「離脱」

人間社会が見ている「道」とは一見一本のまっすぐな道のように見えるが、その現実は小さな道の束で、しかもそれらの一本々々には決まっている長さが有り、ちょうど長さが決まっている稲藁(いなわら)で編まれた「縄」のようなものかも知れない・・・。

それゆえ我々の社会で発生してくる問題とは初めから存在していたものであり、人や社会が経年に拠って生じせしめる「劣化」、これを進化と呼んでも良いが現実は「怠惰」と「衰退」は、やがてそれまでの秩序を維持できず特例を設けてその初期の厳しさを緩和していく。

この過程でいつかの時点ではそれまでの秩序が現実の怠惰に追いついて行かなくなり、秩序に矛盾を生じせしめる。
これが「問題」と言うものの本質で有り、従って考えように拠っては「問題」は未来への道なのである。

また我々に取って「問題」はどこか途中で発生してきたかのように感じるかも知れないが、個人と個人が容積的にも思考的にも完全一意できない原則から、冒頭にも述べたように「問題」は初めから存在していて、ただ他の事柄が大きい為にそれが目立たないだけの事だ。

やがて他の事柄が経年劣化に拠って衰退を始めると、初期に存在していた問題の方がウエートを大きくする。
縄を構成していた一本の藁が終わり、そこに絡めて新たな藁が続く時と言う事が出来るかも知れない。

「問題」と言うものは結果としていつかの時点ではそれが主流になる事が想定される未来なので有って、これを出現させる森羅万象の因は「現実」と言う事が出来、この現実は必滅と誕生と言う事である。

今日持っていた物は明日には失われ、明日得られる友は明後日には失われる。
巨万の富も何万人の美女を侍らかそうとも、死後を共にすることはできず、人も物も、社会の秩序も誕生が有れば必ず滅亡もやって来る。

これを知りながら人間の社会は永遠や「安定」を求めるが、こうしたものは初めから生物が絶対得る事の出来ない、得てはいけないものでもある。

EUの発想は、その初期から景気低迷が続くヨーロッパ経済を共同で乗り切ろうと考えられたものだが、借金を抱えた者が何人集まっても、その中では一人が他の貧乏人から更に収奪して利益を上げ、その他の者はそれまで僅かに残っていた食料すら奪われるだけである。

これだけでもいつかの崩壊は初めから存在していた、確定している道で有ったが、これに加え中東から流出してくる難民に対し、わずかに豊かな国こそは人道的な事も言えるが、経済的に困窮している国家ではその国家そのものが存亡の危機に立たされる。

イギリスは初めからEU構想には消極的だった。
先進国と言われるヨーロッパ数か国ならまだしも、どう考えても自国資本が吸われてしまうだけの弱小国家が参加してくる背景に鑑みるなら、EUはドイツがけん引する貧乏国家群でしかない。

その上に理想だけ高邁な事を言われても、現実が付いて行かない。

EUに参加している事の利益とリスクでは、そのリスクを「意義」と言う思想が支えきれなくなったのが2016年6月24日(日本時間)のイギリスのEU残留をめぐる国民投票の結果であり、これがいずれはEUの未来となる、既に大きくなり始めている「道」と言える。

EUの崩壊は一つの秩序の崩壊になるかも知れないが、結果としてこれがやがて辿る未来の道なので有り、ではこの事が日本にどう影響するかと言えば何も変わらない。

安倍政権が掲げていたアベノミクスは初めら「勝算の無い博打」だった。
日本経済が国際経済と無関係ではない事は日本国民の誰もが知るところで有り、中国経済の衰退、債権国をめぐるEUの不安定さ加減、アメリカの景気回復の遅れは必然に近いほどの予想が確定していた。

その中で国際経済が現状を維持する事を固定基盤として考えられた詐欺的金融緩和政策は、太平洋戦争直前、敵対するアメリカが石油の禁輸措置を採った事に憤る日本政府より更に愚かな在り様だった。

イギリスのEU非残留が決定する以前、2016年6月8日、日本の大手銀行の一角である三菱東京UFJ銀行が「国債市場特別参加者」(プライマリーディーラー)の資格を返上すると言う報道が流れた。

国債市場特別参加者の資格は国、日本銀行に拠る優遇資格で有り、国債に利子が付けばそれだけで利益が約束される大変おいしい特別資格だが、一定の量の国債を買う事が義務となる為、金利がマイナスになると銀行は損失を被る。

