「社会表現型可塑性」

B君に好意を寄せ付き合っているA子さん、しかし付き合い始めて半年、どこかでB君は憂い顔である。
そこでB君の友人C男君にB君はどんなものが好きなのかを聞いた所、「あ~、やつはケバイ系の女が好きなんだよ」と言う事だった。

早速ケバイ系の化粧品とド派手な洋服を調達したA子さん、銀座のクラブママも真っ青の格好でデートに出かけ、それを見たB君はA子さんに惚れ直し、付き合い始めた頃のように会話が弾んだのであり、その当初はケバイ格好に抵抗も有ったA子さんも、いつしかケバイ格好にも抵抗が無くなっていった。

また消費税増税に物価の高騰、その割には給料が上がらない会社員のSさん、大学進学を目指す娘の姿を見ていると、経済的理由でそれを諦めてくれとは到底言い難い。

頭を抱えていたら、この状況では私も頑張らねばと言う事で、それまで専業主婦をしていた妻がパートで働くと言い出した。
そして娘はめでたく大学に合格、Sさんと妻もめでたく教育資金危機を脱した。

何の話かと思った方も多いだろうが、このA子さんとSさんの妻の変化を「社会表現型の可塑性」と言うのである。

元々「表現型」とは遺伝の中に存在する「幅」の事を言い、例えば人間として生まれてきても、寒冷地では平均的に体重は増加傾向になり、過酷な生活環境では性認識は遅くなりながら、生殖可能下限年齢は低年齢化する。

これらは遺伝情報が絶対的なものなら変化の仕様はないが、幾つかの遺伝情報が相互に作用して環境に順応するシステムが出来上がってくる為で、その顕著な例が植物であり、動く事のできない植物は環境の変化に対して自身が変化して環境に適合して行く。

植物の場合は環境に対する即時的適合変化がある。

一方動物のように植物より環境選択能力が大きい生物は、植物ほど大きな環境に拠る変化を起さないが、同じように環境が変化すると、それまで在ったものの中で不要なものは停滞し、必要なものが別のルートから補填されて環境に適合しようとする。

もっと簡単に言えば「無理が通れば道理が引っ込む」に同じなのである。
生物の絶対的命題は生命の維持と子孫を残す事だが、これらの命題に付帯する事項に対しては絶対的変化を起せない。

それゆえ環境変化に拠って絶対的命題が脅かされるとき、その他の命題は無節操な状態で環境に順応し、この環境に対する順応が当初絶対的命題であったものに変化を加え、これが無限に変化して行く。

つまり生物は変化しない為に小さな変化を繰り返し、その小さな変化は生物と言うカテゴリーの中では(もしかしたらこれからはみ出す時がくるかも知れないが・・・)無限に変化し、変化しない為で有ったそのものも動かして行くのである。

ただ、可能性としてこれまでの地球上の生物発生に関して、これが既に終了していて循環している場合も想定され、その場合生物は一定の限界範囲を循環している可能性も有るが、こうした循環でも以前の円周上を正確に辿っているのではなく、同じ円は決して築けないだろうと予想される。

そしてこうした生物学的な、或いは脳神経細胞学的な「表現型可塑性」は社会や経済に措いても全く同じ原理性を持っていて、こちらは生物学的な制約が無い分、植物以上の表現型と可塑性を有し、この表現型の可塑性は「人類」と言う閉じられた範囲の、しかも社会や経済と言う限定を持つなら、既にあらゆる生物が出尽くしている状態に同じと言える。

すなわち社会や経済の「表現型可塑性」は小さな循環を繰り返しながら大きな円周上を周回していると観る事が出来る。
これを視覚的に表現するなら、地球が自転しながら太陽の周りを周回している姿に同じかも知れない。

日本はこれから人口が減少し、この中で以前であれば経済、金で解決できたものが解決できない状況を多く迎える事になる。
こうした中でこれらを政府や行政の政策に拠ってのみ回避する事は困難な状況であり、現在日本に措けるこれまでのシステムは崩壊の危機にある。

