「100円」

昭和50年代前半。

輪島の「朝市」はどこかこの時期を境界に「内」から「外」へ変遷して行ったように思う。

ちょうど地元商店街に対し、外から巨大資本のスーパーや百貨店が進出してくるのと同じようなものだが、輪島の朝市はこうした年代に、その地域の朝市から「観光の朝市」に変化して行った。

そしてこうした変化が如実に形として見えてきたのが、金沢から輪島へ向かう列車の乗客の姿、それも観光客ではなく、早朝の列車で輪島へ向かう乗客の変化だった。

石川県七尾市(ななおし)、輪島から50kmほど金沢方面にあるこの町は、輪島・金沢間の中間地点として金沢の会社が能登方面の営業所を置き、能登と金沢の分岐点として繁栄したところだが、七尾市には隣接する石崎漁港(いっさき・ぎょこう)と言う港が有り、実は輪島の台所の3分の1は、この石崎港が担っていた。

輪島の朝市に並ぶ行商のおばちゃんの中には、七尾石崎港から魚や惣菜を運んでくる人も少なくなかったのである。

昭和50年代前半、能登地域を走っていた列車はディーゼル機関車だったが、午前7時前後に輪島に到着する4両編成の列車の乗客の大半は、通学する高校生と七尾石崎港から大きな荷物を二段、三段と積み上げ、それを座席の隣に置く恰幅の良い行商のおばちゃん達だった。

輪島はこの時期漁港としては売上が少なく、同じ能登に有りながら内浦の姫漁港(ひめぎょこう)、宇出津港(うしつこう)、小木港(おぎこう)から見ると大型化に遅れた分だけ大きく出遅れた感が有った。

宇出津を本店とする「興能信用金庫」(こうのうしんようきんこ)の発足のきっかけが、漁師たちが稼ぐ膨大な金をその基盤にしていたことからしても、その規模は伺い知れるが、輪島は元々の性質として「生産」よりも「商い」を文化的な礎としていたのかも知れない。

また港が有るからと言って魚の全てが揃う訳でもなく、例えば九州玄界地方の一部と輪島で多く使われる「あごダシ」、これはトビウオをくんせいにした「カツオダシ」と似たようなものだが、今でこそ能登の特産「アゴダシ」とはなっているものの、その実輪島港では「カツオ」の水揚げが少ない事から代用品として発展したもので、観光化される以前の輪島市の住民に取っては、やはり「カツオ」が主で、「アゴダシ」は代用品だった。

そしてこのように輪島には不足しているものが沢山有った時代、輪島の朝市には遥50kmも離れた石崎港から、早朝5時30分には荷物をまとめて列車に乗り、雨の日も雪の日も路上で食品を売る、七尾石崎港のおばちゃん達が沢山、金沢発輪島行きの下り列車に乗り込んでいたのであり、朝市は多くの地元主婦達で賑わい、あちこちでシビアな値段の交渉の声がこだましていた。

だが昭和50年代半ば、観光を地元産業に発展させようと言う方針だった輪島市は、当時の風潮としては間違ってはいなかったのだろう、観光化に成功し、ホテルは連日満室、ドライブインはどこも人でごったがえし、海は人だらけで、あちこちで民宿が大繁盛する時期を迎えるが、これに比して朝市も観光客を主体とした形に切り替わって行く。

観光と言うものはどこかで麻薬のような魅力があり、それまで苦労して物を運び、シビアな交渉を経て初めて売れていた魚や野菜が、何の苦労も無く売れていく現象を引き起こし、少し景気が悪くなっても値段を上げて行けば、それで回収できる状態を生む。

付加価値なる言葉が日本の中を横行し、怠惰なことや見せかけが金になると考えるようにもなって行き、気が付けばこうした水物を嫌って真っ当な商いとして、輪島の住民を相手にしていた七尾石崎港のおばちゃんたちは締め出され、或いは世代交代から後継者がいなくなり、輪島の朝市から姿を消して行った。

やがて輪島の住民は朝市へ足を運ぶことがなくなったが、その理由は明白で、朝市の食料品その他の価格は市価より30%も高くなっていたからである。

地方と言う小さな社会が閉鎖的な時は、近郊と言う「外」から少しだけ大きな資本が入ってきて、それでバランスの良い競争が発生するが、交通網、通信網の発達はそれまで貧しくとも平穏だった地方に、身分不相応の資本を呼んでしまい、一度それを経験すると元の苦労ができなくなる。

