「自律分散システム」

鳥や魚などの生物が群れとしての行動を取る時、ここには群れを先導する自律的な一部のグループと、近くを移動する同じ個体生物の動きに追随する、他律的な行動を示すグループの2種が形成されるが、ここで注目すべきことは、この2種の行動を示す個体生物の行動は、必ずしも固定されたものとはなっていないと言う点にある。

つまり群れの先導役となるグループと、他律的にそれに追随するグループは、あらかじめ役割分担などがされておらず、また任意と言う訳でも無い。

ここで先導的グループになるか、他律的追随グループになるかの分岐点は、強いて言うなら「状況」や「環境」と言う事になる。

言うならばその時自律的行動を取らねばならない位置にいる者が、先導役となるのであり、そのとき自律的判断が求められていない位置にいる者は、自動的に他律的な行動となっていくのである。

従ってこうした群れ行動をする生物に措ける「個」は、先導的動作を取る機能と、近くの同じ個体の動きを見て他律的に動作する機能が、同時に両方プログラムされていると言え、「社会」と「個」との関係を考えるなら、それが同時になっていると言う点での美しさがある。

だが一方でこうした機能は高等な生物になるに従って、自律的グループと他律的グループの固定化傾向が出てくる。

例えばサルではボスザルの存在によって自律的グループは固定化され、その他のサルたちは、勿論完全に自律的な面を失う訳では無いが、それでも自立的な行動はその濃度が薄くなり、自律的行動は主にその社会に対してではなく、「個」の問題に対してのみ機能する一種の後退的側面が出てくる。

そしてこれが人類ともなれば、為政者とその執行者の自律的グループと、それに対して他律的な民衆のグループとに完全に分離された社会になって行く。

即ち「支配」と「支配される側」が現れてくるのであり、この点で鳥や魚の群れの在り様を考えるなら、人類は「個」と「社会」が同時となっている鳥や魚の社会より、どこかで劣化した雰囲気、また「個」がその機能や責任を放棄しているかの如く、「怠惰」がもたらす後退現象のようなものが見えてくるのである。

しかし人類は「社会」と「個」を考えるなら、こうした劣化した雰囲気を持ちながら、その体の機能はと言えば、ここでは鳥や魚と同じような機能を持っている。

「自律分散システム」と言う機能がそれだが、人間の生体を情報システムとして鑑みるなら、そこには感覚神経系と運動神経系の2つに大別される流れがある。

人体に措ける情報の流れは、目や耳などの末端感覚受容機構から大脳や小脳などの中枢へ送られる感覚情報の流れと、中枢から手や足などの末端運動器官へ送られる運動指令情報の流れがあるが、ではこうした機能が全て脳などの中枢機能で処理されているかと言えば、それは違う。

人体を流れる情報は、その大半が途中各所で局所的な処理や判断を受け、より抽象的な度数を強められたり、またその場で下位の運動系に対して運動制御指令が出されたりしている。

即ち「個」と「社会」が同時の、鳥の群れなどと同じ制御方式を持っているのである。

一つの情報に対して幾つもの機構がそれを処理しに向かい、そしてもっとも適切な処理が為される。

実に人体と言う複雑かつ精密な生体機能の情報処理は、中央集権的な制御方式ではなく、それぞれの機能が自律し、尚かつ分散して制御に当たっているからこそ維持されているのである。

人間の神経回路の動作速度は、電子制御回路の動作に比べると10の4乗以上も遅い。

だが人体が臨機応変に複雑な動作が可能なのは、こうした自律分散システムによって、信じられないほどの並列情報処理が行われているからに他ならない。

またこのように見ていくと、「自律分散システム」は実に森羅万象あらゆる事象に対する基本的なシステムの側面を持っているようにも考えられるが、その生体がより高度になるに付け、この基本から外れていく、つまりは「社会」と「個」が分離する社会傾向が現れてくるようである。

だがこうした「個」と「社会」が分離傾向を持つ社会構成は、何度繰り返されても必ず崩壊する運命にあり、それはなぜかと言うと、常にこうした森羅万象の基本となるべき方向に相反しているからのようにも思える。

人体の情報処理方式や鳥の群れなどでは、「個」がいつでも「全体社会」となり得る状態があり、「個」がその資質を有しているが、人間社会の「個」は「社会」と必ずしも一致せず、場合によっては相反していることすらある。