しかしこうした政府や日銀の特典は、それを持っているだけで、他でも色々な慣習特典や便宜が存在し、少しくらいのマイナスなら優遇資格を持っていた方が良いのだが、こうした総合的な事を考えてもマイナスになると判断した三菱東京UFJ銀行の決断は、ある種イギリスのEU非残留決定と同じなのである。

民間企業が政府や中央銀行に対して不信任を突きつけたのであり、どこかでは政府とズブズブになった中央銀行を信用できない、未来を託せないと意思表示した形なので有り、今のところ三菱東京UFJ銀行以外に「国債市場特別参加者」の資格を返上する動きはみられていないが、原理としてはイギリスのEU離脱と同じである。

そしてイギリスのEU離脱で迎える日本の円の急騰、市場のパニック状態、日本株の暴落は、アベノミクスなど破れた羽毛布団から落ちた一本の鳥毛の如くに吹き飛ばし、ここで日本政府、日本銀行は既に手詰まりとなっている現実は、もしかしたら三菱東京UFJに追随する大手銀行を出現させる可能性が有り、そうなれば日本国債は買い取り先を失い暴落する。

日本政府はこれまでとは比べ物にならないほど資金調達に関する利子負担が増加、国家予算の大半が借金とその利子の返済に使われる時代を迎える事になる。

日本の未来は10年、20年と言う単位ではある意味もう破たんが決定している。

大切なのはこうした事実を避けるのではなく、破たんを前提として今何を為すべきかを考えるべきで、働かずに金さへ持っていれば投資してそれで利益を得て暮らせるなど、そんな事がいつまでも続いた国家も民族も存在しない事を、今一度認識すべきだ。

多分、10年、20年の間にはもしかしたら日本ではゴミ収集が来なくなり、医療保険制度が崩壊し、街角には平気で死体が転がる状態を迎えるかも知れない。
その兆候はもう始まっている。

だがここで我々は絶望するのではなく、ではその時自分はどう生き残るか、どう家族を守っていくかを今から考える事が大切なので有り、三菱東京UFJ銀行やイギリスの姿から、みんなで連帯して仲良く滅亡するのではなく、その中で自分が生きる為に必死になる事、そうした個人の強い事情や意思の集合しか本当の力にはなり得ない事を知る必要が有ると思う・・・。

[本文は2016年6月25日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

「水平線の先送り」

将棋や囲碁など2人でプレーするゲームに措ける次の一手を推論するとき、現状の手から伸びる次の手は何本かの選択枝(選択肢ではない)となって現れ、その次の手になると以前の手から更に何本かの選択枝が出て、ゲーム終了までにはこれが大きく広がった樹木の枝の様相を示すようになり、これが「ゲーム木」と呼ばれる形である。

そしてこうしたゲームで手を先読み出来る限界が、例えば5手目までは読めるがその先は読めないとしたら、現実にはその先が広がりながらも消失した状態に見える。

丁度海は広がって連続している事は理解しながらも先が無くなった水平線状態が現れ、もしこの水平線の少し手前に自身に取って不都合な局面が広がっているとしたら、相手に取って決定的な一手、将棋なら「王手」に近い部分の手をさすことに拠って、この水平線は一手だけ延長される事になる。

この事を「水平線効果」と言うが、こうした手の一般的解釈は「敗北」の前兆と看做されるものの、例えばサッカーやバスケットなどの期限の定めのあるプレーでは有効に働く場合が出てくる。

それゆえ期限の定めと言う条件では、経済でも有効な場面が存在する事は有り得るのだが、一般的には知られていない。

ゲーム木の中では期限の定めは勝敗が決した時を期限とするが、人間は寿命を初めとしてその多くが期限に囲まれている。

また素晴らしい一手の次には、その手の素晴らしさ故に危機を迎える事も多く、こうした事を鳥瞰的(ちょうかんてき・鳥が上空から眺めるように全体を見渡す事)に把握する事はある種「運命」を見通すに近い困難さが伴う。

ゲーム推論では水平線効果は高い評価の対処策とは看做されないが、こうした考え方が出てくる背景には「現実」には避けられない対処である事が認知されていると言う事であり、我々が日々行う決済や決断も、その即時的合理性に鑑みるなら、水平線効果を避け切れてはいない、むしろ常に水平線効果に近いか、水平線効果の裏返しである「怠惰」からも容易に逃れられてはいないと言う事なのである。

