「表裏比興」・Ⅲ

こうして真田信幸と徳川家との婚礼が決まり、それから後、真田は徳川配下の武将としての時代を迎えることになる。

しかし1598年9月18日、太閤秀吉がこの世を去ると、俄然天下は風雲急を告げることになっていくが、1600年7月には失脚していた豊臣家の重臣「石田三成」が挙兵、このとき真田昌幸は徳川に反抗していた上杉景勝を成敗するために徳川軍に参加していたが、石田三成の書状を受け取るや否や、徳川軍から逃げ出して上田城へと戻って行った。

天下分け目の戦い、関が原の合戦はこうして始まって行ったが、先鋒として出発した徳川家康の次男「秀忠」は家康からこう言われていた。

「良いか、上田城は攻めてはならない、前をけん制して真田の出足を遅らせるだけで良い、そこから関が原へと向かうのじゃ」

「いさい、承知つかまつりました」

徳川秀忠は一礼すると出陣したが、これまで煮え湯を飲まされていることを考えれば、上田の近くまで来るとどうしても我慢しきれなくなる。

こちらは3万8000、真田はどう考えても2000の兵力しかない。

これで負けることはまず有り得ない事であり、前哨戦としても、またこれまでのいきさつからも父である家康は真田を滅ぼせば喜んでくれるだろう・・・、秀忠は真田昌幸を甘く見ていたが、この秀忠軍には真田昌幸の嫡男「真田信幸」も本多忠勝の娘婿の立場から、東軍として参戦していた。

またこの戦では石田三成の西軍に組みした父昌幸と弟幸村に対して、真田信幸と本多忠政が合戦に及ぶ少し前、説得に訪れていたが、天下と言うものの観点から徳川の正当性を説く信幸に対し、父昌幸はことごとく反対し、最後は信幸の堪忍袋の緒が切れた形となった。

「言うな、伊豆守(信幸)」

「父上は真田を滅ぼすつもりか、もはや時の流れは徳川にございますぞ」

長い沈黙の時間が流れる。

「伊豆守、たっしゃでの・・・」

険しかった真田昌幸はかすかに微笑むと、信幸に言う。

これに対して深く一礼した真田信幸は「父上も健吾にて・・・・」と言う言葉を残し暗い廊下を去って行った。

こうしたことからは徳川家康のもくろみは、またしても真田昌幸の策略のおかげで最悪のケースになってしまったのだが、秀忠軍は真田をけん制しているだけで充分だったのに、秀忠はそれを攻略しようとしてこれに手間取ってしまった。

高い土手から丸太は転がってくる、石が転がってってくる、おまけに「肥」(こえ、人糞)なども引っかけられるなどから、なかなか城にすら辿りつけず、そのために時間を取られた秀忠軍は結局本陣への参戦に遅れてしまい、家康は珍しくこれに大激怒することになるのだが、結果として徳川秀忠の参戦を遅らせたことは、真田がこの時点で出来る西軍に対する最大の貢献となることを考えるなら、何をして勝利と言うか、何をして敗北と言うかをしっかり弁えた真田昌幸の作戦は大変味わい深いものである。

だがしかし石田三成率いる西軍は結局この関が原の合戦に負け、最後まで頑張っていた真田昌幸もついには徳川軍に降伏せざるを得なくなった。

敗戦の将の仕置きは決まっている。

真田昌幸、幸村親子は死罪と決まったが、このとき真田親子の助命を嘆願したのは誰有ろう嫡男の真田信幸であり、その舅である本多忠勝だった。

結局こうした働きかけも有って何とか命だけは助かった真田昌幸と幸村、彼らはその後紀伊の九度山に流罪処分となるが、1611年、この九度山にて真田昌幸は死去、享年64歳だった。

1614年から始まった大阪の陣、その夏の陣で見せた真田幸村の「出城作戦」に徳川軍はまたしても翻弄されるが、この作戦はもともと真田昌幸が九度山にて、大阪城を根城に敵を叩くにはどうしたら良いかを考えて、作戦を練っていたものだったと言われている。

