「Face bookの終焉モデル」

大きな山火事が鎮火するモデルは人工的消化活動の外に有る。

つまり山火事は自身で鎮火点を持っていて、そこへ達すると消火していくものなので有り、では何故鎮火していくかと言うメカニズムは分かっていないが、ここに1976年スーダンの「Nzara」で突然発生した感染症、エボラ出血熱の発生とそれが自然消滅したモデルを考えるなら、両者の関係に漠然とでは有るが一定の関係則を見ることが出来るかも知れない。

あらゆる生命、準生命、その生命が生んだシステムは拡大と繁殖によって消滅していくモデルを持ち、これは少なくとも地球上では物理学上の原理とも一致する。
山火事は火が山の頂上に向かう時は速度が速く、山を降りる火は足が遅くなる。
それゆえ全てのモデルがそうとは言い切れないが、山火事の頂点は山の頂点に一致する場合が多い。

同じようにエボラ出血熱では初めから決まった形のウィルスでは無く、無数の形状ウィルスが存在し、この事から一定まで感染繁殖した時、その初期の効力を失う傾向を持ったものと考えられ、これは繁殖し繊細になって行った為、変質速度が速すぎて感染生命体である人間の抗体変化の方が遥かに遅れ、その結果ちょうど円周上を一周した形になったウィルスが自滅したモデルが予想される。

ウィルスの増殖、滅亡は比較的良く知られたモデルでは有るが、この仕組みや原理の基本的な部分は分かっていないものの、その増殖速度と滅亡までの時間には一定の関係則が有り、急激に増殖するものの滅亡速度は速い。

先頃プリンストン大学の研究者である「John Cannarella」「Joshua Spehler」両氏によって発表されたSNSの滅亡論、所謂「Face book」(フェースブック)滅亡論は、その根拠を疫病とそれが収束していく過程をモデルにしていると言われているが、このモデルは他の社会システム理論でも解説が可能で有り、いずれはカードシステムやインターネット社会も同じ運命にある。

即ち拡大によって劣化したものを多く取り込み、その劣化に対抗する為に更なる劣化が生まれ、中が劣化だらけになって初期の利便性を失うからであり、カードを例に取るなら新規申込者は一定の収入が有れば簡単にカードを取得できたが、経済が山の頂上から転落を始めるとその初期の条件は変化し、一端劣化したものは復帰が難しい。

更に経済は元々波だから山があれば谷が有り、時間経過と共に谷の回数が増えて劣化した者がどんどん増え、そこで入会規定が厳しくなって新規入会が減少し、中身は劣化した不良債権と、優良なカード利用者とはカード決済を利用してない者を指す事になり、利益率は年々減少し使いにくいものとなって行き、やがて来る新しいサービスに駆逐される。

これはパソコン市場も同じで、一つの場所に座るなりして画面を見ながら操作する行為より遥かに機動力の有るスマートフォンの出現によって、パソコン市場が限られたものとなって来る中で、例えばブログサービスなどは広告収入が減少し、やがてサービスの打ち切りか、サービスの有料化が始まってくる傾向が現れ、ブログユーザーは一挙に減少する。

また生物には「自己範囲」と言うものが存在し、どんな生物も一定の距離まではそれが自分に利する事なら歓迎するが、この距離を過ぎるとあらゆることが利とはならず、負担となっていく。

つまり仲良くなっていく事は、より面倒な対応を増やす事になるのであり、この点ではSNSなどの比較的狭い範囲の親密な関係は、一定の発展を過ぎれば全てが負の材料となってしまい、こうした関係ばかりにコミュニケーションを依存していると、最後は漠然とした支配から抜け出せなくなり自覚症状の無い内に精神を病む。

その精神を病んだ者が多数を占める中、視覚的に表現するならモンスターやゾンビと化した者の中で、善良な者の存在を求めるなら規制や監視がどんどん強化され、それがface bookであればその大きな枠の中にまた小さな枠を作らなければならず、これによって初期のface bookの範囲や概念は失われる。

発展して行けば行くほど既に消失した面積が増え、内容が無くなり情報は劣化し、人々はまた新しいサービスを求めて彷徨うが、そこでまた新しいサービスが出てもやがてこれは同じ道を辿り乍堕ちて行き、いつしか人類は「情報の破裂」を起こす。

就寝時間を除く一日の5分の1の時間を、たわいも無いコミュニケーションと言う呪縛やゲームに費やしている社会では生産性の向上など望めず、隣にいながらスマートフォンで文字会話しているようでは、到底生身の男女の付き合いなど続くはずも無く、離婚の増加、非結婚希望者の増大は避けられない。

