子年の「子」は陽の始まり、新しい何かが芽を吹く兆しですが、これの正は真夜中の12時にして早く進み、ゆえに吉凶どちらにしても展開は速くなる。
方角は北であり、北は集中の兆しと鋭角であり、最後は点となる。
陽は元々滑らかさの無いものであり、形で言うなら切っ先が鋭い金平糖、言葉で言うならイガイガの要素を持ち、変化が多く急、これに北の方角が加わると、吉凶どちらも急にして他が見えにくく、吉の深さと凶の深さでは凶が深く、吉は浅くなる。
それゆえ子年はチャンスも多いが成功は小さく、失敗した時は大きくなる。
被さる仏は千手観世音、千手はあらゆる事に器用だが、何でもできるは何も出来ないに等しい(言葉通りに解釈してはいけない、何もしないは究極の動であり、これが何も出来ないは仏の極太)
五行で言うなら「水」だが、大河、湖とは趣を違える。
動きの早い水であり量は中の下、基本的に災禍の後に始まるものにして、この以前には滅(草木が枯れる)があり、滅が無い時は動きの早い水を不完全と解釈し、この時の水は隠れ、大きな滅へと繋がる。
解り易く言うなら、あらゆる事が小手先、中途半端になり易く、この年より前に水溜り(禍」を避けていると次の芽が曲がってしまい、結果として大きな水溜り、禍に繋がる恐れが出てくると言う事である。
子年は他の干支に比して幸運、繁栄側に少し傾きが有る。
が、これらはどれもが小さく、積み重ねる事を意識しなければ幸運、繁栄もまたバラバラになり、効力が薄い。
予め人の世は凶事九、好事一のものであり、数の多いものほど因縁を持つ。
為に子年の吉凶は本来同じ深さのものに在りながら、因縁に拠って広がる凶事が深くなる。
道理の薄くなる卦が有り、人心は直感、感覚に拠って動く事が多くなる。
理論的な展開、整合性よりも感情が優先される事が多くなる傾向に有り、これが長じれば知らぬ間に世を惑わす。
驕った心を抑え、落ち着いた対応を心がけるなら、例え小さくても好事を積み、目的を達する事もまた難しからず。
小手先やその場を凌ぐを積み重ねると、成功しているように見えながら、最後に無以上に帰する。
やり過ごすや逃げるは、本来解決からは遠いものである事を忘れてはならない。
世界が第二次世界大戦から完全に復活したのはヨーロッパが1983年、アメリカが1986年、日本が1990年だと考えた方が良い、つまり世の中が物余りになった時点をして、世の人々に行き渡る物が完了したと言う事なのであり、これ以降は物の生産を調整しなければならなかった。
しかし繁栄の幻影から逃れられない世界は、以後30年近くも幻を追いかけ、ようやく現実に追い詰められ、次の何かが始まろうとしている。
滅から新たな芽が出てくる兆しそのものと言えるが、この芽はしっかりとした滅が在って成り立つものであり、その以前に滅を逃れようとした者は苦しむ事になる。
日本だけではなく、世界はこれから経済を拡大させるのではなく、どう痛みを抑えながら経済を縮小させて行くかを考えなければならない、分岐点に差し掛かっている。
子年のチャンスは吉凶両側に開かれている。
その場凌ぎ、現実を逃れるなら、先に待っているものは積もりに積もった凶事と言う事になる。
新年、明けましておめでとうございます。
本年も何卒宜しくお願い申し上げます。
「正体不明の浮遊物」
20年ぐらい前だったか・・
北陸方面の定置網に大量のエチゼンクラゲが入って、その処理の為に、膨大な労力が掛かって、且つ他の漁獲も少なく、漁師は難儀していると、数年は報道されてていたようにも記憶するが、もうそれほどでもないのでしょうかね。
黄海付近で発生したものが黒潮に乗って北上するうちに大型化して、時に大発生という話だったように思うが、と言う事は古来より有ったのだろう。
今でも偶に、ニュースで、富山その他の定置網漁の事が有るが、クラゲの話は無い。もう慣れっこ、視聴率を稼げない~~?
