「日本の総自給率」・Ⅱ

更に呉服屋の場合は着物の販売が本業だった訳であり、見合いの斡旋と言うサービスが本業の売り上げを超えていない。

ところがサービス業を更に超えたサービス業ともなれば、こうした呉服屋の本業が停止し、見合いの斡旋と言うサービスで売り上げを上げようとするものであり、こうしたサービス業の本質は「本業を持たない職業」または「本業が確定しない職業」とも言え、これを農業などの産業を第一次産業と呼称し、家電製品生産などの産業を第二次産業と言うとしたらサービス業などは第三次産業と言う呼び方をしたが、呉服屋などの販売は第三次産業であることを考えるなら、現代社会の結婚斡旋業的サービス業は第四次産業と呼ぶべきものかも知れない。

そしてこうした産業は何も時代を追って発展してきた訳でなく、あらゆる機会にあらゆる形態でどの時代にも存在したが、商いと言うものの本質は「詐欺」であり、こうした度合いはその産業次数が上昇するほどに純度を増してくるものである、すなわち原価より遥かに高い消費を我々はしている事になる。

また現在日本のGDP(国内総生産)に占めるサービス業の売り上げ割合は実に70%を超えていて、これはどう言うことかと言うと、日本経済の70%が物を作って売っているのではなく、口先や笑顔と言った「気分」若しくは「時間」を金していると言うことであり、その生産はどこで行われているかと言えば、殆どが第三国となっていて、それがあっちこっち動くことによってその度に加算される手数料で、日本経済が成り立っていると考えた方が良い。

少し乱暴な言い方をすれば、原材料調達費を加算するなら、日本と言う国に存在する「あらゆる物」の7割は何らかの形で海外に依存しており、全ての物について日本で生産しているものは3割と言うことなのかも知れない、いやこれでもその割合は高く見積もっているかも知れない。

呉服屋で言えば、その呉服の全てが海外で作られたものになって、しかも尚且つ販売は不振なことから、見合いの斡旋による手数料収入が本業になってしまったと言うところだろうか。

価格と言うものは需要と供給のバランスによって決定するが、それに近年は社会的容認度と言うものが加わってきているように思える。

原価千円で作られたものがいくらで売られるかは、勿論作った当事者の意向が最大限尊重されるが、それに需要、更には「値ごろ感」と言う社会的コンセンサスが必要になってきていて、こうした社会的コンセンサスが価格に影響を及ぼす経済状態は「飽和経済」と言うものであり、既にその社会に措いて個人が最低限必要とされるものは、全て満たされていることを示している。

経済の理論など本来そんなに複雑なものではなく、現実的、原理主義的なものだ。

しかし等価交換、つまり物々交換から始まって、そこに交換時期の時間差が発生した時点から時間の需要が現れ、それが等価交換ではなく紙幣や貨幣による代物交換になったときから、時間の需要に対する販売が始まり、やがて時間は利益と看做されることになったが、これは本来架空の生産を想定したものであり、そこに本質としての価値は無く、それゆえ現在の国際社会の経済と言うものは常に架空を追い求めているのであり、これが時々本質的決済が必要になれば「破綻」を迎えるのである。

またこうしたことが更に進んで「気分」が利益になる時代となった今日、例えば挨拶、または笑顔、その他素早い対応と言った、本来は人として、商いとしても当然であり、無償であるべきものが価値や利益となる社会は、その社会が満たされていると言う事と共に、いかに人間的な道徳心を失っているかと言うことでもある。

昭和の呉服屋はきわどいが、「呉服屋」と言う第三次産業をやっていた。

だからここで言うところのサービスとは呉服の提供であって、結婚の斡旋は呉服屋の本業とはなり得ないが、やがてこれが材料仕入れの無い結婚斡旋業となったときは、既に物品と貨幣の交換がなされておらず、従ってここからは「人心を扱う商売」、本来は金に換算してならない「人の出会い」を商う事になる訳で、現代日本社会はこうして本来は金に換算してはならないものを扱って、経済の7割が回転しているのかも知れない。

大阪の商人は良く「商売は自分を買ってもらうことだ」と言うが、このことと自分の魂を売り渡すことは、似ているように見えて決して同義ではない・・・。

※ 本文は2010年10月30日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています。

 

 

 

 

