「狭義の平等」

平等と言うものは、その反対の状態に在る者によって意識される。

 

今現在恩恵の中に在る者はこれを意識しない為、現実的解決を図ろうとするが、恩恵の少ない者が唱えるものは手続きや精神論となる。

 

そして政治や経済では突出が無いとその目標は達せられない事から、恩恵とは常にこれを受ける者が少なく、その恩恵を支出する者が多くならないと成立せず、支出額の少ない者ほど平等意識が高くなる。

 

つまり税で言うなら納税額の多い者は不平等を感じないが、納税額が少ないか、或いは納税を免除されている者の中で不平等感が発生する事になる。

 

この事から平等が意識される社会とは基本的に貧しい社会と言え、平等を権威の担保とする社会は公費負担が唯の負担でしかなく、そこに発展的発想は生まれない。

 

常に過去の処理と手続きに追われているに過ぎず、これまでは公費負担の少ない者より公費負担の大きな者の発言力が大きい状態が続いてきたが、ネット社会ではこれが逆転し、公費負担の少ない者の意見が席巻するようになった。
こうして発生する平等意識は一般庶民のそれぞれの事情が大義に露出した状態になり、それぞれの個人が持つ価値観が「共感」で左右され、その事をして大局的社会道徳やモラル、権威の質が侵食を受けた状態になり、民衆が持つ価値観に対して説明や手続きの公正さ、正統性の担保に対する正当性と言った、本来の目的以外の「説明と言う社会サービス」が重要性を持ってくる。

 

つまり平等意識を持つ民衆に対し、公正さを示さねばならなくなるのであり、こうした手続きが煩雑になり、本来の目的が遅延してくる状態の社会を「平等至上主義」と言い、ここでの平等はその社会の一番不平等な状態をして基準が為される事から、本当に些細な事や、本題とは全く関係の無い人間性や思想、プライベートにまで民意の干渉が現れ、やがてこうした傾向が社会的モラルや道徳観を形成するに至る。
これが「手続き説明社会」と言うものである。
理化学研究所のSTAP細胞問題は、本来問題ではない。

 

科学の最先端では失敗や間違い等不安定な事が起こるのは普通の事であり、これを無駄だとしたら科学等成立しない。

 

民主党政権で蓮舫議員が「仕分け」を行った結果、日本の科学は大きく後退してしまった事を見ても明白なように、納税を担保にあらゆる事に対して説明や弁明を求めていたら、失敗や理解されない発想こそがその根源である科学の発展など在り得ない事になる。
今日本の民衆が理化学研究所に対して抱いている感情は、明らかに過干渉、越権行為なのである。

 

STAP細胞は、例え1%の可能性でも存在する可能性が有るなら決して破棄されてはならない「可能性」であり、その発見のおかげで、未来に措いてどれだけ人類に大きな恩恵をもたらすか計り知れず、その先には人類に生命とは何かを問う大きな課題を提起し、人類が次なる知性を得る事が出来るか否かが問われる重大な意味を持っている。

 

確かに国民の税金が使われている事も事実だが、そこで理化学研究所に説明責任を求める民衆のその個人々々の納税額は、果たして説明に責任まで付加できるものかどうかは謙虚に考える必要が有る。

 

震災復興ではもっと多額の使途不明金が発生していて何も問題にならず、東京電力でも国家予算の何%と言う単位の税金が使われながら、彼等は国民に対して納得できる説明をしているだろうか。

 

更に言うなら代議士や地方議員の活動費用は正確に公開されているだろうか、国家公務員の個人的支出が問題になるだろうか、支給された年金の支出内訳を我々が個人に求めることが出来るだろうか・・・・。

 

民衆が言う「説明責任」にはこうした部分の区切りが無く、しかも自分の事は省みられず、唯自分の事情の憂さ晴らしの為に騒いでいる部分が全く存在していないと言い切れるだろうか。

 

人が死ぬ形で最も辛いのが餓死と強要された自殺であり、その次が自殺、そして殺害される事、病死や事故死の順で有ろうかと思われる。

 

理化学研究所再生発生科学総合研究センター、笹井芳樹副センター長を自殺に追い込んだその遠い所に、私は民衆の持つこうした狭義の平等感の影を感じざるを得ない。

 

彼を死に追いやった一端は、国民が持つ狭義の平等感、言い換えれば「僻みに近いもの」が、税金が支出されていると言う事を通して鋭角化され、個人事情の集積によって責任にまで拡大した擬似正義意識、国民が持つ本来は何も無いところに組み合わせ上発生した擬似権利意識に有ると言えるのではないか・・・・。

 

科学が持つ可能性と言うものは、必ずしも今日明日すぐに役に立つと言うものばかりではない。

 

場合によって何十年、何百年のスケールが必要なものも多く、これらを研究にするに当たってその研究費用を株式市場や個人支出によってまかなう事は困難であり、資本主義に独占された場合の危機を考えるなら、その研究費用が公費で負担される事には正当性が有る。

 

しかしだからと言って、国民の税金が支出されているからと言って、研究者が今日明日に結果を出せないからと責められたり、資材の1個、弁当の一つを買った事まで説明する責任は無く、研究成果が途中で有るからそれは失敗と世論が判断してしまっては科学など成立しようが無い。

 

いわんやプライベートなことや、その手法に付いて、納税を盾に説明責任を主張する大衆の有り様は甚だ過ぎた権利意識と言うものであり、笹井副センター長はこうした社会の有り様と、日本の科学界に蔓延するマニュアル、手続き主義によって押し潰されてしまったのではないだろうか。

 

惜しい、余りにも惜しい・・・。

 

STAP細胞に付いて世界で一番多くの知識を持ち、その意味を理解し、STAP細胞が疑惑にされてしまってからは、小母方晴子博士の心情も最も理解していただろう笹井副センター長の死は、世界の損失、世界の未来に対しての嘆きである。

 

小母方博士はこれで一番最後に帰って行ける家、何か困ったことが有ったら泣いてすがる事の出来る、唯一の理解者を失ったかも知れない。

 

その死を悼んで思い切り泣いたとしても誰も責めはしない、命の限り泣くがいい・・・。

 

だが涙が枯れたら、またSTAP細胞の再現実験を続けて欲しい。
笹井副センター長もSTAP細胞は必ず有ると言っていた、私もそれを信じている。
そして先にはこの宇宙の秩序が、自身が破壊される事を待っている。

 

笹井副センター長の思いを胸に抱き、宇宙の秩序に挑め・・・。
それがあなたに与えられた、あなたにしか出来ない事なのだから・・・・。
[本文は2014年8月7日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。