「個」と言う存在の誰もが自律と他律を包括しているのではなく、明確に自律する「個」と他律する「個」が区分され、しかもそれが中枢機能で全て情報処理が為された場合、恐らくこれが人間の生体機能の場合なら維持が困難な事になるだろうし、鳥の群れだったら、どこかで全体が死滅する事態が避けられないに違いない。

にも拘らず、人間の社会はいつの時代も中央集権的な政治形態を目指し、またコンピュータソフトの世界でも、同じように自然の摂理に反してシステムの中央集権化が進められ、日本などではエネルギーに付いても「オール電化」と言う、エネルギーの一元化が進められているが、これらは自律分散システムと言う自然の摂理を真っ向から否定する在り様と言え、必ずいつかは予期できない事態に対処不能となる日が訪れるに違いない。

更に現在の国際情勢を鑑みるなら、明確にこれまでの政治の在り様、いわゆる自律と他律が区分された政治状況が、また崩壊しかかってきていると言えるのだが、こうした機会に今度こそ人類は自律分散システムを少しでも取り入れた政治や思想を構築できるだろうか。

もしそれが叶わない場合は、いつか新しい秩序ができても、それは既に成立した瞬間から崩壊へと向かう、今まで幾度となく繰り返された人類の歴史と、全く違わぬ道を辿る事になるかも知れない。

「保勘平宏観地震予測資料編纂室・公開資料第4015号」

2021年1月12日から1月14日にかけて、石川県能登半島、奥能登地域で「空気振動現象」と「微細地震」が多発しているので、これを記録、公開して措きます。

1月12日02時33分 「地震」 震度1以下

1月12日07時13分 「空振」 震度2相当

1月12日08時41分 「空振」 震度2相当

1月12日15時50分 「地震」 震度1

1月12日18時11分 「空振」 震度1相当

1月12日19時55分 「地震」 震度1

1月13日03時30分 「地震」 震度2

1月13日04時01分 「空振」 震度1相当

1月13日07時10分 「空振」 震度2相当

1月13日08時20分 「空振」 震度1相当

1月13日08時44分 「空振」 震度3相当

1月13日09時02分 「地震」 震度1

1月13日11時51分 「空振」 震度2相当

1月13日14時23分 「地震」 震度2~3

1月13日14時40分 「空振」 震度3相当

1月13日16時11分 「空振」 震度1相当

1月13日21時10分 「空振」 震度1相当

1月13日21時55分 「空振」 震度1相当

1月14日01時22分 「地震」 震度1以下

1月14日02時31分 「地震」 震度1以下

1月14日02時40分 「地震」 震度1以下

1月14日06時01分 「空振」 震度1相当

1月14日06時01分 「空振」 震度2相当

1月14日06時01分 「空振」 震度2相当

1月14日09時13分 「地震」 震度2

1月14日09時50分 「地震」 震度2

1月14日10時07分 「地震」 震度1

1月14日11時52分 「空振」 震度1相当

1月14日14時04分 「空振」 震度3相当

1月14日14時20分 「空振」 震度2相当

1月14日14時20分 「空振」 震度2相当

1月14日15時10分 「空振」 震度1相当

1月14日15時10分 「空振」 震度1相当

1月14日15時10分 「空振」 震度2相当

1月14日16時16分 「空振」 震度1相当

1月14日17時20分 「地震」 震度1

1月14日17時21分 「空振」 震度1相当

1月14日17時21分 「地震」 震度1

奥能登地域、若しくは奥能登の一部地域で、上記のように微細地震と原因不明の空気振動が続いています。

これらの地域の住民の間では不安が広がっていますが、基本的に空気振動は遠隔地域の火山噴火、若しくは北海道釧路地方に大きな地震が発生する1週間前から、1日前に発生するケースが多いため、九州南部地方、関東、中部の山岳地域で比較的大きな火山噴火に警戒を要し、北海道釧路地方の方は震度5以上の地震に警戒してください。

今回いつもの空気振動と異なる点は、いくつかの微細地震と同時に発生している事で有り、この原因や因果関係の統計が少ない為、明確な事は申し上げられませんが、珠洲市沖、新潟県中越沖に比較的大きな地震発生の恐れもある様に思います。

尚、空気振動の観測は他の原因、雷、飛行機の加速音、隕石突入音、花火、工事振動などの可能性を排除したものを記録し、地震に関してましては特定の一部地域(半径10km)で観測されているものであり、空気振動、地震も気象庁の観測地点計測器では記録されていません。