既に政策は現実の国民生活と言う環境の変化を干渉に拠ってコントロールする術を失いかけていて、これはバブル経済とい言う比較的大きな「表現型」が成立する環境から、適合しない環境に陥って以降、国民がその生活の質を見直すと言う表現型の可塑性を発揮して、しのいで来たものと言える。

それゆえ、ここから先今まで以上の環境の変化、経済的停滞や財政赤字の増大、少子高齢化、社会福祉の減衰などが深化すると、国民、民衆の変化は小さな循環の持つ波の性質に拠って、大きな「表現型」の前の価値観、環境と同等の環境変化を被り、これに順応する為に直近まで存在した価値観を逆転させる現象が発生する。

高齢化介護社会と年金制度の一部、或いは全破綻は結果としてこれまでの個人享楽主義を現実が反転させ、核家族構成は減少し、経済的効率の面から個人の享楽が制限された世代同居家族構成とへと帰っていく事になり、同じように経済的困窮は医療サービスに対する国民の意識も変化させる。

むやみやたらと医者にかかれない現実を迎える事になる。

更に今日の高齢者介護システムはいずれ矛盾から破綻し、ここではその実態を目の当たりにする若年世代に拠って結婚、出産と言う生物的命題が再評価される可能性が出てくる。

「子供の世話にはならない」として自由で好きな事をして暮らしてきた、それは幸福な事だが、晩年苦しみ喘ぐ親を見て子供はどう思うだろうか、子供が親の扶養と言う法的責任を免れない現実は、子供の立場の者たちの意識を確実に変えつつある。

自己責任の中で生きて来た、だから一人で野晒しになろうが構わない、そうして世の中を終わった場合も、その本人はともかく、遺体を処理しに来た若い警察官や行政の職員達は、遺体となった人の価値感を良いものだったと認める事は少ないだろう。

経済と生物学的命題の関係は、経済が豊かになると生物学的命題の価値観は薄れ、経済が停滞や破綻すると生物学的命題の価値観が上昇し、これらは小さな円の上を循環しながら、人類と言う大きな円周上を更に周回している。

経済の一部、或いは全破綻は決して悪い事だけでは無く、これまでのことが出来なくなったと言う環境の変化にしか過ぎず、生物は「表現型の可塑性」と言う無言の予め備わった大きな天の恩恵の中に在る。

そして表現型の可塑性は何か問題が発生した時には、既に起動している。
日本はもう現実レベルでは変わり始めている・・・。

[本文は2016年1勝ち25日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

「崩壊と言う希望」

「劣性依存症候群」でも述べたように、世の中は少数の成功者と、その反対側の立場の人が存在し、成功者の存在は反対側の状況の人が有るゆえに成立する。

この事から一般社会に措ける願望の質は、既存で満足な者に取っては現状維持、今の秩序を守る事を主とするが、その反対側の者に取っては現状の変化こそが願望であり、この意味に措いてはそれぞれの中間層を含めると、世の中の半分の人は崩壊も含めて現況の変化を望んでいる事になる。

日本政府の金融緩和政策は政府と一部の有力企業だけが恩恵に浴する政策で有り、政府はこれをして豊かなった分が一般市場へ浸透すると考えたようだが、自らを省みれば解るように、自分が出した利益を余剰だからと言って全て他者の為に消費するだろうか、それは有り得ない。

利益は上から順番に滞留し、一番大きな人口動態である一般庶民に辿り着いてはおらず、しかし一般庶民は景気対策の為の増税を被り、インフレーションと言う政府に金が集まる政策に拠っても金を巻き上げられている。

この中で始まった中国経済の衰退と中東情勢の不安定化、慢性的な構造不況のヨーロッパは、加えて難民問題に先の見えない絶望を背負い込んでいる。

信用の不安定化が加速してきた中国経済、絶望的なヨーロッパ経済と、石油消費の減衰に拠るオイルマネーの滞留、アメリカの金融緩和政策の打ち切り等、これら全ては日本へ資金が流れ込む事を意味している。

