「権力」

国家はその領土に措ける全ての個人または集団に対して絶対の支配権を有し、他の一切の法的支配、または制限を受けないとする概念、これを「主権」(sovereignty)と言うが、事実上この地球に「主権」なるものは存在し得ない。

「主権」の元々の概念は「支配権」だが、そのむかし全ヨーロッパを支配する教会権力に対し、また領土内に細かく分散された形で存在する支配権、つまり封建社会に措ける貴族等の有力諸侯に対しても、こうした「二重構造権力」や「小さな権力」を統合し、一つにまとめて絶対的なものとしようと考えた「絶対主義王制」が、これらの支配権者たちと戦いながら、近代国家樹立の礎となって行く際の理論的な「概念」または「観念」となったもの、これが近代の「主権」と言う概念の始まりである。

従って教会支配、貴族支配から脱した当初の「絶対主義王制」は、基本的には「権威」と「権力」の双方を有していたが、やがて国家の主権が国民にあると言う「国民主権論」が提唱され始めると、では国民とは誰を指して、国民の意思はどのようにすれば確立できるのかと言う問題が発生し、近代の憲法や政府などの有り様、また代表選挙などと言った一連の手続きは、そこに不明瞭ながらもこの「主権」を概念させるものとなって行ったが、本質的なことを言うなら「主権」と言う概念は「国民」などと言う複数広範な存在に有っては成立しない。

また国際社会に措いては「国家主権」「主権国家」の絶対性が主張されるが、現存する世界中の国家は条約による拘束、経済的依存関係や武力など、あらゆる目に見えない制約の中にあり、「国家主権」に近いものを主張できる国は存在しても、その国家が主張する全ての事案に措いて、同国家の主権が完全に認められることは有り得ず、そうした国家も存在してない。

主権国家間の主権の絶対性はひとえに、その主権を認め合える国家間の対等性によって担保されるが、あらゆる国家間での対等性などは、その主権を論じた時点で消失する概念と言える。

そして「政治」(politics)とは対立を調整する、その技術のことであり、この意味では存在する全ての対立が調整を必要とするものではなく、たとえば大根を安く買いたいと思う人と、これを高く売りたいという人の関係は「利益」と言うものを巡る「対立」だが、これを調整しているのは需要と供給の調整役である「市場」であり、この点に措いては「政治」は必要とされない。

つまり政治とは他に適当な調整機能が存在する場合は、それに干渉してはならないのが原則になる。

しかし人間社会に完全な「公正」や「平等」と言うものは存在せず、例えば身体に障害のある者や、生産の技術は有っても商取引に慣れていない農家などが、一方的に不利な状況におかれた場合、彼らから保護の申請が行われた場合、これを調整する機能は市場には無く、従ってこうした「対立」に措いては政治がその調整を行わなければならない。

その上で政治の手段は何かと言えば、これは「権力」である。

だが権力と言うものは、一面それを恐れて相手に絶対服従しなければならないものかと言うとそうではない。

その権力は、権力によって支配を受ける者の承認があって始めて成立するのであって、服従する者が服従することを正しいと判断し、進んで服従することが権力には必要になってくるのであり、これが暴力で成されたり、何らかの脅威によって相手を服従させた場合は、小さくは恐喝、大きくなればそれは「武力」による支配となり、これは「権力」とは相容れない概念となる。

それゆえ「権力」には、そこにその権力が正しいものであると相互が認め合える考え方が必要になり、これを「権力の正当性」と言うが、こうした正当性を担保するものを「権威」と言い、このことは権力を使う者を支持する、または支持するに足る根拠の存在を意味する。

だからこの権威が例えば教会に有れば教会に、また聖典にあればその聖典に誓ってと言う事になるが、「権力」は常に「権威」の存在が無ければ成立しないと言うことだ。

そして先ほど権力と「武力」は相容れないものだと説明したが、厳密に言えば「武力」もこれに逆らわなければ「権威」に近いものになる事があり、こうした観点から人心を得るより手軽な「武力」の権威に対する国際社会の関心は高いが、如何なる場合に措いても人間が自身の命を賭してまで抵抗する場合は、武力はその者に取っての権威とはなり得ない。

すなわち殺戮されても認めない者を認めさせることは、例え神仏に措いても不可能なことだからであり、この意味に置いては武力による「権威」は、唯1人の人間にすら及ばないものでもある。