不思議な事も、慣れれば日常化するだろうが、深い危険を孕んでいるなら、打てる手は、打っておけば、軽く済むかもしれない~~♪
ハシビロコウ様、有り難うございます。
この話は多分2010年ぐらいに記事にした話が最初だったかと思いますが、今から60年も前の話、それも他では誰も書いていない話を書いたのですが、それが実証される現実が発生した。
とても嬉しかったですね。
自分がやっていたことが無意味ではなかったと、信じられた記事でした。
世の中にはまだまだ説明の付かない事が沢山あります。
それらがいつかは解明されるために、少しでも役に立てれば幸せです。
ちなみにここ数年はエチゼンクラゲは日本海側へは漂流して来ません。
おそらく海水温の上昇と潮の流れの変化に拠ると思われますが、全く被害は発生していません。
それゆえニュースにはならないのではないかと思います。
コメント、有り難うございました。
「福袋」
いつも同じ菓子を食べているので、経験を広くするために、新年の菓子福袋を今年も買った。大抵は何とか食べられるが、好みが合わないのは、頂き物への返礼として処分(笑い)、大抵は貰い物の高級菓子で展開が有るが、諸般の事情で定着しない(笑い)
殆どその福袋の中から新しい嗜好物が現れることはないが、いつも試しは行う。
納入業者が、きつい値段で取引をしているかもしれない、という想像力は働かない訳でもないが、実は全く同情していない。
個人なら、色んな状況が有って、「助け」を自ら求めることが出来なくて、みすみす、その機会を逸して、益々苦境に陥ることが無いように、近代社会は、いろいろ工夫する方がよろしかろうが、事、経済で、会社を経営しているものが、長期的な「利益~存続」を犠牲にして、一時の「福袋」に妥協するようでは、経営者としてよろしくないと、自分は冷たい奴だ(笑い)~~♪
一時的に「損」をしたら、近いうちに倍の利益を獲得する才覚が無ければ、そんなものは早晩、没落する程度の力量~~♪
この度の福袋は、舌切り雀の「大きな葛篭」の様であるが、まあ、今のところは、何とか食べている~~♪
ハシビロコウ様、有り難うございます。
何となく商売や経済自体がどんどん貧乏くさいと言うか、品が無い、面白みが無い時代になってきているように思います。
デパートは「夢」が付加価値だったのですが、近年のデパートは「夢」を失っているし、それを買う側も夢が無い。
唯、漫然と習慣に拠って福袋を買い、正月を過ごしているようで、有機質の感じがしない。
経済対策が全く無策の状態で国民は花見を騒ぎ、第三次世界大戦、開戦前夜のような国際情勢でも、全く無関心です。
やはり一度滅んだほうがこの国の将来の為かも知れませんね(笑)
コメント、有り難うございました。
「ボランティア」
全くですねぇ、歴史文化が違う地域で、言葉の意味が似ているからと言って、精神を斟酌しないで、制度だけ似させるようで。落語で言えば、赤ちゃんを貰って、ウナギのように川に放すようなもの(笑い)
玉村豊男の「今日よりいい明日はない」:サウダージ(Saudade、あるいはサウダーデとも)とは、郷愁、憧憬、思慕、切なさ、などの意味合いを持つ、ポルトガル語およびガリシア語の語彙。ポルトガル語、およびそれと極めて近い関係にあるガリシア語に独特の単語とされ、他の言語では一つの単語で言い表しづらい複雑なニュアンスを持つ。ガリシア語ではこの語はあまり使われず、一般に類義語のモリーニャ(morriña)が同様の意味で使われる。ポルトガル語が公用語となっているポルトガル、ブラジル、アンゴラなどの国々で、特に歌詞などに好んで使われている。単なる郷愁(nostalgie、ノスタルジー)でなく、温かい家庭や両親に守られ、無邪気に楽しい日々を過ごせた過去の自分への郷愁や、大人に成長した事でもう得られない懐かしい感情を意味する言葉と言われる。だが、それ以外にも、追い求めても叶わぬもの、いわゆる『憧れ』といったニュアンスも含んでおり、簡単に説明することはできない。ポルトガルに生まれた民俗歌謡のファド (Fado) に歌われる感情表現の主要なものであるといわれる。
日本語は語彙が豊富だが、今は擬態語だけ済ませている連中も多いくなってきている、某国では、表音文字だけで済ませて、バ〇の大量生産を試みている~~?
ハシビロコウ様、有り難うございます。
これは東日本大震災の折、「絆」で盛り上がった国民の在り様に対して注意を喚起する意味があったと思いますが、ぬるく薄い話で涙を誘い、気が付けば道路は綺麗になっていながら町は経済的に崩壊した。
能登半島地震発生後の輪島市がどうだったかを記したかった記事でした。
その優しさに責任が無ければ最後は悲惨な事になる。
小さな困難を避けていると、最後にやって来る困難は計り知れないほど大きなものになって行く。
それを記録したかったと記憶しています。
コメント、有り難うございました。