「後始末工学」

熱力学第二法則に措ける質の高いエネルギーに対する質の低いエネルギー、つまり相対的に劣化したエネルギーは、例えば電気を使って湯を沸かした場合、この沸かされた湯が劣化エネルギーである。
電気はそれで湯も沸かせれば他にも動力としても使える、或いは電気そのもののエネルギーとしても使えるが、これで沸かされた湯を電気エネルギーに還元する事はできない。
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従って電気で湯を沸かした場合、我々はより質の高いエネルギーを使って質の低いエネルギーを生産した事になり、人間の営みは全てが質の高いエネルギーを質の低いエネルギーに変換し続ける、この作業の連続と言え、本来質の高いエネルギーはその存在が地球に古来から存在する成分と調和しているが、劣化したエネルギーは非調和成分が多く、こうした観点から考えるなら劣化エネルギーは存在そのものが邪魔になってくる、つまり人間の生産したものは全て最終的にはゴミなのである。
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これが地球と人類の関係であり、人類は地球を食いつぶすならまだしも、その本質は地球をどうにも還元しようのない劣化エネルギー、つまりゴミの星にしようとしていると言うのが正しい表現かも知れない。
近代科学技術社会が生産する物質の特徴は、その一つが量の莫大さ、二つ目には難分解組成物で自然分解が困難なものが多いこと、三つ目には人類史より遥かに長い歴史を持つ生態系に対する非調和性物質が多い事である。
プラスティックを例に取ろうか、この素材の生産物質は世界中に溢れ、しかも土に埋めようが野ざらしにしようが分解されず、植物や微生物がこの物質上に繁殖する事はできず、害こそあってもそこから養分などの摂取は不可能である。
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プラスティックは他の熱など質の高いエネルギーを使わなければ分解が困難なのであり、こうして質の低いエネルギーが質の高いエネルギーを使って分解され、その上分解時に発生する煤煙などには有害物質など、更に劣化したエネルギーが生産されるサイクルが有り、こうしたサイクルは地球が持つサイクルとは全く相反するサイクルで有り、人類が如何に「エコ」を唱えようがそれが行う生産はエネルギーの観点から全てゴミと定義されるべきものとなる。
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マクロエンジニアリングが進行し、人々がより高度な生活様式を展開する社会を迎えた今日、大衆の夢や希望とも言える豊かで快適な社会は、大量生産、より細部に至る物質のクオリティへと向かい、その事は質の高いエネルギーが質の低いエネルギーに変換されていく速度を更に早め、人間が使用する物質が全て永遠では無い事を考えるなら、その大量に生産された劣化エネルギー物質はいつか必ずゴミになる運命に有って、尚且つそれは長期に地球に滞在する事になる。
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また野菜や穀物などに措いても、既に自然が持つ還元型生産から離脱し、科学肥料や殺虫剤、除草剤などの非還元型、非調和物質、ここで言うなら劣化したエネルギーによってその多くが生産され、流通や保管、安全性の確保には生産以上のエネルギーが使われ、ここに分散されたエネルギーは元に集積させることはできず、日本人を例に取るなら食と言う第一次欲求に関して、その本質に使われるエネルギーの実に6倍から10倍の、質の高いエネルギー劣化変換が起きている。
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更にこうした意味で原子力をエネルギーを鑑みるなら、そこに有るのは莫大な量のエネルギー劣化で有り、しかもこのエネルギ劣化こそ地球に長期に渡って滞在する難分解劣化エネルギーであり、人類がもし原子力をエネルギーとして使い続けるなら、この処理工学は原子力開発以上に重要になるが、現在の段階ではそれが為されていない。
この現状で原子力エネルギー政策を推進すなら、人類は自身等が生産する劣化エネルギーによる影響以上の悲惨な結果を迎える事になる。
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だが一方、では石油火力発電や水力発電ではエネルギー劣化が無いのかと言えばそうではない。
化石燃料を燃やし、そこから電力を得てこれが人々によって消費された時点、冒頭の話でも出てきたように湯を沸かした時点でそれは劣化エネルギーに変換されるのであり、この事は水力発電でもダムに侵入する土砂などによって相対的貯水量の減少、また下流域の水コントロールによる平野の老化現象などに繋がる訳で、結果として原子力発電で消費するエネルギーと同等のものが劣化していき、この事は風力発電でも同じ原理を持つ。
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それゆえ人類が生きていく事、その中で豊かな暮らしや利便性を求めるなら、その滅亡は必然とも言えるのであり、国際社会や国家の破綻などたかが知れている。
今日我々人類に求められるものは、エネルギー劣化の阻止であり、言い換えれば貧しく不便な生活へのシフトダウンと言うことになろうか・・・。
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この地球の第一次生産者は「植物」である。
地球46億年の流れの中で、はるか26億年前には葉緑素の働きが既に始まり、藻類の発展こそが地球の大気を酸化性のものとし、その後発生してくる動物生態系の大発展の礎となり、海のプランクトン、高等藻類、地表を覆う緑色植物の存在は現段階でも全ての生物生存の絶対条件である。
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この事は常に忘れてはならない事であり、最も特殊で良質なエネルギー、「水」の循環濾過システムも「植物」であり、これを劣化エネルギーにし続ける事をして人間が生きていると言う事なのである。
人間の社会はおそらくどんな事でも最後は金で決算できるかも知れない。
だが、金や経済で地球は決算してくれるような相手では無い、その代償は「命」だ・・・。
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さて、不用意に湯を使う事から減らして行こうか、生きていく為に・・・。
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. コンピューターの世界のみ成らず、周りの物事がユビキタス状態で便利で快適で、毎食好きな物のご馳走で、愉しいことの連続以外は、不幸になって、不満だらけで、他人、特には政府の所為にして、呑気でいい加減に生きた行きたい(笑い)

    世界に原発は400基余り有るようですが、成功裏に廃炉が完了したのは一基も無いようなのに、スリーマイル、チェルノブイリ、フクシマダイイチから何も学んでいない無いような気もします。

    子供の時は、朝汲み置きの水に氷が張っているを割って洗面器に入れて顔を洗っていたんですよね、究極はブッシュマンのように、顔も洗わないで、拾ったコーラのビンは争いのもとと言うことで、地の果てに捨てました。
    少しは考えて、100年前に戻らなくとも、何とか生きながらえて行けるように新しい哲学が出てこなければ成らない時代かも知れません。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      人間の作るものは最後は必ずゴミになるとしたら、我々が物を作って買えば買うほどゴミを増やし、また再生可能なエネルギーを少なくしてしまう。
      この事からエコと言うものを真剣に考えるなら、やがて滅び行く自分を多く使うことでも熱力学上の劣化エネルギー量を少なくできるかと思います。そしてその事は生活を少しだけ過去に戻す事でも可能ですが、どうも人間はこれが中々できない。言葉や形に逃げ、これで省エネルギーと言う考えにしかならない。
      でも、こんな事をしているといずれ限界はやってくるか、どこかでは自然淘汰されるのかも知れません。その気付かない間に進む自然淘汰が少子高齢化なのかも知れず、この意味では少子高齢化も悪いことではないのかも知れない。
      生活の質を減らすことができないのなら、数を減らす・・・、何となくカメラ撮影のシャッター速度と絞りの関係、フィルム感度の関係みたいですね・・・。

      コメント、有り難うございました。

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