「上り列車」・1

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                            1970年代 撮影

もうそろそろ日が暮れてきた。
あたりは夕焼けの赤い景色から、徐々に暗さを増し、かろうじて足元は見えるものの、星明りが少しずつその輝きを強め、それがいっそう寒く感じてくるのだった。
ああ、腹が減ったな、もしかしたらこれで死ぬかも知れないな・・・、でもまあ仕方ないな・・・、そう思いながら私は遠くの山の輪郭をぼんやり眺めていた・・・。

その日小学生4年生だった私は、学校で算数のドリル教材を使って、みんなで居残り勉強をすることになっていたが、それをすっぽかして家に帰ってしまっていた。
理由は簡単だった、自分は既にその教材の問題は全てやってしまっていて、まあいいだろうぐらいにしか考えていなかったからだが、これが結構重大な事になってしまって、何と級友達が先生と一緒に、学校から2kmも離れた私の家まで歩いて連れ戻しにきたのである。

「これはまずい」そう思った私は外の様子を察知して、急いで作業所の2階に積んである稲藁(いねワラ)の束の中に身を潜めたが、何と悪いことはできないもので、そうした外の騒ぎの中、畑から祖母が戻ってきて、先生から一部始終を聞いてしまったのだった。
万事窮すとはこのことを言うのだろう。
いつも悪いことをして私が隠れる場所は、既に祖母の熟知するところで、あっと言う間に作業所に駆けつけた祖母は「降りてこんかい、出てこんなら引きずり下ろすぞ」と階下で怒鳴り、仕方なく私はすごすごと梯子を下りて行くしかなかった。

そしてそれから後は大体予想は付いていたが、着ているシャツの襟を掴まれた私は祖母によって、太いワラ縄で梅ノ木に縛り付けられた。
これには流石に連れ戻しに来ていた女性教師も慌てて、「何もそこまで」となったが、そんなことで人の言うことを聞く祖母ではあるまいし、結局私はそうしてここで罰を受けることになり、級友や先生はこれに驚いて帰って行ったのだった。

「自分だけ勝手なことをして、それで良いと思っとるんか、このだら(ばか)が・・」
祖母は縛り付けた私に、明日学校へ行ったら土下座して先生に謝れと言ったが、これに対して「俺は全部先に済ませてあるんや、何も悪いことはしとらん」と私は頑張ってしまった。
本当は自分が悪いことは分かっていた、だがそれを認めたくなくて頑張ったのが、これに激怒した祖母は「お前など家の恥だ、そこで野たれ死にしてご先祖さまにお詫びしろ」と言うと、また畑仕事に戻ってしまった。

「くそババア、縄をほどけ・・・」私は何度も叫んだが、祖母は戻って来ない。
そのうち農作業から帰ってくる近所の人が前の道を通るたびに、梅ノ木に縛られている私にこう声をかける。
「○○ちゃん、また何かやったんか、早う謝るこっちゃ・・・」
そう言ってニコニコしながら前の道を通るのであり、これがまた悔しさ倍増で、私は更に悪態をつくが、やがて炭焼きから戻った両親などはもっと凄かったもので、完全に無視して家の中に入っていく。

私は情けなくて涙が出たが、やがて祖母がまたやってきて、「どうだ、少しは人様に迷惑をかけることが悪いことやと言うことが分かったか・・・」と言うと、ここでまた私は反発してしまう。
「俺は誰にも迷惑をかけとらん」
そう言って横を向く、祖母はまたしても激怒して「お前など、もうこの家の者ではない、そこで強情張って死んでいくこっちゃ」と、言い捨てるとまた家の中に入っていく。

そしてとっぷり日が暮れて真っ暗になってきて、家に明かりが点り初めても、心配そうに見に来る弟の手前、私は折れる訳にも行かず、星を眺めていた。
どうだろうか、そうした時間が1時間にも2時間にも感じられ、全くあたりが見えなくなって来た頃だった。
いつもは全く口を利かない父が家から出てくると、黙って縄をほどき背中に手をかけて、家に入りにくそうにする私を家に入れてくれたのだった。

空腹と寒さ、そして情けなさで思わず泣き始めた私は、祖母や母親の「明日学校で先生やみんなに謝れ」と言う言葉に、今度は素直に頷き、夕飯にありついた。

翌日、学校へ行くのが気まずい感じの私は、それでもランドセルを背負って学校に向かったが、その途中珍しくいつも遅刻すれすれにしか家をを出ない、私の家から一番近いところに済んでいる同級生の女の子が、歩いて通る私を待っていたように、家からでてきた。
「何ともなかったか・・・」
彼女はそう言うと後は黙ったまま、私と歩き始めたが、この同級生、家から近いと言っても1kmは離れていて、入学当時は一緒に学校まで歩いていたものだったが、どうも余り勉強が得意ではなく、どことなくみんなから仲間はずれになっていたのだが、そうした意味では、地元有力者の娘に逆らっていた私や、もう一人の女の子と同じではあったものの、殆ど喋らず、学校では浮いた存在だったことは確かだった。

でも、私はこの時なぜか、この女の子が心配していてくれたことが意外でもあったが、それでも嬉しかったことを今も憶えている。
また意外と言えば、その日学校へ行った私は、先生から相当怒られると思っていたにもかかわらず、「○○、大丈夫だったか」と言う言葉が出てきたことで、それは級友達もやはり同じものがあり、この日以降家の祖母は相当恐い人と言うことで学校に定着したらしく、またこうして私の起こした事件は、さしたる咎めもなく終わったのだった。

(ちなみに、この写真の女の子は本文に関係ありません)
「上り列車・2」に続く

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。