「表情の修正」・Ⅱ

さて話を元に戻すと、プンプン怒ってエレベーターを出て行った女はその後、他の乗客からどう思われるかと言えば、皆気分は悪くなりながらも、共通の「怒り」の感情を感じるのであり、ここで言える事は、こうした場面で怒りを感じることが、他の乗客たちも共通して持っている「理解可能な感情」だと言うこと、女が怒るのは認知された行動になると言うことで、皆気分は悪くなるが、心の中では40%ほどが女に理解を示す。

「そうだ、そうだ」と思っていることが多くなるのであり、この場合怒りの対象は存在しない、怒りだけが独立した感情となるが、このケースでも「怒り」と言う、薄い共有化されたコミュニケーションが形成される。

そしてこれが日本人には一番多いが「加減法」(modulation )と言う感情表現コントロールがあり、エレベーターで言えば、女性が少しだけ首を傾げて、そして出て行く場合である。

本当は心の中で「えーっ、何で・・・」と思っているのだが、そうした感情を見られまいとして、少しだけ不思議、不満そうな表情をする。

表情コントロールは、ある種のコミュニケーション的「変装」とも言えるもので、一般社会と言う環境では自分の本心を晒す事が危険、若しくは不利な状況を生むことが、どこかでは無意識の内に社会全体に認知されていることから、特に意識しなくても、多くの人間は特定の場面では同じようなリアクションをするようになり、そのリアクションがあることで、相互の感覚的共有感が発生するが、人間の注意と言うものは大きなものは見逃し、微妙な誤差を拾い易い。

それゆえ「変装」でも全く周囲と同じような格好をするか、それで無ければ相当周囲とは浮いた格好をした方がバレにくい。

プンプン怒る女、「偽装法」はいわゆる派手な変装であり、「修正法」の女性は周囲に同化、理解を求めようとすることで、「格好の悪い状況」を変装させた。

また最後の女性のパターン、ここではエレベーターの他の乗客に対し、少しだけ本来の自分の感情から、何かを差し引いたような感情表現をすることで、「消極的」な雰囲気的共有を求めている。

格好の悪い状況を「消極性」によって緩和しようとしているのであり、「加減法」は常に一般的であることを価値感とする日本に有っては、無意識のうちに使われる最もポピュラーな感情コントロールと言える。

人間はコミュニケーションの多くを言語に頼っているように感じるかも知れないが、その実「言語」と言うものは最も信頼性の薄いものであり、そこに感情表現が加わって、言語に価値を生じさせている。

その中でも表情コントロールのような「無意識」の表現は一番信頼性があり、それゆえに初対面の多くの者に対し、一瞬で共有された感情を伝えることができるが、これは一方で「影響力が少ない」からでもある。

言語は感情表現でもあるが、「契約」でもある。

つまり「言語」は未来を持っているが、表情コントロールはその瞬間の表現であり、瞬間に完結したものとなるがゆえに、無意識の内に相互信用が発生するが、言語の持つ契約の部分では、常に未来は不確定であることから、このような瞬間的な相互信用、感情や意識の共有は生まれない。

おかしなものだ・・・。

人間は自分の意思を伝える為に言語を持つに至ったが、その実言語では人に確かなことが伝わらず、言葉ではない表情や動作、そして無意識のうちに現れる「変装」の方が一瞬にして理解されるとは・・・。

そのむかし「言葉」は「言霊」(ことだま)と呼ばれ、人間の魂を現すものだったと私は記憶しているが、もしかしたら現代の我々が使っている言語とは、「言葉」ではないのかも知れない・・・・。

 

 

 

「表情の修正」・Ⅰ

例えばエレベーターで、必死の思いでもうすぐ閉じようとしていたエレベータに追いつき、さて自分が乗った瞬間、総重量オーバーのブザーが鳴った場合、このときは例え体重45kgの女性で有っても、どこかでは深く傷つくことになるが、もっと気まずいのは周囲に対するリアクションである。