一般的に「水平線効果」に措ける水平線の先送りには、将棋なら王手に近いような、相手が即時対処が必要な手が打たれる事になる。

従って相手、これが行政や政府でも同じだが、ダイナミックですぐにでも効果が現れるとする政策や施策を行った場合、彼等の背後には「敗北」かそれに近い概念が存在していると言う事なのであり、経済やスポーツなど期限の定めが有る世界では有効に働く手でも、連続性がある組織や国家などの場合は水平線効果が使われた後は、ほぼ間違いなく決定的な敗北が迫ってくる事になる。

そして水平線は通常の状態でも追いかければ逃げて行く・・・。

つまり一手進めば水平線もその一手分先に伸びるのが普通、森羅万象の理なのであり、動いている者はこの水平線を追いかけ、止まっている者、止めて物事を考える者にのみに「水平線の先送り」と言う概念が存在する・・・・。

さて、3月31日に水稲の種を水に浸していたら、私の頭の上で今年もまたツバメの鳴き声が聞こえてきました。
私にとってはこの瞬間が1年の始まりのような気がします。

一昨年から進めて来た事業の拡大も準備は全て整い、ここに来て加速的な忙しさに追われています。

暫く仕事用の記事を充実させようと思いますので、このブログは一時お休みを頂こうかと思います。
また何かどうしても書かなければならない事が出てきた時、記事を更新致します。

皆様、お元気にてお過ごし有りますように希望致します。
いつかまた必ず、お会い致しましょう。

[本文は2016年4月32日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

「熊本地震の余震につて」2

マーガレットの花が散って行く過程で、その花弁が落地する瞬間の要因は定まっていない。

野を渡る一瞬の風の場合も有れば、茎をつたって歩く蟻の体重、場合に拠っては花を見ようと近付いた人間の振動、或いは太陽が昇って地面の温度が上昇し、僅かな水蒸気の蒸発が発生した、これに拠ってでも花弁の落地動機となり得る。

そしてマーガレットの花弁の落下動機はこれらの要因の上に、我々があずかり知らぬその他多くの要因の、どれがいつになるかは決まっておらず、どの動機に拠って花弁が落下するかは、花弁が落ちた時点でしか知る事はできないが、いつかの時点での花弁落下は必然なのである。

地震発生のメカニズムは、こうしたマーガレットなどの花弁が落下する時の状況に良く似ている。
いつかの時点での必然なのだが、その発生の動機は地震それぞれに拠って異なり、エネルギーが蓄積されて地殻に亀裂が走る瞬間の動機は、地震本来とはまったく関係の無い自然現象を要因として来る可能性すら有り得る。

更にその動機は各々の地震に拠って異なり、近似値は存在しても、まったく同じ要因で発生する地震は有り得ない。
つまり地震の発生は常に想定外なのである。

また熊本阿蘇地方の余震に付いては、報道やネットニュースなどで異様な多さが騒がれているが、余震傾向としては普通であり、何ら異常ではない。
震源の浅い大きな本震の後1ヶ月は常に小さな余震が発生し、3ヶ月以内は震度4クラスの地震が平均で7日に1回、震度5クラスが1ヶ月に1回、震度1程度のものは1日に数回発生するのが標準的な傾向である。

過去1980年代に発生した大きな地震の時も、本震発生1ヶ月以内は毎日小さな地震が続き、震度4クラスの地震は1週間に1回ほどは発生し、それが3ヶ月ほどは続き、半年以内には震度5クラスの地震も数回発生していた。
共鳴現象も存在し、比較的近くの震源域で大きな地震が1ヶ月以内に発生し、余震傾向も同じになる現象は日本海側の大きな地震発生時にも多く見られた現象だった。

熊本地震の余震傾向が非常に数が多いと報道される根拠は、比較データが新しいものが多い為で、例えば1980年代以前の地震に比較すると、余震傾向はそう多いとは言えない。
勿論気象庁のデータだけでは観測地点の数が、現在よりも1980年代以前の方が少ないが、これを頼りにしてしまうと正確な判断が出来ないのである。

小さな地震は頻繁に発生していて、局地的なもの、観測点の無い地点での地震を全て気象庁が把握するのは困難な事だった。
これを現在の熊本地震の余震傾向に当てはめると異常に多い余震となるが、過去の地震発生地域での現地調査では、どの地震でも異常に余震が多いと被災者が申告しているのである。

更に今般の熊本地震に付いて、この地震は本来局地地震であり、東北で発生した日本海溝の巨大地震に拠って、日本が太平洋側に引っ張られている力学的要因で、地震エネルギーが巨大化したものと考えるべきだろうと思う。

