「それは始まっている」

因果律に措ける因と果は基本的にはひとつの流れで有り、これに境界を観る事は難しい。

人間は結果を一つの独立した形として認識する場合が多いが、結果に至るまでに既に結果の60%から70%が完成されていて、結果はある種のセレモニーと言う事が出来るかも知れない。

軍事戦略で、もし完全な作戦が出来たとするなら、その作戦が出来上がった時点で既に結果は決定していて、各作戦はそれぞれが小さなイベント、そして敵地占領など目的が達成したと言う結果は、結果と言う式典にしか過ぎない。

ちょうど透明な水に赤いインクを落として行くと、最後は真っ赤な水になるが、その赤さは急激に現れるのではなく、少しずつ濃度を増して最後は真っ赤になる。
だが真っ赤になる事は赤いインクを落とし始めた時点で、既に結果に繋がる流れなのであり、赤いインクを落としながら青い水になる事は有り得ない。

この事からこうした現象を逆算的に見ていくと、赤い結果に繋がる現象が現れ始めた時から、青い水になっていく方向へとは向かわないのであり、それから以後も赤い水に向かう兆候が多く出てくる場合は、まず間違いなく赤い水になると言う事になる。

つまり赤い水の兆候は真っ赤な水に至る道程なのであり、この意味に措いては結果となる真っ赤な水は瞬間ではなく、その結果に流れる方向性の完成と言う事になり、結果を連続する近似値の集積とするなら、赤い水に至る道程全てが結果の破片と言う事が出来る。

従って赤い水の兆候は、結果の断片が既に出始めている事を意味し、連続する近似値の不均衡から赤くなる速度に変化が有るとしても、必ず最後は赤い水になる。

何の話かもう解った方もおいでかと思うが、そうギリシャのデフォルトの話で有る。
元々友人同士で金が無い時、お互いが金を都合してやり繰りしていた、その状態を町内会全体に適応したらどうなるか、結果は初めから見えていた。

同じ町内会でも資産家もいれば生活費にすら困窮している家庭も有り、ギャンブルが好きな者も居れば堅実な者も居る。
これらが統一したルールを作って、金のやり繰りを始めたらどうなるか、考えてみれば一目瞭然だろう。

ギリシャの債務不履行はヨーロッパ経済共同体が発足した時点で、もう結果は見えていた。

そして例え今の危機をしのいでも、それは連続する近似値の不均衡にしか過ぎず、最後のデフォルトは必ず訪れる。
ただ時間の問題にしか過ぎず、現実にも既に国有資産の売却が始まり、債務超過から国内で支払われる金が底をついている。

これはデフォルトが発生しているのとほぼ同じ結果をもたらしていて、尚且つ融資されるべき資金はギリシャの財務状況改善を担保としていて、この担保になる財務改善計画の逆方向の政治性を持つ政権がギリシャ国政を担っている。

ギリシャ国民の生活はもはや国内政治では担保されず、ヨーロッパ諸国が握っていると同じことで有る。
既にギリシャの現状は、債務不履行を起こした国家が被るべき現実と同じものを発生させ始めていて、ここではデフォルトは最後の形でしかない。

デフォルトは債権国に対する形で有り、ギリシャ国内では例えデフォルトに至っていてもいなくても、既にその兆候が始まり、現実にはデフォルトを起こした場合の30%程度の困窮が発生してきている。
赤い水になる最後の結果へと確実に向かっているのである。

それゆえ例えヨーロッパ共同体とギリシャが歩み寄って、今月末に返済期限の来るギリシャの債務に融資が行われたとしても、ギリシャ国内的にはデフォルトの30%ほどの苦しみが延長され、その先はデフォルトと言う苦しい状況が回避されない。

経営危機と破綻の兆候は違う。
ギリシャのそれは間違いなく破綻であり、こうして最後は破綻を迎えるなら、早い間に破綻させて再生を目指すのが経済の鉄則と言うものだ。

借金に対してちびちびと金を貸して長引かせても、その当事者の苦しみが長引くだけであり、この場合の破綻は破綻者と債権者相互に取っての解放に繋がる。
また小さな問題を避けようとするなら、その先には更に大きな問題が待ち受け、問題は放置すると先へ行けば行くほど解決が困難になる。

