「ユダの福音書」

イエスは裏切り者を指摘された・・・、ユダは誰にも嫌疑をかけられないよう巧妙に秘密を保っていたが、イエスが自身の秘密を知っていることをユダも知っていた。
イエスは12人の弟子たちに最後の別れをされた・・・、ユダは去った・・・。

レオナルド・ダビンチの最後の晩餐は有名だが、イエスの12人の弟子の1人ユダは、銀貨30枚でローマの官憲に密通してイエスを彼らに引き渡してしまう。
そしてこれからが不思議なのだが、イエスを裏切ったユダはその後首をつって死に、その金はユダが死ぬ前に司祭に返しているのである。
そこにあったものは良心の呵責であったのか、イエスと言う偉大な存在を失った悲しみだったのかは分らないが、ユダは早々に自殺している。

だがこの話は何となく不自然な箇所がある。
一度金で裏切ったものが、そうも簡単に改心して自殺までするだろうか・・・、そこまでの覚悟があるなら、私なら逃げきってやろう…と思うかもしれない、また復活してくるイエスを恐れていたか…それなら尚のことイエスを裏切る理由が希薄になってくる。

1970年代の話だが、エジプトで発見されたパピルス文書の中に「ユダの福音書」と言う文書が発見されたが、その後この福音書は行方不明になり、再び発見された時にはボロボロになって劣化していた。
しかし修復されて公開されたこの福音書には、恐るべきことが書かれていたのである。「イエス・キリストの裏切り者ユダは実際にはイエスの指令に従っただけだ・・・」ユダの福音書にはそう書かれていたのである。

このユダの福音書、紀元150年ごろギリシャ語で書かれ、180年頃には正統派から異端の書とされ禁書となったが、300年代にはエジプトのコプト語に翻訳とともに写本され、その後367年にアレクサンドリアの司祭アタナシウスが、現在の4つの福音書を含む27の文書を新約聖書の正典としたことから、今日まで細々と受け継がれてはきていた。

だが現在の新約聖書の正典はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4人の福音書と、使徒の書簡、ヨハネの黙示録などで構成されていて、その中の記述では冒頭でもあったように、ユダは銀貨30枚でイエスを売り渡したことになっているが、「ユダの福音書」では「お前は真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを越える存在となるだろう」と記されている。
つまりユダは真のキリストが出現するために、イエスの殺害に手を貸すが、それによって12使徒の中で、イエスの第1の弟子となると記されているのである。

ユダの裏切りはイエスの望みだったのであり、イエスは殺されることによって衆生の罪を背負い、神に許しを乞うた・・・、そして肉体を脱却し、救世主(メシア)として真のキリストとなるという予言を成就させたのであり、それを成就させる手伝いをしたのがユダだったとされているのだ。

ユダの福音書が現在の新約聖書に復活することは有り得ないだろうが、この福音書はある程度の創造的整合性があるように思える・・・、ユダがなぜもっともイエスから信頼されながら裏切ったのか、また直後に自殺するなどを考えると、ユダもまたキリストと同じように自らの肉体を犠牲にしてその役割を果たし、その上後世に残るまでの汚名を着たのではないか、もしそうだとしたら、ユダは神から選ばれたイエスに次ぐ聖者と言えるのではないか…と言うことである。

およそ善に対する悪は、結果的に善を主とするなら、あたかもその善を善たらしめるための使命を負っているようなところがあり、こうした場合その悪が、悪を行う者に取ってどこまで主体的なものかが非常に微妙なところがある。
すなわちそこに神があって、全知全能ならすべてが予め定められたものとなり、悪を犯す者もまた神によって定められたものとはならないだろうか・・・、この場合神によって定められた悪は、その報いを懲罰として受けるなら余りにも無慈悲な話である。

またこうした悪や善を予め知らないとすれば、神もまた人間の持つ「不確定性原理」の中にあることになるが、その場合は偶然であれば神は否定される・・・、必然であれば悪もまた善の内にあることになる。
唯一つの方法として、偶然と必然が一致している場合があるが、この場合神は地上はおろか、全宇宙を支配しながら全く手出しができないことになりはしないだろうか。

皮肉なことだが、ユダが本当に自分の私利私欲で裏切ったなら、これは偶然と言うことになるが、では神はそのことを知っていてユダを利用したのか・・・、それとも偶然と必然の一致だったのであれば、そもそも神はコントロールができないのではないか、そしてユダの裏切りが神の手の内にあるのなら、「悪」とはなんだろうか・・・。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

