「楚王のリスク管理」

中国古典「説苑」の「楚、壮王」のくだりに、少し面白いエピソードが乗っている。

ここでは位の高い女給に対し、セクハラをはたらいた男と、それを処する壮王の話が出てくる。

宴会の席で蝋燭が切れてしまい、室内は一瞬にして暗闇となった。
これ幸いと、給仕をしていた美しい女性の着物のを裾を引っ張った壮王の家臣、しかしこの女給は王の親族で位が高く、家臣の無礼に激怒し、そのセクハラをはたらいた家臣の冠の緒を引きちぎる。

そして壮王にこう言うのである。
「壮王、今しがたこの暗闇に乗じて、私に狼藉をはたらいた者がおります」
「私はその者の冠の緒をちぎりました」
「どうぞ、今すぐ灯りをともし、その者にきつくお叱りを与えてください」

これに対して壮王は女給に「そもそも宴会を開いたのは私であり、また蝋燭の不備も私の責任である、謹んで私がお詫びする」と言い、女給に詫びた上で、宴席に出席していた者全員に冠の緒を引きちぎるよう申し渡し、その上で蝋燭に火を灯させるのである。

それから数年後、なぜか戦の度に命も省みず戦う、勇敢な家臣がいる事を知った荘王は彼に尋ねる。
「どうしてそこまでして、私と楚の為に戦ってくれるのか」
その家臣はこう、語る。
「いつぞやの宴席では、私が給仕に狼藉をはたらき、それを荘王に救われました」
「くだんのおりの御恩は生涯忘れません」

後年、この家臣は壮王の為に命がけで戦う、楚で最も勇敢な家臣となった。

楚の壮王は名君として誉れ高い人物だった。
そしてこうした話が残っているところを見ると、2000年以上も前からセクハラは存在し、その対処は非常に重要だったと言う事である。

そしてここからが重要なのだが、正義と言えば振りかざして糾す、と言う 使い方が一般的だが、正義の使い方は実はこれだけではない。己の利の為に使う用法も習得しておかねば、正義の半分を捨てているに等しい。

正義と言うのは振りかざして糾すと、その糾された者は何かを失う事から、団体やグループ全体を1つと考えるなら、総量的にはマイナスになる。
出来れば総量的マイナスを減らして、荘王の場合なら女給と家臣の内、どちらが自分の利になるかに鑑みるなら、家臣である。

それゆえ家臣を擁護し、団結心を与え、ついでに恩も売り、また女給も王が直々お詫びするのだから、これはこれで納得せざるを得ない。
つまり正義を使って誰も傷つかずに、荘王は自身を最大限売り込んだ結果になる。

正義と言うものは振りかざし、糾しても相手は傷つき、場合によっては恨みを買う事もある。
それを糾したからと言って、結果は必ずしも正義と言う、 大袈裟な名前程の効果を生まないのである。

糾すべき対象者が正義を最も理解する瞬間は、実はその糾されるべき正義から守られた時であり、正義の名の下に人を糾し、その人の道を壊し、或いは稀有な友となったかも知れない、若しくは自分の為に働いてくれるかも知れない者を封殺するなら、正義はマイナス面に使われた事になる。

正義と言う立派な言葉を、このように使うは如何ともし難く惜しい。
誰も傷つかず、人の道を塞がず、正義を理解し、そして己に利するなら、これ以上正義と言う名に相応しい用法は存在しない。

この考え方は、両側投資の概念と思想を同じくするものであり、現代社会が漠然としか理解していないだろう「民主主義」の出発点でもあるのだが、それはまた後の記事で解説しよう。

毎日、ネットの世界で誰かが正義、道義の名の下に叩かれている現代社会に鑑みるなら、それはまるで1万円札を破り捨て、足でさんざん踏みつけているのと同じにしか、私には見えない・・・。