絶望と不安を今日も明日も続けるよりは、私なら厳しくても破綻を望むだろう。

そして日本のGDPに措ける国の債務比率はこのギリシャよりも遥かに大きく、政府はこれをのらりくらりと逃げながら財務状況の改善を全く行っていない。

バブル経済崩壊以降、我々一般大衆の暮らし向きは一向に良くならず、その苦しみが続いているのは眼前に広がる厳しい現実から逃げているからであり、この責任は日本の為政者のみならず、国民も免れるものでは無い。

現実から逃げた者は、結果として必ずその逃げた事に対する代償を求められる・・・。

[本文は2015年6月17日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

「傘をさす」

ストレスは外的要因、心的要因のどちらでも発生するが、人科生物ではストレスが無い状態の時、自身が理由も無くストレス要因を作る、比較を行いストレスを探すと言う行動を起こす場合が有る。

この事から適度なストレスは必要性が有って発生しているものと考えられ、現代生物学、精神医学の世界では良いストレスと悪いストレスが在るとしているが、これらは本質的に善悪の判断と同じ事であり、どこまでが良いストレスか、どこから悪いストレスかの認識は個人に拠って異なる為、本来分離して考える事の妥当性は無い。

恋愛中の男女が言葉の行き違いで苦悩するのも、金策で苦悩するのも生体の反応は同じだからで、ただこうした現実をストレスとするかしないかと言うところがキーワードになる。
例えば運命の等価性を信じる人では、良い事が有った場合でも次には悪い事が起こるのではないかと心配し、そもそも運命もその等価性も信じない人は素直にこれを喜ぶ。

一方こうしたストレスの必要性に付いてだが、ここからは世界的な学説ではなく、私の推測になるが、「居眠りを防ぐ」為ではないかと考えられる。
平板な道が延々続く道を車で運転していると、天気が良ければだんだん眠くなってしまい、しまいには目的地に向かうと言う気力さえも失われてしまう。

しかしこれが曲がりくねった道で時々障害物などが有れば、まず眠ってしまう事は無くなる。
つまり人類や生物に取ってストレスが必要になる原因は、生きる事に付いて居眠りしない為の防御機能では無いかと考えられるのである。

遠い目標を目指すのはとても困難なものだが、それが階段のように小さく小分けされていれば気力を失いにくい。
この階段の役割を負っているものがストレスではないか、そう思うのである。

またこれはノルウェーの動物学者「Thorleif Schjelderup Ebbe」(トルライフ・シェルデラップ・エッべ)が発表した「Peking order」(ペッキング・オーダー)と言う説だが、ストレス解消の方式に関する劣化転換が動物界にも存在し、この意味では人間社会で悪と見做されている「いじめ行動」は動物の一つの本能かも知れない。

ニワトリのツツキ行動に関して、ニワトリの群れにはグループ順位が有り、Aと言う最高順位グループ、次席のBグループ、最下位のCグループが存在し、これはメスの獲得順位で有ると共にエサの獲得順位でも有り、ツツキ行動の順位にもなっている。

Aグループの鳥はBグループのニワトリをツツき、Bグループのニワトリは最下位のCグループをツツくが、最下位のCグループはツツく相手がいない、それで地面をツツくのであり、エサもないのに地面をツツいているニワトリはこのCグループなのである。

だがこれは生物界に措ける一般的な在り様であり、幼児同士の世界でも、大人の世界でも世界観が狭窄すると同様の傾向が出てくる。
広義ではいじめの連鎖の最下位に在る子供は地面、つまりは社会に訴えを起こさねばならなくなるのも、この範囲かも知れない。

従って怪我や殺人など実損害の発生しない、軽微ないじめの連鎖行動は生物界自然行動の範囲なのかも知れないが、人類はこうした部分の不都合を全て悪とし、撲滅しようとしてきた。

