「老いとは何か」・Ⅱ

「脳」は「ホメオスタシス」の指令中枢と言うだけではなく、他にも記憶、言語、視覚を頂点する感覚などと言った、我々の生活維持に関わる根幹の部分でも重要な役割を負っているが、この「脳」をその密度の充実度と言う点で測定してみると、人間が生まれて20年ほどは集中したような密度の充実期間が有り、その密度は年齢と共に拡散した状態を示し、どうだろうか、明確に65歳前後から急速に減少していくのが分かる。

医学用語ではこれを「脳の萎縮」と呼ぶが、こうして生殖期間を過ぎると、人間の脳は急速に萎縮していくのであり、その結果が指令中枢機能の低下に繋がり、しいてはその個体全体の機能低下に繋がっているのである。

また「ホメオスタシス」の種類によっては、部分的ではあるが脳以外の器官で指令されているものも存在し、そうした器官についても年齢が高齢化するに従って萎縮し、復元力を失っていく。

器官の萎縮はその器官を構成している細胞死によって起こるが、これはその生物が生きている期間、同じ1つの細胞で賄われるのではなく、常に死滅しながら生まれることを繰り返している細胞によって、同じ器官が維持されていることを鑑みるなら、結果としてその細胞を作り出すプログラムの消滅によって、器官の萎縮は発生すると言えるだろう。

更に器官に関して、こうしたプログラムで死滅する細胞の他に環境的因子で死滅していく細胞も存在し、プログラムによって死滅する細胞死を「プログラム死」、環境因子によって死滅する細胞を「非プログラム死」と区別しているが、いずれも脳の機能とは分離したものとは考えにくく、「脳」の死はある種それ自体が「プログラム」されている可能性が高い。

つまり厳しいことではあるが、「生殖期間」を過ぎると、人間は死滅するように設計されていると言うべきものなのかも知れず、それを決めているのは誰あろう、自分自身の「脳」と言うものなのかも知れない。

そしてここからが本題だが、こうした或る意味どうすることもできない寿命について、少しでも身体的機能を落とさず長生きしたいと願うなら、一番最後に出てきた、器官の「プログラム死」と「非プログラム死」に対する考え方と言う事ができようか・・・。

プログラム死は本質的には細胞死、つまりはその細胞が再生されにくくなることから始まるが、これはその細胞が必要とするエネルギーの補給や、その細胞に適した環境を用意することで、ある程度その進行を遅らせることができる。

そして「非プログラム死」、こちらは努力によって「プログラム死」よりさらに高い確率で、細胞の死を遅らせることができる可能性がある。

環境的因子によって死滅していく細胞は、また別名を「廃用性細胞死」と言い、特定の使用しない器官があると、その器官は次第に萎縮して行く現象を起こすことから、器官の利用頻度を上げることでも、器官の萎縮進行を遅らせることは可能になる。

例えば長期に渡り宇宙空間に滞在する宇宙飛行士などが、「骨粗しょう症」にかかり易いのは何故か、宇宙空間には重力が無いからであり、地球に生存する生物は、地球の持つ重力に対抗するために骨格を発達させて来たが、こうした骨格はその重力によって育まれてきたものであり、したがって宇宙空間で無重力となった場合は、骨格の必要が無い状態となってしまう事から「骨粗しょう症」にかかってしまうのである。

だがこれと同じ原理はしかし、寝たきりの老人にも起こり得るものであり、だんだん動くのが面倒になり、そして寝たきりになり、更に骨格が衰退していくと言う悪循環が発生してくる。

人間は高齢化するに従って、考えること、動くことが億劫になってくるが、これこそがその生物個体の寿命を縮める大きな要因となるのである。

「脳のプログラム」はいかんともし難くとも、少なくとも「廃用性細胞死」と言う、生まれたときにはしっかり与えられた器官を、使わないことによって無駄にし、結果としてその寿命を縮める在り様は、生物としての怠慢とも言えるものであり、これは疫学的にも、老化防止には栄養摂取と、運動が最も効果的とされる事をしても、肯定されている。

栄養の摂取は人体内部の環境を改善していく事で細胞死を抑制し、運動は「廃用性細胞死」を抑制する。

生物はその大まかな寿命は、脳によってプログラムされているかも知れないが、その脳のプログラムぎりぎりまで生きる努力を怠って良いものではない。

高齢化するほどものを深く考え、そして働くなり趣味を持つなりして運動することが重要なのである。

最後に「ホメオスタシス」に対して「ストレス」は破壊因子と言う事を書いたが、これは同じカードの表裏の関係にある。

簡単に言えば塩しか入っていないおにぎりが有ったとして、普段から美味しいものを食べている人は、この塩だけのおにぎりを美味しいとは思わないだろう。

僅かに肉の焼け具合まで感知できるようになった舌では、「塩おむすび」の味が分からない。

しかし例えば4日ほど何も食べていなかったらどうだろう。

その人にとっての「塩おむすび」は恐らく、普段から分厚いステーキを食べている人が、レアに焼かれた最高級肉を食べた時より、遥かに美味しく有意義に感じることだろう。

ストレスとはこうしたものである。

生きていると色んな壁が現れてきて、そして自分の行く手を遮るかも知れないが、それはまた生きる動機でもある。

人間は生まれてくるとき、体以外何も与えられてはいない。

そして生きていればストレスに晒されるが、そうしたストレスを乗り越えていくところに生きる醍醐味があり、また達成感が生まれるのであり、言わば大きなストレスが存在するほど、その人間が地上に措いて多くのことを為さねばならない、いやでき得ると言うことなのではないだろうか・・・。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 「老いとは何か」I・II

    出生後、生存が甚だ困難なのは、死の関門を何かの巡りあわせで、通過したものであり、遺伝子は、可能性のあるすべての変異が起き得て、その時に生存可能なものは、生き残る。
    寿命の基本はDNAに依存しても、環境の影響を受けて変異するが、DNAは再生を繰り返すうちに正確さに欠けて行く。
    どんな生命も、何れはその維持の限界を越え、尽きる時が来る。自然の慈悲。

    脳の競売が、闇市で行われ、その時は、アインシュタインと長屋の熊公の脳が出品され、アインシュタインの脳は、皺だらけで使い過ぎで擦り切れて居て、値段が付かず売れ残ったが、熊公のは、使った形跡が殆どなく、皺や汚れも無く、高い値で引き取られた~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      脳を一つのプログラムと考えるなら、私達は生まれた時既に何年生きられるかが決まっているのかも知れませんね。
      勿論環境に拠って多少の修正は出て来ても、おおよそ決まっているような気がします。生後プログラムを観ても解りますが、DNAの変化は劣勢と言う側面と、進化と言う側面が有るだろうと思います。
      少しづつ変化して行くのは、周囲の環境に対応するメカニズムの1つとも考えられますね。
      それに私達はどうしても「人類」だけを考えてしまいますが、生命全体として継続して行く事の大切さも考える必要が有ると思います。
      人間が生き残るのが正しい道とは決まっていないし、いずれ訪れる未来の生物たちの礎でも有る事を思えば、「人類が人類が・・・」と言う思いもまた小さな世界での事のように思えます。
      唯、老いると言う事は悲しい事でも有り、幸福な事で有るのかも知れません。

      コメント、有り難うございました。

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