本当のところはエレベーターに乗っている人が何を考えているかと言えば、早くその最後の一人が出て行って、エレベーターが動くことを考えているのだが、こうした場面は状況が違えば誰にでも同じことが有り得る状況から、その最後の一人が行うリアクションまでセットになって、他の乗客は少し先の未来展開を予想している。

そしてその予想される未来展開の第一は、「笑い」であり、ここで最後の乗客、この場合は若い女性だったとしようか、彼女が苦笑いして「最近太ったのかな」と誰に言うでもなく言ってエレベーターを出れば、既に先に乗っていた客と女性の間には、ある種の共通した感覚上での相互理解が発生し、「運が悪かった」と皆が納得する事になるのである。

元々エレベーターで総重量制限のブザーが鳴ったことに対して誰に罪が有るのでも無く、また最後の乗客にも非があるわけではないのだが、この若い女性がここでリアクションを間違えれば、本当は他人がそこまで思わないようなところにまで、自分で想像的に追い込んでしまい、傷を広げることになる。

人間はこうしたことが良く分かっているからこそ、そこに「体裁」と言うものが発生し、その「体裁」とは一見他人に対して為されているように見えながら、現実には自分のために為されている。

それゆえエレベーターで総重量制限のブザーが鳴ったとしても、黙って出て行っても笑って出て行っても、それは現実に何の変化ももたらさないが、日本人がここで苦笑いする民族的行動本能の根底には「自己保身」が生きているのであり、こうした笑いによる表情のコントロールを「修正法」(modification )と言い、同じ民族で同じ状況下に措いて、同じリアクションが為されることによって、そこに発生したある種の感情的起伏は緩和され、また言葉にはない薄いコミュニケーション、「安心感」が発生するのである。

そして予想される未来展開第二、「修正法」をリアクションした女性は大変素直で性格も優しく、他人に対する配慮も、自己顕示欲の度合いも程ほどに良い女性だが、これが少しプライドが高い女性になると、どうなるか。

「何よ、このエレベーター故障してるんじゃない」

顔を少し険しくしたスーツ姿の女は、プンプン怒りながらエレベーターを出て行くことになるが、これを「偽装法」(falsification )と言う。

本当はエレベータでブザーが鳴ったくらいでそこまで頭にくることはないのだが、やはりここでも「体裁」が付かないため、感じた以上の表情を作ることで、本来の感情を人に悟れまいとするのである。

第一の「修正法」は少し腹立たしい気持ちの上に、「笑い」を乗せることで自分の感情を保護したが、今度は少し腹立たしい感情に、より大きな「怒り」の感情を乗せることで、もともとの小さな腹ただしい気持ちをカバーしようと言うものだ。

同じことは例えば葬儀に措いてでも、本当はそれほど悲しい訳でもないのに、極端に悲しい顔をし、また時には自己暗示から涙を流す場合もこれと同じことが言え、こうした傾向が強まっていった場合、若しくは職業的に妥協を許されない状況のとき、人間は「無表情」になっていくものでもある。

前出の例で言えば、エレベーターのブザーを鳴らしたのが、極端に自己顕示欲の強い人間の場合は、「無かったこと」のようにして黙って行ってしまうのであり、同じようにこれがデパート女性店員の場合だと、軽く会釈をして、黙ってエレベーターから降りるのが正しくなる。

このように極端な自己顕示欲と、全く自己顕示欲の無い職業的リアクションには、ある種の共通的な傾向があり、こうしたことから考えられることは、極端に具合の悪い人間の行動と、洗練され、研究された人間の行動は、前者がその具合の悪さから来る不安感によって、後者はその職業的正直さによって、同じような行動になる場合があると言う事だ。