4件のコメント

  1. ESモースは、明治初期に、数度来日して、比較的長い期間、日本に滞在し、本当の日本を理解した、外国人の一人であろうと思われます・・

    日本の道具、什器その他は一つして、同じものは無く、家でも家具でも、茶室でもそれは同じであるが、作者はすべて芸術家と言う感覚は全くなく、生活の道具作りで人生を送ってゆくものであるが、どれを見ても、世界的水準で行けば、芸術作品であり、世界で稀有、多分唯一の地域だと、言っております。
    関東大震災で、東京に大被害が発生した時には、子供たち立会いの下に遺言状を書き換えて、かつて奉職した東大に、1万冊以上に及ぶ蔵書を寄贈して、今でもあるようです。
    きっと彼は経歴からも察せられますが、囚われのない素直な目で、ずっと物を見ていたのだろうと思います。それだからこそ、進化論も素直に理解できたし、日本人にも講演をして、日本人も又、十分理解して受け入れる事が出来た。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      この話はアブラハム様が一定の見解を後に書き込まれていて、それを記事にもしてありますが、私がおぼろげながら考えていた事が肯定される形となっています。
      キリスト教に限らずその宗教の原理を次に壊す者は弟子とも言える訳で、イエスの教えを壊した者はヨハネとパウロだろうと思います。また仏教でも文字ではない音で残された仏陀の教えを「勉強」にしたのは弟子たちだったと言えるでしょう。同様の事は孔子などもそうですし、世の中のあらゆる事は次に拠って始まりが壊されます。
      それはなぜかと言うと、創始者よりも弟子が常に解っていないからで、創始者がいなくなると弟子たちの知能の範囲でしかそれが残っていかない事になり、創始者よりも弟子たちが愚かと言う部分は、初期の考え方が愚かさに拠って少し前の、創始者が変えようとした部分を元に戻してしまう為で、キリスト教もイエス亡き後、今日の在り様に鑑みるならそれは一目瞭然、また仏陀亡き後、現在の日本の仏教を見れば結果は明白だろうと思います。
      人からどう見えたかと言う事と現実は違うのですが、この辺も愚かさがそれ断定としてしまう。

  2. まあ、中々深遠な考察ですねぇ~~♪
    色んな方が、色んな角度から、時代も社会状況も違う中で記録したものが、「聖書」として、或る程度のまとまりが出来たのでしょうから、難しい問題や矛盾は、沢山有る気がします。
    世界宗教でしょうが、日本の宗教観からすれば、と言うか自分の宗教観からすれば、色々知る事は良い事の様に思いますが、つまりは白人対策の一環として(笑い)、勿論民数記もしっかり知っておくべきでしょう。

    日本のキリスト教徒と共産主義者は相いれない気がしますが、伝統的行事、慣習に基づいて政府が参加や出費をすると、別々にですが、遣ることは一緒で「憲法違反訴訟」が起きたりしますが、そういう意味では、同じ穴におムジナと言うか、非・日本人的かなぁ、と思う事も多いです~~♪

    支那の魏志倭人伝の記述を色々研究して、「邪馬台国」の場所を探索する機運はいったん収まったかに思いますが、支那は今でも全然変わって居なくて、中華と周囲の蛮族と言う感覚ですから、適当な事を言って居るのであって、それを読み解いて、場所を特定するのは、初めから無理がありそうです。

    それと同じで、歴史を書いたものは、自己の正当性を後世に強制するための物でしょうから、可成り割り引いて読んだ方が良いように思っています。
    因みに自分の日記は、権記~小右記~御堂関白記などと違って、出鱈目です~~♪

    ちょっとした勘違いが有り(笑い)・・予定通りじゃない場所に、投稿してしましましたが・・ご寛恕頂きたく~~♪
    これはここが本来的な場所かと~~♪

    1. 聖書は旧約と新約が存在し、これらは一連の流れとして同様にくくられていますが、実は全く別のものとも言え、前者と後者ではひっくり返っている考えたか多く存在し、その矛盾を神のご意思は人間には理解できないとしている。
      特定の人間をえこひいきし、それは神だから許されるとした旧約、しかしキリスト教ではこれが漠然と否定され、旧約では近親相姦から悪魔崇拝まで山ほど出てきていながら、新約ではこれが否定されてくる。
      つまりキリスト教はユダヤ教の変革だったわけで、そこを考えていないと全体は見えてこないかも知れません。

      コメント、有り難うございました。

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