「静かに走る馬」

見渡す限り雲一つない晴天、見事な松林を颯爽と駆け抜ける白馬、その馬上にはこれまた凛々しい将軍様・・・ご存知テレビドラマ「暴れん坊将軍」のオープニングだが、徳川吉宗をモデルにしたこの時代劇、実はこの時代ではあり得なかったものが登場している・・・。

いや殆どの時代劇、NHKの大河ドラマでさえ、よく考えてみれば不自然なことになっているのだが、それは何だと思うだろうか・・・。
ちょっとクビを傾げるかも知れないが、それは馬の「パッカ、パッカ・・・」と言うあの音だ。
今夜は馬が走るときの音「パッカ、パッカ・・・」の歴史について考えてみようか・・・。

時は浦賀にペリー率いるアメリカ艦隊が押し寄せ、江戸幕府がその終焉を迎えようとしていた1856年、ここに老中堀田正睦(ほった・まさよし)に日米通商条約の締結を迫った、アメリカ総領事ハリス(T,Harris)が記した、同年11月23日の日記が残っている。

「運動養生のために乗馬をしたいと思い、馬を注文していたのが届いた。それは元気の良い競争馬ではないが、私の目的はかなうものだった。値段は小判19枚、つまり26ドルである・・・この馬を牽く馬丁は1ヶ月一分銀7枚、つまり7ドル75セントである。馬は草鞋(わらじ)をはいている。この草鞋は約1時間の道のりしか耐えることはできない」・・・・とある。

またイギリス人のロバート・フォーチュンの「江戸と北京」の文久三年(1863)の項目にはこう記されている。
「ハリス氏は日本における馬の蹄鉄(ていてつ)に関して面白いことを述べた・・・・ハリス氏が始めて江戸へ居住する為に赴いた時、彼の馬は普通よく見られるように鉄沓を付けていたが、この時まで日本人の馬は藁沓を付けているか、また沓はまったくついていなかった。ある日1人の役人がハリス氏のところに来て、彼の馬を貸してくれと頼み、その目的に付いてはどうか聞かないで欲しいと乞うた。この奇妙な頼みは機嫌よく承諾された」

「そしてその馬は暫くの間連れ去られた後に、きちんと返された。それから2,3日後に馬を貸してもらった役人がアメリカの公使館へ来て、宰相が馬の沓を調べる為に馬を借りによこしたことをハリス氏に告げ、もう宰相の馬には同じような沓をつけさせたこと、そして他の役人の馬にも全部同じように沓をつけさせていることを語った」・・・と言うことだ。(ハリス日本滞在記より・坂田精一訳)

ハリスの日記によれば、1856年当時、馬は草鞋をはいていて、それは約1時間も走れるか走れないかの代物だったと記してあるが、ロバート・フォーチュンの書籍の中には草鞋から馬蹄に変っていく様が詳細に記録されている・・・つまり少なくとも明治時代以前は、馬が走る時の音はパッカパッカではなく、パタパタ・・・かドスドス・・・と言う音だったのである。

今日どのようなドラマ、映画を観ても時代劇の馬はパッカパッカと威勢の良い音を鳴らして走って行くが、本当はどうだったかと言うと、遠出をするときは馬用の草鞋を沢山持って出かけ、それを45分から1時間の間で交換しながら走っていたのであり、間違えても疾走するような真似をすれば、30分もせずに草鞋交換が待っていたのである。

またその沓も今日見るような鉄製の立派な物ではなく、藁の沓だったし、それでもまだついていれば良いほうで、沓がない馬まであったのだ・・・・そしてそれは1860年頃、明治時代直前まで続いていた・・・日本における蹄鉄や鉄沓の歴史は比較的浅い・・・せいぜいが150年くらいだろう。つまり徳川吉宗がパッカパッカはあり得ないことだし、ましてや武田信玄や上杉謙信の時代なら言うに及ばずだ。