真田昌幸は豊臣がいずれ滅ぶことは予測していたとも言われ、その場合自分だったらどう戦うかを九度山に蟄居しながら、毎日考えていたのだろう。

大阪城を攻めるに当たって、豊臣軍のなかに真田の名前を見た徳川家康は「その真田は親か子か」と尋ねたと言われているが、もう3年も前に死んだことが分かっている真田昌幸、もしかしたら死んだことすら昌幸の策略ではなかろうかと怯える家康の心底は、相手が昌幸だけに理解できないことも無い。

そして大阪城は1614年の夏の陣、1615年の冬の陣と言う、2度の徳川による大阪城攻めで豊臣家滅亡と言う結果に終わったが、この2つの合戦でいずれも徳川を最大限に苦しめたのは信濃の小国、真田幸村軍であり、大阪冬の陣では徳川家康の首に後一歩のところまで迫った真田幸村の名は、その後全国に「猛将」として轟き渡ったが、この幸村には昌幸の姿が重なって見える。

ちなみに「表裏比興」(ひょうり・ひきょう)とは当代の大名たちが真田昌幸を評した言葉だが、老獪なとか、食わせ者と言う意味があり、「比興」は「卑怯」の当て字とも言われ、あまり良い人物評価とは言えないかも知れないが、戦国の世なればこうした言葉にこそ、どこかで誉れの意味を私は見る。

僅か数千の軍で大国徳川に連戦連勝、小国なれど決して戦うことも恐れず、その知略と剣で戦国と言う生き残ることが難しい時代を風のように生き抜いて行った真田昌幸、

今、日本の姿を鑑みるに、自身の有り様を思うに、男はかくありたいと思うのである。

 

 

 

 

「表裏比興」・Ⅱ

武田勝頼が岩殿城へ向かった事を知った真田昌幸、だがしかしそれからの昌幸の行動は早かった。

早めに降伏したものはその所領を安堵するとの織田軍の方針に、早々に降伏した真田昌幸は、今度は織田軍に組する事になるが、その織田信長は3ヵ月後の1582年6月、本能寺の変で明智光秀によって討たれてしまう。

この本能寺の変によって織田勢力が突如消滅状態になった甲斐、しかしこのとき既に武田の勢力も殆ど壊滅状態にあったことから、甲斐、信濃は徳川、北条、上杉がそれを奪い合う大混乱地帯となっていくが、その中で真田昌幸は当初、織田軍の滝川一益の家臣として北条攻めに加わっていた。

しかしここで主君信長を失った滝川一益は北条氏直軍に破れ、ここから真田はそれまで敵だった北条氏直軍に組する事になり、一時はこれで北条軍が信濃支配を実現しそうなところまで行くのだが、ここで北条と敵対していた徳川家康の懐柔に応じた真田昌幸は北条を裏切る。

その結果、これでは徳川に対して勝算の薄くなった北条は徳川と和睦の道を選択するが、このことは何を意味していたかと言うと、真田昌幸と徳川家康の策略がそこに存在し、所領を確定させたい真田と、信長亡き後の天下をうかがう家康の利害が一致したことが、この大団結の道を開いたのである。

だがこの後徳川家康は大きな見込み違いをしてしまう。

それはこうして北条氏との和睦を成立させるに当たり、家康の策略を理解した真田昌幸に対する家康の警戒心が招いたことだったが、家康はここで北条氏に和睦の条件として真田の支配する沼田城を引き渡すように求めた。

これは明確に徳川の真田潰しであり、もともと真田に奪取された領地である沼田など、と言う思いもない訳ではない北条氏直にとって、こんな条件など条件のうちにも入らないものだったことから、この条件での和睦は成立し、しかも真田を潰すことを考えた家康にとっては「してやったり」だった。

