「日本の暴動」・後編

暴動の概念は治安を崩壊させ法を無視して収奪、暴力を行うことだが、これはあくまで支配階級の側に立った物言いであることは事実で、実際暴動が起こるときはそれなりの理由が発生している・・・かもしくはそれを扇動、推し進めたい意図があるからで、こうした意味では、暴動を起こした側からすればそれ自体に何らかの要求がある。
それは宗教思想の自由なのか、あるいは生活が困難なことを訴えるのか、または政治に対する不満なのか・・・だが、過去日本におけるこうした暴動、乱と言ったものの背景には必ず「食べて行けない」と言う事実が存在し、そしてこれは洋の東西を問わず暴動の基本原理の1つでもある。

日本にその記録上始めて一揆が起こったのは南北朝時代からだと言われているが、この時代の一揆はその原因に「徳政令」があり、すなわちこれは全ての契約を無効にする、例えば借金の証文などはそれが無効になるという、麻薬のような制度があったからで、人々はこうした徳政令を求めて一揆を起こす傾向があった。
つまりこの時代の一揆はそれを起こす動機があったからだ。

歴史に名高い土一揆は「正長の土一揆」だが、1428年に起こったこの一揆の背景は宗教ではなく庶民の生活にあった・・・、京都、奈良の寺院に土民が入り込み品物を収奪、借用証書を破棄していったのは、唯でさえ高い年貢を荘園領主から収奪されていた領民が、その上これらが営むか、もしくはこうした荘園領主や幕府と通じた高利貸しによって、高い金利の金を借らざるを得ない状況に追い込まれ、なおかつ経済的に破綻してしまったからだった。
畿内一円に拡大したこの一揆の痛手は大きく、荘園制度は衰退、幕府もどんどん力を失っていったが、これから後に起こる嘉吉の一揆(1441年)や、享徳の一揆(1454年)などは明確に徳政令目当ての一揆であり、幕府や荘園領主は徳政令をだして こうした一揆をしのぐが、それはまた次なる一揆を起こさせる原動力にもなる危険な薬だった。

またこうした徳政令目当ての一揆とは別に影で扇動するものがいる一揆、言わば政治的背景を持った一揆は、苦しい農民が荘園領主や国人の対立を利用する場合と、荘園領主や国人が農民を利用する場合があったが、いずれにせよ、一揆とは非常に利用され易いものであったことは確かだ。

そしてこうした中で日本で2回あった大きな宗教一揆が島原の乱であり、一向一揆だが、両者には似て非なるものがあり、島原の乱は確かに小西行長の遺臣が先導したものの、その役割はやはり宗教的意義の方が強く、結果として全員が死んでいることを考えれば、その性格には純粋なものが感じられるが、一向一揆には政治的な意図が感じられる・・・、このことから両者を一まとめにして宗教一揆とできない理由が発生するのである。

蓮如の北陸布教で形成された本願寺門徒は農村の国人、中小名主層、一般農民が中核となっていて、彼等は末寺の坊主を中心にして門徒組織を作り上げ、この組織を利用した国人門徒と一般農民門徒が結集して、守護勢力に対して武力抗争を起こしたのが加賀一向一揆であり、これによって守護の富樫政親(とがし・まさちか)を滅ぼし、以後100年に及んで加賀は「百姓の持ちたる国のようなり・・」となる。
しかしこの一揆は戦国大名の支配に対する抵抗・・・、つまり政治的なものであり、こうした点では同じ宗教が冒頭にあっても、島原の乱とは全くその性格が異なるものだった。

一向一揆を書けばそれだけで数冊の本になってしまうので、この記事では全部紹介できないが、今夜はわかり易い例として一人の女の目を通して見た、一向一揆の本質を書いておこうか・・・。

一向一揆が次第にその勢力を拡大し、越前にまで攻め込む勢いになった頃、1500年前後のことだが、このときの一揆の首領たちは越前で迫害を受けて加賀に逃げてきた本願寺の僧侶たちだった。
「かの雪辱を晴らすときは今・・」僧侶たちは農民を煽り立て、仏の力を今こそ世に示さん・・・とばかりにはやし立てる。
「いけ、いけ・・・かの者どもは仏敵である、生かして返せばこのこの世は無間地獄となろう・・・、敵に一歩でも切り込む者の歩む道は極楽浄土の道、敵に後ろを見せる者はそこから既に地獄の道となろう」