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

4件のコメント

  1. 「日本の総自給率」I・II

    好事家にとっては、自分の好み~物の価値に近いことも結構あるようだ。今は、新型肺炎の影響で、骨董市その他の定期市も中断されていて、そう言う業種の人もお客さんも、困っているだろう。
    物は、人も似たようなものだが、存在そのものが、価値が有るけれども、それぞれ別の価値が潜んでいるんだろうが、平等と勘違いすることも多い、それは逆に、そのものの価値を毀損することも多いようであるが、相互に気づかないで、重大な結果を招くことは、頻度が高いが、蔑ろにされていることも多いようだ。
    人の価値は、常にその状況如何に関わらず、それなりに有るが、社会関係で、その詳細は、色んな法則で変化して居るが、大抵のものは、一定の臨界を持って、著しく変化する。それに対して、現代社会は鈍感で、平等とか機会とか、仮想を前面に出し過ぎて、人を大きく不幸にしている、可なり歪な状況にしている。
    よくよく考えざるべからず~~♪

    1. ハシビロコウさま、有り難うございます。

      日本だけではなく世界中ですが、本来は金にしてはならないものを金に替え、価値の無いものを価値してきたからこそ、今のコロナ経済ショックが有る訳です。

      しかしこれで少し反省したかと思えば、相変わらず夢から覚めてはいない状態で、ハード部分を全く考えずに在宅ワークなどが騒がれている。
      物品がネット回線を通って送られていると考えているのか、或いは食料などが海水のようにどこかに沢山あって、その手配やサービスだけで何とかなると思っている愚かさが有る。
      この愚かさに気が付かない限り、何度でも危機やショックはやってくる。
      世界中が分裂病なのではないかと思えるほど、何も考えられていないことに、私などはより多くの危機とショックを感じます。
      やはり大災害でも来て、滅亡の危機に瀕さねば理解できないのかも知れませんね。

      コメント、有り難うございました。

  2. 「借金取り」

    魂は小事に宿る~情けは人の為ならず~~♪

    スタンフォード監獄実験は、ミルグラム実験(アイヒマン実験)の変奏曲であろうが、実験でもあんなに酷い知見を齎したが、現実では、それ以上の事が、簡単に起きるであろうことを予見させる。
    今は道徳教育は廃れ、単機能教育が幅を利かせているが(笑い)、高校生以上になってから、高次の行動(心理)学も教え、人の何%かは、一人で生きて行くには、困難な状況下にあることも教育すべきであろうと思われるが、共産主義者も宗教系も、まして況や、平等主義者の反対に遭って、言い出すことも出来ないのは、現行の憲法改正と似たような状況(笑い)。
    勿論、Fukushima 50のような人が、そう言う状況に成れば、出現する民族が居るのも確かだし、船が沈没しかけると、船長が真っ先に逃げ出す文化もあるが、そう言うことも含めて、本邦には、綺羅星の如く、利他的な方が歴史上居たのだから、全く知らせない、と言う選択肢が今行われているのは、何か新型ウィルスに脳が遣られているのかも知れない。

    間違いやすいが、他国の国民を殺すぐらいなら、自分が死ぬ方を選ぶ、とか言うバ〇が居るが、こう言う手合いは、最も信用に成らない。ひもじい思いを一度も経験せず、毎日美食に明け暮れている者が、いざとなれば、自分の食物を、他国の子供に譲る、と言ったって誰も信じない、こういうのを空論と言う~~♪

    1. ハシビロコウさま、有り難うございます。

      人は良い行いをした時、それを自分がやったと思っている。
      しかし自分も飢えに苦しむ中で同じ事が言えるか否かは、実はその現実に直面しなければ解らない。
      私達は良い行いができた時、優しさを貫けた時、それができる環境に在ったと言うだけの事なのかも知れません。
      そして飢えた時人に優しくすることが難しいからこそ、それを実行する事に価値が有り、またそれをやれた状態に感謝しなければならないだろうと思います。
      これは天意と言うものの考え方のスタートラインだろうと思います。
      現在コロナウィルスのおかげで、売り上げが無く苦しんでいる人も多いと思います。
      そしてこれを誰も助ける事が出来ない。
      それゆえ僅かでも人の役に立つことができたら、それをやらせてくれた社会、自分の環境と言った自分以外の力に感謝しなければならないと思います。
      俺が俺が、私が私が・・・と言う社会は愚かで傲慢に見える。

      コメント、有り難うございました。

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