安時代を正確に反映しているとは言い難いが、それでもこうして祟りの方向が女だけではなく、生物一般に及んでいた事に鑑みるなら、平安時代には原形儒教、道教の影響が多少残っていた事が覗い知れる。

だが面白いのはこうした「人面瘡」の話は平安時代から既に存在し、近代の明治、現代の昭和前期まで話として時々出現して来た事で有り、推定ではあるがその2割ほどが「人面瘡」の浮かび上がった疾患部位が男性の股の近辺と言う点である。

つまりどの時代を通しても女の恨みは深く、また男は女に恨みを抱かせる事をし易いと言う事なのかも知れない。

また世界的には2000年以降も各地でこうした「人面瘡」の話が出現して来ているが、何も顔が浮かび上がるのは人間だけではなく、古くは中国で椿の木の幹に人間の顔が浮かび上がった記録が有り、馬や鹿の体にも人間の顔が浮かび上がった記録も残っている。

更には人間に浮かび上がる顔も、必ずしも人間ばかりとは限らず、カエルや蛇などの爬虫類から蛾の斑紋、狐や猪、牛などが人間の体に浮かび上がった伝説も残っていて、人間の顔が人間の体に浮かび上がった時の、その浮かび上がった顔面の男女比率は僅かに男が多い。

女の恨みでも「人面瘡」として浮かび上がる顔は男の顔と言うケースが少しだけ多いからだが、これが昭和初期の話になって来ると、例えばカエルに小便をかけた少年の体にカエルの顔が浮かび上がってきたと言う話が出て来るのであり、もう少し進んでバブル経済の頃には若干ニュアンスは異なるが、鯉の顔が人間の顔のように見える「人面魚」、或いは胴体は犬で顔が中年の男性の顔と言う「人面犬」などの都市伝説に及んで行ったとも考えられるのである。

奇妙な現象だが、その昔平安時代の言い伝えと言われる話の中には必ずしも女の恨みと関連付けされない「人面瘡」や、特に何かの因果関係を持たずして発生する「人面瘡 」の話が存在する点で、この意味では昭和以降の傾向、つまりは恨みや特定の因果関係を持たない「人面現象」と近いのである。

道教、儒教に取り込まれて行った仏教、その仏教がやがて儒教を絞った形で取り入れ、この儒教がやはり仏教を絞って行く過程が日本には存在し、儒教と仏教の概念は歴史が浅くなるに従って概念が小さくなって行き、今日の日本では儒教、仏教の原始形概念は失われている。

この失われた状態と原始儒教の時代が同じ傾向を発生させている事は大変興味深いところと言える。

そしてもう一つ言える事は、フラクタル同調であり、例えば蛇のクネクネした形は川の流れに似ていたり、人間の手とどことなく近い植物の葉が有ったり、ダイコンやゴボウの奇形には人間の下半身を思わせるものが存在するのは「自己相似性」と言う原理に拠るものと考えられていて、同じ原子や分子で構成され、地球と言う同じ環境の中で発生するものは、大まかには似た形になり易いと言う事である。

人間は生活していく中で、毎日あらゆる顔との遭遇で生きている。
この為、3つの点が存在すれば比較的容易に自分が知る何某かの顔に関連付けてしまう傾向に有り、これに自然界が持つ自己相似性が重なる事から、自然の事象でも顔の図形はポピュラーな形なのである。

人面は天空の雲でも出現例が多く、樹木や板の木目、紙のシミ、水、「人面瘡」などの化膿した傷口など、あらゆる場に自然の状態でも出現し易い形なのであり、この自然出現率は、例えば真四角や真円などの幾何学形の出現率の数億倍の確率を持つかも知れない。

ちなみに「浅井了意」の記述に拠れば、「人面瘡」の治療には結構な金がかかる事になっている・・・。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。