ところがこのことを知った真田昌幸は、今度は徳川、北条と敵対していた越後、上杉景勝の下へ走り、ここに北条、徳川対上杉、真田の対立が始まるのだが、上杉の背後には豊臣秀吉がいることから、この対立の実質は徳川対豊臣の対立とも言え、この時点で真田は豊臣方の勢力に組して行ったと言うことになる。

「今更許せとは虫が良すぎる」

上杉景勝は丸腰でひれ伏す真田昌幸と、昌幸の次男「真田幸村」を睨み付ける。

がしかし、暫くして表情を和らげた上杉景勝は「だが戦国の世とはそうしたものよ」と言うと彼等を城に泊め、翌日には人質として越後に残ろうと覚悟していた幸村に対して、自身の脇差を手向け、昌幸とともに帰って戦うが良い・・・、と言うのである。

「徳川相手では、恐らく2人とも命はあるまい。人質の必要など無い、憂うことなく死ぬるが良い」

この上杉景勝の言葉に真田昌幸は幸村にこう言う。

「上杉が滅びるときは我等も一緒に滅びようぞ・・・」

こうして沼田に帰った真田親子、やがて昌幸は1583年千曲川の北に松尾城(上田城)を築いたかと思うと、その周辺には城下町を構成させ、完全に信濃制圧に向けた布陣を完了させつつあったが、これに激怒した徳川家康は、約7000の兵を上田城に差し向け、真田昌幸を攻めるが、天然の要害に囲まれた上田城は難攻不落、加えて真田昌幸のあらゆる攻略によって、たった1200人の真田軍を攻めることが出来ず、徳川軍は一方的に1300人もの犠牲を出して敗退することになる。

「真田が徳川を破った!」

このことは瞬く間に全国へ話と伝わり、これによって真田家は、小国なれど徳川や上杉と同じように誰かに臣従することでしか自国を守れない存在ではなく、自国の自決権を持った「独立大名」として認められることになったが、真田は何故これほどまでに強かったのだろうか。

その答えは「情報」にあった。

すなわち真田昌幸は「くさ」と言う、簡単に言えば忍者に近い情報収集の専門組織をその配下に従えていて、彼らが集めてくる情報によって敵の動きを察知し、それに備えるあらゆる対策を講じていたのである。

「くさ」には女も多く存在していて、その情報網は徳川、北条、豊臣、それに同盟を結んでいる上杉に至るまでくまなく配置されていた。

それゆえ真田昌幸は上田にいながら天下の動きにも通じ、大局的に天下を眺めることが出来たのであり、このことが徳川軍を打ち破るに至る力となっていた。

徳川軍は実にこれから後も2度、3度と上田城を攻略するが、真田昌幸はことごとくこれを撃退して見せた。

またこうした中で昌幸の次男「真田幸村」は「人質の必要など無い」と言ってくれた上杉に真田の信義を示すため、自ら進んで人質として出向いていたが、若く才気溢れる真田幸村の将来を考え、上杉景勝は幸村を上杉の盟主である「豊臣秀吉」の元へと送ったが、これは真田が豊臣に臣従する意味をも持っていて、ここに真田は名実ともに豊臣の家臣となったのであり、やがて織田信長亡き後小競り合いを繰り返していた豊臣と徳川は、徳川が豊臣秀吉に臣従することで和睦し、こうした流れの中から秀吉が徳川と真田の仲介に乗り出していった。

しかし秀吉が北条、徳川、真田が絡んだ沼田城の問題に裁定を下している最中、北条軍の一部が「名胡桃城」を攻め、これが明確な豊臣裁定への反逆行為となってしまったことから、秀吉が激怒し、これが発端となって豊臣軍の小田原城攻めへと発展していったのである。

1589年、豊臣秀吉と徳川家康の和睦が成立したとき、秀吉はその距離的なこともあってか、真田を徳川の下に置いて、全ての所領を安堵しているが、もともと水と油の徳川と真田、秀吉の考えは真田を徳川に対する楔(くさび)と考えていたにちがいない。