今や観光資源となった輪島の朝市、その影で重い荷物を背負ったおばちゃんたちと、地域住民と言う、貧しくとも継続する資本を失った朝市はどこかでいたわしい・・・。

高校生の時、輪島に着いて列車から降りようとすると、余りにも重い荷物を担ぐことができす、近くにいた私に少し手伝ってくれと一人のおばちゃんに頼まれた事が有った。

私は気の毒に思って荷物の下を持って担ぐのを手伝ったが、おばちゃんは荷物を担ぎ終えると私に100円を差し出した。

金にならぬ労働など当たり前の百姓のせがれである私は、こんな事ぐらいで金を貰えないと言ったが、おばちゃんは笑って私にその100円を握らせ、歩いて行った。

時至って今日、何か有るとすぐに金で即決しようと考える私のその下地は、過日に見た七尾石崎漁港のおばちゃんから渡された100円の厳しさと謙虚さ、その潔さに対する憧れなのかも知れない。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 100円で魂売っちゃいましたか(笑い)。
    それ位前に、結構有名な出世した大名の下屋敷跡が都立公園になっている回遊式庭園をふらついているときに、袋菓子などを売っているオバチャンのリヤカー(懐かしい)が石橋で脱輪したのを見付けて、「オタスケマーン」とか叫んで、走って行き、助け上げたら、袋菓子を1個お礼に呉れました、謝辞したのですが、ニッコリ笑って強く押しつけるようにしたので、貰いました。後で考えて、貰ったのは正解だった気がします、日常と全く関係ないので、お互いの気持ちの交換。

    少年の頃、郷里では多分三斎市が有ったと思います。自家の農産品、加工品が多かった記憶があります、多分輪島が変化したと同年代に、詰まり高度成長期時代前夜頃から変化が有り、服飾品とか遠くの産品が多くなってきて、市は店数を増やしましたが、経済成長が広がって、常設店が増えて、その三斎市も従来の形に戻りつつあるように感じます。今でもほそぼそと、続いていますが、人口減少がその内、その市も立ち行かなくするような感じです。
    郷里では値段交渉は殆どありませんが、二品、三品と買うと、少し負けてくれる感じです。

    いたわしい、って暫くぶりで聞きました、嗚呼、何と懐かしき、良き言葉かな!
    一般的意味合いの他に、もしかしたら同じ使い方が、他所でもあるかも知れませんが、我が郷里では、とても愛する人のために、自分が大切にしているものを、お金でも良いですが、命でもいい気がします、躊躇無く使うとき、「なんもいたわしくねっ」と否定で使って、「全然惜しいとは思わない」という意味になるようです。
    この言葉もその内死にそう(笑い)。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      おそらく同じような時期に、やはり同じようにして日本全土でそれまでの何かが壊れていったのでしょうね。そしてバブルの崩壊に拠ってその以前を壊したものが更に壊れていった。結果として日本はそれ以降、1990年からずっと何かを探し続けて彷徨、今に至ってはある種の達観、或いは諦めと言っても良いか、そんな事になったのだろうと思います。昔の駅舎などは雑多な中にも必要なものが必要に応じて成立していましたが、今の駅舎などは最初に「美しさ」や「景観」が有り、人の営みや現実は無視されている感じがします。住人の為の駅ではなく、観光客の為の駅となってしまった地域が殆どではないかと思います。里山は唯自然が有るだけでは成り立たない。そこに人の営みが、かすかに昇るたき火の煙が有って成立する。人の営みを無視し、観光に傾いてしまった故郷は住みにくく、若者もまたその観光ゆえに故郷を離れていくような気がします。それにしても「いたわしい」と言う言葉に仰るような使われ方が有るとは知りませんでした。どこかで自身を一歩引いた謙虚さを基にした感情表現であり、そこはかとない優しさと強さを感じる表現です。現在では「痛い」と言う表現は見ていて気の毒、何か勘違いしていて滑ってる、或いは正視に堪えないと言うような使われ方をしていて、一見昔とそう違わないように見えて、中のボキャブラリーはスカスカのような、そんな言葉になってしまいましたね。

      コメント、有り難うございました。

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