「YESの中のNO」

これは輪島塗だけに限らず工芸会全て、いや現在の日本社会全般に付いて言える事だが、「頑張っている」と言う価値観は既に手遅れだと思う。

頑張っているから結果が良いとは限らず、頑張っても、頑張らなくても結果が同じなら頑張らない方が効率は良い。

また頑張っていると言う感覚は他者評価感覚であり、ここでは表面的に他者が知る範囲をして当人を評価した言葉が「頑張っている」と言う事なのであり、この言葉は自身が使う言葉ではない。

頑張っていると言う言葉を喜ぶなら、それは他者が持っている頑張っていると言う価値観に拠って、自身がそれを目指してしまう事になり、ここに自身の価値観の完結を求めることはできず、頑張っていると言う価値観は表面上の形に捉われ、本質は失われてしまっている事が多い。

プロフェッショナル、職人の本分は仕事の完結に在り、他者から頑張っていると言う評価を受けることではない。

頑張っていると言う評価を求めるは、もしかしたら仕事に対する自信の無さを自己擁護したい為、或いはできていない仕事に対する言い訳であるかも知れない。

頑張っていることをして価値観とするは、手続きを評価して結果を蔑ろにする事に同じかも知れない。

同様にコミュニケーションでも「親しい」と言う形をしてコミュニケーションと考える事は頑張っていると同等傾向の勘違いと言えるだろう。

みんなで集まってバーベキューをしたとする。

これを企画した人、主催者は集まった人が皆喜んでくれる、感謝しているものと錯誤し易いが、来ている人は嫌々ながら断りきれずに来ているかも知れない。

上司からの誘いだから来ているかも知れない。

その本質は親睦ではなく、実は本質的関係が壊れてしまって行く方向の可能性もある。

人間は言葉に拠るコミュニケーション、表面上の笑顔をして良好な関係を築いたと考えがちだが、コミュニケーションの中には沈黙や、目の前にいないが故に良好なコミュニケーションも存在する。

早く家に帰ってDVDでも観たいのに、「今夜は俺のおごりで飲みに行くぞ」の結果はYESの中のNO、つまりNOより深いNOとなってしまうのである。

だが「俺のおごりで・・・」と言う者に取っては他者は感謝するだろう、自身は良い事をしていると言う、「自分の範囲」を全く出ない価値観の強要だと言う事に気づかない。

人間は立場が上の者には抗し難い、為に笑顔で感謝する形を示すが、その感謝の本質には恨みが潜むかも知れない。

そしてこうした感謝の本質に潜む恨みを避ける方法は「親しくしない」と言う事になるかも知れない。

損もしないが得もしない関係、つまりは他者への干渉を行わない事は、他者に取っての善悪双方に措いて干渉しないと言う事であり、感謝を買おうとするなら恨みもまた買い易い、ならば感謝を買おうとしない事なのである。

プロフェッショナルにはこうした冷徹さと謙虚さが必要ではないかと思う・・。

そして「頑張っている」の売り買いは、こうした感謝の売り買いの無意味さと傲慢さに同じに見える・・・・。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

4件のコメント

  1. 中学生までとか、或る程度弱い者とか、成果・結果より頑張った事を評価すべきことも多いかと思いますが、潜在的才能がすべて有る状態に成ってきているのに、勉強不足やら考え方の偏りやらで、違う方向で頑張って、世の中に害を為す者が今社会に横溢している様な気がします。
    権限もないのに、市民運動の延長の様に原発反対を唱えるだけなら兎も角、何回も要請する某県の知事とか、平和を担保するのは憲法の戦争放棄の条文とかだと訴える政治家・文化人、反対の意見には、全く論理的解答が準備されていない。
    世の中は或る程度、付き合いと言う物も有るだろうし、お互い様と言う事も有るだろうけれども、理解不足や余りにも単純で、相手のNO.を理解できない人が、増速中と思いますが、ある種の病気なら同情すべきだと考えますが、人の心理を判っていないようだし、言葉を表面でしか理解されていない、だから妙な詐欺の被害者が一向に減らないのかなあと感じております。
    とは言う物の、飯や酒を奢ってくれる人もなくなったので(笑い)機会が有れば付いていって、ヨイショしてそれなりに楽しむかも(笑い)

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      こうしたコミュニケーションが希薄な時代、おかしなものでコミュニケーションに慣れていない人間が増え、それらの多くはコミュニケーションに追われてしまったような形になっている気がします。
      コミュニケーションをしなければいけないような風潮に思われがちですが、本来人の付き合いは追われたり義務で行われるものではなく、この観点に立つと沈黙や会わない事、接触が少ない事もコミュニケーションの一つだろうと思います。
      楽しそうに喋っていなければいけない、仲良くしていなければいけないと、元気でなければいけない、がんばっていなければいけないと言うような表面上の形をして、安心してしまう事は、自分が求めている価値観であり、こうした多様な感性を持つ社会や個人の時代にはそぐわない気がします。
      人間は他者から施された事は忘れやすく、自身が施した事は忘れない。楽しい事は忘れ易く、苦しかった事や恨みは忘れにくい。
      価値観が違えば人間の接触は、接触するほどマイナスが増えていく。だとしたらプラスマイナス0の方がまだ良いかも知れない・・・。毛沢東でした・・・(笑)

      コメント、有り難うございました。

  2. 昔は、義理で参加した何かの会では、もしかしたら、不機嫌で隠しきれず(笑い)、顔が悪かったかも知れませんが、
    長じては、YESの中のNOで参加しても、それ以外は有り得ないのだから、花は鉢を選べないのだから、その鉢で美しく咲きなさい、という渡辺和子、渡辺錠太郎大将の遺子、の言葉を実践しようとちょっぴり努力した気もしますが、修行が足りず、表に(面に!?)出たかも知れません(笑い)
    今は、どうかと問われれば、難しいですが、最低限の義理が果たせる内は果たして、その内相手にもされず、フーテンとなって、勝手に生きるのが目標かも、でも今のところ何人か強弱は有ると思いますが、友だちが居るのは、恵まれているのかな、とも思っています。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      考えてみれば我々の暮らしの中でYESの中のYESなどと言う関係は本当に少なく、その殆どはYESの中のNOで、それを我慢しながら暮らしているような気がします。
      一番妥協できるのが「金」かも知れませんが、自分の心を隠すのは難しく、私もすぐ表情に出てしまうだろうと思います。同じ下げるなら深く頭を下げろ、と昔言われた事がありましたが、この深さには思い切りと言う効果があるのかも知れません。
      でもそんな中でYESの中のYESの関係、気兼ねの無い「友」が在る事は嬉しいですね・・・。

      コメント、有り難うございました。

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