[本文は2014年6月20日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

「反転逃避美意識」

名称は伏せられるが実在する地域で実際に有った話として・・・。

商工会議所が会議所会員の事業者に対して独自の景気判断アンケートを行った結果、そこでは事業者から行政の恣意性に対して厳しい意見が多数寄せられ、代議士や市長との癒着によって事業者間格差が広がり、市民生活も困窮し、自由にものが言えない暗い社会になっていると言う回答ばかりだった。

これに対してアンケートを実施した商工会議所会頭は、「市民、事業者からの率直な意見だから」と、アンケート結果をそのまま公表したが、反発したのは行政と代議士系列の市議、市長、それに議会だった。
アンケートでは行政と代議士等の批判と共に、議会の無能ぶりに対する意見も多かったのである。

議会は早速このアンケートに対して議会を侮辱しているとして商工会議所にアンケートの撤回を要求、市民、事業者の忌憚の無い意見に対して議会侮辱を持ち出すトンチンカンぶりだったが、連動して市行政側も予算の厳しい商工会議所に拠出している補助金を全面停止し、更には通年だと会頭の任期は2回続けるのが慣例となっていたにも拘らず、当時の会頭の任期1回目が終わった時点で対立候補を立てられ、アンケートを実施した会頭は更迭されてしまった。

その後新生商工会議所は以前のアンケートは特定の恣意性が有り、市民の意見を反映していないとして新しいアンケート結果を公表したが、そこには「現状に満足」「行政は良く努力している」「発展が期待される」など以前とは全く逆のアンケート結果が、正規の商工会議所アンケートとして公表されるのである。

だが、商工会議所が実際に2度目のアンケートを行った形跡はなかった・・・。

この話は10年ほど前の事だが、おそらく地方と言わず中央と言わず、商工会議所や経済団体の行うアンケート結果は似たようなものだろう。

日本に措ける政治の歴史、権力の歴史は名目上でも民衆と言う「天意」を反映した時代が極めて少ない。
律令国家成立期には存在し得た「天意」による為政は、対外的な脅威によって意識されたもので、この点で民衆や国家、「天意」が次に意識されたのは明治政府成立期になる。

つまりここ2000年の日本に措ける政治の中で民衆が意識された政治の時期は2回しかないので有り、それは対外的脅威によってもたらされたものと言え、確かに日本は長い歴史上多くの対外的平和を維持したが、その要因は極東の島国と言う地理的偏狭が所以である。

日本の政治は対外的脅威が少なかった分、国内意識が高く、言い換えれば日本の政治は派閥闘争、親族闘争、権益闘争に主体が置かれ、「その先のビジョンを持つ」政治は極めて少なかったと言う事である。

「今のこの悪しき流れを変える」事は目指されても、この国をこれからどうするかと言う事が考えられた政治はおそらく明治政府の、それも初期だけだっただろう。

結果として新しい政治とは新しい為政者の勢力拡大、その関係者の権力的引き上げに伴う経済的利益に群がる者には有利になっても、決して民衆が益となる事は無かった訳で、例え新しい為政者が現れても政治はその為政者が拡大していく為に費やされ、その僅かなおこぼれが民衆の益にしかならなかった。

冒頭の商工会議所ではないが、日本の世論調査、アンケート結果は歴史上現在が最悪の状態と言える。

僅か3000名の意見を国内世論として発表し、安倍政権を支える為に、「アベノミクス」と言うガキの遊びのようなものを支える為にあらゆる政策が動き、これをひたすら真実を隠蔽しながら世論動向で後方支援するマスコミの有り様は、日本の情報信用を著しく貶め、我々は政府発表もマスコミ発表も全く信じられない状態に陥っている。

つまりあらゆる情報が意図的な誘導情報となっているのであり、こうした情報の中でも最も多くの信頼が必要とされる一般大衆の意識調査すら意図的に操作される現状は、既に世論調査が形而上の意味すらも持っていないと言う事である。

元々民意と言うものは現実と理想の相反した関係の選択であり、この点では統計学上の拠り所となる「中心極限定理」が初めから揺らいでいるだけではなく、例えば固定電話で回答を求めるなら、まず固定電話が有る事、昼間家にいる人と言う条件が出てくる為、これでは労働人口や若年層、傷病が有る人の回答が欠損する。

