「二つの乾燥点」

漆の乾燥温度はプラス温度側に2箇所存在する。

漆は常温だと湿度が無いと乾燥しない事から唯高温な状態では逆に乾燥せず、いつまでも液体の状態のままになる。

常温24度から36度、湿度60%から88%までが一つの乾燥条件である。

そしてもう一つの乾燥条件は100度以上の高温状態で、これが漆の「焼付け塗装」と言う事になる。

古くは日本の南部鉄瓶など、鉄器が仕上がった最後に藁(稲わら)などに漆をつけて拭き、それをすぐに火にかけると、鉄の表面に焼付け塗膜が形成される技法などが該当するが、もう一つは偶然にもヨーロッパで爆弾の炸裂によって漆が急速乾燥する事が発見され、ここから始まったのがカメラなどの精密機械の漆焼付け塗装である。

日本でも第二次世界大戦中、弾薬表面の腐食防止剤として漆が使われたが、こちらは常温乾燥であり、漆の焼付け塗装は舟の外側底面に貝などが張り付かないように保護する為に使われ、漁師が使う木製の船では同じ用途だが、常温乾燥方式だった。

漆は常温乾燥では金属表面に塗布しても水につければ簡単に剥離するが、これが焼き付け塗装だと剥離せず、木製品に塗布した場合は常温乾燥でも剥離しない。

この事から日本では一般に漆器と言えば工芸品のイメージが有るが、実は工業用塗料の側面も大きいのである。

余談になるが第二次世界大戦中、静岡県などの軍需工場に日本各地から漆塗り職人が集められ、そこで彼等は弾薬の表面に漆を塗る作業をさせられていたが、日本の敗戦が色濃くなっていく中で、弾薬塗りでは無い漆器を作る仕事がしたい、平和になったらあれもこれも作って見たいと思ったに違いない。

やがて太平洋戦争が終わって日本に平和が訪れた時、漆器産業は爆発的に発展するが、その背景には戦争中日本各地から集められた職人達の交流により微妙に変化して行った各地の漆器技術が、或いは互いに同じ宿舎で寝泊りし、語り合った相互の夢によって変化して行った職人たちの意識変化によって、もたらされたものだったとも言えるだろう。

今日我々が漆器産業の景気が悪いなどと集まって嘆いていられるのは、まだ幸福な事だ。

遠く妻子を残して毎日弾薬を塗る、そして敗戦直後は仕事が無くて屋根のペンキ塗りをして生活し、材料も無ければ金も無い状態でも希望を失わなかった太平洋戦争中の職人達、命の危険が無くて漆を塗っていられることの有り難さを今一度感謝すべきかと、そう思う。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 爆弾に漆が塗って有ったというのはこの度初めて知りました。

    若い人は招集されて、散華した人もあったろうし、徴用されて爆弾を塗った人たちもあった。
    同じ釜の飯を食って、お国のために働いて、戦争は負けて、運良く生き残った人々は、苦しい生活を乗り越え、次の発展の為に、技術を繋いだ。

    昔、知り合った人に、シベリアに抑留された方の内の1人に、何か何時も明るく、協力して貰った当時もうお爺さん(失礼)がいました。

    1年目の冬は、悪い装備、環境で、余りの極寒に、ああ、これで俺もお終いだ、とてもこの冬を生き残れない・・次の年の冬は、何とか頑張れば、生き残れそうだ、そして次の冬は、寒さそのものは平気になった・・
    と言うことでその次の夏に帰国できたようでした。
    本国ではほとんど生死は分からなかったようでした。
    その人が、ある時、ポツリと言ったことは・・シベリアの抑留生活に比べれば、今の生活は天国のような物で、全然何でもない、って言っていました。戦友が沢山亡くなって、大変悔しかったようですが、それ以上多くは語りませんでした。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      私の師匠は「坂本時三」と言う無位無冠ながら、当代誰もが知る名工でしたが、10代の私が修行に入った時既に70歳を越えていて、仕事をしながら良く昔の事を話してくれたものでした。その中に軍需工場での爆弾塗りの話が良く出てきていて、師匠はその話の中で親しくなった木曽の塗り職人の話をしていたのですが、私はまるでその会った事も無い職人達から直接話を聞いているかの様な思いがしたのは、師匠の彼等に対する思いだったやも知れません。
      こうして食う事や命の危うさに晒される事も無く、日々暮らせている事の有り難さを我々は今一度しっかり認識し無ければならないと思います。
      そして大変な時代を風のように駆け抜けて行った職人達の事を思うに付け、自身の怠惰を情けなく思うのです。

      コメント、有り難うございました。

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