全く原因不明ですが、これほど空気振動や微細地震が連続するケースは過去に記録が有りません。

石川県能登地方、北海道釧路地方、新潟県中越地方にお住まいの方は、1週間ほど震度5以上地震発生に注意してお過ごしください。

関東山岳地域、九州南部方面の方は火山噴火に警戒して頂ければと思います。

[保勘平宏観地震予測資料編纂室・公開資料第4015号]

資料編纂責任者   浅 田  正

「陰徳」

治於神者 衆人不知其功 争於明者 衆人知之   「墨子」

(神に治むる者は 衆人その功を知らず 明に争う者は 衆人これを知る)

昔、中国の「魯」(ろ)と言う国に「公輸般」(こうしゅはん)と言う天才的な技術者があり、彼はその通り名を「公輸子」と言ったが、「公輸子」はまた大変な発明家としても広く知られていて、ある時彼は「楚」の国を訪れたことがあった。

だが当時「楚」の国は「越」(えつ)の国と戦争をしていて、長江が主戦場となる船戦ではいつも楚の国が苦戦していたため、楚王から「何か良い新兵器を作って貰えないだろうか」と依頼された公輸子は、早速「鉤拒」(こうきょ)と言う道具を開発し、これによって船の進退は以前よりはるかに迅速になったが、また公輸子はほんのお遊びで竹と木を使って鳥を作り、それを飛ばしたが、その鳥は何と3日も地上に落ちてくることは無かった。

この公輸子の在り様から、すっかり公輸子を信頼するに至った楚王、今度は戦に備えて大掛かりな「城攻め」の方法は無いものかと相談する。

そこで公輸子が開発したのが「雲梯」(うんてい)と言う、今で言うところのハシゴ車のようなものだった。

この少し以前、紀元前500年頃までは戦争にもルールがあって、敵と言えどその城壁を越えて攻めることは許されなかったのだが、戦国時代のことであり、こうして楚と越が戦っている頃には、すっかりそうした古式ゆかしい戦場信義も無くなっていた。

それゆえ開発された、このような城壁を乗り越えて敵の城を攻めることが可能な、「運梯」の出来栄えに気を良くした楚王は、この「雲梯」を使って、次は小国「宋」を攻めると周辺に豪語し始める。

この話はたちまち「魯」の国にも広がり、噂を聞きつけた「墨翟」(ぼくてき)、つまり墨子は大慌てで楚の国へと駆けつけるが、これには理由がある。

墨子の信条は「この世から戦をなくする」ことであり、ゆえに軍備の弱小な国の為に城の防衛をもっぱらの才覚とし、ついにはこれまで担当した城の防衛では、一度たりとも落城を許さない城防衛の天才だったからであり、これに対して「公輸子」の作った「雲梯」などが使われるようになれば、一挙にこれまでの城防衛の概念が崩壊させられかねない・・・。

楚に到着早々、公輸子に面会を求めた墨子、しかし公輸子はこれを拒否し、仕方なく墨子は楚王に面会を求め、貧しい「宋」など攻めてみたところで、何も益の無いことを主張した。

しかしもはや「雲梯」に心を奪われてしまった楚王は、既に「宋」などどうでも良く、ただ「雲梯」と新兵器を使って見たくてしょうがない。

さても難儀なことよ・・・。

暫く考え込んだ墨子、やがて妙案を思いついたが、それは現在で言うならば戦場ゲームだった。

いわゆる戦場シュミレーションをやろうと言い出すのである。

自分の帯をといた墨子はそれで城の城壁を作り、木切れを楼閣代わりにその真ん中に置く、これに対して公輸子も小さな木片を持って城攻め開始である。

仮にも一国の王の面前で、大の大人が城攻めゲームとは随分可愛らしい話だが、今の時代と比して、随分健全な時代で有るとも言えようか・・・。

公輸子は持てる知力を尽くして城攻撃を始め、あらゆる攻撃を打ってくる。

しかしこうした攻撃に対し、墨子が理論上全て撃退して行くに付け、公輸子はついに持っていた木片を放り投げ、「私の負けだ」と敗北を認めるが、よほど悔しかったのか「最後の一手がある」と言い出す。

「最後の一手・・・」、墨子はここでハッとする。

なるほど公輸子は確かに戦場ゲームでは負けたが、この場で墨子を殺せば実戦では既に墨子がいない訳だから勝利できる。

「そう言うことか・・・」

墨子は公輸子が自分に対して殺意を抱いていることを知り、楚王にこう告げる。

「公輸先生はもしかしたら、この場にて私を殺害することをして、宋との実戦では勝利することをお考えやも知れません」

「されど、既に私の配下は、私の作った雲梯防御道具を持って、宋の城壁の上で待機しています」

「ですから私を殺しても宋の城は陥落しないばかりか、もし実戦で雲梯を使ってそれで負けてしまえば、これまでその正体が知らしめられないがゆえに、他国に対して与えていた脅威も霧散してしまうことになります」