この点では人間社会は自然の中で傘を差して、自身らの文明社会を守ろうとしてきたのだが、人間社会の考え方と実際の自然の厳しさには隔たりが有り、文明の歴史が長く継続されると既存に絶対性が発生し、現実の厳しさは忘れられる。

為に今度は差している傘の中で矛盾が発生してくる事になる。
傘の差し過ぎ現象が現れてくるのである。

ニワトリの群れで言うなら次席順位のニワトリが最上位のニワトリに対して、その最上位ゆえにいじめを発生させ、それが順位決定さえ確定すれば後は問わないと言う許容性を失わせ、報復を恐れて苛烈な攻撃になる。

またこうして発生してくる苛烈ないじめの蓄積は絶望感を発生させ、それによって自殺するか、相手を殺すかと言うところまで追い込まれた状態が発生し、こうした傾向が蔓延すると、目立つ者は全ていじめの対象になり、一方人間を問わず他の生物でも自身が支配権を持つ場合は、そこに生物としての最低限の責任が存在するが、傘の存在はこうした責任の部分を幼児期に戻す役割を果たし、結果として自分が支配した対象者の命の重さが理解できなくなる事になる。

幼児期の子供は残虐性を持っているが、これは生物の幼少期の共通本能であり、成長してそれぞれの社会や世界観が出来上がると、全ての動物はその社会に従った生き方をするが、人間は幼少期から傘の概念、親が独善的な傘の概念を持っていると、幼少期の本能が成長してからの本能に乗りにくくなり、結果として目下の者を残虐に殺す少年少女が発生してくる事になる。

そして一番重要な問題は、学校と言う教育現場が児童生徒には細部にわたって校則を設け、それを厳しく守らせながら、こうした際限のないいじめや幼児性本能を引きずった非行型のいじめ、暴力に対して何ら抑制手段を持っていないと言う点である。

暴力こそが力で有ると学校が認めているようなものであり、では児童生徒らが守っている校則は何かと言う部分との整合性を失っているのであり、その矛盾した学校と言う社会がいじめを増長させている側面を持つ。

人の希望とはその反対側の事実が存在するからこそ発生するもので有り、ここで眼前の事実をしっかり見ていない希望は、おそらく将来の更なる大きな絶望になる。

教育が難しいのは親の代の誤りが、その子供の時代に問題となって現れるからである。

[本文は2015年6月15日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

「調和の限界」

水の入ったバケツにサラダボールを浮かべ、それを手で押してやると、サラダボールを押した力に比例してバケツの内側の水位は上昇する。
サラダボールがそれまで水が占有していた場所を新たに占有し始めた結果、力学的にその量で有れば人間の力に及ばなかった水が押しやられ、そして水は全体の水位を上昇させてサラダボール分の他の空間を確保せざるを得ない事になったのである。

このように宇宙空間はともかく、地球上では必ず何らかの原子や分子、それらで構成された分子ユニット、つまり物質や生物が隙間無く存在し、自身存在の証はその空間を占有している事によって成り立っている。

簡単に言うと空いた席は無いので有って、何かが欠ければ必ず他の何かがその欠けた空間を占有する仕組みなのである。

そして物質や原子のこうした有り様は人間の精神構造、感覚、社会と個人の関係に措いてもまったく同じ構造を示していて、しかも精神構造や感覚などと言った空間的制限の無い世界ではこれが複雑に絡み合い、物質世界の占有より激しい占有争いとなっている。

以前、ケインズの経済論は人間の劣化を考えていないと言う話を、アイスクリームを差し入れる社長の例で記事にした記憶が有るが、社員の事を考える優しい社長が善意で毎日アイスクリームを差し入れると、やがてその事が標準化し、いつか風邪で寝込んだ社長がアイスクリームを差し入れることができない日が訪れた時、社員は元々は善意だった事を知っていたものの、それを忘れて「今日はアイスクリームが来ない、おかしいじゃないか」と言い出すようになる。

