「日本の暴動」・前編

海外から見ると日本がとても不思議に見えることがあると言うが、その1つに「暴動」の少なさがある。
どうして日本人はこんなことまで我慢しているんだ・・・と言う海外の友人は少なくないが、私からすれば暴動を起こしてどうにかなる話か・・・とも思ってしまう。

日本は官僚政治が1600年、封建政治が1000年と続いていることから、自然に半管理体制を「安定した」形と捉える傾向にあり、こうした社会では物を言うと、それに対して責任を負うことが面倒になる。
すなわち半管理体制に国民全体が何らかの関与をしている・・・、例えば自分が行政の批判をしようと思っても、誰か親族にはその関係者がいたり、そう言う立場のものがいたりすることから、発言は控えられる、またバブル経済以降の「金が全て」の傾向は、それまであったイデオロギーの価値観を随分と低下させ、個人主義が経済至上主義と相まった形で横行するようになった。つまり「腹の減ることはしない」民族へと変化してきたことがその要因だろう。

では日本の過去にも暴動が無かったのか・・・と言うと、江戸時代などには頻繁に一揆や打ちこわしが行われているが、暴動と言うものの1つのラインとして「食べられない」ことが、ここでは浮かび上がってくるのではないか、つまり少し乱暴な言い方になるが、過去の日本では「食べられない」と言えば明日からの生活そのものが破綻していたが、現在は苦しいと言っても明日から食べて行けない人の数が少ないから暴動にならない・・・とも言えるように思うのである。

そしてこうした背景を見てみると、貧しさがイデオロギーを活性化している事実もまた見逃せないのではないか・・・、腹いっぱいの人間はものを考えないが、腹が減った人間はいろんなことを考える・・・、その中で「どうして自分が・・・」とか「何故自分が・・・」とか考え始めたときから陳腐ではあっても思想が、また政治が、宗教的なものがその背後に忍び寄り、そしてそれは暴動へと発展していったのではないかと思うのである。

今夜はこうした観点から日本で起こった宗教的騒動、「島原の乱」をみてみようか・・・、ちなみにこの記事を前編としたのは、北陸で起こった一向一揆との対比を想定した為で、同じ騒動であっても前者と後者では背景に潜む宗教的精神性が大きく異なるからだ。

鎖国政策を進めた徳川幕府、その主な目的は封建制度の確立にあり、他国による経済的影響から封建制度が崩壊することを防ぐのが目的だったが、その一方ではキリスト教の問題も何とかしなければならない大きな問題だった。
初期徳川家康はキリスト教を認めないながらも黙認したが、その結果キリスト教信者は数十万人に達し、イエズス会、フランシスコ派、ドミニコ派などが全国に及び、これは各藩の封建的支配に危機感を生じさせ、既存宗教や儒教関係者は宣教活動に領土侵略の意図があると流布し始めた。

またキリスト教の一神的性格からくる他宗教への排他性、それは神社や仏閣などの破棄にまで及んできてしまい、一夫多妻が常であった当事の支配階級にとっては、これを否定され自殺も禁止となれば、それまでの武士道の価値観をも否定されることになっていった・・・、加えてこれが一番大きな要因だろうが、それまで一向一揆などに悩まされ続けてきた支配階級にとって、信者等の団結による一揆が最も恐ろしかったのである。
こうした背景から幕府のキリスト教禁止とその弾圧が始まっていくのだが、この支配階級の恐れは、くしくも「島原の乱」で証明されることとなった。

1637年、この時起こった「島原の乱」は最終的には「徳川幕府」対「天草四郎時貞」が率いる民衆の対立となってはいるが、その当初は島原領主「松倉重政」、天草領主「寺沢堅高」の過酷な領民支配にその原因がある。
したがってこれは一種の百姓一揆だったのだが、この地域に多かったキリスト教信者への弾圧に対する抵抗と結びつき、それで大一揆となった。

1629年から始まった有名な「踏み絵」によるキリスト教迫害は、キリストやマリアの絵や彫刻を踏ませて、信者か否かを調べたものだが、長崎ではこれが正月の年中行事にまでなってきていた。
また島原、天草はもともと地味の低い貧しい土地柄にもかかわらず、両領主は農民に過酷な税を課し、キリスト教信者が多いこの地方の住人に対して、残酷な方法でその信者を処刑して見せしめにしたばかりか、一般農民でも年貢未納などには厳しい制裁を加えていた・・・、そのためこの地域では餓死者、主に子供や女、年寄りたちだったが、彼等が眼前で衰えて死んで行き、自身も食べるものがない状態だった農民の救いは唯一つ、「神」や「マリア様」だけだったが、それすらも見つかれば「死罪」とあらば、もはやこの世に生きる望みなどなかったのである。
またキリスト教信者でなくても、年貢が納められなければ容赦ない取立て、苛酷な仕打ちに苦しんだ一般農民にしてもそうだ、もはや生きる希望などなかったのだ。
これが「島原の乱」の原因である。