しかしこうして秀吉のおかげで武力では真田を抑えられなくなった徳川家康、彼はここから彼らしいやり方で真田の分裂をはかって行くことになり、それが真田昌幸の嫡男「真田信幸」と、徳川家の養女となった本多忠勝の娘「小松姫」との婚儀である。

もっとも真田の血を引く信幸の才覚をめでる気持ちは徳川家康にもあっただろう。

しかしそれ以上にこうして置けば、真田は基本的には嫡男を徳川に人質として差し出しているも同然になり、万一その関係が悪化した時には、大いに徳川は有利になると踏んでのことだった。

冒頭の真田昌幸とその叔父「矢沢頼綱」の会話は、こうした徳川の申し出に、どう対処すれば良いかを話していたのである。

そしてこの席で矢沢頼綱は、戦国乱世に置いては敵にも味方にも通じておかねば、小国は生き残れないと言っているのであり、その言葉に真田昌幸は自身も、同じ事を考えていたと話していたのである。

嫡男を婿に差し出すことはある種の屈辱ではあるが、確かに先のことは分からない。

如何なることが待っているとも言えず、ならば両方にその種を配しておけば、万一どちらかが滅んだとしても真田と言う家は残る。

そして徳川のことである。

いつかは真田はまた徳川と決着をつけねばならぬ時がきっとやってくるに違いない。

親子兄弟が刀を交えなければならない事がきっとあろう、それが戦国乱世と言うものだ、もしものときはわが手で信幸は切って捨てる・・・。

「表裏比興」Ⅲに続

「表裏比興」・Ⅰ

「親方さまに言上つかまつる」

「これは大叔父殿、あらたまって如何なるご用向きにございますや」

「されば、此度ご本家嫡子、信幸殿のことにござれば、この戦国乱世にあって小国がもはや豊臣、徳川のいずれかに組してと言う時にあらざればと思いましての・・・」

「大叔父殿、かたじけのうござりまする。この昌幸、まさにそのことを思案致しておりましたが、大叔父殿のそのお言葉にて、一切の腹を決めましてござります」

「真田は小国、生き残るためには敵、味方いずれにも人を配しておくことが肝要かと、またこれは矢沢頼綱の遺言としてお心に留め置き頂ければ有り難い・・・」

「大叔父殿、昌幸、誓って大叔父殿のお言葉、肝に銘じますれば、何卒ご安度を・・」

藤の花が初夏の光を僅かに紫に染めてはね返す山野に口元を緩める矢沢頼綱、そして同じようにかすかに口元を緩める真田昌幸の姿は、まるで平和そのものの風情だったが、この瞬間戦国乱世にあって小国ながら全国にその名を轟かせた真田家の嫡子、「真田信幸」の徳川家との婚礼が決まったのである。

真田昌幸はもともと父である「真田幸隆」が不本意ながら従わざるを得なかった甲斐の「武田信虎」の所へ人質として取られていたのだが、その智謀に措いては、7歳の頃から既に父幸隆にも劣るものではないと讃えられた知恵者でもあった。

その後武田信虎が嫡子の「武田晴信」(信玄)によって「今川義元」のところへ追放されると、昌幸は信玄に付き従って武田軍の要として活躍するようになる。

やがて武田軍の中でもその人ありと謳われるようになって行った真田昌幸、そして武田信玄は北条と同盟を結び、念願の京都上洛を目指して進軍中(1573年4月)に病没してしまう。

信玄亡き後、家督を継いだ武田勝頼、彼は諏訪氏の流れをくむ姫と信玄との間に生まれたのだが、その利発そうな幼少期とは裏腹に、長じては徳川に通じた家臣の進言にほだされて大きな居城を築き、そのために木曽のヒノキ山が丸裸になるのではないかと思えるほど木曽氏に負担をかけ、また主だった家臣たちにも重い負担金を課して行った。