最後にコミュニケーションに付いては男女差が有り、男性のコミュニケーションは並列であり、女性のコミュニケーションは対面である。
即ち女性のコミュニケーション概念から来る友人は「共感」「相互批判しない関係」「支持出来る関係」「共通の目的」などであり、この中には緩くだが共通の敵を持つ者同士の「共感」が存在する。

簡単に言えば今の社会的傾向は女性的コミュニケーションの時代だと言う事であり、ここで言うところの男女の概念は社会的なものである。
現代社会の傾向が女性側に力関係が傾き、それに引っ張られる形で男性のコミュニケーションが女性化してきていると言うことなのかも知れない。

そして日本に付いて言えば、face bookの滅亡もさることながら、民族的滅亡状態に向かっている事も忘れてはならないところかも知れない・・・。

[本文は2014年2月2日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

「事象の地平線」

この宇宙が創造された時のモデルは、厚みの有る板、金属板でも良いがそこに無数に球体の一部を模った凹みが存在し、落ちて来る宇宙はその凹みのどれかにはまり、そこからその宇宙の秩序や法則は落ちた凹みの影響を受ける。

しかしこうした無数の凹みの基本的な厚みの部分は「無」であり、本質は「あらゆる事の存在」ではないかと考えられている。

私が初めて法則や秩序が絶対的なものでは無いかも知れないと考えたのは1974年の事だった。

それまで既に絶滅したとされているシーラカンスが、偶然にも1938年に南アフリカ沖で釣り上げられ、更にはインドネシア沖でも捕獲されたと言う話を知った時、「それはもしかしたら今まで存在したものが発見されたのではなく、今から存在し始めたのではないか」と漠然と感じたからだった。

シーラカンスと言う数十年単位で誰も見た事が無くなった生物が、それ以後あちこちで釣り上げられるようになるのである。
人間は小さな可能性と大きな可能性が並ぶと、どうしても大きな可能性を信じてしまうが、それを逆転させたのがアインシュタインの「相対性理論」だった。

川岸に立ち川の流れを見ていると、いつしか流れが止まっていて自分が川上に向かって動いているような錯覚を覚えるが、相対性理論はそれも間違いではないと言ってくれたような気がしたもので、この頃から私の時間の概念は基本的には「現在」によって過去も未来も作られるのではないかと言う、とんでもないものとなって行った。

即ち「望めばそれが現れる」と言う事で、それは過去に遡って出現するのではないかと考えるようになったのであり、出現する動機は「意思」ではないかと思うようになった。

ブラックホールの概念は重力の集中による異相世界だが、その中では光ですら脱出することが出来ない絶対的な壁、「事象の地平線」が存在すると言われてきた。

この「事象の地平線」の視覚的モデルは、あらゆる物質が粒子的にすら存在できずエネルギー崩壊を起こした高熱状態の火の壁、「ファイアウォール」と呼ばれ、この理論によれば情報の等価原理が失われる。

存在したものがその存在自体ではなくとも、それに等しいものとして存在する均衡、これが情報の等価性である。
だがファイアウォールが存在するとそこに投げ入れた林檎は失われ、ここに等価性が消失する。

それゆえアインシュタインが描いた事象の地平線は全く静かなもので、そこに隔壁が存在する事すら気付かないもの乍、しかしそれを通過して行くと、通過する以前とは全く別の性質になると言うモデルを組んでいて、イギリスの物理学者「Stephen William Hawkig」(スティーブン・ウィリアム・ホーキング)もこれを支持している。

そしてこのモデルを使った場合、我々は可能性として常に「事象の地平線」を知らぬ間に越えているモデルが出てくる。
宇宙の密度はブラックホールの密度に等しいと言う説も有り、ここにこの宇宙にはどんな事でも存在する確率が出てくる。

我々が絶対的な法則として見ているものは、もしかしたらその都度出来上がってきたものである可能性を思うのである。

生物が一挙に進化した過程が有り、6億年前の「エディアカラ生物群」の出現から「バージェス動物群」などが発生してくる「カンブリア爆発」(5億4200万年~5億3000万年前)まで、生物は環境に関係なくあらゆる形を試している。

まるで無秩序に形が現れるのであり、これが生物側によるものか、或いは環境的なものかと言うとそのどちらにも属さない「混沌」が出現する。
そしてそれが整理される形で現在にまで続く進化形態が見えてくるのだが、ここに現在は存在してその時は無かったものは「意思」と言うものだったかも知れない。