つまり社長の善意はやがて社員たちの権利に近い状態にまでへこまされ、社員たちはアイスクリームを差し入れてもらう権利にまで自身を拡大して行くのだが、当然この反対も存在する。

会社の為、公共の福祉の為、世の中の為と言う善意は、それを被る対象が漠然化している為、初めから結果は見えない。
しかしその善意を施す個人の労力は現実の自分が被る労力提供であり、公共の福祉や公共に対する善意とは、政治が執行された政策に対する自身との調和の一端である。

例えば看護士を例に取るなら、勤務時間は決まっているはずで、当然昼食時間や昼の休憩なども規定されているだろう。
しかしその休憩時間に救急患者が搬送された時、看護士の眼前には人の命と言う自身の権利とは比すべくもない現実が現れる。

人として、看護の精神として自身の権利よりも患者の事を考える看護士は、その善良さゆえにやがて休憩時間も昼食時間も無い勤務体系が標準化し、急患でもないケースでも「彼女はどうした」と言う事になっていく。

これが元々看護士の足りない病院なら、看護士の善意、看護士が持つ社会システムとの調和の精神ゆえ、本来社会や制度がこれを整備しなければならない部分までも看護士がこれを負担し、しかも恩恵を被る対象が漠然化している為、看護士の善意は社会システムの中に埋没して標準化する。

文句が出ない間は、現行の運用が容認されて行くのであり、これが個人の善意に侵食する社会の甘え、怠惰と言うものであり、小さくは2人以上の集まりから大きくは国家まで、それが作り出す制度や慣習の在り様は全て同じ構造となっている。

個人の人間性や善意は公共の怠惰を呼ぶのであり、公共の怠惰とは政治や行政の怠惰の事である。

鳥取県立鳥取養護学校の非常勤看護士6名が2015年5月22日の授業終了後、揃って辞表を提出した出来事は記憶に新しいが、これが調整、政治とその執行である政策と、個人が調整に対して示せる調和の限界点の一つの形であり、こうした事が一つでも発生してくると言う事は、その行政区自体がもう限界になっていると言う事である。

元々看護士等が持つ人命救済、疾患者擁護の精神はもっとも強い善意、もっとも強い調和の精神を持っているが、これが「もうだめです」と悲鳴を上げたと言う事は、その行政区が最後の砦も失ったと同義であり、養護を受ける側はそこに権利を意識し、だが実は看護士の数は足りず、現存の看護士の社会的責任感、仕事に関する責任感によってこれがカバーされていた。

つまり本来は行政が対処しなければならない看護士不足を、現存の看護士たちが道義的精神でカバーし、これで何とかなっている間は行政は黙っている。
なぜなら政治や行政は調整だからで、何か声が上がらない限り動かないのである。

この意味では行政は初めから怠惰にしか方向性を持っていないのであり、ここに看護士たちの責任感や人間性は吸い込まれ形をなくし、一方養護措置が遅れれば生徒の親たちから「何をやっている」と責められる訳である。

ここに調整に対する調和の精神は瓦解するのであり、形は違えど社会に生きる我々は同じような命題の狭間で葛藤している。

善の善なるものは形を持たず、光を持たない。

普通の事が普通に動いていくだけだからだが、その普通が普通に動いていく影には称賛される事もなく、時には人から悪く思われたとしても、我慢して笑っている者がいるからこそ普通が普通に動くのである。

この社会は政治や経済だけで動いているのではない、一人一人の小さな善意が社会を普通に動かしているのであり、経済もまた大企業と政治だけで何とかなっているのではなく、何も言わず働き、苦しい中から税金を払っているサラリーマンやパート主婦達がいて、彼らが生活する事で経済が成り立っている。

これをして調和の極みと言わずして、他の何が極みと成り得ようか・・・。
日本は今急激に調整や調和の方向を高齢化社会に向かわせている。
そしてこの中では形無き多くの善意が動いて普通が何とか維持されている。