「朽ちた木は良く燃える」

これは徳川家康の言葉だが、もはや信玄亡き後の武田など思うままがだったことが伺える。

すなわち城の普請には膨大な金がかかり、それによって家臣たちの心は主君から離反し、また勢力も衰えることになるのだが、そのことに気づかない勝頼は、木曽氏や信玄亡き後勝頼に仕える事になった真田昌幸等の説得も聞かず、身分不相応な城を築城してしまう。

またこの間1574年には昌幸の父真田幸隆が死去、その後徳川の陰謀によって勢力をそがれ、落ち目になっていた武田軍は長篠の合戦(1575年)にて織田信長、徳川家康の連合軍と雌雄を決するも大敗し、この合戦で昌幸の上にいた2人の兄も討ち死にしてしまったことから、真田家の家督は三男の昌幸が継ぐことになる。

もはや武田軍の命運は尽き、その所領を大きく後退させた武田勝頼、これを不安に思った昌幸は、この時期に遠縁を頼って羽柴秀吉の弟である「羽柴秀長」の家臣にもなっている。

やがて1578年越後の上杉謙信が死去、これによって甲斐と越後は和睦が成立し、

武田、上杉同盟が成立するが、この2つの勢力で織田信長軍と対抗しようと言う訳である。

だが実質この同盟では既に大きく力を失っていた武田勝頼の命運は、時間の問題であり、もはや将来的には自活しかない真田昌幸は、この同盟が成立するとすぐに北条氏の所領である東上野に攻め入り、沼田城や名胡桃城を奪取する。

そして1582年、織田、徳川連合軍はついに本格的に武田勝頼の所領に侵攻を始めるが、これに対抗するだけの力がない武田軍は防戦一方、敗走するばかりだった。

この状態に真田昌幸は武田勝頼に甲斐を捨て、上野へ後退することを進言するが、もともと智謀策略に長けた真田昌幸を勝頼は信じることが出来ず、小山田信茂の岩殿城へ敗走する途中、小山田信茂の裏切りに遭い、あえなくここに命を落とす。

武田勝頼が岩殿城へ敗走する情報を知った真田昌幸は「何で、殿はこんなことが分からないのか・・・」と悔しがったと言うが、真田昌幸はこの少し前に北条氏直(ほうじょう・うじなお)とも接触をはかっていて、このことから勝頼は昌幸を信じられなかったようだが、北条氏直はもともと信義や礼に篤い男であり、ここには敵対していても何がしかの密約の存在が伺えるが、それが勝頼にとって有利なものであったか否かは、定かではなく、もしかしたら勝頼の選択は的を得ていたかも知れない。

「表裏比興」Ⅱに続く

 

「春」

首都圏がウィルス感染に拠ってロックダウンに向かいつつ有りますが、こんな大変な時でも桜の花は咲き、鳥はさえずり、風は暖かな菜の花を揺らします。

人間の世界ばかりが世界ではなく、その一部である事を自然の姿から感じ取って頂けたらと思います。
暫く外出も控えられる皆様に、春らしい動画を見つけましたので、ご紹介させて頂きました。

遠い昔、私が初めて漆の世界に弟子入りした時、師匠は既に80歳近くでした。
私が彼の最後の弟子だったのですが、師匠は明治、大正、昭和と言う時代を腕1本で生きていた人でした。
戦争、大地震、恐慌、デフレ、戦後の混乱を生き抜いてきた彼が私に言っていた事は、「食べる為なら、何をやっても構わない」「仕事に拘るな」と言う事でした。

太平洋戦争後、材料の漆が手に入らず仕事もなかった時、師匠は屋根のペンキ塗りでしのいだとも言っていましたが、その以前、戦時中は静岡の軍需工場で爆弾も塗っていたと語っていました。