ゆえ多いか少ないかの別無く、人間であるかそうでないかの別無く、何らかの意思が有って「事象の地平線」が近付いているときは、それが実現したり創造されてしまう可能性を私は考えていた。

大きな地震が起こる前には必ずと言って良いほど多くの人の意思が有る。
関東大震災でも多くの人が拝金主義で腐敗した世の中で、何かとんでもないことが起こって破綻して欲しいと思っていたと言う記述が残っているし、同じ事は東日本大震災でも存在していた。

20代から50代の勤労者の半分に相当する52%の人が「何かとんでもない事が起こって、この社会をリセットして欲しい」と思っていたのである。
たった一人の人間がこの宇宙の秩序を変える、或いは創造する事ができるか否か、私は全てではないができる場合も有ると思っている。

これまであらゆる科学者が、そこにそれは無いと思っていたから、それは存在できなかった。
でも存在するかも知れないと思い始めた瞬間から、それが存在し始めた。
そう言う宇宙観も在って良いように思う・・・。

[本文は2014年1月30日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

「猫経済」

現在の日本経済は生きているか死んでいるかと言えば「シュレーディンガーの猫」である。

 

つまり半分死んで半分生きている可能性の状態だが、先の結果はもうはっきりしていて、未来は「死」の状態である。

 

冒頭から余談になるが、猫はシュレーディンガーだけではなく世界的に「半分」を意味する言葉でも有り、日本や中国でも「猫がけ」と言う言葉が有り、約束された代金や物が半分程しか貰えない時、約束された量や数に足りない時に「猫何某」と言う揶揄言葉が存在している。

 

「安倍晋三」内閣総理大臣は2014年4月に消費税を現行の5%から8%に引き上げる事を決定したが、その次ぎのステップである消費税増税10%の実施も2014年度内に判断するとし、麻生太郎財務大臣も2014年1月、本年度7~9月期の経済指標を元に消費税増税を判断するとしている。

 

この事は何を意味しているかと言えば、7~9月期の経済指標が発表される2014年11月に10%の消費税増税を判断する、いや、消費税増税を決定すると言う意味であり、簡単に言うなら政府は今の好況感をここまでが限界だと判断していると言う意味である。

 

日本経済は2014年度中でも今より上昇する事は有り得ない。

 

現在の状況でも国民に円安による物価上昇と言う負担を強いて、そこで集められた資金によって輸出産業関連の大企業を支え、彼等大企業を使って政府が一緒になって好況感を演出しているだけの事であり、ガソリンや灯油などの燃料、食料品や輸入製品などが円安によって被った価格上昇は平均で30%、電気、保険料、租税などの国民負担が5%から10%、その上での消費税増税である。

 

2014年4月に消費税増税が施行されると一端消費は落ち込み、その後暫くして消費は少し反発する。

 

この時期が7~9月期に相当し、政府財務当局はこれを利用しようとしている。

 

2013年より2014年の公共事業投資額は少なく、無制限の金融緩和策と言っても昨年度の水準を越えて紙幣の印刷を増やす事は出来ない。

 

しかし昨年度と同じ水準で紙幣を増やしたとしても、財政出動の額は2013年より減少する事は決まっていて、社会福祉費用は増大し、国民の暮らしは円安による生活物資に偏重されたインフレーションによって窮乏、2014年末にはその影響が明確になり、2015年冒頭の財務指標でそれが露見する。

 

この事から2015年10月からの消費税10%増税の判断は、2014年4月に一端落ち込んだ景気が少し反発する7月~9月期を材料にして判断する以外にマシな状況は出て来ないのであり、こうした事が解っているからこその10%消費税増税判断の急務なのである。

 

元々現在の好況感は前民主党野田政権と自民党、それに公明党が共同して消費税増税法案を議会で通過させたおり、そこに設けた付帯条項「国内景気を見て判断する」と言う一文をクリアする為に始められたもので、基本的に財務省の消費税増税が本来の意図である。

 

従って国家的長期戦略に基づいたものではなく、おそらく2014年末に消費税10%増税を判断した安倍政権は、その翌年には国内景気の絶望的悪化に伴い完全に国民の信任を失うが、それでも消費税増税の法案は成立し、国家財政的には消費税増税の道さへ付いていれば何とかなると言うのが財務省の考えだろう。

 