善意を施した者はそれを忘れないが、施されたものはそれをすぐに忘れ、善意の継続はやがて対象者に権利意識を発生させる。
そして善意が権利意識に変換され始めた瞬間こそが調和の限界点であり、既存社会システムが崩壊し、新たなる調整を必要としていると言う事かも知れない。

我々が権利と考えているものの要素は決して単体ではない。

知る由も無い人の善意もまた、そうした要素の一つかも知れない事を思い、自身の権利の前では謙虚である事が求められている。

[本文は2015年6月11日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

「少数決」

「多数決」の原則は「調和」であり、「調整」に準ずるかそれに匹敵する政治的解決方法と言う事が出来るが、これは「公正」と言う権利の「平等性」に拠って担保される一つの形式的手法であり、そこで決定された事が正しいとも誤りとも、これを担保しない。

つまり多数決は問題に対する一つの解決手段であり、これに拠って公正な手法で総意は決せられたが、その内容は多数決で決まったから間違いないとは言えないのであり、この点で言えば多数決の原則はパソコンのプリンターのようなものであり、それに拠って出力された文書内容の正統性は担保されない。

プリンターが担保するのは起草された文書を間違いなく出力したと言う、その事実のみで、この信用性をして文書内容の正統性が担保されない。
そして日本に措ける憲法議論は、こうした多数決の正統性に対する認識に近いものを憲法曲解派、護憲派ともども勘違いしている点に悲劇の黎明を持つ。

多数決で決せられた事も、最後まで少数意見だった事も、その初めはみな発生してきた問題に対する少数意見を起源としていて、政治的社会的な不都合、受けるべき利益、平等、自由、権利と言う社会的仮想合理性に関し、問題が発生した場合のそれぞれの考え方から始まっている。

こうした相互の利害の延長線上に崇高な理想が求められるが、多数決で人々が多数に向かう背景には、崇高な理想だけではなく、人間関係や利害関係、個人の事情も含まれて多数意見に集積が始まる事から、実際に多数決で決せられた事項の運用に関しては曖昧性が付託していて、ここでは事情に応じて決せられた大義の中で解釈の拡大性を持っている。

多数決の中で少数意見を反映させると言う事は、こうした事も加味される事を言うのであり、ここで決せられた大義の解釈の妥当性は多くの人の「容認」によって担保され、結局多数決で決められた事とは最低ラインであり、その端末に行けば多数決以前と何も変わっていないのである。

人間社会が持つ理想とはプリンターのようなものであり、絶対性、完全な平等、完全な自由が求められている事から、それは現実に一致しない。
従ってこうした「容器」の中身、解釈は相変わらず個人の判断の範囲を出ず、ここで一部の権威者が自身等の解釈を強行した途端、多数決の手法そのものが崩壊する。

多数決の中で曖昧性を持って運用されていた事柄の輪郭をくっきり引いてしまうと、多数決そのものが無意味化し、多数決以前、つまりは意見が対立していた混乱の状況に逆戻りしてしまうのである。

日本国憲法を担保しているものはその権威だが、権威を認めているものは日本国民であり、この意味では日本国憲法を担保するものは日本国民しか存在しない。
そこであらゆる考え方が混在した日本国憲法と言う容器の中で、自身の意見のみを強行しようとする内閣が存在した場合、これは専横、準独裁となってしまうので有る。

日本国憲法が持つ権威と、内閣や国会が持つ権威の質は異なる。

この状況で内閣が独自判断を強行した場合、日本国憲法を超えて内閣が権威を発揮している事になるが、そもそも憲法は国家の基準であり、これを超えて権威を主張する事は憲法そのもの、容器そのものを否定し、為に国家が混乱をきたす事になる。

ましてこうした事態に、細かい枝則と言葉に逃げて解釈の拡大を主張するは、多数決で少数意見が乱立し混乱状態になっている、そこを異質の権威、武力で蹂躙したようなもの、力に拠る少数決となる。