日本国債は海外から資金を調達しておらず、この意味ではその債務を日本国民が担保している最も安全な債権と言う事が出来る。

そしてこの事が比較的混乱が少ない日本への資金の流れを太くしていて、海外で緊急事態が発生すると瞬時にして日本へ資金が流れ込む道が出来ている。

日本政府が打ち出した「アベノミクス」は、海外情勢が当時の情勢のまま固定された状態を想定したものだが、国際情勢の不安定化は当然発生する。

黒田日銀総裁が打ち出した金融緩和のバズーカ砲など、現在の国際情勢下では1本のマッチの灯火にも及ばない事になって来ている。

当初下限想定だった株価16500円割れ、円相場の115円超がそろそろカーテンの裾から顔を出してきたが、株価の下落はまだ始まったばかりで、乱高下を繰り返しながらもっと下がる。
最低ラインは9000円台も有り得、円相場も流れとして100円台前半までの流れの途中経過と思うべきだろう。
つまり日本の経済政策「アベノミクス」は完全に失敗し、日本経済は混乱を迎えることになる。

だがここで考えて欲しいのは冒頭でも述べたように、こうした現在の政策の崩壊が必ずしも悪い事ばかりではないと言う事である。
元々利害関係が相反する場合、他者の希望は自身の絶望、他者の崩壊は自身の秩序の始まりでもある。

これまでの政策に拠って困窮と絶望を強いられていた国民に取っては、この政府と大企業に取って有利な政策の崩壊は自身の利益となる可能性を秘めている。
日本政府は現在の経済政策が崩壊すると次の政策を持っていない。

ここでは悪戯に更なる増税を行えば政権そのものが安定できず、しかし混乱を何とかしなければならないとするなら、嫌が上でも緊縮財政と財政再建に政策が向かわざるを得ない事になる。

もはや限界を迎えた日本政府は遅ればせながら、自身らの経費や公務員などの経費、福祉予算や年金に手をつけざるを得ない事になっていく可能性が出てくる。
つまり崩壊に拠って、これまで出来なかった事へと嫌が上でも押しやられる事になるかも知れない。

世界経済に鑑みても全体が落ち込んで行く中で、日本だけが拡大政策を採って成功する確率は0%だった。
文字通り荒れた現実を麻薬で逃げているような経済政策だった訳だが、歴史的に見ても拡大政策で失敗した次の政策は「緊縮」である。

拡大政策で失敗した場合、現実的には後が無くなる事から、民衆はもとより政府や企業でも緊縮政策を望む声が高まってくる。

その結果、拡大政策の反対側の王道、金を使わない方向へと動いていく事になり、ここでは確かに一般庶民と言う弱者はそれなりの不利益を被る事になるかも知れないが、日本国民の大部分は1990年以降損失に次ぐ損失で景気の悪い状態、厳しい状態には慣れてきている。

しかしこれまで拡大の幻想に在った者たちに取っては、感じるダメージは格段に大きいものとなる。
元々利益の無かった一般国民はこれ以上失う物は無いが、これまで利益が有って持っていた者たちは現実的に吐き出さねばならなくなる。

つまり経済的混乱はもはや失うものが無い庶民に取っては可能性となり、これまで成功組みとなっていた者たちには絶望になって行くと言う事であり、経済的崩壊を最も恐れなければならないのは現段階での成功組みであり、彼らは民衆の為と称してその実、自身等を守るために崩壊を阻止しようと国民に呼びかけているとも言えるのである。

現実には今の政策が在るから国民の多くが困窮しているかも知れない訳である。

戦争をしていて自軍が劣性だったその時、大きな隕石が飛んできて敵軍が全滅した。この時大きな隕石は味方に取っては天の助けだが、全滅した敵に取っては大いなる災禍となり、全滅や滅亡、崩壊を我々は誤解している。

それは何もかも全て無くなるのではなく、今までが無くなると言う事である。

実際には相対する2つの片方に在りながら、その片方を全てだと思い込んでしまう、相対する者を認めないから崩壊が絶望になるのであり、予め相対する者を理解しようとする努力が有れば、崩壊はまた希望、新たな何かの始まりなのである・・・。

[本文は2016年1月21日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

「超えて失う」

アクシデント、若しくは災害の質と言うものは何かが完全に根絶される訳では無く、一つが大きくなると他のアクシデントや災害は小さくなり、その大きなアクシデントや災害に注意を取られて防ごうとして行くと、今度はそれまで全く目立た無かったものが突然巨大化して姿を現す。