またインターネットを用いた場合、やはり若年層は既にスマートフォンへ移行している為、官公庁の職員、家でインターネットをしている高齢者や主婦などからしか回答は得られず、スマートフォンを用いた場合はインターネット利用人口、非スマートフォン利用者の意見が欠落する。

更に郵送による用紙回答方法では時間がかかりすぎて現状の世論を反映しにくくなる事、忙しい人は非回答になり、結果として調査回答が得られるのは時間や金銭に余裕が有る人の割合が傑出し、全ての調査方式で忙しい労働人口層、若年層、生活弱者とネット等を利用できない状況の人など、本来その意見が最も反映されなければならない人々の意識動向が欠落しやすい。

つまりどんな方式を用いようともサンプル人口が全体の分布と一致しないのである。
加えてこの情報速度の速い社会は大体1ヶ月もすれば以前の情報は忘れられるか、判断が逆転する傾向を持つ。
政治家の不適切な発言一つで国民意識はひっくり返る状況なのである。
昨日の意見と今日の意見は必ずしも一致するとは限らない。

それゆえこれまでも世論調査やアンケート結果と言うものは形而上のもの、言い換えればそれを扱う者の信用性や権威によって見せかけの担保が為されてきたに過ぎないが、現代ではこうした見せかけすら省略した形の、予め調査結果を利用する事が目的とされた調査やアンケートとなりつつある。

景気判断や国内人口の景気意識動向では、恩恵を被っただろう相手に対して意識調査をし、その結果を共有できる人に対して意見を求め、当初の政策の正統性を主張する手法が政府によって蔓延し、マスコミがこれを支えている。

文字通り金が無ければ立ち行かない、だからこれが優先されるのは仕方が無く、ここで厳密な意見を吐く者は全体に禍する者と言う考え方が通ってくるのだが、これは1990年から続く長い不景気とその後の気象災害、震災などがもたらした「反転逃避美意識」、非常時だから汚い事は見ないようにしてとにかく美しく、楽しいところを見ようよ」「良いところを発信しようよ」と言う国民全体の現実逃避思想に支えられたものだ。

映画館内では静かに鑑賞するのが基本的なルールだが、映画「アナと雪の女王」では皆で歌曲が合唱され、合唱を拒むと不思議そうな顔をされる。

東北の震災で使われた安易な「きずな」と言う言葉、オリンピック招致時の「おもてなし」、そして冒頭の商工会議所のアンケートなどと安倍政権にはどこかで共通する、美しい女の面を被った化け物のような気持ち悪さがつきまとう・・・。

[本文は2014年6月19日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

「分裂統合症候群」

Aと言う人と話している時、Bと言う人と話している時、更にはAとBに自分を加えた3人で話している時の自分は必ずしも一致したものではない。
Aには話せてもBには話せない事も有り、AとBが同時に目の前にいる場合、自身の態度は3者の集合重複部分で成立している。

解り易い状況を例に取るならAが男でBが女、自身が男女どちらかだとすると、自身の態度や思考傾向は全ての状況に対して統一性を有しない。

人間の状況に対する判断や対応は即時性のものであり、この点では状況に応じて分裂したものなのだが、問題はこの分裂に時間経過区分や整合性を持たせる為に自身がどのように整理しているか、記憶しているかと言う部分である。

精神障害の分裂症状は、現在では統合失調症と表現される事が多くなったが、この症状は脳の機能障害や遺伝によってそれぞれの時系列に措ける行動の整理統合、時間経過区分を記憶分類できない状況を言う。

だが、元々人間の状況に対する判断は初めから分裂であり、障害となるかそうではないかの分岐点はひとえに「自己認識」による。

それゆえ状況に対する結果は同じでも、自身の行動を認識しているか否かと言う事によって社会生活に適合できるか、或いは適合できないかの判断が為されるが、障害の有る者が発生させる問題は、せいぜいが「結果として嘘になる」行動による迷惑に留まるが、逆に認識される分裂、その分裂に麻痺を起こした社会的健常者の引き起こすものは、悲惨な事件を発生せしむる事になる。