また権力はその形状をして言うなら、細い糸を束ねた縄のようなものかも知れない。

ゆえに小さな限定された権力はその社会のあらゆる場で存在し、例えば小さな組合の組合長、何らかの会の代表、家庭、学校や経済団体、宗教組織など、広く分散された形でいたるところに存在するが、こうした小さな権力は限定されているだけに特化され、その為他人の意思を押し切って自分の意思に従わせるなど、小さくて深いものが多くなる。

このような権力を一般的には「社会権力」と呼ぶが、こうした権力に一定の地域社会の住民すべてが従うものとしたとき、そこから発生してくるものが「政治権力」と言うものであり、政治権力は最終的には他者を強制する能力に依存したものである。

軍隊、警察、刑務所などは本質的には国家によって組織化された強制力だが、これがむやみやたらと行使されるときは、政治権力が衰退していく兆候でもある。

対費用効果から考えても、従わないものを強制的に従わせるよりは、威嚇して効果が得られればそれが優れた方法であり、威嚇よりも説得して従うなら、それが優れている。

更に言えば、強制ではなくそうした目的が被服従者の自主的行動によって成されるなら、そこから利益すら得られるかも知れないのであり、そこで強制的なものが必要になると言うことは、既にそこから「権威」が失われつつある、つまり多くの者がその権力を認めなくなってきていると言うことなのである。

そして強制力に関しては、一般的に国家の強制力は、正しく有用なものであるとの国民的コンセンサスが得られていることから、これは「権威」としての側面を持つが、こうした強制力が政治権力として個人に集中し、その個人が自身の保身の為にこれを使った場合、国家権力と言えども国民のコンセンサス、つまり「権威」は得られず、その強制力は「権威」と言う正当性を持たないばかりか、既に「恐怖支配」と言うものでしかない。

だがその一方で政治権力に措いてはどこからどこまでが正当で、どこからが私的なものかの区別が出来ない。

それゆえ、国家の強制力と言うものも、基本的には犯罪者の身柄の確保から始まって究極の権威として成立できないものであり、このことは軍隊もまた同じことが言え、政治権力とは実は正当性と言う「権威」を独占した形なのであり、小さいものから大きなものへ、大きなものから小さいものへと、また人から人へ常に移動している「権威」を1箇所に止めてしまった状態を指してもいるのである。

最後に「権力」とは、それを行使する者と、それが行使される者の相互認証、取り分け行使される側の積極的賛同によって、存在しているものだと言うことを忘れないでいて頂きたい・・・。

 

 

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 「権力」

    主論は全くその通りだと思います。

    ニホンザルの群れは数年に一度程度、挑戦者が現れて、闘争して、ボスが変わる事が有るが、独裁者では無く調整者であって、有力者の支持・つまりは群れの支持によって、その地位を維持する。

    翻って、ヒトの世界を見えれば(笑い)・・・

    実際の行使状況・運用は、ずれが発生しているだろうが、電導における現代の一定条件下の超電導と似ているような気もします。
    現在、国際的な権力は突き詰めれば、核兵器を所持行使できることであろうし、国内的には、強制力を行使できる条件が有れば良いのかも知れません。

    日本が同意したわけではないが、連合軍が、フィリピンで本間中将を銃殺にて、山下大将を絞首刑にして、東京裁判では東條大将を、絞首刑にした。

    パキスタンの北西部に広がる、部族地域では、伝統的習慣に基づいて、パキスタン憲法とは或る意味関係なく、部族の意志として権力を行使していて、制裁が行われている風だが、従いたくない者は(冤罪の可能性もあるが)、地域外へ逃亡するが、探し出されて、罰を受けていたらしい。

    1. ハシビロコウさま、有り難うございます。

      古い事で言えば平将門がそうでしょうし、平清盛、織田信長、千利休もそうだと思いますが、形なきものを虚として自身を通そうとしたのですが、しかし民衆やその他の権力は「虚」を信じてしまった。
      今でもそうではないでしょうか。
      安倍政権は無能な事は解っていても、日本は何とかなると思っているし、アメリカが付いていてくれると信じているから、憲法9条は成立している。

      ですがこうしてウィルス感染に世界が侵された状態で国際情勢を見るなら、私達が信じていた諸々のものが「虚」だった事がはっきりした部分もあるのではないでしょうか。
      それゆえこうした混乱が収束したら、今度は地面に根の張った秩序を構築するよう努力する必要が有る。
      それを認識する良い機会となったのではないかと思います。

      コメント、有り難うございました。

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