トヨタが発売を始めた直後に感じていた事だが、どうも後ろを走っているとプリウスユーザーの運転は一般的に少しおかしいと言う印象が有った。
この感覚は私だけかと思っていたが、どうやら日本各地で複数の人が同じ事を思っていたようで、何がおかしいかと言うと運転が統合失調、分裂状態なのである。

通常人間の目は前後の車の速度、車線からの距離、前後の間隔や、場合に拠っては車窓から見える運転者の表情などから、周囲の車が次に何をしようとしているか、或いは曲がろうとしているのか止まろうとするのかを漠然とでも予測しながら自身の車の速度や車間などを決定しているが、プリウスの場合これがバラバラで、運転者の意思が見えにくいのである。

勿論相対的に高齢者が増えていて、しかも高額な車が買えるのは社会的に優遇され資産形成が終わっている高齢者と言う事で、こうした意味でもプリウスユーザーの高齢化が進み、運転に統一性が欠落してくる可能性も有るが、前の車との車間が常に安定せず左へ寄ったり右へ寄ったり、急に加速して見たかと思うと次はいきなり速度が落ちたりと言う傾向が有る。

しかもこうした事をユーザーが自分の意思で連続するのは、相当体力や気力が必要になるはずで、どうしても電気に拠る動力とガソリンエンジンに拠る動力のバランス、それに人間とのマッチングが取れていない感じがする。

また自動運転システムやブレーキアシスト機構にしても、例えば哺乳類は一般的に成年に達した固体は寝ていながらの排泄を行わず、これは哺乳類全体が獲得した生物社会秩序なのだが、もし「おねしょ」をしても構わないとする現実が現れた時、人間は哺乳類社会が獲得した秩序、システムから外れる事になる。

衝突に対する危機回避行動は生物の基本的な本能であり、衝突しそうな場面でそれに対する危機回避行動が必要なくなったとするなら、人間は他の危機回避が必要な場面でも危機回避行動を起さなくなる、またはその回避行動が曖昧、緩慢になる可能性が出てくる。

危険だと判断してブレーキを踏むと言う行動は、これでも省略的反射行動だが、それすらも無くしてしまうと、危機回避に対して車に乗っている間は反射行動の必要が無くなり、この事が他の事象に対しても現実と危機回避行動のタイムラグや分離に繋がる可能性が有り、これがやがて人間のアクシデントや災害に対する危機回避行動や人間関係、コミュニケーションにまで影響を及ぼす可能性が出てくる。

こうした人間工学的な検証が為されないまま、単に便利だと言うだけで安易に自動運転システムに依存する事に対し、私は強く警鐘を鳴らしておこうと思う。

エンジン機構のハイブリッド化、二種混合動力ですら車の運転からある種の「意思」を奪っていくとするなら、自動運転システムが人間から奪うものの大きさは計り知れない。

人間の感覚は他者のその動きから理解が可能なものが多い。
この中で他者の行動に注意を払わなくても構わないと言う事態が訪れると、人間はいつか他者の行動から相手を理解する能力の減衰を起し、相互理解能力の低下を起す可能性が高い。

またハイブリッド車でガソリンの消費が減少しても、その分高い車両を買っている現実は、例えば5年と言う歳月で車を代えていくなら、、5年間で総合的に支払うガソリンの代金とハイブリッド車のハイブリッドである為の代金では、5年間のガソリン代金の差額の方が遥かに安く、この意味ではハイブリッド車は紙幣の数が一定のものなら他の消費を抑制している現実を持つ。

これが何を意味するかと言えば、食べ物を減らして自分が痩せながら、しかも生物の能力の中でも最上位に重要な能力を失いながらハイブリッドの自動運転の車に乗って、「便利だ、便利だ」と喜んでいると言う事だ。

それまでの自分の秩序やモラルが壊れる最も身近な例は病気で有り、動けなくなって自分でトイレに行けない状況でパイプに拠る排泄を経験すれば、その意味が良く理解できるかも知れない。
初めて経験する者は自分が完全に崩壊してしまったような気がするかも知れないが、基本はその通りだ。