「食べて行ければ、それで良いんだよ」
ウィルスで日本中が停滞し、混乱から先が見えない時、なぜか春の日の暖かな光の中、師匠のこの言葉が思い出されます。

無理をせず、待っていなければならない時は、その待っている事すらも楽しむ・・・。
状況が許さず、避けられないものなら、それを嘆くのではなく、どっちでも同じなら泣くより、私は笑う・・・。
辛い事も幸いな事も天の采配ならば、どちらも有り難く頂戴する。

今微細なウィルスに拠って日本の太陽は雲間に隠れてしまったかも知れませんが、この雲は長く続くものではない。
やがて雲は切れ、明るい光が差し込んできます。

それまでの間、泣いても笑っても同じなら、少しは笑いましょう。
どんな事が有っても春になれば必ず花を咲かせる、そんな者たちの力を感じてみましょう。

偶然にとても重厚な桜と音楽の企画を見つけましたので、今日はご紹介させて頂きました。

秋田幸宏氏と、tokyosallyさんのコラボレーションです。

秋田幸宏(あきた さちひろ)
1941年、青森県旧岩木町生まれ。
弘前市常盤野で「山の家 ぶなこ」を経営する傍ら、岩木
山の四季折々の表情を30年以上にわたって撮り続ける。
また「四季をふむ会」の会長として、ブナ林やかまくらを舞
台としたコンサートを開くなど岩木山の豊かな自然を広く紹
介するさまざまなイベントを企画。
2017年2月9日逝去。

「雨の日に・・・・」

中東を旅したことがある人なら一度はこうした言葉を聞いたことがあるだろう。

「アラーの御心のままに・・・」

この言葉は旅の安全を祈るときもそうだが、実際は「約束」をした時にも多く使われる言葉で、一般的に中東イスラム圏での約束は破られる事が多く、時間などの約束は絶対と言って良いほど守られないのが普通だ。

そしてそんな時の為にも「アラーの御心のままに・・・」と言う言葉が使われる。

つまり約束が守られるのもアラーの神のおぼしめしなら、それが破られることもまたアラーのおぼしめしであり、約束が破られたと言うことは、その約束がアラーの神の御心に沿うものではなかったと言うことになる訳だ。

なかなか面白い考え方だが、これを「はい、そうですか」と認められる日本人は恐らく少ないだろう。

そんなもの「詭弁」に過ぎないと思う人が殆どに違いない。

私もむかしはそうだった。

だが不思議なものだ・・・、日本に帰ってきて長く百姓をやっていると、こうした「アラーの御心」と言うものが漠然と理解できるようになってきた。

つまりは運命と不確定性原理のどちらが先なのかと言う話だが、それは同時であるとことに気が付く。

水飲み百姓の営みなど、天のことわりからすれば、ほんのお情け、その隙間でやっと暮らしを立てさせて貰っているようなものだが、天気などは人間が命がけで祈ろうが、頼もうが、全く是非も無い。

非情と言う意思すらも無く、淡々とそれが流れて行き、人の願いなどまことに虚しいものでしかない。

それゆえ百姓をしているとどこかで理不尽なことを少しずつその体内に取り入れるような感覚が出来てくるが、これは諦めではなく、全ての状況に対し常に一体となることのような感覚でもある。

全ては結果であり、その結果こそが運命だったと思えるようになる。

毎年苗を植えれば必ず米が出来るわけではなく、日照りが続けばせっかく実った米が太陽に焼かれてくしゃくしゃになってしまうし、多く穂を付けさせればその稲は雨で倒れてしまい、刈り取りが終わらないうちに新米から新しい芽が出てくる。

洪水があれば一夜にして水田は土砂を被ってまるでグランドのようになるが、それは誰のせいでもない。

全てが天の御心と言うものであり、米が収獲できることも良いことなら、米が収獲できないこともまた良いことであると思うより他は無いのである。

そして黙って土砂をどけて、凝りもせずに次の年にはまた苗を植える、次の年がだめならその次の年もまた苗を植える。

厳しい現実があっても、その現実は常に行動でしか打破できない、そんな簡単なことを私は子供の時から百姓をしていながら、今更ながらに気づき、また愚かだがこうしたことに大きな価値があることにも、最近になって分かってきたように思う。