頭の弱い首相や財務大臣を使って当場の危機を逃れ、それから後の事はまた考えれば良いと言うのが真実かも知れない。

 

それゆえこの現在の好景気は消費税増税の為の演出と言えるのである。

 

日本経済は基本的には国内人口の少子高齢化によって、毎年GDPの減少が避けられない。

 

好景気など大きな破綻や災害が無い限り有り得ないのである。

 

つまりは経済的に一端死んでしまわないとそこから先は無いのであり、現在行われている経済対策は自然死を迎えている末期患者に対する延命処置に同じである。

 

問題はいつまで生かすか、どの時点で人工呼吸器を外すかと言う事であり、ここでのタイミングが10%消費税増税の実施と言う事なのであり、安倍政権の役割はこの時点をして終わり、彼はまた病気になったと言って、虚ろな顔をして目に涙を溜めて政権から去って行く事になるだろう。

 

日本経済は基本的に動いてはおらず、黙っていても死に向かっているが、財政出動と紙幣印刷の大幅水増しと言う人口呼吸器でかろうじて生きているので有り、もはや市場経済、国民主体経済の意味では自力回復の道は閉ざされ、延命処置によってやっと生化された状態、そのように見えるだけと言える。

 

経済は元々自然原理、摂理に同じく「波」で有り、そこでは良い時と悪い時が有り、悪い時から良い時へ移行する時も、行われる政策によって恩恵を受ける者より恩恵が少ない者の方が多く、悪くなっていく時はそれが顕著で、しかも恩恵を被る者の方が恩恵を受けない者より少ないから恩恵が出るのである。

 

従って良い経済とは波の幅が少なく、そして波自体が平均して高い位置に有る事を指す。

 

今の日本は民族的に既に衰退に有り、先の自然災害からも逃れられない。

 

ゆえ経済の波が下の方に有るのが自然な在り様と言え、これを無理に良く見せようとしても長くは続かず、結局聖書にも有るように「持たざる者は持つ者によって更に奪われる」状態になる。

 

日本国民は今年後半から来る大きな経済的危機に備えよ・・・。
「本文は2014年1月25日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

「おじにん」

言語の話をもう一つ、言語や文章意味は古いものより近くの言語や文書意味の方が失われ易い・・・。

極端に古い言語や口語体はそれを学術的に研究したり、或いは文化的価値観から研究保存しようと言う試みが為されるが、例えば日本古来の「和歌」や「短歌」、中国の「漢詩」などは時代を経ても残っていくが、一般庶民が日常使っている言語は、それが生活に用いられていただけに、そこに価値を見出す事が出来ず、僅かな生活環境の変化で簡単に失われ、しかもそれが失われた事すら誰も知らず失われていく。

「おじにん」は昭和40年代前半に消滅した言語である。

元々日本海側と日本アルプスの麓などに点在する形で分布したした言葉だが、1930年くらいには既に衰退が始まり、1970年にはもう地方の村でもこの言葉を使う者は1人か2人と言う状況で、おそらく1975年前後に完全に消滅したものと思われる。

その意味は「憤り」や「不満」「理不尽」、「怒り」などであり、現代用語で言うなら「この人でなし」や「お前と言う奴は・・・」と言う解釈になろうか・・・。
主に男性言語で、女性が使う機会は少なかったが、その背景は単に確率の問題だったと考えられる。

日本に男女平等の精神が確立したのは1980年くらいからである。

名目上の男女平等はそれまでも謳われてきたが、現実にはこの1980年の結婚適齢期女性人口の相対的減少傾向から女性の地位は向上し、そして民衆は誕生する子供に男の子より女の子を望むようになって行き、現在の女性至上社会に移行して行った。

つまりそれまでの男尊女卑社会では、そもそも女性が家族中や公の場で不満を訴えることが既に難しかった事から、「おじにん」と言う言語は「男性用語」としての性質を持っていたのであり、こうした男性用語だったが故に女性の地位の向上と、男性の性的優位性の喪失により消滅の憂き目を見たと言える。

また「おじにん」はどちらかと言えば負け犬の遠吠えに近い意味が有り、この言葉を使っている当人は、その場では劣性に有る場合の意味を持っている。
この事から元々は「ばかやろう」と同じ程強い意味を持っていたにも拘らず、男性言語の中でも劣性の言語となって行った経緯が有り、より貧しい者、力の無い者、若さに対する老いの言葉となって行ったのである。