「おねしょ」をしても良い状況と言うのは、その人間が病気をしている、或いはもう動けなくなった時に初めて必要となる、通常では忌避すべき状態に対するもので、「おねしょ」以上に重要な危険回避行動をこうした非常事態の対処に頼っていると、やがてその非常事態が普通になってしまう。

つまり「病気」の状態になってしまうと言う事になる。

更に冒頭でも述べたように、アクシデントや災害と言うものは混沌と秩序の中に常に種が有り、何かを避けると他の予想も付かない混沌が顔を出してくるものだ。

人類がこれまで文明や便利さに拠って失って来たものはとても大きい。

その上に生命維持のための基本的な本能すらも失えば、ある日突然全く予想も出来ない簡単な事象に拠って滅ぶ時が出てくるかも知れない。

自動運転に拠って減少するとされる事故は、ある日突然、恒星と惑星運動の些細な変化に拠って、或いはこれまでも大方の大惨事がそうだったように人為的な簡単なミスで、それまで減少したとされる自動車事故をたった一日で全て取り戻す事になるかも知れない。

この感覚は少ないかも知れないが、私は自動運転システムが、悪戯に形式だけの延命措置を行う人工呼吸器のように見えている。

[本文は2016年1月21日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

「劣性依存症候群」

世の中には適度であれば有効に働きながら、過ぎると害悪になる物が沢山有るが、例えば薬なども処方を間違えれば逆に病に陥り、よくよく考えれば我々が暮らす社会も適量付近だから何とか維持されているのであり、この中では完全な適量は有り得ず、多少の誤差を伴って、過ぎた者も及ばない者も存在するのが普通、どちらかに傾くと世の中が危うくなって行く。

中世末期のヨーロッパ、俗に言う「ルネサンス」の頃だが、この初期段階で発生してきたローマカソリック支配体制に対する原始キリスト教回帰運動、宗教改革などを調べていると、価値観が豊かさを否定し、より苦しく厳しい方向へと向かって行く傾向を持つ事が見えてくる。

人間の価値観は非常に多様な部分を持っているが、自身が自分の価値を肯定できる人間、現在で言えば「成功組」とでも言おうか、そうした存在は少なく、大方の人間は中々自分の生き方やそれまでの在り様を肯定できる状態には無い。

こうした中で我々各自はどのようにして自身の価値を見出すかと言えば、住んでいる地域、生活圏内で他者との比較を行い、この中で優位に立とうとして物を買ったり預貯金を増やしたり、或いは利権を得ようと考えるが、これらはどう言う場面でも常にピラミッドの頂点でしか無い。

そこでこれから外れてくる人間の方が圧倒的に多くなり、ではこうした人たちがどうやって自身の価値観を築くのかと言えば、半分の人は上を目指すが、もう半分の人は諦めてしまい、ここでは同じ土俵を離れて精神性の部分へと価値観を向かわせ、この過程でそれまでの豊かさや物を多く持ったり、或いは権力に対する欲求そのものを否定する傾向が現れてくる。

また極端に安定した平均的に豊かな社会、平均的に貧しい社会では突出した豊かさや権力は精神的な崇高さから否定され、よりこれらから遠い部分に漠然とした価値観を形成するが、この傾向の激しい状態を「劣性依存症候群」と称する。

劣性依存は社会の半分が持つ人間の基本的な価値観ゆえ、上手く使えば社会に対して有効に働く。

古くは「背水の陣」もそうだろう、劣勢から動機が始まる画家や音楽家、宗教、伝統芸能の師弟関係など、劣勢依存をシステム的に管理できる場合は、ここから利益を得ることも出来る。
皆で結束して頑張って挽回する場合も有るだろう。

しかし豊かさへの欲望には際限がなく、最終的には自身の命で引っかかってくるのと同様に、貧しさや劣勢も命に到達するまでの距離を際限なく堕ちていくものであり、この極端な例が「イスラム国」などの自爆テロと言う過激原理主義運動となって行くが、この根底に沈むものは宗教ではない。