いつ頃からか忘れたが、私は訪れた人の名前を聞かないようになってしまった。

相手が言わなければそのまま喋っているし、帰り際に住所や連絡先ですら聞かないようになった。

また会社でも取引先とは本当に親しげに電話しているが、20年来の取引がありながら一度も会ったことが無い人もいる。

「全ては仕事で返す」と言う会社での基本的な有り様も、今から考えればその根底には百姓と言うものの有り様が、染み付いていたからこそのものだったかも知れないと思う。

住所や名前など知っていても詮の無いことで、それを必要としなければ、知っていても何の意味も無い。

だからもし本当に必要なら、こちらからどんなことをしてでも相手を探し出すだろうし、その反対に相手が自分を必要とするなら、何があっても自分の連絡先を聞くものだと思うのだ。

それゆえ私は、いつもどこの誰か全く分からない者とでもにこやかに喋っているが、どこかで縁があるものなら、必ずもう一度会えると信じて疑うことが無く、そう信じるからこそ何も聞かない。

最近私に会った人は皆、「良い色に焼けましたね」と言うが、無理もない。

9月中ごろから炎天下にコンバインを動かし稲を刈り取り籾(もみ)にして、それを袋に入れて乾燥場まで運び、籾すりをして玄米にし、そして出荷する作業を連日繰り返しているから、サーファー並みに華々しく日焼けしている。

また30kgの米の袋は朝と夕方にそれぞれ100個近く運ばなければならないが、これが終わる頃には心臓が飛び出そうなほど疲れ、ここまで来ると喉を通るものは水ぐらいしかなくなっていくが、恐らくどんなサプリメントを飲むよりダイエット効果があるだろう。

だがこうして収獲した米の一部を地主の人の所へ持って行くと、本当に感謝してくれる。

こうした時代、農業の後継者もいなくて土地は荒れ放題だから、「小作料は要らない、少し金を出すから米を作って貰えないか」と言う地主が殆どの世の中、通常この付近でも皆地主に小作料は払っていないが、私はただで人から施されるのが嫌いだから、少ないが小作料として米を持って行くことにしているのだが、みんな「今年もありがとう、来年もお願いします」と言ってくれるし、新米を楽しみにもしていてくれる。

そして現在はこの村に家も無くなってしまって、田んぼの所有権だけを持っていながら都会暮らしをしている地主の子孫の人には、地代としてこちらも30kg入りの米を毎年送っているが、送料が大変だからお金で払うと言うのはどうかと相談したのだが、自分の先祖の土地で収穫された米は金には代えがたい、送料は着払いでも構わないから米が欲しいと言うので、こうした人にも毎年故郷の米を送っている。

農作業でくたくたになりながら、空いた時間にはこのように米も地主である年寄りに届けなければならないが、楽しみにしていたという年寄りの顔を見れば、農作業の苦しさも少しは癒される思いがするし、故郷の自分の先祖の土地で取れた米は金には代えがたいと言う言葉は、恐らく日本人の米の味に対する気持ちの根源であるようにも、また百姓と言うものの有り様の本質であるようにも思える。

さて稲刈りもどうやら終盤に差し掛かってきたが、家ではまだ新米を食べていない。

むかしから農家は種籾を保管する意味で3年分の米を家で貯蔵し、その古くなった米から食べていた習慣があり、しかも古米ほど炊いたとき水で量が増えてお徳である。

また近年、直接家に米を買いに来る人もいることから余分に米を置いているので、家ではこれを先に食べていかねばならず、従って新米が食べられるのは来年の3月頃だろうか・・・。

ちなみに訪ねて来る人が、私にいつごろが都合が良いかを聞くことがあるが、こうしたときの答えは「できれば、雨が降った時にお越しください」と言う事になっている。