「どうぞ、今一度宋を攻めることはお考え直しください」

これを聞いていた楚王、ようやく事の真意を悟ったのか、墨子に「宋」を攻めないことを約束するのである。

そして架空の戦場で勝利を収めた墨子、彼はまた急いで帰途に付くが、その途中「宋」に立ち寄ったおり、間合いも悪く激しい雨に遭う。

仕方なく雨宿りの為に僅かに軒先でも借りようと、「宋」の城門をくぐろうとした時の事だった。

「怪しい者だな、門の中には入ってはならん」

門番は容赦なく墨子を雨の中へと追い立てたのだった・・・。

誰が「宋」の国を救ったのか、そのことを宋の人間は誰一人として知らない。

それゆえ墨子は雨宿りさえさせてもらえなかった。

だが、誰も知らないはずの墨子のことを、2400年後に生きる私がしっかり知っていて、「なるほど」と思っているのである。

「陰徳」とはこうした在り様を言い、冒頭の文を訳するならこうなる。

「人に測り知れないように事を為す者は、人はその功績に気が付かない。だが人の目の届くところで騒ぐ者は、人には良く分かる」

人間が為す仕事や良い行いは、常に人目に触れるところだけで為されるものではなく、その多くは人知れず為され、それがどこかでは多くの者の役に立っている場合もある。

そしてそうした場合、一抹の寂しさも感じてしまうかも知れないが、嘆くには及ばない。

誰も知らない墨子の思いを2400年後の私までもが知っている、この在り様はなぜか、例え誰も知らなくても「天」がこれを知っている、これで充分では無いか・・・。

人の運命など偶然に次ぐ偶然で発展していくものであり、そうしたものの中にはやはり「天の采配」と言うべきものをどこかでは感じざるを得ない。

ゆえに「天が知る」事であれば、それはいつかどこかで「采配」してくれるものなのではないだろうか・・・。

「常温核融合」

一般的に「核融合」と言えば、高密度、高温高圧条件下に措いて原子核と原子核をぶつける、いわゆる「熱核融合」のことを指すが、この核反応からエネルギーを取り出そうとする必要性から「核融合炉」が生まれ、現代物理学の歴史と、第二次世界大戦に措ける軍事技術開発の急激な進歩によって研究が始まった。

従ってこの概念は「限定された太陽」とも言えるが、実は太陽をモデルとするなら、人類は未だに熱核融合技術をその手中に収めているとは言い難い。

つまり人類は太陽のように安定した熱核融合を維持することができていないのであり、制御方式もせいぜいがその実績は40年足らず、しかも偶然性に頼った制御方式でしかない。

これに対して1989年、アメリカ合衆国・ユタ大学がとんでもない実験結果を公表した。

それは「常温核融合」の存在であり、これは物理学の世界では考えられないことだが、例えば気温25度の室温でも起こる核融合反応」のことだ。

通常、核融合の条件は高温、高密度、高圧力と言う条件が揃わなければどうしても起こり得ない。

ユタ大学が行った実験の内容は非常にシンプルなものだった。

重水中にプラチナ製の陽極と、パラジウム製の陰極を入れて直流電流を通電すると言う、どこかの中学校で行われている「水の電気分解」実験のようなシンプルさである。

それゆえユタ大学がこの実験によって「過剰熱」、つまりは熱エネルギーの存在を確認したと言う実験結果は、通常の化学反応によるものではないのかと言う疑惑を持たれ、さらには物理学の常識を覆すこうした理論は、当時のアカデミズムやジャーナリズムからも徹底的に叩かれてしまう。

またまずいことに当時ユタ大学は経済的に苦しく、そこでこうした売名によって資金を集めようとしたのではないかと言う話まで、まことしやかに囁かれるようになってしまう。

しかしこうしたユタ大学の実験から以後、世界のあちこちの研究機関から、この実験の追試実験データが出始め、その中には「過剰熱」(熱エネルギー)が確認されたと言う実験結果がぽつぽつ現れ始めていた。

現在までに実験された「常温核融合」の実験内容は、基本的には「電解実験」に近いことには変わらないが、電源がパルス電源になっていたり、実験容器内の温度や圧力を上げる方式、さらには真空容器に重水素ガスを詰め、内部に置かれたパラジウム片に通電する方法などに進化しており、実は日本でも多くの大学がこの研究を進めていた。