「表情の修正」・Ⅱに続く

「観測されなかった地震」

2020年10月6日、19時30分頃、石川県能登地方から、複数の有感地震発生の連絡を受信した。

震動は3回発生したものと見られ、10秒ほどの間に震度1の揺れが2回発生し、その間に震度2の揺れが有ったものとみられるが、この地震は能登半島の特定地域、半径5km内で震動を感じたものと推定され、同地域から10km離れた観測地点では震動が観測されていない。

それゆえ特定の地域内では早朝から、住民の動揺が有ったものと見られるが、気象庁、京都防災科学研究所でも、同地域の震動は観測されなかった。

可能性としては飛行機の加速時震動、遠隔地火山活動に伴う「空気振動」も考えられるが、同地域では空気震動が頻発する事から、普段から地震の震動と空気振動の区別が一般化されている為、空気振動の可能性は低いものと見られる。

次の可能性は花火、雷だが、同地域行政窓口に問い合わせたところ、能登半島では同日同時に花火大会が催された地点は無いとの事だったし、同時刻の気象条件は晴れ、若しくは曇りだが、雷雲が発生していた記録は無く、風はほぼ0mから3m以内の静かな夜だったと言う事で有る。

更に隕石落下の可能性だが、こちらも同時刻に隕石や火球などの観測は無く、観測された音は衝撃音ではなく、南南西方向から近付いてくるような地鳴り音だったとの事だ。

不思議なのは、同地の地盤は比較的固く、能登半島地震でも輪島市門前町では震度6強だった揺れが、同地では震度6弱程度だった事に鑑みるなら、同地で震度2なら付近地域は震度3を観測していてもおかしくないのだが、付近一帯では震動が観測されていない点だ。

可能性としては余り例はないが、狭い範囲だけに伝搬する、比較的深い震源の地震だった事が考えられるが、このような事が存在できるのかどうかは疑問である。

異常震動だったと言う以外に表現できる言葉が見つからない。

また同地域には10月6日21時10分、同日21時33分に1回ずつ、怪音現象が発生したと言う報告が2件有った。

当日の能登半島上空には雷雲が無かった事から、この怪音現象も原因は不明である。

「バリバリ」と言う細かい雷が数本束になったような音だったと言う事だ。

それと、こうした怪音現象の後、風も無いのに、外で風が吹いているような音が未明まで続いていたとする報告もあるが、こちらに至っては全く見当も付かない。

唯、これまでの怪音現象、同地の微弱地震発生後の他地震との因果関係の統計から、能登半島、新潟県中越沿岸付近の震度5以上の地震と、北海道南部地域の震度5以上の地震発生の確率が発生したものと考えられますので、これらの地域では今後1週間ほどは更なる異常現象が無いか、注意してお過ごし頂ければと思います。

[保勘平宏観地震予測資料編纂室・通信」

 

 

 

「夢で神が・・・」

円はどれだけ大きさが違っても形は同じとなる。

これを「相似」(そうじ)形と言うが、円に措けるその周囲の長さと、直径の比率には常に一定の法則がある。

この一定の比率法則を「円周率」と言い、通常は「π」で表されるが、円に関してその面積や周囲の長さ、または直径を知ろうとした人類は、初期の頃、円周率を実際の計測から求めていた為、その数値には幅があった。

「3」や「3・16」と言った古代の円周率は計測数値による不確定さがあったのだが、歴史上初めて円周率を計算式から求めたのは「アルキメデス」であり、彼は円の内側に内接する正96角形の辺の長さの合計はπより小さく、同じ円の外側に接する正96角形の辺の長さの合計はπより大きくなることから、πの数値をほぼ3・14と計算した。

以来世界各国のあらゆる時代の数学者達はこの円周率が有理数なのか、つまりいつかは割り切れる数字なのかどうかを巡って、またより細密な近似値を求める方法を探って行ったが、日本では1722年、正1024角形から、収束していく数列の性質を用いた「加速計算法」を使って、小数点以下42桁までの円周率近似値を求めた者がいた。