「非認識」がもたらすものは自身の言動に対する「非整合性」であり、この場合は社会的整合性を欠く事から、以前の言葉が現在に措いて担保出来ない、つまりは結果として嘘となってしまう事が多くなるが、逆に状況に応じて分裂した判断をし乍、自身の内に整合性を付ける程度を大きくしてしまうと、現実から乖離したまま社会的整合性を保った状態が発生する。

冒頭のAとBの例を挙げるなら、AとBが恋人同士で自身をAの親友Cとするなら、最近女のBはCとも付き合っていて、この事に対してその当初はCも罪悪感を持つが、その状況が長くなると罪悪感が麻痺し、やがてはそこに自己正統性の感覚が発生してくる事になる。

その上でBとCの関係が益々深くなった場合、Bに取ってAの愛は、その感覚が深くなればなるほど恐怖、若しくはCと共通した邪魔な感覚となり、最後はBとCによってAが排除される道を辿るが、これは家族親子でも同じである。

人間が社会的モラルや道義を失う原因の最大の要因は、第一次欲求、食欲や性欲によるものであり、これは基本的に「生きる」事に端を発している。

意識しようとしまいと、人間は言葉でどう言おうとも自己存在を否定できず、この中では自身で犯す自身のモラルや道義に対し、自己解決や整合性が付けられない場合、その責任を対象者や状況に転嫁し、こうした状態を続けていると「転嫁」そのものを省略して何も感じなくなる。

状況や自身の非整合性に対して整合性を持たせる思考回路は、自己存続と言う生物の脳が持つ基本条件に始まっている。

従ってこうした「麻痺」する感覚は生物学上必要な機能でもある。

忘れる事、慣れる事はある種のバイオプログラムでも有るが、問題はこれが第一次欲求や自己存続に連結している事であり、この点を鑑みるなら人間のやる事には実は「際限がない」
つまり「何でもやってしまう」のである。

2014年5月30日、神奈川県厚木市のアパートで「斉藤理玖」君(5歳)が衰弱死した遺体で発見され、これは父親の扶養義務放棄によるものだった。
母親は父親の度重なる暴力から逃げるように家を出てしまい、父親も新しい女性と交際が始まった影で起こった悲惨な事件である。

人間がやっていることは基本的には未来計画も含めて現状対処である。

重大性は「頻度」によって左右され、第一次欲求、今の時代で表現するなら生活と言う経済、そして男女交際と言うもので別枠が出来てくると、前の枠は少しずつ遠ざけられ、それでも前の枠に生きている子供に取ってはそれが全てである。

どれだけ忘れられても放棄されても親にすがるしか生きることが出来ない。
これをして究極の愛と言うものなのだが、その愛は逃げる者にとっては最大の恐怖になって行く。
やがて衰弱した子供をもし病院に連れて行けば自分が扶養を怠った事が発覚する。

父親は今と言う自己保身の中で子供の扶養を分離して考えるようになり、はそこから逃げ、ここに至って問題の解決は自身の命によってしか償われない事となった時、生きようとするメカニズムは前に持っていた枠を夢のようにしてしまい、現実解決を怠ったまま今の暮らしがそれを分離、麻痺させてその日その日を送らせる事になる。

そしてこの父親は世間からどのように責められようとも言い訳など出来まい。
だがそれを責めている世間一般大衆にしても、程度の差は有ってもどこかでは分裂を抱えながら、その事は今は考えるのは止そうとしている現実を抱えながら暮らしている。

この父親の非道は我々の内にもまた存在し、責めている本人がいつかそのような事態に陥る可能性を常に内包しているものである事を認識して措いて欲しいと思うのである。

私がこの30年ほどで最も嫌な言葉だと思ったもののひとつに「自分へのご褒美」と言う言葉がある。

それまでの自己が持つ道徳やモラルの崩壊はある種の解放、拡大でも有るが、その拡大した自己の中に薄くても以前の枠を持っていないと、それを思い出すことが無いと唯の欲望の正当化にしかならない。