時代考証専門のスタッフをロールで流しながら、こうした在りようは少しどうかと思うが、誰かエキセントリックな監督が現れ、道を草鞋が切れないように静かに馬を走らせ、どしゃ降りの雨の中、その草鞋を交換するシーンなどを撮ったら・・・それはそれでシブイものになるのではないだろうか・・・。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

4件のコメント

  1. 悪ガキが、中学校の修学旅行先の日光で、土産に葵のご紋が入った印籠を買って、何かちょっと揉めるとそれを出して「鎮まれ~~♪この紋所が目に入らぬか~~♪」次のガキも、次のガキも出して同じ事を・・(笑い)

    雨の中、聞き分けのない馬をあやしながら、藁草履を取り替えて、ポイと捨てるのは、良いですね。蜷川幸雄が知っていれば、遣ったかも知れない(笑い)、黒澤明も遣ったかも。

    明治初期に、日本奥地紀行をしたイザベラ・バードは、駅逓で馬を乗り継ぎながら、東京を出て、日本海側を蝦夷地まで行きましたが、日本の馬は、小さくて調教も悪く、轡も付けていないし、鉄蹄では無く、藁の草履を履いていると。頻繁に取り替えて、捨てるが、それを街道筋の人が拾って堆肥に使っている、馬の落とし物も同じだから、街道筋は綺麗だ。馬子が引くけれど献身的であるし、馬も丁寧に扱う、ぼったくりはし無い。人々は貧乏で不潔だがとてもニコヤカで親切で、安全の心配は全くない、但し無邪気に見に来て黒山の人だかりには参ったと。我が郷里の旧街道も通った風でした。
    日清日露と大陸で、戦うようになって、馬蹄工の養成には苦労した様子です。
    落とし物と言えば、石中先生行状記でそれを誰が拾うとか何とかで、恋が芽生えて、という昔話(笑い)もありました。少年の頃は、確か道路に偶に落ちていたし、村に馬蹄屋さんが居ましたよ。
    ハリス日本滞在記、我が図書館には所蔵は無いようでしたが、別も探してみようと。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      本日夕方、本家の大婆が97歳で大往生し、立場上葬儀委員長を務めさせて頂く事になりました。
      記事、コメントは5月17日にあらためて掲載させて頂きたいと思います。
      何卒、ご了承頂きたくお願い申し上げます。

  2. 本家の大婆様、日本が国際連盟の常任理事国になった頃に、お生まれになって、激動の昭和史を見て生きて、大往生なすったんですね(合掌)。
    会葬者に同年代の方は稀でしょうが、残った者の心に、色々残して行ったと思います。

    ご丁寧に有難うございました、大変恐縮です。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      コメントが遅れました事、深くお詫び申し上げます。
      私たちが知る過去、歴史と言うものは実際に自分が見た訳ではなく、またその当時実際に生きていたとしても全てを知る事は出来ない為、常に今作られていると考えるべきなのかも知れません。この意味に措いては未来も同じ事で、自身の記憶も含めてすべては「今」と言う事ができるような気がします。そして私たちが当たり前のように把握しているつもりの過去も、その現実は正体が無く、そこから自分が何を観たいかと言う事なのだろうと思います。
      葬儀の方は無事終わりました。
      しかし全部終わって、急ぎ仕事をしていたら今度は親方家の二代目が亡くなったと言う連絡が入り、18日からまた通夜や葬儀になってしまいました。私が修業した塗師屋はかなり以前から実際の仕事はしていませんでしたが、すでに三代目は別の仕事をしている事から、これで私が修業した家は漆器の世界からは無くなる事になります。
      布団とわずかな着衣、身の回りのものだけで住み込み修業に入った初日、家族と別れて暮らす不安より、先の希望に胸を膨らませていた夜の事を思い出します。本家の大婆と言い、親方家と言い、何か自分の身ぐるみが剥がされていくような思いがします。
      時の流れ、天の在り様はつくづく無慈悲で有ることを思います。

      コメント、有り難うございました。

現在コメントは受け付けていません。