「拡大の制御と制御の拡大」

脳の制御機能を調べる方法として、一定の課題を持ったゲームでこれを計る方法が有る。

お菓子が出てきたらその画像をタッチし、狼が出てきたら手を動かさないと言った簡単な形式のものだが、この制御機能測定では殆どの子供がエラーを出す。

この事から人間の持つ制御機能の一部、または大部分が経験によって形成される事が類推され、例えば近年の若者は「キレ易い」と言われるが、この原因は自分を制御、抑制する経験の不足によって、制御に関するニューロン、シナプスの不完全成立現象が発生し、制御不能に陥るからかも知れない。

制御には他動的制御と自己制御が有るが、他動的制御とは子供に対して親などが干渉して制御する事であり、自己制御は経験数値である。

従って生まれて間もない時期は他動的制御が主流になるが、この他動的制御に自己の経験が加わる事で自己制御に発展する場合と、親などが加えた制御を敢えて冒し、そこから他動的制御の正当性を理解した場合にも自己制御が発生する。

そしてこれらは反復して繰り返される事によって、関連するシナプスやニューロンの数を増やし、多くの視覚と記憶に連結して社会的モラル、若しくは社会性と言うものを自己形成し、そこから制御の限界点が発生してくる事になる。

つまり制御は訓練によって形成されている部分が存在し、この中で親があれもこれも規制してしまうと、経験数値が減少し、結果として制御機能は低下するが、全く制御を加えないと基礎になる部分が形成されない可能性が出てくる。

簡単に言うなら親や周囲の環境が持つ社会的モラル、社会性が子供の社会的モラルや社会適合能力の基盤となって、それが実際の社会的接点の多数によって成熟した状態が必要となるが、親や環境と言う基盤が不完全だと、子供は不完全なまま脳の社会適合能力を完成させる。

その意味では親が所属する社会、広義の社会秩序が重要なのであり、これが不安定だと、やはり子供の制御能力は不完全になる。

例えば「嘘を付いてはいけない」と言う課題が有ったとして、このことが整合性を持つ社会であり、称賛される社会で有れば、子供は「嘘を付いてはいけない」と言う「嘘」に対する制御を獲得できるが、現代のように総理大臣からはじまって嘘が平気でまかり通り、金の為なら何でも許容する社会だと、子供は例え親や周囲の環境が正義を説いても、社会接点で壁にぶち当たる事になる。

そしてこうした事が反復されると、制御の概念そのものが拡大し意味を失うか、或いは制御能力の欠損を引き起こす事になり、前者が「引きこもり」であり、後者が「キレ易い」と言う状態と言える。

また制御は行き過ぎると「抑制」となり、抑制が行き過ぎると行動否定が発生してくる。
「あれも駄目だろう、これも駄目に違いない」と、何も行動しないうちに判断してしまう神経伝達回路を広げてしまうのである。
この傾向は親が有る程度の地位に在る場合に多くなる。

制御と拡大の本質は同じである。
自己行動否定回路の拡大は「制御」の「拡大」であり、拡大の制御が行き過ぎると制御が拡大される訳であり、この両方の拡大に関っているものが「その他」の全く関係の無い視覚や記憶なのである。

人の理解とは全てが合理的と言う訳では無く、殆どの部分が非合理的なところから発生してくる。
制御の崩壊時、感情はそれまで記憶しているあらゆる事柄に付いて、その感情のフィルターを付けた状態にする。

それまで青や黄色、黒、白もあったのに、一瞬にしてそれを真っ赤にしてしまい、この反対の状態の時には全てを青にする。
怒っている時は全てが怒りになり、穏やかな時は過去の忌まわしい出来事すら満ち足りたものとする。

更に我々が記憶と思っているものは、どこかに片付けられていたものが出てくる訳ではなく、その都度構築されているものであり、この意味では人間の記憶とはその瞬間に作られているものなのであり、怒りの感情の時は先に怒りの感情が有って、過去の関連する記憶が集められる。

簡単に言えば我々は怒りたくて怒っていて、穏やかな気持ちになりたいから穏やかな気持ちになっている。
何々のせいだ、奴があんな事を言うからだ、と言うような環境原因で自分が怒ったり笑ったりしているように思うかも知れないが、それは違う。
感情の種はその発動の以前に存在している。

インターネットが身近に在る環境はそう素晴らしいとは言えない。
特に子供が長い期間をかけて醸成しなければならない「制御」の部分では、インターネットの環境はその対極となる存在と言える。

眼前に社会の接点が無い状態は、脳の拡大が露出した状態であり、いわば制御が無い状態なのである。
予め制御を失っている者は「他動的制御」を無尽蔵に撒き散らし、制御が行き過ぎた者はこの「他動的制御」を必要以上に恐れ奴隷化し、それが瞬時にひっくり返る場合もある。

つまり実体が無いだけに自分の脳がそこに露出している事に気付かず、しかも子供の時からこうして制御が崩壊している状態を繰り返すと、やがては制御、「我慢」や「人を思いやる気持ち」が薄くなり、女を見れば襲い、金が欲しければ脅して取り、むしゃくしゃして人を殺す、そんな社会が出来上がる訳である。

社会と個人は車の両輪である。
社会が混乱すれば個人の心は乱れ、個人の心の乱れは社会の混乱である。

[本文は2014年8月9日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。