「黄色い猫と黒い猫」・2

1977年、こうして華国鋒(かこくほう)を推して復帰を果たした鄧小平は、ここでまず文化大革命が終了したことを宣言し、国内の建て直しを計り、翌年1978年には日本を訪れ、その発展ぶりに目を見張ることになるが、こうした日本の姿から「社会主義の近代化建設」構想が生まれていった。
すなわち鄧小平の目には、明らかに近代化に遅れた中国の現実がはっきりと見え、これに追いつくのは開放政策、それも日本やアメリカなどの資本主義国家の技術を取り入れなければならないと思ったのである。
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だがこうした鄧小平の前に立ち塞がるのは相も変らぬ共産主義と言うイデオロギー、その教条的な思想である。
復帰する折はこれを推して復帰したが、華国鋒はこうした鄧小平の路線に、やはり毛沢東と同じように「反共」を見てしまうのであり、毛沢東路線を堅持しようとする華国鋒と鄧小平はこうして対立する。
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しかし鄧小平らの改革解放路線は、それなりの成果も治め始めていたことから、民主化運動に火をつけ、こうした民主化運動の力を借りて、国民から圧倒的な支持を集めるまでになって行き、結局華国鋒は鄧小平に追い落とされる。
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1982年、鄧小平同志の推挙によって胡耀邦(こようほう)が中国共産党主席、そして趙紫陽(ちょうしよう)が国務院総理(首相)と言ういずれも鄧小平の部下だった者がそのトップに立ち、鄧小平自身は党軍事委員会主席のみ、あとは一般党員となったが、事実上ここから鄧小平体制がスタートした。
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中国の開放改革路線を断行した鄧小平、だが彼は1980年、東欧ポーランドで起こった民主化運動「連帯」の動きを見るや、いきなり反体制派を厳しく弾圧していく。
これは何故か、どうも結果論的にものを考えると、鄧小平が第二天安門事件で見せたあの強硬な姿勢は、それより少し前に起こったソビエトの崩壊による、混乱から学んだものとは言えないのではないか、実は鄧小平が国家体制と言うものが拘って来たとき、言語道断の行動に出る背景には、第一次世界大戦、第二次世界大戦を通して身に沁みたものがあったからではないだろうか。
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すなわちイデオロギーで国が瓦解して行ったのは何もソビエトだけではなく、太平洋戦争の以前にもあった事だった、しかもそれは中国であって、鄧小平にはイデオロギーは非合理的なものにしか見えていなかったが、それでも体制が崩れると、良い悪いではなく、国家が無くなってしまうことが分かっていたのではないだろうか。
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彼の言葉で有名なのは「白い猫だろうが、黒い猫だろうが、ねずみを取る猫は良い猫だ」だが、これは昔から中国にあった諺でもあり、茶色の猫が好きだった鄧小平は、実はこういっていた。
「黄色い猫だろうが黒い猫だろうが、ねずみを取る猫は良い猫だ」
ここから見えるものは徹底的なプラグマティズムであり、何としても中国を壊さずに欧米や日本に追いつかせようと言う強い意志である。
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「富強中国」、鄧小平はこの目標を掲げ、改革を行って行った。
経済優先主義、比較優位主義、これは先に発展させていく地域を作り、それを手本に残りの地域の経済的発展を図るものであり、ここでは格差は容認され、社会主義体制外改革先行策では、国有企業の改革は後回しにして、農業改革、外資系企業の導入などを先行させて推進して行った。
また積極的な市場経済の導入も進めて行き、ここではもはや中国に措ける毛沢東の革命主義、イデオロギー主義は完全に否定されたものとなって行く。
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そしてこうした背景から生まれてきた開放的な希望、自由化への期待が結局1989年の第二天安門事件へと繋がって行った。
つまり第二天安門事件は、鄧小平の改革では当然発生して来るべくして、発生した事件だった訳である。
だが胡耀邦国家主席から既に江沢民(こうたくみん)体制に移りつつあった当時の中国首脳部はここで迷ってしまう。
開放改革路線は当時の中国の方針であり、こうしたことから自由化を求める学生達を、どう対処してよいか判断できなくなってしまうのである。
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                                               「黄色い猫と黒い猫」・3に続く。
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。