「クレオパトラ7世」前編

「畜生・・・、あの淫売め・・・」プトレマイオス13世は頭に載せていた王冠を石の床に叩き付けると、玉座に座り込んだが、これでローマ軍との戦いは決定的になった、また実の姉にして妻でもあるクレオパトラは、もはや絶対に許すことはできなかった。

「私は神である」と言った人間は、狂人や大たわけ以外に、歴史上たった2人しかいない。
その1人はモンゴル帝国のチンギス・ハーンだが、もう1人はマケドニアのアレクサンダー大王だ。
そしてこのアレクサンダーが夭折して以降、家来たちの領土争いによって、世界の半分とまで言われたアレクサンダー帝国は分断され滅びるが、家来の1人である「プトレマイオス」がエジプトにプトレマイオス王朝を築き、これがアレクサンダー帝国を継承した形となるともに、エジプト王朝を名乗る。

しかしこのプトレマイオス王朝も、クレオパトラが生まれる頃には既にその栄光に翳りが見え初めていて、事実彼女が14歳の時(紀元前55年)には父親のプトレマイオス12世と、姉のベレニケ4世の間に勢力争いが起こり、プトレマイオス12世はローマの力を借りて、ベレニケ4世を戦いで撃破し、これを処刑している。
この辺は何ともアレクサンダーのマケドニアの因習と言うか、暗い歴史を踏襲しているようでもあるが、やはり問題はその政治体制にあったのではないか、すなわち日本の天皇制のように、王を有力豪族が支えて王朝が成立している、そうした体制の元では常に有力な豪族が入れ替わり、その度に王家が骨肉の争いに巻き込まれる仕組みとなっていたのではないだろうか。

そしてこうした仕組みは情報伝達の容易な今日とは違い、広大な領土を治めるにはある種避けられないことだったようにも思う。
さらにエジプト王朝は歴代その「血」を重視することから血縁結婚しか認められていなかった、つまり兄弟姉妹の間でしか婚姻ができなかったわけだが、万一生まれた子どもに男女が揃っていなければ、父親と娘、母親と息子の暫定的関係も存在せざるを得なかったことだろう。

こうしたことからエジプト王朝の「夫婦」と言う概念は、ある種義務的な要素、つまり子孫を残すために兄弟姉妹が義務のために夫婦の交わりを持つ慣習のようなものであって、そこに情愛の存在は薄いか、むしろ無かった可能性もあるのだが、その価値観として「権力」や「家」と言うものが最大限の価値になっていたのではないかと推察され、こうなると肉体関係と言うものはある種のしきたりのようでしかなくなる。

また極秘ではあったが、周辺地域の事情や体制の中での愛人関係による子ども・・・の概念がなければ、こうした近親婚にはつきものの「子どもの奇形」も防げなかったようにも考えられる。
そしてこのような考えを基本にしてクレオパトラを見ていくと、その本質が見えやすいのではないだろうか。

紀元前51年、クレオパトラ18歳の時、父親のプトレマイオス12世が死去、姉のベレニケ4世が既に処刑されていたことから、年長のクレオパトラ7世が、弟のプトレマイオス13世と結婚して2人共立のファラオとなるが、既にこの王朝ではプトレマイオス12世とベレニケ4世の争いにも見られるように、かなり前から少なくとも2つの大きな勢力が争っており、結婚した当初からこの2つの勢力はクレオパトラ派と、プトレマイオス13世派に分かれ、互いに隙あらば・・・と狙っていた経緯があり、結婚生活も政治的統治の意味からもこの姉弟の結婚はうまく行っていなかった。

そこにこうしたエジプトに干渉を強めていたローマ帝国内の権力闘争が影を落としてくる・・・、カエサルと対立していたポンペイウスは息子のダナエウス・ポンペイウスをアレクサンドリアに送り、クレオパトラに食料や兵員の協力を求めるが、この時クレオパトラは父であるプトレマイオス12世が、やはりポンペイウス派だったことから、むこうが予想するより遥かに多い食料や兵員を提供し、またダナエウスの寝所を訪れ、そこでダナエウスと男女の関係を持ち、以後彼と愛人関係にまでなっていく。