まったく関係ないとは言わないが、これから後発生する大きな地震の一番大きな要因は、日本海溝の地殻変動に拠るプレート間のエネルギー関係に求めるべきで、熊本地震に拠って南海地震や東南海地震の時期が早まるとする考え方は、事前現象統計に拠る予測を惑わせる迷信的な考え方のように思う。

日本人は一般的に権威主義的であり、権威者の考え方を自然現象の上に措いて考える傾向が有るが、権威者とはその組織のトップであり、いつの場合も決して自然の事象のトップでは有り得ない。

熊本阿蘇の余震は5月25日前後までは小さな余震が頻発し、1週間に1度くらいは震度4くらいの地震も発生する。
半年以内には2回から3回震度5以上の余震も発生するかも知れない。

だがこれは通常の余震の範囲であり、異常ではない。
いつまでも続くエネルギーは存在せず、日を追って余震は減少し、必ずまた平穏な時を取り戻す。
悪戯に不安を煽る報道に惑わされる事無く、早く通常の生活を再建される事を願うばかりである。

冒頭にも書いたように地震の発生は花弁の落下動機に同じである。
正確な予測は誰も出来ないが、それでも大きな地震発生にはさまざまな通常と異なる現象が現れてくる。
気象庁や地震学者の話は地震が発生した後の解析、それも推定にしか過ぎない。

自分が何か変だと思う感覚、自分の直感を信じる、言い換えれば自分を信じなくして誰を信じるのか・・・・。
これが一番確かな地震予知ではないかと、そう私は信じている。

[本文は2016年5月6日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

「熊本地震の余震に付いて」

熊本県地方で発生した震度7の地震に付いて、この地震の震源の深さは約10kmと浅い為、統計上、余震は本震の後ろ側に濃度が高く、大きな余震の90%は本震発生3か月以内に発生し、余震の期間は震源の深い地震よりは短い。

3日以内は震度6近辺の余震、1週間以内は震度5くらいの余震と常時震度4、震度3クラスの余震が連続するが、震度は日を追って弱まり、回数も減少していく。

ただし6か月以内は、回数は少ないが震度5、震度6クラスの余震が数回発生することが有る為、「音」を基準に警戒してください。

一度大きな本震が発生した後の余震は、その余震が来る数秒前に「ゴー」と言う風か、飛行機が飛ぶような音が聞こえてくるようになるので、この音が聞こえたら大きな余震の場合は直後、震度4以下の余震の場合は2秒から4秒後に余震が発生します。

この余震発生前の音は人間の恐怖心をあおり、為に不安な気持ちになります。

小さいお子さんのいる家庭では、できるだけ子供のそばにいてあげてください。

[本文は2016年4月15日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

「否定キーワード」

10粒の豆を上から下へ播いた(まいた)時、その各々の豆が行き着く先は地面なら重力と回転に拠る慣性の運動力が弱まった時一番近くに在る窪みであり、板の間なら微妙な傾斜の一番低い場所へと豆は転がっていく。

同じように特に相手を意識していない本人が任意に話す言葉は、その本人に全く関係の無い第三者の中でも、「高い場」に在る者の所へは届きにくく、少しでも低い場に在る者の所へと届き、この場合の高低は地位の事を指してはいない。

受動で有るか能動であるかと言う点に有り、自己が主張をしたい者は「能動」、人の意見を参考にしようとする者は「受動」となるが、自己が主張をしたい者と言うのは、自身が持つ窪みが自分に拠って埋められていて、尚且つそこが主張したいと言う点で盛り上がっている事から他者の言葉は届きにくく、反対に自身が主張を予定してない者は自身の窪みが残っている分だけ、他者の言葉が入って来易い。

思い出してみれば皆経験が有ると思うが、自分が自信満々だった時他者の言葉を聞いていただろうか・・・。
自身がこれまで生きて来て一番心に残った言葉は、順風満帆な時に聞いた言葉だっただろうか・・・・。

否、誰もが一番記憶している心に残る言葉は、おそらく自身が最も傷つき苦しんでいた時、他者からかけられた言葉だったのではないだろうか。

自身が低いところに在るとはこうした意味である。

冒頭の豆の話で言えば、豆を播く人が任意ではなく誰かに向けて投げたとして、それを受け取る者は大きな傘を逆さまにし、一粒も逃すまいと待ち受ければ、播かれた豆の多くは受け取るべき者の手に確かに届く。

