「祭りと言う観光資源」・1

御幣(ごへい)と言うものをご存知だろうか、あの神社や正月のしめ縄飾りの下にくっついている和紙製のヒラヒラしたものだが、あれを作るのは難しそうに見えて実は比較的簡単なものだ。

長方形の紙を長い方を平行にして2つに折って、そこに切り込みを入れ、折り曲げていくだけの単純な構造だが、ためしに昨年のものでも良いから、もし近くにあったらその紙を開いてみると良い。「なーんだ、こんなものだったのか」と思うはずである。

そしてしめ縄飾りは基本的に「稲妻」を表している。

米つくりに必要な雨ををもたらす雷、その激しい稲妻を表現したのが「御幣」と言う事になるが、祭りで打ち鳴らされる太鼓もその源は「雨」若しくは「雷」を表現したものであり、祭りとは神と一緒に儀式を執り行い、その1年の豊穣に、また春であれば1年の無事を祈願して、神とともに「過ごす」または「食す」事を指している。

それゆえ基本的に祭りは見せ物ではなく、その儀式などは真夜中から始まるのが倣いと言うものである。

神社の運営や維持はその地域に住む住人、これを氏子(うじこ)と言うが、氏子によって行われ、祭りも基本的には氏子の為にある。

つまり祭りの本質はその地域に住む住人のためにあり、神を御祀りし、その繁栄を同じ場所で祝う事を指しているものだ。

また祭りは日本文化の古い形態を成すものであることから、そこには希薄になりつつも平安時代や封建社会の仕組みを残していて、ここでも見えてくるのは「地域」と言うものである。

通常祭りはその地域に住む住民などの寄進によってその費用が捻出され、毎年交代か順番で世話役が決められ、この世話役が祭りを仕切って行くが、ここで中心となるのは神社と住民を繋ぐ役割をする「宮総代」(みやそうだい)と言うものの存在であり、これは同じ形態で寺と住民を繋ぐ「門徒総代」(もんとそうだい)と原理は同じものだ。

さらにこの祭りの規模が大きいとき、地域が広い場合は、それぞれの地域が代表を立てて、それらの者たちが祭りを仕切るが、ここでも基本はその地域の人、と言うことができるだろう。

だから祭りの本質はその「地域」にあり、決して外に向かってはいないのが普通である。

祭りの賑やかさと言うものは、その地域の繁栄を示すもので、この思想の底辺には一族の者が増えていく事を喜ぶようなところがあり、従って祭りの参加者と言うものはその地域の人、そしてその地域から外へ出て行って生活をしている地域ゆかりの者たちが集まって、これを祝うのが本旨であり、この点から言えば、それ以外は部外者である。

つまり地域にゆかりの者ではない人間は、祭りでは「無」と言う存在になる。

この「無」とは何かと言うと、オブザーバーと言う事になろうか、歓迎しないわけではないが、祭りの全てに首を突っ込めない立場とでも言おうか、そうした存在を指している。

古い形態を残す祭りでは、通常一般家庭でもその地域に存在する家は祭りになると、全ての家が料理や酒を用意し、その道路を通過する者は誰でもどの家に入っても構わず、そこで酒食のもてなしを受けることができたが、この場合、物乞いには先に施しが行われたことから、祭りの日には出歩かないことなっていた。

そしてここでもてなしを受ける人だが、近郷近在の村の誰であるかと言うことが分からねばならない、すなわち素性が分からない者はもてなしを受けることが難しかったのだが、それでも祭りのある村のどこかの家の関係者、たとえ遠くても親戚であるとか、また家人の友人とかの場合はやはり丁重に扱われた。

だから祭りとは結果としてその近郷近在の者たちがたまには顔を会わせ、そして普段農作業で忙しく、男女とも出会いがなかったことから、若い男女の貴重な出会いの場ともなっていたのであり、娘たちはかんざしを挿し、綺麗に着飾ってこの日ばかりはと力を入れていたのであり、この場合いかに沢山の人出があろうとも、誰かに聞けばその個人の素性を大まかにでも特定できた、つまり祭りの参加者は全て「縁者」だったと言うべきものなのだ。

こうしたことから、祭りを考えるなら、一般の部外者である見物人はどう言った立場になるかと言えば、それは祭りのおすそ分けを頂いていることになるが、それを迎える地域と言うものはまた、そうした者たちに幸運の施しをしている気概を持っていたのである。

それゆえ祭りとは表面上「外」に向かいながら、その実大変「内向き」な要素を持っていて、これが本来祭りが持っていた特性とも言える。

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 「祭りと言う観光資源」・1

    原初の心は形骸化し、末には形も失われる。

    青春時代の短期間を過ごした町は、まだこんな祭りの風習が残っていて、それとわかるように何か飾りが有ったように思うが、もてなし料理が家の中に有って、誰でも供応に与れるようになっていた。出身者が居て、その人とともに、一軒だけ体験させてもらったが、産土神と繋がっていない身としては、心落ち着かずであった。因って今住んでいる所は、生まれ故郷より長いが、鎮守の直会殿で酒食を共にする機会は永遠に来ない~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      全く祭りを観光資源と言う発想は不届きな罰当たりだと思いますし、自然を世界遺産と言う人間の驕り、どこまでも愚かな考え方、浅ましい事だと思います。
      祭りは基本儀式であり、その余興として酒を飲んだり食べたりの事が有る。
      見世物となってしまった祭りは祭りではなく、それはインチキ紙芝居と同じです。

      コメント、有り難うございました。

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