従ってこの乱の参加者はキリスト教信者だけではなく、仏教徒の農民もいたのであり、一揆を指導したのは旧領主「小西行長」(キリシタン大名)の遺臣たちだった。
つまり乱を起こさせたのは旧勢力の不満分子、キリスト教弾圧に苦しむ信者、過酷な取立てに苦しむ農民の、三者の利害や目的が一致したことに端を発していたものであり、島原、天草の領主は結果としてその政治的手法で、始めから多くの領民を敵に回していたのだ。

奇跡を行うという16歳の天才少年、「天草四郎時貞」(益田時貞)がこの乱の首領となったのは、集まった民衆にキリスト教信者が多かったこと、またこの天草四郎と言う少年の突出したカリスマ性が、そうさせたものだったと思うが、これに対してコントロールを失った島原、天草の領主に変わって幕府が直接関与を始め、九州の諸大名を動員し、3万7000人の農民たちに対し、12万の大軍で包囲する。

しかし信仰に裏打ちされた農民を攻略するのは容易なことではなく、もはや今生での幸福は棄て、来世で救われることを望む彼等の前には「死」すら恐怖ではなくなっていたのであり、こうした者たちには初めから勝利も敗北もない・・・つまり幕府は神や仏を相手に戦っていかざるを得なかったのである。
幕府総指揮官「板倉重昌」はついに討ち死にしてしまうが、変わって登場した知恵伊豆こと、「松平信綱」は残酷な兵糧攻めを決行・・・、その結果この乱は鎮圧できたが、乱の首謀者、その幹部、端末の農民に至るまで唯1人の裏切り者もなく、乱に関係したものたちは死んでいった。

人にして人にあらず・・・、女子供まで、それも激しい憎しみに満ちた顔ではなく、むしろ刀を持った武士たちを憐れむかのように穏やかな顔で、またあるものは何の抵抗もなく祈りを捧げ、われ先にと切り殺されようとする・・・、こうした者たちが見せた戦闘力と結束は幕府を震撼、いや恐怖に陥れた。

この後幕府は寺請制度を実施する、国民1人1人までどこかの寺院に属させて、これを檀家とするようにし、宗旨人別帳を作成・・・・、キリスト教信者の根絶を図ることになるが、これは国民全体に実施され、その結果この制度は戸籍と同様の効力を持つにいたり、婚姻などでも寺院から檀家であることの証明「寺請証文」がなければ結婚できなくなるのである。
そして幕府の厳しいキリシタン弾圧は続いていくが、九州、特に天草などでは密かにキリスト教を信仰し続ける者があったが、彼等はキリストを抱いたマリアを、観世音菩薩などの姿に形をつくり変えて、像をまつっていたのだが、長い間にその宗教的内容も本来のキリスト教とかなり違ったものになっていったのである。

後編へ続く。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. アフリカのサバンナでは、肉食獣のライオンが、草食獣の鹿牛類を捕食しているが、広い意味では共生している。類人猿も一回だけチンパンジーの群れで観察例が有るようだが、縄張りを接する別の群れを執拗にせめてほぼ全滅させたが、大抵は血の入れ替えもあって、隣接している群れと闘争は有るが、これも環境受容力内で共生している。

    北米のインディアン、南米のインディオ、オセアニアのアボリジニ、マオリをヨーロッパからの入植者は絶滅させようとした形跡が有る。一部では人口の半分ぐらいが混血で、残りの半分が白人と言う国もあり、アルゼンチンの様に原住民の末裔は殆どいなくて、イタリア人・スペイン人が大部分を占めている国もある、これは、諸般の事情もあるだろうが、今でも支配階級である白人が歴史を書いているので、虐殺して絶滅を図ったとは書いていないが、現況はそれを示している、と推測される。
    何かの事情で、状況が変われば、この数世紀に起こった逆の事が起きることは十分に予測される。
    これとは歴史を異にするが、アフリカのビクトリア湖周辺のツチ族xフツ族の殺し合いは、白人の統治方法に大いに関係しているが、似たような事は、アフリカ全土で発生している、スリランカでも長期間土着のシンハリ人と移入されたタミール人の闘争は、20年ほど前に、話し合いで殆ど終息した稀有の事例だと思われる。

    一方、日本は、その他の地域でも、いくらかは有るが、概ね人種・宗教・言語が同じで、民族浄化・洗浄は起きにくい状態で有ったろうと思われる。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      日本の暴動は、別サイトで書かれたものが一番最初ですが、同じ暴動でも「扇動」されたものと、「追い詰められた自主性」が有ると言う事を書いたように記憶しています。
      日本人は暴動を起こさない民族と言われていますが、その昔は結構小規模な暴動は頻発していますし、天から札が降ってきて始まる「おかげ参り」などは、カモフラージュされた緩やかな暴動、同様なセンスで言うなら「ええじゃないか」も訴える先が曖昧な暴動と言えるかも知れません。尤も「ええじゃないか」の場合は幕府転覆を狙う影の扇動も相まって大きくなったようでも有りますが・・・。
      しかし総じて日本の暴動は規模が小さいか、訴える先がカモフラージュされたものが多く、これは日本の長い歴史上の学習効果なのかも知れません。為政者が変わっても世の中の民衆の暮らしは良くなる事が無かった。この経験上のDNAが暴動の非効率概念をもたらしている可能性があります。

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