だが、こうした在り様にも拘らず、その後もこの「常温核融合」に関しては否定的な意見と肯定論が拮抗し、基本的には物理学上の否定が、多くのジャーナリズムの否定と重なって、インチキだとする意見が大勢を占めるようになる。

無理もない、常温で、例えば室内でも核融合が起こるとしたら、「核融合炉」がなくても、室内でも小さな原子力発電所を作る事ができるからだ。

また現実には常温核融合の否定は、物理学界とジャーナリズムでは、それぞれが持つ否定概念に誤差がある。

実はユタ大学がこうした実験結果を公表して以降、宇宙から地球に降り注いでいる「宇宙線分析」の分野で、この「宇宙線」に含まれるミューオンによって、水素原子の常温核融合が発生していることが観測されたのである。

ゆえに現在を語るなら、常温核融合を物理学は否定できないが、これを人間が作り出せるかどうかと言えば、それはできないだろうと言うのが物理学界の総意となっている。

この地球には実際には存在しても、それを科学や物理学が説明できない現象や事実は沢山ある、いや厳密には説明し切れない現象の方が多いに違いない。

常温核融合についても、自然界には存在できても、それを人類が作り出せないものとする、これが物理学の常温核融合の否定である。

これに対し、ではジャーナリズムの否定とは何かと言えば、一言で言うなら実効否定である。

もし常温核融合が存在したとして、更にはそれが実験でも作り出せたとしても、問題はそのエネルギーの小ささにある。

通常の原子核融合反応から得られるエネルギーは、太陽の0・0000某パーセントと言う膨大なエネルギーであり、これ比べれば常温核融合反応など、蚊が発している熱の0・000某パーセントにも及ばないものでしかない。

そんなものが何の意味が有ろうかと言う、これがジャーナリズムの常温核融合の否定となっている。

即ちジャーナリズムの否定は「経済効果的」な否定なのだが、残念なことに科学や物理学の世界でも、こうした「全ては金なり」の傾向から逃れることはできていない。

世界各国の研究機関は自然界には存在できても、人間がそれを作り出せないとしたら、それが何故作り出せないのかを研究しなければならないはずであり、そこから新たなる発見が生まれてくることも有るはずだ。

しかしこうした研究にはどの国の政府も金を出さず、そこでこうした研究は、研究者が自費で資金を捻出しているケースが多く、為に「常温核融合」が実験で得られるとする議論は、それが現在に至っても肯定も否定も確定していない。

常温核融合は確かに今は金にならないかも知れないが、その未来的な価値は計り知れないものがあり、こうした重大な研究に関して議論が提起されたにも拘らず、その後おざなりになっている事実は許し難いものがある。

理論から外れてしまうことは否定して終わることが科学だろうか。

分らないからそれを探るのが科学の原点ではなかったか、ゆえに不思議なことや、説明の付かないことが有れば、それに夢を膨らますのが研究者と言うものではないのか。

アカデミズムの中で権威と化し、それで自然界で起こっているさまざまな現実を否定する在り様の科学は何かがおかしい。

人間は実際に存在する現実の前に謙虚でなければ、その内何も見えなくなるのではないだろうか・・・。

「対立の調整と平等」

政治とは「対立を調整する技術」である。

従ってそこに公明正大、人間的な道徳観は必要が無く、個人の人格も必ずしも高邁なものである条件は付加されていない。

例えば市場で毎年生産量が少ないサクランボは市場で優遇され、その市場出荷手数料が免責されていたとしよう。

でも年によって大きなばらつきがある「みかん生産農家」に対しては、市場がその不安定さから、市場出荷手数料を徴収していたらどうなるか・・・。

やがてサクランボ生産農家が優遇されていることを知ったみかん生産農家は、その市場での不均衡を是正すべきだと騒ぎ出すことになる。

そしてこうした場面、市場と言う農家を包括する組織と、生産農家との対立は両者共にこの問題に対して、それぞれの利害を背負うことから、相互に公正な調整機能が無い。

この場面で両者の対立を調整するのが「政治」であり、これは例えばロシアとの領土問題でも、そうした問題を調整することが政治と言う事になる。

従って政治には高邁な理想などは必要が無く、如何に問題を調整できるか、その能力こそが「政治能力」と言うものであり、ここに金権政治で汚職にまみれようが、あちこちで女を作ろうが、調整機能のある者こそが有能な政治家と言える。

