時は文化13年(1812年頃)の江戸、9月とは言っても残暑きびしい毎日、寝苦しい夜が続いていたが、この年こうした暑さにはぴったりな、何とも不可思議な話が江戸の町をかけめぐり、両国橋に並ぶ茶屋はどこも夕涼みの客でいっぱいになった。 そしてこうした客たちは夜がふけてもいっこうに帰ろうとしない、そればかりか川端をぶらつく人は逆に増えてくる勢いで、皆おしなべてしきりと本所界隈の夜空を眺め、何かが起こるのを心待ちにしていた・・・。 さてその話の真相とはいかに・・・。 この話は当時の江戸でもっぱらの噂になり、講釈師がまたそれに尾ひれを付けて語り、話に油を注ぎ、かくして噂を聞きつけた人達が、一目青衣の行列を見ようと、両国橋にわんさと押し寄せる事とあいなったのである。 またこれが記録に残っている話としては、8月18日の夜、儒学者・多紀貞吉が家の者4,5人を引き連れ、両国橋あたりを夕涼みにぶらついて、そろそろ九つ(午前0時)すぎのこと・・・・良い月夜だが人通りもまばらな広小路にさしかかったときのことだ、お付のものが突然「あれ、あそこに何やら・・・」と言う言葉に皆がそちらに目をやった・・・。 一同は恐る恐るその光を目で追ったが、その直後皆であっと叫ぶことになる・・・、火の玉に少し送れて、奇怪なものがその姿を現したのだ。 女たちは歯がガチガチ鳴って止まらなくなり、男たちにしがみつき、家に帰っても恐ろしさの余り一睡もできなくなってしまった。 1812年・・・この年の9月4日、関東一帯は恐らく台風だと思うが、激しい暴風雨に襲われ、それはこれまでに無い激しさで、大きな被害を出した・・・、そこで人々はこの幻の騎馬の目撃談を、この大暴風雨の前兆と考える向きもあったようだが、こうした奇怪な話は欧米でも数こそ少ないが記録されている。 月夜の夜は気をつけようか・・・。 |
2件のコメント
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富山湾の蜃気楼は、近いところで見られるわけですが、例えば、時差4~6時間のインド~中東あたりの隊商とか砂漠の王子様とお姫様の隊列が何回も電離層に反射して見えるとか(笑い)
人間が最期の瞬間にお思い出深い心象が一瞬で展開されるとき、本人は長い夢の様に感じて、体は苦しいのに、心は楽しく表情に出て枕頭の人々にはそれが笑顔に映るとか、あると聞いたことがあります、段々近づいて来ているかも(笑い)
昔読んだ星新一の短編で、地球が滅びる数日前から、地球数億年の生命が薄い幻灯の様に、小動物から恐竜、哺乳類と展開されていった~~♪見たいな話が有ったように記憶しております。
いずれにせよ、何かが起きているときは、何かの理由があるでしょうが、全て理由が分かるわけでもなく、現下の科学で説明できるわけでもないと、思っております。
ハシビロコウさま、有り難うございます。
この話の正体はおそらく「流れ星」や「火球」だと推測されているのですが、この年異様に流れ星や火球が多かった事が知られていて、それらを火の玉として民衆が恐れ、或いは珍しがっていた事から、その発展形としてこうした話が出来上がってきたのだろうと思います。しかしどう言う訳か海外でもこうした空中を行く人々の話が存在し、その現象の後やはり水害に関する記録がぽつぽつ出てきます。
どうやら昔の人は流れ星や火球の多さを水害に関連付けたのだろうと言う気がしますが、一方でそうした関連付けをすると言う事は当時水害が頻繁に発生していたと言う事なのかも知れません。フランスでは川を白い馬が走ってきて、その直後に濁流がやってくると言う話が地方に残っています。さすがフランスらしいオシャレな感じですが、武田信玄軍の諏訪太鼓の後に騎馬隊が怒涛のように・・・にも似たりの感がします。
もう数日重要な葬儀続きです。
さすがに少し疲れてきた気がします(笑)
コメント、有り難うございました。