現状に対する不満、社会に対する不満、優性価値観を自身の中で築けず、劣性の中に突き進んだ上の行動であるゆえ、この傾向は特定の地域や国家、思想を越えて世界中で旗印として拠り所とされ、自身の破壊的行動に価値観を持たせる精神行動に使われて行く。

そしてここまでではないが、景気低迷で大手企業しか利潤を確保できない現在の日本社会では、中小零細企業がほぼ「劣性依存」の状態に陥っている。
「これだけ苦労しているんだ、必ず先には良い事も待っているはずだ」
「今は辛抱の時期だ、従業員の皆も辛抱してくれ」

こうした言葉に拠って、現状の劣悪な労働環境が肯定され、自身を鞭打つ事が成功に繋がると言うような、半ば宗教的修行状態に陥っている企業が増加し、ここではより苦労している事が価値観と錯誤されやすく、企業のブラック化は容易に進行していく。

長く監禁状態が続く被害者が、やがて誘拐犯に対して同情や好意を抱くようになる「ストックホルム症候群」は、基本的には「劣性依存症候群」の一つの劇症例であり、価値観が崩壊した後現れる「価値反転性の競合」も劣性依存の一つの方向性と言える。

劣性依存の本質的要因は「現実逃避」ではなく、「自己消失」、いや「自己忘却」と言うのが適切だろう。

火事などの緊急事態では我を忘れて人命救助に当る事が多いが、こうした状態の軽微なものが常に連続した場合、我を忘れて行動している時間が長くなり、本来の自分が遠くへ押しやられた状態になって行くこと、また諦めが多くなる事が原因かと考えられる。

そして劣性依存社会の末路は破綻よりも悲惨な底なし沼陥落であり、実質的被害者は若年層に集中する。

社会の頂点はどうしても経験の長い高齢者や年長者が築きやすく、高齢化社会で高齢者対策が重点的になってくると、このしわ寄せは唯でさへ若年層に向かってる上に、現実が劣性依存型の社会に向かいながら、高齢者の価値観は昭和と言う時代の優性依存価値観のままである。

ここで軽微な非常事態に拠って物分りが良くなった、或いは諦めから苦労している事で自身を肯定するようになった若者が被害者でありながら被害者とも思わない、また思っていても口にする事もできない組織や社会は、まず間違いなくルネサンスや宗教改革期のような、それまでの崩壊を迎える事になるだろう。

平成13年TBSの「日曜劇場」で放映されたドラマ「半沢直樹」にも出演していたジャニーズ所属の若者が、昨年末理由も言わずに突然芸能界から引退すると宣言したが、同じジャニーズ所属の「SMAP」の突然の解散騒動を見るに付け、私は彼らのファンでもなくジャニーズに怨みも無いが、伝え聞く範囲ではどこかで北朝鮮のような独裁企業、また老害満載の傾いた帝国企業をイメージせずにいられない。

更に、若年女子の優性競争心理を劣性依存に変換させ、独裁プロデューサーでアイドルグループが形成されている「AKB48」や、結束やストイックを拠り所にしたような「EXLE」の経営にも同じような臭いを感じ、少しばかりの気持ち悪さを感じてしまう。

TVの世界がいよいよ終焉を迎えている証なのかも知れない・・・。

[本文は2016年1月17日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

「徳の成立」

欧米の概念では「数」は数える事に原初を持つが、日本や古代中国では数は「読む」とも表現されてきた。
「数える」と「読む」の差とは何か、これは数と言うものが「自己」に有るか「他」に有るかの違いであり、もっと言うなら自己と他の関係を示しているとも言えるかも知れない。

「読」の旧字体は「讀」と書き、「言」の右側は「賣」と同じ表記に有りながら意味を違える。

讀の右は元々「睦」と「貝」の合字であり、これは街角を声を上げて物を売るその声を意味するが、「睦」とはまた温和な目、穏やかな目を意味し、この以前は「目」である事が明朝の時代の漢字からも見て取れる。

「睦」は「目」のその時の状態、「装飾」を表し、古くは「徳の右上「十」と「目」にほぼ同じ、一般的に漢字の上と下の関係は下が「意」となるから、「徳」の右の「直」と「心」に近いか、同じだったものの下に「貝」、「声を出して売り歩く」が当てられたものと考えられている。