ふやけた、脳天気な「自分へのご褒美」と言う言葉は、どこかで今回の厚木市の幼児の育児放棄事件に繋がっていたような気がするのである。
自分へのご褒美とは、「怠惰」「甘え」「分裂」の正当化と言うものにしか見えない・・・・。

そして自分の持つ道義を守って生きようとすれば、愛を大切に思うなら、いつか自分の命を自分で絶たねばならない時が訪れるかも知れない。
それゆえ生物は常に生きるか死ぬかなのであり、この事をして生きていると言う事なのだろうと思うのである。

幼き魂の無念を思い、心から天の祝福の有らん事を希望する。

[本文は2014年6月15日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

「未来の為に言葉を使う」

もう30年も前の事になるだろうか、わたしは日本と韓国の青年が交流する為の企画会議に出席したが、その動機はこれから日本はアジア各地の国と協力して行かねばと思う高邁なものだったにも拘らず、実際には交流会で韓国の同年代の女性と太平洋戦争を巡って誹謗中傷の応酬となり、最後は「何ならもう一度占領してやろうか」と暴言を吐き、係員からつまみ出されてしまった。

本当は会議に参加するまでは韓国の若者と親善を深めようと思っていたのに、結局のところ私は韓国に付いて何も知らず、その女性の態度が気に入らなかったに過ぎないが、それが最後には韓国と言う国家そのものを嫌悪する言葉となってしまったのである。

だがよくよく考えてみればナショナリズムや思想と言うものはこうしたものかも知れない。

先般長崎で横浜の中学生が原爆被害者の語り部を務める人に対して暴言を吐いた事が大きなニュースとなっていたが、我々はこれを報道だけを見て判断してはならない事を思う。

戦後70年近くなり、戦争の悲惨さを知る者が少なくなり、豊かで文化的な環境の中から生まれてくる者が多くなった今日、中学生が具体的な原爆被害の全容を知る由もなく、唯騒いでいたら「聞く気が無いなら出て行け」と言われ、それに対して反発したような気がする。

前出の自分の例ではないが、中学生の暴言は被爆者云々の話ではなく、単にそれを説明している人が気に食わなかった、その結果が被爆者に対する暴言へと発展してしまったように思う。

先の東北の震災でもそうだが「語り部」と言う存在については、発生した惨事の是非以前に私は違和感を覚え、それが結果として悲惨な経験を否定しかねない考えに繋がる場合も有るような気がする。

観光地を訪れると、どこからともなくボランティアが現れ、事細かにその施設や地域の歴史などを説明してくれるのは有り難いが、例えば金沢などは金沢弁の高齢ボランティアがそれを行っている事から、聞いているとどこかではとても傲慢で、「お前、500年前に生きていたのか」と思わず突っ込みを入れたくなる時が出てくる。

住んでいる地域を愛すると言う気持ちは国民皆が持つ気持ちだが、それはその地域ごとによって隔絶されたものだ。
従って自分の地域を愛する気持ちは、他の地域に対しては対立に近いものになり、これは「状況」に付いても同じことが言える。

どんなに悲惨な出来事が有っても、それは自分に累が及ばない限り人事であり、基本的にここに同情や賛同を求める心には卑しさが付きまとう。

同情や賛同は自分が求めるものではなく、「他」が判断する事で有り、この段階で皆と一体になった空気に同調しない者を排除しては、一番伝えなければいけない相手、もし理解したなら深く賛同するであろう者を門前払いしたと同じではないだろうか・・・。

人の言葉とは客観的事実、物証をも引き込んだ「主観」である。
どう思うかはそれぞれの判断に委ねられ、こうした自由な精神が有るからこそ、そこから本当の理解や賛同が生まれ、反発も大切な人の感情である。

ユダヤの格言には「全員が賛同する事柄は実行してはならない」と有る。
私も100人の人がいて100人とも同じ考えだったら、その会議や集会を警戒する。
皆が賛成と言う事は「無関心」か、その場しのぎで真剣な議論ではないと言う事、或いは特別な力が働いていると言う事である。

