「国力と女性支配」・Ⅲ

イスラム女性にとっての「ブルカ」は中国の「纏足」に似たところがあり、初期は確かに「男」から押し付けられたものであるかも知れない。

そして10世紀前後のヨーロッパ社会では、女性自身が夫に対する貞操の誓いとして、自分から進んで貞操帯を着用した例と全く同じ出発点を持っているのかも知れない。

すなわち自身の価値を少しでも落とさないために男の望むことをしていった背景が、やがてはそれが男の女性に対する価値観となって、この価値観が更に女性の価値観に変遷し、結果としてそれが女性の美意識や価値観として定着して来た歴史を持っているのではないだろうか。

だから西洋的価値観では女性の肌の露出が多ければ、そこに男から見る女性の魅力が有るのかも知れないが、一方で見せないことによる女性の魅力も存在し、また夫以外の男性には肌を見せないことに価値観を持つ女性の歴史上の価値観と言うものも、私たちは尊重するべきではないか・・・。

確かに初めは男による強制や支配から始まったとしても、そうした中で女たちはしたたかにそこに美意識を広げて行き、やがてはその美意識と価値観で男の心を奪って行った。

そしてそれが民族的な「文化」となって行くことを考えるとき、男の目を引くために肌を露出することも、反対に男の為に肌を露出しないことも同じことのように私は思える。

また戦闘の時代から経済戦争の時代へと変遷していく社会の中で、より自由度を増した「女」の姿が垣間見え、それはあたかも古代文明の女性崇拝のように見えながら、結果として「男」の必要度の低下、または「男」の生物的価値観の低下に繋がってきているようにも見える。

だが基本的に今回のフランスの例を見て思うに、人間が殺しあう戦争であれ、経済戦争であれ、国が苦しくなり、それによって実質「女」が規制を受けると言う事実は、確かに古代よりも規模は小さくなり、より間接的になったが、それでもそこから男社会による「女」の支配と言う図式はどこかで存在しているように思われ、この点で言えば、男の生物的弱さ、その精神性の浅い部分は昔から変わっていないのかもしれない。

ちなみにこうしたヨーロッパの民族衣装排斥運動だが、片方でこうして排斥しておきながら、ヨーロッパのブランド各社は、お金持ちの中東女性向けに「ブランド・ブルカ」をこぞってデザインしており、その中には宝石がちりばめられていたり、また絶妙な配色のもの、更には美しい繊維のシルエットを持ったものまで製作され、各地で発表され、イスラム女性から好評を博している。

眠れる獅子、新興勢力の中国の台頭、それに比して力を失いつつある欧米諸国、またブランド・ブルカなどを鑑みると、批判しながら金のためなら「女」は自国の女だろうが、異民族の女だろうが同じだと言うような感じがして、どこかでバビロンが異民族支配を受けた時期に重なって見えるのだが、考えすぎだったか・・・・。

その社会や国家を知るなら、その国の女を見れば、本当の姿が見えてくるものかも知れない・・・。

本文は2010年9月20日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています。

 

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

6件のコメント

  1. 百数十年前に日本に来て生きて死んだ、ラフカディオ・ハーンが「日本の面影」では日本人の微笑みは、愛する人や周囲の人に心配をさせないための礼儀で有り、深い道徳観から来ている、と言っているようだ。勿論極まれに「色に出にけり」と言う事も有るが、それは極稀であり、「濃密接触」の部類(笑い)。
    曖昧な意思表示とか、自分の判断基準で言う人も多いし、議論をして、ハッキリ黒白を付けるのが良い、とか寝言を言う人が多くなったが、世の中はアナログで出来ていて、デジタルで出来ているわけではないが、そう言う価値観が有っても良いけれど、言葉や表情などだけで伝わる事は実は全体の本の少しであるという畏れが無い程度の文化・社会の人とは、なるべくあまり親しくなりたくない。

    「ブルカ」の下の人は、その地域外を知れば、自己認知の要望が湧くのではないかと、ファッションモデルのように花道を歩くのは、或る種の満足感を得られるもののように思える。アフガンのブルカは、ドロボ〇をするには良いが、愛する人と巡り会うのには適していない。

    白人キリスト教徒は、聖書の呪縛から、イスラム教徒は、クルアーンからの呪縛から自由ではありえないし、支那大陸と朝鮮半島の儒教の特には朱子の考えを祖法としている人々が、眼前に展開している事実から物を見る柔軟性を期待しないで、それぞれ、日本人が生きて行くのも難儀が多い~~♪

    その国の村の市場と売り子と買う女たちを見て、ついでにそこに関わっている男どもを見て、その幸福~悲惨さを瞥見する機会は中々ないが、その時に、それらを理解する素養だけは、最低限身に着けておきたいものだと、願っていたが、誰にも来るように、時間の制限は近い~~♪