しかしこれを豆を播く者があいつにだけは渡さないと思って避ければ、受け取ろうとしていた者はこれを受け取ることは出来ず、せっかくこちらへ向けて播かれたとしても受け取る側が予め傘を差して避けたなら、豆を播いた者が望んだ相手には絶対届かない。

傘はまともに差せば凹凸の凸となり、逆に指せば凹になり、我々は言語の嵐の中で日々瞬間ごとに傘を差したり逆にしながら暮らしているようなものかも知れない。

それゆえ言語や文書に拠る理解とは、その内容よりも、むしろ他者が発する言葉に対して自身が傘を差して避けるか、逆にしてでも多く受け取ろうとするか、そのどちらの状況に在るかと言う点が一番重要になる。

他者の言葉とは結局他者ではなく自分がどう思うかと言う事なのである。

その前後のいきさつからどうしても気に入らない相手の言葉は、それが神仏の如く精神から発しているものでも邪鬼が囁いているように聞こえ、反対に愛する者が語る言葉なら、例え悪魔の囁きでもその中に美しい花を探そうとする。

言語や文章はそれを自分が発している瞬間は肯定も否定もされていないが、他者の発する言語や文書は聞いた瞬間から肯定しようか否定しようかの判断が始まり、この中で僅かでも自身が気に入らないキーワードが出てくると、相手の話す言語、文章全てに遡って否定されていく。

この場合は理解などは初めから存在せず、全てが否定しか無いが、ではこうした否定のキーワードはどこから出てくるかと言えば、日常の自身の状況に拠って否定キーワードが増減し、こうして景気が悪く一般庶民の暮らしが思わしくない時はどうしても否定キーワードが増えてくる事になる。

そして言葉は鋭角的、先鋭になって行くのであり、いったんこうした傾向に陥るとほんの僅かな事でも攻撃的な言葉が使われ、こうした言語が多く使われることに拠って脳内はその状態を通常として行く事になり、このような傾向が増加すると社会は加速的に他者の失敗をあげつらい、攻撃する許容範囲の狭い社会とへと変化して行く。

我々が日常の会話で用いている言語の組み合わせは必ずしも文法に照らして合わせて間違いの無いものと言うわけではない。
むしろ文法通り喋っている時は殆ど無い。

にも拘わらず会話は成立し、文章に至っても文法上間違いが無くても内容のない文章は山ほど存在する。

言語や文章の本当の必要性を自身の意思を伝えたり、或いは記録すると言う点に求めるなら、間違いの無い言葉遣い、間違いのない文章が良い言語、良い文章と同義では無いのである。

予め敵意を持って他者の言語や文章に接するなら、そこで探しているものは相手の瑕疵であり、相手が何を伝えようとしているかを理解しようとする努力は既に消し飛んでいる。

こうした中で自身が理解できないのは相手の瑕疵に問題が有ると考えるかも知れないが、理解できないのは初めから相手の事など理解しようとする気が無い、自身の在り様に問題が有る事を考えない。

一つ前の三角形の話ではないが、四角い平面を真横からしか見なければ線にしか見えず、正方形の立方体も一方からしか見なければただの平面にしか見えない。
そして我々は自身を立方体として考え、他者の事は一方からしか見ようとしない。

誤字、脱字、或いは言葉の間違いは、本当は前後の関係からそれが間違いで有る事を容易に理解できるはずである。
従って心から相手の事を理解しようとするなら、言葉の誤りなど何らの支障も無いものなのだが、自身の状態が悪ければこれを許容できない。

現在の日本の状況は「言葉の魔女狩り」状態である。

芥川龍之介晩年の作「西方の人」が彼の死後他編と共に発行されたが、この末文付近に書かれている芥川の文章は明確におかしい。
しかし発行人はそれを承知で発行すると後書きしている。

確かに末文付近は文法上も表現上もおかしい・・・。
だが、「西方の人」を読んだのは中学生の頃だっただろうか、私は本の中から錯乱してもがく芥川を感じ、読みながら既に遠くこの世にいなかった芥川に対し、「芥川、死ぬな」と心で叫んでいたように思う。

人はきっと間違った言葉、間違った文章でも、いやそれであるがゆえに真実の自身を伝える得る時がある。

他者の間違いを公の場であげつらい、その事で自身の知性や正当性を表現しようとする事は、2000年以上も前から既に心浅き者の所作と戒められている。