「関孝和」「建部賢弘」の2人はそろばんで、小数点以下42桁までの正確な円周率をはじき出していたのである。

そして1882年、「フォン・リンデマン」は「π」が「超越数」であることを証明し、ここから円周率の計算は、人間の手の及ぶものではないことが分かったのであり、以後も現代に至るまで円周率は機械、コンピューターによって計算され続け、現代では1兆桁を遥かに超えるところまでその近似値は求められているが、ちなみにこうした円周率上の数列で、1から9の、どの数字が一番出て来るかと言えば、これが面白いことに均等な比率で出てくるのである。

更に例えば1円を年利100%で借りたとして、毎月複利なら1年後には返済額が(1+1/12)12 円となるが、これが半月複利なら(1+1/24)24 円となり、1日複利なら(1+1/365)365 円の返済額になって行く。

こうして複利の回数が増えていくとどうなるか、勿論返済額が膨大なものになる事は勿論だが、ここに元利の合計が一定の数値に近付いて行く現象が起こってくる。

これが「e」、すなわち「自然対数の底」と言われる数値であり、近似値は(2・718281・・・」となる。

数学者のジョン・ネイピア(1550-1617)は、こうした自然対数を全く無意識に使っていたと言われ、それゆえ「e」の数値は別名「ネイピア数」とも呼ばれるが、更に凄いのは、何の数学的教育も受けていないインドの天才数学者、「シュリニヴァーサ・ラマヌジャン」(1887-1920)であり、彼は「ネイピア数」「e」に関して驚愕すべき公式を多数残していた。

数学とは一般的にややこしい計算がでてきて、大変面倒だと思われるかも知れないが、実はその根底に潜むものはインスピレーション、または美的感覚と言うものかも知れない。

「シュリニヴァーサ・ラマヌジャン」は当時こうした素晴らしい数学理論が、どうして無学な彼から発生してきたのかに付いて、自身でこう語っている。

「夢で神が教えてくれた・・・」

 

「輔弼事項と任命権」

圧倒的な支持率でスタートした「菅義偉」内閣だが、当初感じていた田舎臭さと言うかセンスの無さが、ここに至って少しずつ露呈して来た感がある。

「今すぐにでも辞めてください」と言う国民意見の多い「三原じゅん子」代議士の厚生労働副大臣は明確な恩賞人事と言えるし、こちらも税金泥棒の誉れ高い「今井絵理子」代議士の国会対策委員会副委員長は、「おいおいぉぃ・・、それはないだろう」の人事だ。

また口は禍の元を地で行く、「杉田水脈」代議士の女性差別発言に対しても、自民党は口頭注意と言う具合で、何か特別な思惑でも有るのかと思われるかも知れないが、杉田氏は次期選挙でも比例区名簿トップ記載がほぼ決まっているとされている。

これは前安倍内閣に暗躍した「日本会議」や、俗に言われる右翼からの人気の高さが影響していると言われているが、同じ傾向は「三原じゅん子」代議士も同じである。

愚か者の一番やり易い事が、恩賞人事と仲良しクラブである。

こうした傾向は有能な者を影に追いやる効果を生じせしめる事から、遠からずその組織が為す事は混乱に向かう可能性が高い。

実務に忠実な者は鳥瞰的(ちょうかんてき・高い所から広くものを見る事)な見方ができない。

どうしてもセンスのない頑なさが出てしまうが、前安倍政権は順風満帆な中を総理の御病気で政権辞任された訳ではない。

そう言う形に近付けて辞めたように見せた安倍総理は、あらゆる政策に行き詰まり、「ところてん」が絞り出されるがの如く、もうどうにもならなくなって御病気引退された訳だ。

ここは前政権を踏襲してでは、最初から行き詰っている事になる。

政策としては、前政権がやった事の改革かか変更を打ち出さねば、安倍総理が御病気になられた時と同じで、何も変わらないと言う事で有る。

こんな事は3世紀も前からの政治上の常識と言うものだが、加えて本当にセンスが無いなと思わせてくれたのが、「日本学術会議」の推薦者の中で任命を見送った者を出した事で有る。