更にこうした全人口の半分を占める女性が使う機会の少なかった言語は、当然「家制度」中で下にある子供も中々使う機会が少なく、尚且つどちらかと言えば劣性状況の言語でもある為、働き盛りの男性も使う機会が少ない。

結果として老人男性言語としての意味合いが強くなって行ったのであり、この背景を考えるなら、「おじにん」と言う言葉が長く続く方が難しい状態だったのではないかと思われる。

「おじにん」の本来の意味は差別用語である。

相手の事を特別な場合「えな」と発音する地域が過去に存在し、「な」は古くから相手を指す言葉で、現在でも玄界灘や能登半島の一部地域で「なだ」と言う発音で残っているが、こうした「な」に「え」が付くと、それは相手を罵倒した意味を持ち、「え」は基本的には「えた」である。

本来「え」は「蝦」と解されても良いように思うかも知れないが、「蝦」は権力者の言語であり、これと民衆が使う「え」は必ずしも同義では無かった。
「おじにん」の初期はこの「え」と同じで、「人非人」を語源としている可能性が高いが、「おじ」には「引く」と言う意味や「足りない」と言う消極的な意味が有る。

そこには家長が持ちえる全ての権限に対しての劣性が有るのであり、この劣性と階級差別用語が組み合わされている可能性が高い。

一般的に「叔父」や「伯父」に対する意味は現代でこそ統一されているが、その昔は「叔父」と「伯父」でも席順が違い、ましてや長く続いた武家社会の家制度上の「叔父」と一般大衆の「叔父」は概念の違いが存在していた。

この事から「おじにん」の「おじ」は必ずしも「叔父」と同義ではないが、それが組み込まれた部分を持っていて、「劣った者」と言う蔑みや「鬼」、「え」の発音が持つ「何かが足りない」と言う意味を持っていた。

大体「あ行」の発音は一つ及ばないか、一つ余計になる事の意味を持つ発音であり、「あ」は「準」、「い」は「止め」「う」は「弱い準」「え」は僅かながら致命的な不足、「お」は「あ」の逆の意味での準である。

それゆえ「おじにん」の本体は「お」を半透明に含んだ「じにん」だが、これは一部の古い文献では「土蜘蛛」を意味する場合が有る事から、弥生後期には成立していた差別用語とも考えられるが、「おじにん」の歴史はそれほど古いものとは思われない。

おそらくは古くても戦国時代、場合によっては江戸中期に成立した言葉のように思われる。
このように初期から使用範囲が劣性にある言葉の寿命は短い場合が多いからである。

私がこの「おじにん」と言う言葉を最後に聞いたのは1973年だったが、その言葉を使っていた老人は、何度追い払っても自分の顔に留まろうとするハエに対してこの言葉を使っていた。

老いた男性とハエ、そしてこの「おじにん」と言う言葉の持つ、どこか理不尽なものに対して抵抗が叶わないようなニュアンスが何故か今夜は鮮烈に蘇ってくる・・・。

[本文は2014年1月14日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

「ふくべに遭う」

新潟県、富山県、石川県、福井県の主に山間部地域だが、「ふくべが来る」若しくは「ふくべに遭う」と言う言葉が存在した。
ここでこの言葉を過去形にしたのは、既に相当年齢を重ねた者でもこうした言葉を使わなくなった為で、「ふくべ」と言う、どこかで「福」に通じるようなこの言葉の持つ意味は意外な事に「禍」である。

「ふくべ」とは瓢箪(ひょうたん)「夕顔」(ゆうがお)の別称で有り、瓢箪は禍福どちらにも転ぶものとされ、その因は中の空洞に有る。
古来より日本では空いた空間、穴や空洞には「霊」が宿ると考えられた事から、瓢箪は吊るして措けば魔除けになるが、家の庭に植えると禍(わざわい)をもたらすものとされてきた。

またこうした「瓢箪」や「夕顔」の皮が持つ堅さに対する表現は、その堅さをして他のものにも転用され、表皮の堅い果実なども「ふくべ」と呼ばれる事が有り、こうした経緯から漠然と「成熟」を過ぎたもの、「老い」すらも過ぎたもの、元は用を成したもの乍それが邪魔になってきたもの、或いは人が何かに執着し過ぎて人としての在り様すらも過ぎてしまった、言い換えれば「付喪神」(つくもがみ)を表現していると考えられる。

宴席や人の饗宴などでは、基本的には招待した客に楽しんで行って貰いたいが、それにも限度と言うものが有り、例えば後片付けすら出来ない遅い時間まで、周囲の客がいなくなっても残って酒を飲み続けたとしたら、どこかでは招待した家の人から「早く帰ってくれないかな・・・」と思われてしまう。