    1. ハシビロコウさま、有り難うございます。

      小泉八雲が見た日本と今の日本は全く別物ですが、明治初期の日本の価値観の多くは既に失われています。
      理想としてそれを基準にしている年齢層も有るのですが、それは予め美化されたものでもあり、明治の日本人の全てがしっかりしていた訳ではないかも知れません。
      ただ、それがどう見えたかと言う部分の話なので、現実がどうだったかは常に不明です。
      ですからこうしてどこかの時代と今を比較することはできないものなのですが、言い換えればその比較している事柄も含めて自分の今の理想と言う事かも知れません。

      ただ不幸な女が少ない風景は豊かさを感じるし、女子供が辛い生き方をしている場面は国家的貧しさを感じる。
      国家の役割とは男女とも笑って過ごせる時を多く持てるようにする事なのかも知れません。
      ただしそれが物質的豊かさか、精神的豊かさかは個人の価値観ですが、これらをくっきり分けて考える今の社会の貧しさは、確かのその通りだと思います。

      コメント、有り難うございました。

  2. 「ロマンスの危機」1

    資本主義国においては、恐慌~戦争などにおいて、大資産家の富は、勿論大幅に減ずるが、その性質上、平静に戻れば、無産階級が生活の資を得るまでには、相当の期間を要するが、資産家の富は、それなくして資本主義の回復は無く、社会の富の回復の数倍の速度で、増加して、失う前の状態を忽ち凌駕して、自分でどれぐらい持っているのかさえ、分からなくなる。使い道に窮して、体が一つしかないのに、最高級特別誂えのロールスロイスを十数台所有して、経済の活性化に供されるが、勿論もっと別の方法が幾らでもあるが、試されない(笑い)。  
    平時においては、通信革命とか流通革命とか言って、いまはGAFAが代表だが、貧乏人の疑似満足を満たして、それこそ、がん細胞のように、社会を食い尽くして、搾取の対象をも存在を許さないところまで増殖を進めているかのように見える~~♪

    1. ハシビロコウさま、有り難うございます。

      ローマの語源は新しいもの、希望や期待と言う意味だったのですが、これを傾向化すると「ロマンス」になります。
      戦後日本が失った一番大きなものが「夢」や「希望」だったのではないでしょうか・・・。

      それは取りも直さす年金生活者が増えた結果でもあるのですが、取り敢えず今の生活で満足であれば、それ以上を望まなし、先も長く無いから無理したり苦労したりするのも辛い。
      現状維持であればOKと言うのが高齢化社会です。
      でも本質的には高齢化社会が悪いのではなく、年金制度が悪いのです。
      こうした者が有るから高齢者になれば無理をしなくて良いと思ってしまうし、今日より明日の生活を良くしようと言う意欲も失われる訳です。
      安定は崩壊や滅亡に向けたものであり、希望や期待のない者は生物界では本来生きられないのが普通です。
      これを内蔵している年代の意欲を、これを内蔵していない年代が奪ってしまっているのが今の日本です。
      基本的に生物界の定まりを免れるべきではなく、等しくどの年代もその中に有るのですが、どちらかに傾けば、片方は辛くなる。
      日本の今はバランスが悪いですね・・・。

      コメント、有り難うございました。

  3. 「ロマンスの危機」2

    資本主義の対立概念は、勿論今や共産主義ではなくなって、それは強権で達成される第二資本主義のようになってきた。今の対立概念は、狩猟採集社会かも知れない。
    Youtuberやショービジネスを目指す者が多いように見受けられるが、その性質上、一定の数量を超えた時点から、平均収入は下がりに下がって、生き残れるのは、神のみぞ知る確率(笑い)。後進国の路上のピーナッツ売りと似ていて、幾人かはそれなりの成功をおさめる可能性が有るが、参入が容易な割には、実入りは勿論少ない。
    人が生きて行くうえで必要な金は実は非常に少なく、それ以上の金は、見栄の為に使わるのだから、収入が減ったからと言って、そんなに悲観しないで、それなりに、生きて行こうと思えば、気楽な社会かも知れない。
    ヒトの楽しみと鳥や獣の楽しみは違うだろうが、ヒトしかしない楽しみが必ずしも上等とは言えず・・妙な顕示欲の連中と逢わないように、引き籠りも又楽しからずや~~♪

    1. ハシビロコウさま、有り難うございます。

      資本主義の原則は本能と同じで拡大ですから、最後は前後の見境ない状態が普通と言えるかも知れません。
      Youtuberなどは資本主義と言うより、もうすでにマルチか博打の領域ですが、その良い面だけを見てみんなが目指すは、トイレットペーパー騒動に踊らされて、買い占めに走っている姿とそう大きな違いはないだろうと思います。
      楽をして儲けようとすれば悪い事をするか、或いは危険かどちらかだから、まず自分食べる事を何とかして、余裕が有ったらチャンスを待ってそれをやる、祖母が良く言っていた事を、今私が次の世代に言って聞かせるようになった。
      しかし、聞いている方はそんなことは解っていると言いながら、本当は何も分っていなかったりして・・・・(笑)

      コメント、有り難うございました。

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