長崎の語り部の人が態度の悪い中学生にまず反発を覚え、それで注意したら今度は中学生が反発した。
被爆者に対する云々など遠い世界で始まった感情の対立が、そのお互いの立場から被爆者全体に対する冒涜になってしまった。
そう言う事だったに過ぎないと思う。

そしてこの中学生は全体に反した事になり、非難を浴びて無理やり頭を下げる事になるが、ここで生まれるものは本当の意味での被爆者に対する嫌悪である。

確かに中学生と言う立場では遥かに年長である人に敬意を示さねばならず、この点では彼も反省に資するものは有るが、同時に絶対的価値観で解説を行った語り部の人の、その価値観を共有できない者に対する扱い方、反発に対して更に反発してしまう心の浅さを私は感じてしまう。

実際戦争を経験した事も無い若い年代の者に、それを理解しろと言うのは見た事も無い世界を理解しろと言うに等しく、これは理解など有り得ず、理解したと思う者は勘違いである。
言葉はそこまで完全に人に事実を伝えることは出来ない。

だから私は「語り部」と言う制度が好きではないが、それをして後世に自分の意思を伝えようと思う者は、勘違いでも良いまず関心を持ってもらう事、そして一番最初にまず自分が否定されないような節度、人格を心に刻んでおかねばならないのかも知れず、その根源には自身を否定する相手に対する理解が必要となるのではないかと思う。

自身が否定された相手でも、時を得て行けばその否定した相手が自分の愚かさや狭さに気付く時も出てくる。
今だけを見て感情で言葉を使えば、やがて将来に措いて自分の意思を最も理解しようとしていた人間を排除する事になるかも知れない。

人間の判断は客観性や合理性、事実によって為されるのではない、感情による受容か否定しかなく、これは曖昧なところを彷徨っているものだが、それを確定させてしまうのが人の言葉で有り、事実や真実の前に人が有る。

私は今は恩師と思う人に初めて会った時、大きく反発し悪態を付いた。
だが、それから以後も何かと自分の事を気にかけてくれたその年長の人の気持ちが今になって理解できるようになった。
そしてあれほど反発したのに、今はかけがえの無い恩師と思い、師の志を引き継ぐ者と自負している。

だが、あの時「聞きたくなければ出て行け」と言われていたなら、くだんの人は我が恩師とはなり得なかっただろう・・・。
勿論、今の私も私たり得なかったに違いない・・・。

[本文は2014年6月10日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

「婚姻概念の変化」

結婚と言う言葉と婚姻は同義だがその意味合いは少し異なり、結婚が個人に近い概念なのに対し、婚姻は僅かながらに氏族制度の雰囲気を醸し出しているのは、婚姻と言う概念の方が古く、結婚と言う概念の方が新しいからである。

婚姻は古くは平安時代に遡るが、結婚は古くても江戸末期に留まる。

それゆえ概念がより個人に近いところまで来ているのだが、元々婚姻の概念は時代や地域で異なり、男女の関係式と言う点ではどの時点でも同じ概念は存在し得てはいない。
つまり結婚や婚姻の概念は日本国内を見ても全く同じ概念で継続された事は無かった。

太平洋戦争以後の日本の国内法では「貞操義務」が規定されている事から、婚姻の意義は契約の側面と性的関係の公認が一体となったものだったが、そもそも婚姻の世界的概念は「契約」であり、国によっては性的関係と婚姻と言う契約を分離して考える地域も存在し、その形態は既にあらゆる組み合わせが歴史上出尽くしている。

現代日本の婚姻制度の初源は契約に家や氏族の影響が含まれ、為に男性側の不貞行為には寛容で有りながらも、女性の不貞行為には厳しかったが、結果として契約の多くの部分を担保するものが「家制度」で有った事から婚姻の意義は非常に大きかった。

しかしこうした家制度は年金制度によって高齢者が嫡出子の扶養を必要としない、高齢者の家制度からの離脱によって崩壊し、この時点で婚姻の持つ契約上の意義の大半は失われた。