これは黙って過ぎ去れば何でもない小さな事に、田舎臭いセンスを持ち出したために大変な事になった、そう言う事態に気付いていない愚かさが招く、底なしの闇を感じてしまう。

「日本学術会議」など、大した権威も影響力も無いものだから、放っておいてもどうでも良かったのに、団体が推薦したメンバーに対して政府が中立を保つ為、全て承認任命する形が採られていた形式に逆らい、任命拒否など論外だ。

この形式は明治政府下の天皇の輔弼事項(ほひつじこう・補助する事だが、直接権者もこれに逆らわない仕組み)、昭和から以降の天皇の任命権に関する独立性に同じで有り、推薦者の任命を拒否すると、政府や天皇が干渉した形式となる為、これが避けられた経緯を持つ。

しかし、この中で菅総理は前安倍総理時代に政策を批判した、6名の教授の推薦を見送り、「日本学術会議」のメンバーに任命しなかった。

明確な学術文化に対する政府干渉であり、自民党内のお友達組織と同じような田舎臭いやり方を、明治天皇から現代にいたるまで守って来た、天皇と政治の独立の形を模倣した在り様を、蔑ろにしてしまった。

まったく無知と言うか、器の浅い者は本当に困ったものだ・・・。

こんな「日本学術会議」のような小さな事案でも、システムは天皇輔弼事項と同様式を持っている。

菅総理が組閣した内閣を、天皇が拒否したらどうなるか、菅総理は拒否する事が出来ない任命権で、拒否を使ってしまった訳である。

これは単にお友達優遇、嫌いな人を排除しましたと言う結果以上に、日本が持つ最も大きな伝統在る仕組み、儀式を蔑ろにしたと言う側面を持ち、しかもぬめっとした加藤官房長官のコメントは、」そう言う意図は有りませんが、政府の決定だと言う事です」と言う全く訳の分からないものだった。

政府の決定だからこそ、任命を拒否した理由が必要なのだが、こうして幕引きして済まそうとするのだろうか・・・。

愚かだ、実に愚かだと思う。

こんなどうでも良い案件で敵を作って頑張ってしまうと、その後大きな案件が発生した時、敵ばかりになって誰も助けてくれない。

安倍総理時代のようにイエスマンを集め、対立するものには姑息な手で貶め、「やーい、ざまーみろ」のような事をやっていたからこそ、消費税増税、コロナウィルス危機に際して政策立案能力を失い、仮病を使って辞任しなければならなくなった事を、その横で見ていて解らなかったとは、本当に悲しい男だと思う。

学術、芸術と言うものは氷山に似たりで、道路を歩いていて石ころを蹴飛ばしたつもりが、実は地面の中に在る大きな岩の先端だったと言う形に近い。

しかもいざとなればそれほど大きな力のないものだ。

就任早々総理が手を出す価値はなく、何もしない間からこんな事で躓いて、大きな敵を作るなどトップとしてのセンス、「器」や度量に欠ける行為も甚だしい。

政治家として民衆の期待に応えるどころか、のっけから失望感を与えるものだ。

この「日本学術会議」任命騒動だけでも、海外の多くの有識者が言うように、菅内閣がもたらすものは更なる混乱、無策だと推測できる。

結果だけを見ていると、菅総理は混乱と民意の冒涜はやっても、まだ有用な政策を何一つ打ち出してはいない。

菅総理に期待はできない。

実務はこなせても、政治家として最も大切な創造、ヴィジョンと言うものを持っていないのかも知れない。

野党勢力の低レベルさを考えるなら、日本国民は次も自民党候補しか選択の余地が無い場合、ネットと言う手段も有るのだから、民衆の中から次期候補を選択すべく、動きを始める必要が有るのではないか・・・・。