国会や内閣は「手法」であり、こうした手法自身が自らの存在理由である「手法」を蔑ろにしてその権威は保てない。
安倍内閣の憲法拡大解釈は既に自身の権威を貶め、唯ひたすらに内閣や政治家が持つ権力の恐怖性に頼っている、或いはそれを実体以上に大きな力と信じているような愚かさが見える。

憲法は一つの思想、理想で有るから、時代の変遷と共に、または発生してくる現実に有っては調和が必要になってくるのは何等不思議な話ではない。
この場合はまた多数決、もう一度国民に意見を求めて、大まかな枠組みを創り直せば良いだけの事だ。

これを恐れて逃げ、多数決の原理やその枠組みを壊せば、枠組み自体が権威を持たなくなる。
「権利の平等性」は失われてしまう。

多数決は意見の調和であり、政治は意見の調整である。
国家の名の下に自身の思想だけを反映させようとするは、既に政治の範囲を超えている。
安倍内閣は世界的な一つの秩序である民主主義を蹂躙し、国家の為、日本の為、国民生活の安定の為と言いながら、これらの基本的な部分を崩壊させている愚かさに気付いていない。

そして国民もまた、どうしても文書に重きを置きがちだが、実は文書など何度でも書く事が出来るし、内容も如何様にする事も出来るが、プリンターがなければ、或いはそれを表示してくれる機物が無ければ、事は成立しない事実を認識する必要が有る。

憲法の内容など何とでも書けるが、これらを決定する為の枠組み、国民も政治家も共通するフレームを失っては、そもそも憲法を形にする事が出来ず、権威も担保されない。

改憲、護憲、様々な意見が有って憲法は成り立ち、この中で自身の意見を発言する事は重要な事だが、政治は調整であり多数決は調和である事に鑑みるなら、政治家はまず調整の努力を行い、国民はこうした調整と自身をどう調和させるのか、そうした努力こそがまず先決であり、対立する事をして、壁を設ける事をして自身の正当性を主張したり正義を実証しようとする事は、少なくとも国家と個人の利益にならない事を思うのである。

唯、調整の本質とは奇数の物の1つを、2つに分けた偶数のどちらかにくっつけて時をしのぐに同じであり、この点では永遠のものではなく、それはどこかで別の調整が必要になる時の種を撒いているに等しい。

調整に対する調和が限度を超えれば、社会は怠惰になるが、長くなるのでその話は次回と言う事にさせて頂こうか・・・。

[本文は2015年6月10日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

「おかしい、誰もいない」

怪しい話の大家を目指すと豪語した者としては、この手の話を避けて通る事は人が許しても自分が許せまい・・・。
今夜は2015年6月2日、JR茅ヶ崎駅の線路上で起こった怪奇事件を記録して措こうか・・・。

6月2日、午後8時16分頃、そんなにスピードは出ていなかったものの、前方の駅を確認した電車の運転手は一瞬我が目を疑う。
何と線路上で子供が遊んでいる姿が目に飛び込んできたのである。
電車の運転手は急ブレーキをかけ、電車は急停車した。

そして慌ててJR茅ヶ崎駅の駅員達と運転手は子供を捜すのだが、子供の姿はようとして発見されなかった。
「少し疲れていたんじゃないか・・・」
駅員達の中からはそうした声も出てきそうな雰囲気だったが、これを払拭したのは駆けつけてきた茅ヶ崎駅で電車を待っていたほかの乗客達だった。

「確かに線路上に子供がうずくまって遊んでいた」と複数の目撃者が証言したのである。
だが、こうした経緯から駅に備えてある監視カメラの記録を調べたところ、監視カメラの記録にはどこにも子供の姿は写っていなかった。

結局ネット上では、数年前に茅ヶ崎駅で死亡した子供の霊だったのではないかと言う噂が広まったが、実はこの手の怪現象は記録に残っているだけでも10年に8件の割合で発生していて、乗務員や関係者が報告しなかったもの、記録に残せなかったものを含めると、推定だが年間10件程は発生しているものと見られ、その内60%が乗務員1名しか目撃していないものの、40%では複数の人が同じ人影を目撃しているのである。