婚姻制度に残されたものは経済的理由と子供の有無による扶養義務、性的関係の公認なってしまったのだが、基本的に高齢者の独立は家制度が持つ財産の相続部分を分離してしまい、この意味では婚姻で得られる財産の相続も小額化した結果、既得権益などが大幅に縮小し、更には景気の低迷によって男性が生涯で得られる所得も低迷した。

これによって女性が結婚で得られる利益は大きく減少し、子供を持つ夫婦で子供が独立したら離婚となるケースが増えたのは、ひとえに子供と言う結果が婚姻の契約事由となっていたからで、この契約や責務が解消された時点で婚姻が解消されるのは当然の帰結と言える。

婚姻の持つ社会的圧力である「家制度の崩壊」、そして結婚によって得られる幸福感などが経済的理由で抑圧された状態の契約、この中で法的には年々厳しくなり乍、ネットなどの情報通信の発展よって婚姻が持つ性的関係の公認の意義と、契約部分の分離が始まってきた。

婚姻が益々法的契約のみに近付き、性的関係との分離を起こしてきたのだが、これは何も珍しいことでは無く、ドイツなどでは既に20年も前から始まっていた。

日本国内法の婚姻に措ける不貞行為は「離婚事由となり得る」と言う規定である。
そこに不貞が存在しても、それによって離婚の申請が為されねばそもそも意味を持たない。
夫や妻が不貞行為をしていても、それが容認されれば婚姻は継続される。

ここに婚姻は一つの法的、社会的契約のみになり、性的な関係は婚姻の重要な要件に留まれなくなってきている。

更に高度に発展した科学技術の進歩は多くの便利な家電製品を市場に供給し、或いは外食店やファーストフード店の発展、コンビニ店舗の普及などによって、従来なら性的関係と双璧を為していた「生活」の部分までもが個人でも充分賄えるようになった結果、もはや婚姻の持つ社会的ステータスよりも個人の自由の方が尊重されるに至り、厳しい経済環境では婚姻によって不利益とはなっても、到底幸福な生活が望めない環境になっている。

共稼ぎで毎日働いた上に妻や夫に気を遣い、その上文句の一つも言われようものなら、結婚などしたくないと思うのは当然で、性欲を満たすだけならネットの出会い系サイトを検索すれば異性はどれだけでも存在し、それすらも面倒だと思えば不適切動画が蔓延している社会である。

肉体的関係が婚姻の重要な要件にならない事は既に歴史上でも明白な事で、愛や感情と婚姻が同一なものと言う、少し前の日本の婚姻概念はもはや失われつつある。

婚姻関係はこの人、愛する人はまた別の人、性的関係はこの人と言った様な社会がもう少ししたら現れてくる、いやもう既にそうした時代になっているのかも知れない。

現代日本の初期に存在した家制度の影響が大きい婚姻では、少なくとも若い夫婦の生活は家制度が担保した。
つまりは経済的な後ろ盾が存在した事、また社会的圧力をステータスとするだけのメリットが存在した。

しかし今の時代はそれすらも存在せず、性的関係の公認と言うメリットも失われた状態では、これから婚姻関係を求める若者は減少する一途を辿るだろう。

少子化対策は実はとても簡単な政策で好転させる事が出来る。
18歳未満の子供を持つ家庭の消費税は全額免除、医療費も同年代まで無料にし、健康保険税も低額一律に規定すれば男女とも婚姻によるメリットが発生し、そこに愛も発生しやすい状態になるのではないか。

散々税制で優遇されている大企業の減税を行うより、唯でさへ高額な公務員の給与を実質値上げするより、こちらを先にすべきだと思う。

またもう15年もすれば私も高齢者になるが、「これから死んで行く者に金は使わんでいい、若い者が少しでも美味いものを食べて力を付けれるようにして欲しい」、そんな格好の良い事が言える年寄りで終わりたいと、そう思うので有る。

[本文は2014年6月9日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]