ただし、調整と言うものには相互が納得できる形の無いものが必要になる。

これが政治に措ける「権威」と言うものであり、この「権威は」調整を望む双方が自主的にその権威の所有者である権力者を支持することで担保されるが、ここで権力者の権威の正当性を計る基準となるのが、その思想よりむしろ、現実的公正さと言う事になる。

そえゆえ調整機能で必要とされるのは、本質的にはその権力者の人間性や、品格ではなく公正さと言う事になるが、ここで発生してくるのが「平等」と言う思想である。

多くの人間はこの「平等」と言うものを何か確かなもののように錯誤しているが、実は人間社会に「平等」は存在せず、平等の本質は「制約」である。

それは本来空間的広がりで言えば、机の上に置かれた画用紙の上に一本の線を引いたようなもので、この線によって元々は画用紙の総面積が自由に使えたものが、その線が描かれたがゆえに分断、若しくは次に何かを描こうとする場合の邪魔になっていくケースが現れる。

これが平等と言うものである。

また人間は任意に引かれたこうした線に制約を受けると同時に、そこに依存し、その線を主体に物事を考えるようになるが、これが平等がもたらす時代ごとの価値観とも言え、更にこの線に多くの人間がぶら下がっていくと、一本の線は人間の劣化とスパイラルになって奈落の底へと落ちていく。

また権力志向の強い者、貧しさを知らない者、愚かな者は基本的に平等などと言う高邁な思想は口にしたとしても、その体躯には馴染んでおらず、従ってこうした愚かな者ほど、平等によってスパイラス落下を起こさない側面を持つ。

これが民主制によって政治が衆愚政治へと劣化しない原理、即ち王制や専制政治の民主制に対する優位性である。

しかし思想的に高邁な者、また貧しい者は一度そこに「平等」の線を描いてしまうと、民衆の要請に応じてどんどんその線の位置を低くして行ってしまう。

つまり画用紙を線だらけにしてしまい、次に何かを描くことが困難な状態としてしまうのである。

冒頭の話に戻すなら、その当初は確かにみかん農家とサクランボ農家には不平等があった。

そしてこれは政治で解決すべき問題だろう。

だがこれが行き過ぎて、例えば市場価格でどうしてこんなにもサクランボとみかんの価格に差があるのかと言うことになり、みかん農家に補助が与えられば、サクランボ農家とみかん農家の格差は減少すると言うことを考え始めるようになり、平等を巡ってその僅かな差すらも政治が解決しようとしたときには、平等の連鎖が始まっていく。

その結果どうなるかと言えば、本来は農家が努力することで解決しなければならない問題にまで、つまりはその調整が自由意志に任される部分まで調整課題となり、こうなれば民衆の暮らしの細部に渡って調整、言い換えれば政治が介入し、為に民衆はその努力を全て政治に押し付けるようになるのである。

またこうして細部に渡るまで政治が介入する状態は、本来であれば少人数であるべき政治、行政組織を肥大化させ、ここに調整役の政治は完全にその制度自体を独立させた形を発生させ、ついに本来の調整機能が民衆と対立を起こしていくようになる。

日本は1991年に発生したバブル経済の崩壊と共に、それまで存在したあらゆる価値観が守れなくなってしまったが、その中で調整機能として求められた政治家の資質もまた根拠を失い、そこから本来政治には必要の無い人間性や、思想に民衆が根拠を求めて行った。

為に政治家は本来ならば調整能力が問われるにも拘らず、そこが蔑ろにされ、ただ人間性や思想の爽やかさだけで政治家が選択されるようになってしまった。

しかし格差社会の是正、平等の精神を突き詰めた社会は、基本的に画用紙に数え切れないほどの線を引いてしまい、そこには何も描けなくなってしまったのである。

政治は対立の調整機能であり、調整はできれば少なければ少ないほど、社会の自由裁量が増し、そこでは健全な競争原理のなかでの自然調整がはかられる。

更に平等の精神は基本的には人間の劣化を容認していく。

このことを考えるなら、日本国民は政治に頼ってはいけない。

自分の出来ること、できる最大限の努力は自分でしなければならず、また根源的な話だが、自分の両親の面倒を見るのは政治の責任ではない。

それは生物学的にも、また道徳的にも子孫である子供の責任であり、こうした部分まで政治の責任にするのは甚だ怠惰な平等の暴走であり、また声高に規制緩和を唱えるなら、政治が国民の責任を少し以前の段階まで戻すことが、それを達成する近道となるのではないだろうか・・・。