農民たちはこの言葉を信じて越前攻めを敢行、死に物狂いで戦うが、戦上手の越前朝倉氏の反撃は鬼神の如くすばやく、その上勇猛果敢だった・・・、敵地めがけて進軍した一向衆は惨敗を喫してしまう。
そして多くの農民はこの戦いで死んで行ったが、勇ましい言葉で農民たちを煽っていた僧侶たちはこそこそと加賀へ逃げ帰った。
しかしこうした戦局にもかかわらず、一人越前にとどまり奮戦していた土豪が、石川郡松任組(いしかわぐん・まっとうぐみ)の「玄任」と言う男だった・・・、彼の組は総勢300人、たったこれだけで朝倉軍を足止めし、最後まで果敢に戦い全員が討ち死にした。

この戦から程なく、亭主を失った「玄任」の妻は越前から逃げ帰った僧侶の所へ来て涙を流す・・・、僧侶は同情して殊勝な面持ちで彼女を慰めた・・・、「さぞ辛かろう、がしかし命あるものは必ずいつかは別れ行くもの、それが人の定めである」
「此度のそなたの亭主殿の働き、教えを信じてのあの果敢な戦ぶり・・・、仏が救わぬはずがあろうか・・・、さあいつまでも泣きくれていてはならん、冥福を祈るのだ、私も読経をして進ぜようほどに・・」

そのとき玄任の妻はおもむろに顔を上げると、「いえ、私は何も亭主と別れてしまったから泣いているのではありません、お坊様、あなたを思って泣いているのです・・・」と言うのだ。
つまりこうだ、戦いが始まるとき敵に向かうものは極楽行き、逃げる者は地獄行きだといったから、亭主の極楽行きはまず間違いないが、逃げ帰った僧侶は無間地獄に落ちるに違いない、それを思うとかわいそうで泣いているのだ・・・と言うわけだ。

この妻、相当悔しかったに違いない、戦を煽って人々や亭主を戦地に送り、負ければ自分だけ帰ってくるその姿勢を痛烈に非難しているのだろうが、この話は妻の心の優しさとして記録に残っているあたり、妻の悔しさに同情した誰かが、亭主が死んでも人のことまで心配する愚かな女として残したのであり、これが僧侶批判が明白なら一向宗門の記録には残らなかっただろう。

一向一揆は一見被支配者による支配階級への抵抗に見えるが、その内容は多くの問題を含んでいて、中にはこの僧侶のように言葉で農民を煽り、自分は被害を被らずに、うまい汁を吸おうとした者も多かったのである。

どうだろうか同じ宗教が名目の一揆、支配階級からすると「暴動」だが、島原の乱と一向一揆の違いを感じてもらえただろうか・・・。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 暴動の仕分けは、色々それぞれの特徴があるのだろうなぁ。

    基本的には、食糧確保が、動機の気がするが、それを修飾する政治的外見とか宗教的内面とか色々有るのだろう。
    宗教人で、奉仕が、講和を含むけれど、活動の中心である場合は、宗教の範囲を守っているように思うけれど、勧誘・改宗が、基本ならば、政治的野心・権力闘争の変形として、しっかり対処しないと、手段が目的化して、道を誤っても気づかない事が多いかも知れない。

    文明の衝突についても、視点はキリスト教+アメリカ的自由主義(金権資本主義)の視点からであり、神道~仏教徒である日本人が無暗に有難がるのは、自己に対する洞察が、不足している。
    日本のリベラル~反政府的多くの言論人が、日本人であることの僥倖を享受している事を、忘れて自分が立っている、荒海の小島を全力で崩している、バ〇なのかも知れない、という恐れを全く感じて居ないようで、それを守っている名も無く、大声を出さない人々の共感を得ていない、という事が分かって居ないようだ。

    底辺の人日の視点を失っている議論は、いずれ滅びるだろう~~♪

    1. ハシビロコウ様、続きです・・・。
      対して欧米ではフランス革命を始め、その多くの暴動が一定の効果を上げている事から、暴動が起きやすいとも言えるのかも知れません。しかしロシアや中国のような事をしていると、暴動は起きない代わりに、何かが発生するとそれまでの為政者は絞首刑になり、一挙の国家崩壊へと向かってしまいます。
      平安末期の平清盛なども、晩年はプロパガンダを強化し、言論を封殺して滅んだ事を思えば、暴動が起きてくれる社会はまだ救いがあるとも言えるかも知れません。
      記事の最後の方に出てくる女房、多分悔しかったんだろうな、そしてそれが検閲に引っかからないように褒め殺す事で、自分を表したんだろうと言う気がします。
      結構感動したものでした。

      コメント、有り難うございました。

現在コメントは受け付けていません。