一方「徳」の旧字は右側が「直」と「心」で構成されるが、これは実際のところで言うなら現在の「徳」である「十」と「目」と「心」の方が古い。
ただし、「彳」が付けられて使われるようになった事を総合するなら「直」と「心」の方が旧となる関係にあり、「直」とは「十」と「目」に簡素な塀が立っている事を意味する。

十の目とは何かと言うと、大勢の人の目をを意味し、「徳」は目を横にした状態の「目」の装飾であり、時々「四」などに近い状態でも用いられるが、「四」は周易では独特な位置に有り、「目」は古くは「神」や「天意」に近く、十人の人の目に半分の囲いの意味は「多くの人の目の前に完全な囲いは出来ない」、或いは多くの人の目の前では何事も隠す事は出来ないと言う意味に解釈されている。

しかし実際に徳の右側に「直」が当てられる事になったのは十の目よりは新しく、この意味では十の目を半分守れ、或いは十の目の後ろと上は自身が守れないが、前と下は守れとも解釈され、こうした流れから十の目を落とすな、誤魔化す事は出来ないぞと言う意味になったのだろうが、十の目の古くは「神の目」だったと考えられている。

「讀」と言う文字の状態は多くの人の目の前で正確に数を数え上げる事を意味していた。
誤魔化せない状態で物事を声に出して言う、つまりは占いの結果を告げる事、または天意に名を借りた権力者の詔(みことのり)にその端を垣間見ることが出来る。

同様に「徳」の右側も十の目の心であり、十の目の心と言う表記は「讀」よりも古く、この意味は基本的には「神の目を意識せよ」であり、「讀」共々十の目の心が途中で「直」の心に切り替わり、そして現在の「読」と「徳」のように全く違った意味になってしまったが、「讀」と「徳」は元々兄弟のような漢字で、「彳」は「貝」や「言」とは範囲が広い「行動」や「動き」「形」全般である事から、「讀」は「徳」の内、声を出して言う事に限定された「徳」の一部と言う事なのである。

ただ、十の目に半囲いが設けられた「直」の字の解釈は未だに不安定で前述された解釈も、推定の域を出ていない。
多くの人の目の前と下に塀を設け、後ろと上はこれが出来ないと言う表現の仕方は非常に意味が深い。

もしかしたら十の目から「直」に変化して行く過程には思想的に大きな変化が存在したのかも知れないが、決定的な事はこの時から徳や讀は神の領域から人の領域に降りてきたと言えるのである。

また「徳」の原義は「升」「昇」に有り、「升」の解釈は明白ではないが、木の柵組をした門の形、或いは階段や梯子を上る姿を表しているとも言われる。

「升」と「昇」とは同義だが、「日」に向かってかかる梯子、そして木の門の頂点付近を指しているとするなら、「日」に近付く事を意味している、簡単に言えば天の心に近付く、天の心を知ると言う意味とも考えられる。

しかしここでも十の目に囲いが出来て「直」と為すに同じような深さが出てくる。
易の掛に「升」が存在し、升は一つの限定でもある。
つまり「升」は上に上がる事を意味しながら、それが能動でも受動でもないのであり、在るべき所へ帰っていく為に上がると言う意味合いを持っている。

全く意識する事も無く意味も無く唯ゆっくりと上がっていく様を表している文字でもあり、こうした背景から見えるものは「太陽」や「月」の動きのようにも思えるのである。

「徳」の本質は「十の目の心」、多くの人の目を意識せよと言う事であり、この多くの人の目の先に「神」や「天」が在る。

してのその意義は音も無く考える事も無く、あるべき所に向かってゆっくりと昇っていく姿に有り、これを行動として表したものが「徳」、音に、言語に表したものが「讀」である。

我々が徳を実践する時、全く意識せず何も考えずに此れを行う事は難しい。

同様に眼前に出現する事象の全てを偽り無く見る事も、それを言語に置き換える事も非常に困難な事で有り、もしかしたら古代の人が十の目を半分隠して「直」にせざるを得なかった背景は、自身が神とはなり得無い事を表したものだったかも知れない・・・。