この邪魔に思われてしまう事を「ふくべが来る」と表現したのであり、ここでは適当な時間帯までは歓迎されるが、過ぎれば邪魔に思われる為、そうした思いを人に抱かせてしまっては、その時はもとより後々も禍となりかねないゆえ、招待した家人が「どうぞまだ宵の口ですよ」と形而上引き止める言葉に対して「いやいや、これ以上お邪魔するとふくべが来ると困るので帰ります」と返した訳である。

またここからは高齢者の方には辛い話になるかも知れないが、こうした北陸の山間地のような所は貧しく、為に過ぎたる事を「宿悪」と看做す部分が有り、「ふくべに遭う」と言う表現は長生きを善しとはしない表現である。

この背景は貧しさと、生活体系の不安定さにあり、打ち続く飢饉や武家公家社会では一般大衆や農民の明日など常に風前の灯火だった現実がそれを物語っている。
即ち蓄財し、孫にまで囲まれて幸せに暮らしていたとしても、その次のひ孫が病弱でせっかくの蓄財も薬代に消え、それが基で家族が互いにいがみ合うような地獄が訪れないとも限らず、また自分は長生きだったとしてもその子供が先に死んでしまえば自身の生活も困窮する。

適当な時期に死んでおけば幸福な一生だったのに、長生きした為に地獄を見てしまったと言う場合、「ああ、ふくべに遭ってしまった」と嘆いたのである。

だがこれは何か努力して避けられる事だったかと言えばそうではない。
それもまた天の定めである事から、私はこうした場合を「宿悪」と表現する事にしているが、一方順風満帆な人生を人に誇り、そこで奢った在り様の無きように戒める意味も持つかも知れない。

「ふくべ」は基本的には「禍福」である。
その途中までは有用だったものが、時期が過ぎれば邪魔になる。
これは日本人が持つ古神道の考え方で、道具や家畜に対する畏敬の在り様を示していて、その例が「とが」と言う言葉である。

栂(ツガ)の木は別名「とが」と言い、この謂れは「咎」(とが)にある。
磔(はりつけ)などの処刑にはこの「栂」の木が多く用いられた為、「栂」の語源は「咎」に有るとされていて、古い時代の日本では「とがになる」とか「とがにしてしまう」と言う表現が存在したが、これは「他に罪を犯させるような行為を自分がしてしまう」、「その存在を自分が凶にしてしまう」と言う意味である。

即ち猫でも犬でも邪険に扱えば、やがては人に警戒心を持ち危害を加えるようになる。

いつか咎めを受けるような存在にしてしまうから、大切に扱いなさい、労わりなさいと言う意味であり、これがもっぱら道具や家畜などに対して使われる場合は、それらを粗末にすれば道具達は祟り神になってしまうと言う意味だった。

そしてこうした道具や家畜に対する畏敬の念が「付喪神」「九十九」(つくも)の考え方で、「九十九」は基本的に長く存在したものの意味である事から、日本人は長く存在した道具や家畜もまた神と考え、しかもそれが元は道具や家畜である事から、途中までは「福」にして、過ぎれば「禍」としたのであり、一般的に道具は使われなくなると「禍」をもたらす忌み神と考えたのだが、「忌み」はまた畏敬をも含んでいるものなのである。

鎌倉時代に日本の道具は格段の向上と生産増加を果たすが、その影でそうした道具が粗末に扱われる事を戒める思想もまた発展した。
それゆえ安土桃山時代までは「付喪神」も信仰されたが、これが江戸時代に入り大量消費と共にリサイクルシステムが発展した結果、消費に対する罪悪感が薄れ、そこで現世ご利益の有る神仏信仰に主体が移って行き、言わば後始末的、過去的な「付喪神」信仰はどんどん影を潜め、それが残ったのは貧しい地方の山村だった。

「ふくべ」は基本的には瓢箪だが、このように複雑な意味を包括し、尚且つ人々がこの複雑な概念を皮膚で知っていた訳である。
振返って現代日本の言葉を鑑みるなら、どんどん一つの言葉が一つの意味しか為さない、文書化できる言葉になってしまってきている。

10年後には「ふくべに遭う」と言う言葉の解釈が、言語学者によって「瓢箪 や夕顔に遭う」事だと真面目に解説されるのかも知れない・・・・。

[本文は2014年1月10日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]