これに業を煮やした・・・と言うより単純に不信感かもしれないが、それを懐いたプトレマイオス13世とその勢力は、アレクサンドリアの住民がクレオパトラに反抗して起こした騒乱に乗じ、紀元前48年、クレオパトラを辺境のペルシオンへ追放する。
しかしローマ帝国でポンペイウスを打ち破ったカエサルは、今度はエジプト内のポンペイウス残党を討伐するためかの地を訪れ、クレオパトラとプトレマイオス13世の争いの調停に乗り出すが、当時ペルシオンでプトレマイオス13世の勢力と闘っていたクレオパトラは、その戦線からいち早く離脱し、プトレマイオス13世派の監視をくぐり抜けるため、巻かれた絨毯にその身を潜ませカエサルに謁見する。

巻かれた絨毯が開かれると、そこから出てきたのは、裸体に、薄く下が透ける繊維で編まれた布をまとったうら若き女、しかもエジプト特有の孔雀石を砕いた粉末を目の周りに塗ったその様子は、現代のシャインカラーアイシャドーのようなものだっただろうか、そうした化粧をした、しかもクレオパトラは髪には泥を塗って棒を巻きつけ、髪にくせをつけていたと言われていることから、現在のパーマをかけたような髪形だったのではないか、またもともとはエジプトではなくギリシャマケドニアの血筋であり、メディア語、ヘブライ語、アラビア語など7カ国の言語に通じ、その声はどんな楽器もかなわない美しい声であったらしいから、これが絨毯から出てきたときには、さすがのカエサルも一目で虜になったのは無理もないことだった。

クレオパトラの絨毯がカエサルのもとに運ばれたのは、紀元前48年9月、夜の10時ぐらいではなかったかと言われているが、だとするとこのときクレオパトラは21歳、しかもファラオであり、その知性と独特の美しさに、カエサルはローマ女性にはないエキゾチックな魅力と、どこかに「この女とは避けられない」・・・、と言う思いが芽生えたのではないか、だからカエサルは確かに武力ではクレオパトラには引けを取らないが、その美しさと知性のバランス、こうしたものに人間として、男と女の関係として「無条件降伏」してしまったのではないか・・・と思うのである。

カエサルは取り巻き達に早く帰るように指示すると、クレオパトラを尊敬を持って抱き寄せたに違いない。
そしてクレオパトラはカエサルの愛人になったが、一度はカエサルの調停で和議を結んだプトレマイオス13世・・・、しかしクレオパトラとカエサルの関係を知ってから、幼い頃からその性格は嫌と言うほど判っている、女としての慣習、王朝の歴史の上に立つあの姉のことである、いつかきっと自分は殺されるか追放されると判断し、調停が成立してから15日後、挙兵しカエサルに戦いを挑むが駐留していたローマ軍によって打ち破られ、ナイルの戦いに措いて溺死させられてしまう。
冒頭のシーンはカエサルとクレオパトラの関係を知った瞬間の、プトレマイオス13世の様子である。

(後編へ続く)

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 「クレオパトラ7世」前編

    当時の婚姻形態論うこともあるが、文化の違いであり、もし遺伝的に問題が有れば、個別に対応すれば良いのであって、それほど、禁忌とすることでもない気がするけれど。確かに類人猿も他の動物も、避けている傾向はありそうだが、ヒトほどは、菅家邸内風ぬも見受けられる。

    クレオパトラ7世と言えば、自分はエリザベス・テーラーを思い出す~~♪
    実際は兎も角、美貌もさることながら、彼女は、気質的には多分サイコパス傾向であり、且つ自己愛性パーソナリティ障害傾向もあり、弁舌もさわやかで自信に満ちていて、人々を魅了したのではないか、それで実際の自己像より美しく魅力的に見えたのかもしれない。伝説によれば、エジプト海軍がローマ軍に敗れたのを知って、映画ではコブラに咬ませて自害したという事だが、政治家として最終判断は、病的では無さそうである。
    ある本によれば、妹はもっと美人だったとも言われるし、逆ともいわれるし、カエサルとの息子は凡庸で、双方の特徴は、あまり受け継いでいなかったようで、歴史の妙かも知れない。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      元々生物の関係性には禁忌は存在せず、これを作るものは社会でも有ります。
      その中で王や皇帝と言うのは一般庶民とは違う神聖、つまりは一般社会の習慣とは逆をやることでその権威を保持する仕組みが、原始権威、つまり近親が「血」に拠って王位を継続する方法でした。
      この方式は薄く弱くですが、今も日本の天皇制には残っているかも知れません。
      しかしクレオパトラの時代にはこれがもっと厳しかった。
      そして王の候補となった者は闘って勝つか、負けて死ぬしかないとしたら、生きる為に闘うしかない。
      クレオパトラはこうした原理が自然に身に付いていた人だったのでしょうね。

      コメント、有り難うございました。

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