「塗師の起源」

人間の考え方として、何かの技術や文化に流れを付けて考える事は容易だが、近似DNA を持つ生物の間では同じ時期に同じ技術や文化が全く互換性のないまま発生する、「逆べき発生」の可能性を排除してはならないのかも知れない。

漆塗り技術などはどうしても中国にその起源を想定したくなるが、確かに現在の漆芸技術の大半は中国、朝鮮半島渡来のものと考えて良い。

だが中国最古の漆器は今から6200年前のものであり、これに対して日本では今から9000年前には北海道で、それより古く12600年前には現在の福井県で漆器が生産されていた形跡が発掘されており、これらに鑑みるなら日本の漆器こそが漆器のルーツである可能性も排除できない。

だがその一方、確かにこうして見るなら日本に措ける漆器の歴史は一貫性が有る様に見えるが、日本の文化が縄文時代と弥生時代で完全に分断している現実は、漆塗り技術や文化に関しても同じ傾向を持っていて、すなわち現在日本で使われる「塗師」と言う制度や概念は縄文時代、或いはそれ以前に存在していた漆塗り技術や概念の流れを汲んでいない。

弥生文化は日本古来の宗教観が持つ平面的展開を高さに変遷させたように、朝鮮半島渡来文化は漆塗り技術も変遷させている。

この朝鮮半島渡来の漆芸技術の根本が日本から中国大陸へ伝播したものの逆変遷か、或いは中国独自の発展技術なのかは不明だが、縄文後期から弥生前期の時点で、それまでの日本の漆芸技術や文化は失われ、そこに現在まで続く朝鮮半島渡来漆芸技術、渡来文化が花開き、今に至っていると考えるのが妥当である。

縄文期の漆器産品は装飾品や酒器と推定される物が多いが、弥生期にはこれが失われ、武具やそれに関係した物が多くなる。

その後古墳時代や律令国家になった日本の姿は、それまでに存在していたローカル文化が中国大陸と言うグローバルによって駆逐を受け、そのグローバルの中で僅かに影を残す事になったと推定される。

よって日本漆芸は間違いなく世界最古の歴史を有しているが、現在に残っている概念は朝鮮半島渡来の漆文化で有る事を否定する根拠を持たない。

塗師の「師」の日本に措ける文字起源は「工」に有り、この「工」は血縁関係の職業集団を意味していて、鉄の生産に伴い伝播した中国の金属生産組織に由来している。

律令国家に出てくる「部」を形成する前段階の組織と言え、これが10世紀前後にはその仕事に携わる者を「師」として来た経緯が有り、その代表的なものが「仏師」などの表現であり、やはり脱乾漆技法などの伝来に鑑みるなら、塗師の起源はこうした仏像製作の中で発生してきた概念で有ると考えるのが妥当かと思う。

そしてこうして発生してきた塗師が、権力の拡散である貴族社会から武家社会への変遷の中で次第に庶民化し、ここに商業的庶民塗師の家内制手工業が発展した時、これらを統率して漆器を生産する組織が発生したが、これを「塗師屋」と言う。

従って「塗師」の起源は古くても1000年、これが「塗師屋」になればその歴史は比較的浅いものであり、江戸中期から昭和60年前後までの組織概念だったと言う事になろうか・・・。

この事から輪島の塗師屋組織が職種分業制だったのは、それが塗師屋によって構成されたものではなく、塗師屋が職業分業制の上に組織を乗せて行ったと言う事である。

最後に「脱乾漆」技法は主に仏像などを製作する時に用いた技法で、本来は木の芯に粘土を付けて型を作り、そこに漆を塗った布や糊で紙を重ねて貼って最後に漆を塗って仕上げる技法で、現代でも「脱乾漆」技法と表記した製品や作品が製作されているが、現代のそれは石膏AとBで型を取り、そこに布などを貼って仕上げている事から、基本的にこれは古典漆芸技術とは異なる、所謂西洋造形技術との融合、現代版ヘレニズム技法と言う事になろうか・・・・

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 後世の方は、調べる手間が省けて身につかないかも知れませんが、よく勉強に成りました。

    多所、同時発生的に形状、機能が類似の生物が発生しても、根本が若しくは、系統が全然違うと言うことは良くあるようです、例えば有袋類の一連の動物が、哺乳類と結構似ている、勿論交雑は有りません。

    文化は、条件と必要に従って、違う場所で、似たような事が起きることは有るでしょう、それらが接触すれば、新しいものが出来る可能性は増す事でしょう。
    より需要や何かの刺激が有った方が、より発達する機会が、必然的に高まると思います。
    日本の漆が、古い起源を持っているというのは、何となく力強いお話しです。
    石器も相当古いというか、原初発生の可能性もあるらしく、もしかしたら生活が比較的し易くて、余暇を使ったか、必要が発明をもたらしたか・・哲学的命題に成りそうです(笑い)

    カラハリ砂漠のコイサン族(ブッシュマンもその仲間)は、暇は、相当ある様ですが、15000年ぐらい前から、余り変わらなかった様です。
    自分はこっちを選ぶ気がします(笑い)

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      有袋類のお話はまさにその通りでしょうね・・・。
      漆器技術でも縄文期の思想や技術は弥生期に渡来した朝鮮半島経由中国大陸技術と融合した部分は少なく、むしろ駆逐されたと言う表現が正しいように思います。
      主に寒冷化がその要因ですが、縄文期には温暖だった気候が弥生初期には寒冷化してきて、既に衣装から始まって朝鮮半島渡来の装束が必要になってきます。現在の日本でも太平洋側ではコップに残った半分の水を「まだ半分残っている」と概念する傾向を持ちますが、これが日本海側だと「半分しかなくなった」と言う概念が多数を占める事になる、気候の及ぼす精神的影響はとても大きく、これが組み合わさって縄文期と弥生期は激変したのでは無いかと思います。そしてこうして激変した縄文と弥生の美的概念は、やがて貴族社会から武家社会の変化に伴った軽微無常観の「侘び、寂び」の思想に拠って色彩的変化を起し、これを決定的にしたのは「千利休」で、それまで朝鮮半島渡来の極彩色の様式が「草鼠色」と言う日本独特の色になって行ったのではないかと思います。
      まっしかし、今の日本のような「ええじゃないか」社会も、これはこれで良いのかも知れないですね(笑)

      コメント、有り難うございました。

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