「死後の格差」

地獄の沙汰も金次第・・・いや、まさかそんなことはあるまい、せちがらい世の中とは言え、せめて死んでから後ぐらいは公平であろう・・・と思いたいが、やはりそうはいかないものらしい。
2009年6月28日、富山市で生活保護を受けていた56歳の男性の遺体が、生前本人の同意がなかったにもかかわらず、富山市によって学生の解剖実習用に、日本歯科大新潟生命歯学部(新潟県)へ引き渡されていたことが、地元新聞などによって報道された。

それによると男性は2009年4月22日、市内のアパート自室で死亡しているのが発見されたが、富山県警は事件性がないと判断、警察署に一時安置したものの、富山市の依頼を受けた日本歯科大学が、4月24日に引き取った・・・と言うものだが、この男性は富山県出身で日雇い労働者として働いていたが、その際勤務中に骨折し、路上生活者となってしまい、2008年末から生活保護を受けていたが、孤独死のうえ、連絡したが遺族からは遺体の引き取りを拒否された・・・、それで富山市は日本歯科大学への引渡しを了承したと言うことだ。

富山市福祉課は「受け入れ先が見つかった以上、市の仕事は効率的、経済的にすべきだと判断した」と語っているが、確かに火葬して無縁墓地に埋葬するから見れば、大学が引き取ってくれれば金もかからず効率的だ・・・、が、この男性は生前に献体の同意をしていなかった。

法的には「死体解剖法」で、こうした引き取り手のない遺体の場合は、本人の同意がなくても研究機関での解剖が認められてはいる。
亡くなった人が生前「献体」の登録をしている場合も同じだ・・・、しかしこの登録がなくて引き取り先がない遺体は行政が生活保護法、墓地埋葬法などに鑑み、都道府県が費用を負担して埋葬する方法が1つ、そしてもう1つ、献体用に大学などの研究機関に引き渡される方法の2つがある、どちらも合法だが、これでは遺体によって死後の扱いに随分と大きな差が発生しかねない。

またこれは北陸の他の県での話しだが、こちらも50歳代の男性が生活保護を申請中に、料金未払いで水道や電気を止められ、市営住宅で餓死したことがあり、これなどは積極的殺人と言えないまでも、消極的な放置による殺人とも言えるのでは・・・と革新系市議が市長を追及したが、行政には一切責任がないとこれを否定した上で、議会終了後、この革新系市議に対して市長は「そんなことを議会で言ったら観光に影響が出る、風評被害だ・・・」と言ったとする話もある。

何とも乱暴な話だが、万事が金次第の今の日本らしい話である。
数年前、大学の研究機関では解剖用の遺体が不足していた時期があった・・・、それで行政は表には出していなかったが、大学の要請に応じて右から左で大学に遺体を引き渡していたが、景気の悪化に伴いこうした引き取り手のない遺体が増えてきたのではないだろうか、最近では火葬して埋葬する方式と2つに分かれて「処理」されていた・・・と見るべきかも知れない。

だが片方は火葬して、取り合えず埋葬してもらえ、片方は大学で解剖実習用に使われる・・・、どちらも生前、特に献体の希望を示していた訳でもないのに、この在りようにはどうしても落差を感じてしまう。
基本的人権は死後のことまでは規定しているとは言えないが、死後もし自身の意思が無くなってから、こうした格差があるとすれば、これはこれで生きている内にその死生観に影響を及ぼす問題ではなかろうか・・・。

ちなみにこの地元新聞は生活保護者の場合、死亡してから埋葬に関わる経費を、行政が援助する制度があることを、この男性の遺族には伝えていなかったとしている。
もし資金的に苦しくて遺族が遺体の引き取りを断ったとしたら、市の担当者の責任は軽くはないだろう。
そしてこうした問題はおそらく表に出なくても、全国で発生していることだとも思うし、何となくカチンと引っかかる話である。

それにしても、どうだろうか片方で法に触れない、経済的だ・・・と言う言葉があり、自分が死んだときには盛大な葬式で皆から涙を貰って送られる・・・、それを神仏は「良くやった」と言うだろうか・・・。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 近年は解剖用の検体も余剰で、積極的に募集はしていない様であるが、遺体から今は血液も含め各種臓器を取り出して使ってはいない様です、その内に、引き取り手の居ない遺体も含めて、もう少しこなれた、取り扱いをした方が宜しかろうと思う。経済原則で動いてはならない。

    日本人の死生観は、明治維新後未リスト教が大々的に宣伝されて、伝統的な考え方が侵食・劣化しているように憂う。
    浄土教においても、戦場における遺体の回収・取り扱いについても、死後の世界を全うするとか、遺体の尊厳とは、一線を画すし、支那の様に遺体を掘り起こして鞭打つとかは無かったが、それは宗教と言うより、自然から生まれたものを、余り作為せずに自然に返して、世界の安定・秩序を保つ一つの便法のような役割を担っていたようにも思う。
    勿論日本人は無神論者でも無し、唯物論者でもない、キリスト教的最後の審判論者でもない。支那の様に遺体を辱めるという俗物でもないが、日本人以外は、これは殆ど理解できないし、今まで外国人に説明もしたことが無いように思う。
    そもそも、価値が有るとか無駄とか費用とかそういう観点である程度動かざるを得ないが、そう言う事とは別次元の話であろうと思う。
     ヒトに埋葬の観念が発生した時からの気持ちを日本人は心深くに保っているように思う、現代人の後知恵で、詰まらん習慣や経済で取り扱わないで、原点から考えた方が良い。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      古来より死後の格差は存在し、例えば都では餓死者が続出し、行き倒れになっていて朽ち果てていながら、藤原氏は絹の布団で黄金の仏像の指と自分の指を糸で繋いで死んで行く訳です。
      大変な格差ですが、これに拠って神仏が便宜を諮ったかどうかは解っていない。
      そして現代、公平で自由な社会を動かす組織が行政な訳ですが、その行政が格差を設けるは自身らの存在意義を無にする行為と言える。それに大きく馬鹿にされるよりは小さく馬鹿にされるほうが人間は頭に来る事を考えるなら、こうした微妙な格差こそ一番気を付けねばならないところだろうと思います。更に大学の献体の扱いも内部情報だと疑問を呈する扱いの大学も存在するようで、これらを考えるなら理想と現実は必ずしも一致していないかも知れません。
      貧しい事は罪か、上手に生きられないことは悪い事なのか、それに拠って死後の格差が生じるなら、まだ平安時代の格差の方がある種の公平さを感じる。
      そんな気がしてしまうのです。

      コメント、有り難うございました。

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