私が同様の怪現象を記録したのは2010年8月1日、石川県野々市で発生した事件だったが、ここでも停車駅ではない野々市駅のホームから男性が落ち、それを特急電車が撥ねてしまうが、探しても探しても男性どころから血痕すら発見できず、その後運転手の見間違えと言う事で事件は解決されたようだ。

また変わった事件としては昭和49年(1974年)、山陰境港行きの最終列車に乗っていた乗客4人が全ていなくなる事件が発生し、境港付近で車掌が確認していたにも関らず、終着駅には誰も降りてこなかったのである。

この事件でも結局車掌の見間違えだろうと言う事になったが、その後も何回か同様に男性3人と1人の女性が列車からいなくなる怪現象は続き、関係者の間では結構有名な話になっていた。

更に1991年に破産したパンアメリカン航空から流出した非公開資料では、1938年から1985年までの間に、少なくとも37人が飛行中の航空機の中から消失している事が記載されていたようで、この内24人が乗客名簿に名前が記録されていながら、その後全く消息を絶っていて、残りの乗客に至っては搭乗記録にさへ名前が載っていない。

男女の比率は解ってはいないが、少なくとも9人は女性で、しかも消失した乗客は40代から60歳代くらいの人が多かったようだ。
統計的には2年に1人が飛行中の航空機から消息を絶っている事になるが、この手の事件もやはり世界的には、1年に数件は発生しているのではないかと考えられる。

そして自動車でも同様の事例は発生していて、いきなり飛び出てきた人を撥ねてしまったが、その後幾ら探してもその撥ねられた人が見つからず、警察が捜査した事例も存在する。

死体の隠蔽を疑った事例も存在したと言う事だが、大概の場合撥ねた痕跡、自動車の凹みや破損、血痕そのものすら存在しないしない事例が多いが、中には実際に車が凹みながら死体や負傷者が見つからない場合があり、これは鉄道の怪現象でも時々発生している。

未解決事件の中には、国道を横切る男性を撥ねてしまった自動車の運転手が救急車を呼び警察に通報し、駆けつけた警察が事故調査を始めたら、自動車の下からもう一人の全く別の男性の遺体が発見され、その遺体の死亡推定時刻は1ヶ月前、しかも身元は最後まで不明のままだったケースも有る。

1983年、広島市郊外の踏切では遮断機が降り、列車の通過を待っていた自動車の列を、後ろからやってきたパープルのTシャツにジーンズ姿の、自転車に乗った女性が横から追い越して踏み切りに進入、そこへ列車がやってきたが、列車が通過後、複数の自動車の運転手達は何事も無かったかのように、まだ遮断機が降りている向こう側を自転車で走るパープルのTシャツにジーンズ姿の女性を確認していた。

そしてこうして事故後、死体や負傷者が見つからないケースの反対側も存在し、電車事故でも自動車事故でもごく稀に血痕や肉片が車体に付着し、車体の一部が破損しながら運転手が全くそれを確認していないケースも有り、ただしこうしたケースでも死体そのものは見つからず、何か動物でも撥ねたのだろうと考えられているが、実際に血液鑑定をしてみれば、或いは人間の血と言うケースも存在するかも知れない。

人間の視覚のキーワードは「3」と言う数字である。

最も安定した基本的な構図の形態は「3点」であり、これは写真でも絵画でも基本中の基本だが、同時に近い部分で3つの点が存在すれば人間の顔を認識し易く、偶然でも他の事情でも自分が認識していない事柄が3つ重なると、人間はそこに何らかの「意志」を見てしまう。

こうした怪現象を唯不思議な事件と片付ける事は容易いが、実はそれぞれの事情を持った3人の人間が集まれば、それらの事情が複雑に絡み合い、世の中が暁天するような事件が瞬時に発生する、と言うような事も意外に多いのかも知れない・・・。

[本文は2015年6月8日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]