「破壊」

(best)と(better)は共に比較から生まれた選択を意味するが、(better)はその選択肢に措いて(best)より常に狭い。

(better)の選択肢は多くても3以上の選択肢を出ることがなく、通常の概念ではその選択肢は2つに1つである。

それに対して(best)の選択肢は何か特定の選択肢を指していないか、そうでなければ全ての選択肢の中の1つを指している。

また全ての選択肢と、特定の選択肢がない状態と言うのは限りなく等しいものであり、これを人間関係に例えるなら愛する人がいたとして、この愛する人が複数に及び、なおかつその対象が人間であると言うことに措いて等しいと考えるなら、そして愛することに措いてここに自身の人に対する思いに整合性を持とうとするなら、そこから生まれるものは万人に対する等しい愛であり、では万人に対する等しい愛とは何かを問われるなら、そこに愛は存在できなくなる。

全ての選択肢と、選択肢がないと言う概念はそれゆえ限りなく近いか、若しくは等しい。

では人間に取って、(best)な選択肢とはどう言うことを指すのだろうか。

現代社会を見てみると、おおよその選択肢は(better)になっているが、これは政治的に見ても「官」と「民」の選択であったり、「善」と「悪」の選択でしかないが、こうした比較級の選択肢と言うものは、「止まった考え方」と言うことも出来る。

人間の営みは同じように見えて実は昨日と今日は違うものであり、それは例え同じ考え方でも、そこに時間経過に伴う「変質」を起こしている。

従って(better)と言う選択をしていくと、先へ進めば進むほどそこに矛盾が発生してくる事になるが、それは(better)と言う選択方法が止まった状態での比較だからである。

つまり人間は生きているのであり、その意味では止まった状態であることは唯の一瞬たりとも存在せず、その状態で止まった状態の比較を結果としていくと、一つの比較からさらに矛盾が発生し、その矛盾を解消しようとまた選択をしていくと言うスパイラルを起こす。

ゆえに人間の社会は時代経過と共に政治、経済、法に至るまで細部のことを選択してきたが、このことはたった一人の女を愛せぬ者が万民を愛そうともがいているようなものである。

人間のみならず生物にとって「劣化」と言う命題は避けられようもない事実であり、また豊かな土地で生まれた者は豊かに暮らし、貧しい土地で生まれたものは貧しい暮らしとなり、美しく生まれた女はそうではなく生まれた女より男に愛される。

今日生まれたものが明日は死に、老いてなをも命を長らえる者もいる。

こうした中で貧しい者が、自身と豊かな者を比べればそこに「自由」「平等」と言う悪しき心が生まれ、こうした思いはやがて「万民への愛」と同じように拡大しようとするが、その発生段階の卑しさに措いて限界がある。

森羅万象、あらゆるこの世の事象は不平等が本質であり、不自由が本質であるにも関わらず、人間はここにことごとく逆らって理想を求めてきたが、そこにあったものは唯その状況が許されたという環境の問題でしかなかった。

だが人間はこうした環境こそ絶対であるかのように錯誤し、ここに個々の単位では(better)でしかないものを寄せ集めて(best)である「自由」や「平等」を思い描いた。

(best)である理想は常にそれが究極となった場合は存在しなくなるものであり、従ってそれは存在しないことと同じものである事から、結果として(best)とは常に言葉にならないもの、存在しないものである事を指してもいる。

それゆえもし人間が事の本質、若しくはそれに近い物を求めるなら、それは文書化されたり言葉で表せるもの以外の存在と言う事になる。

だが人間は幾世紀にも渡って生と死を繰り返し、その中で社会や人が時と共に細かい選択を求めていった行った結果、何時しかこうした言葉ではないもの、存在しないものを信じられなくなり、本来言葉に出来ないものを文書化しようとしたが、これがフランス革命が行った「破壊」と言うものだった。

地球もそこに存在する生命も一瞬たりとも止まる事はないにも関わらず、こうして人間はその形のない、存在しない、しかし最も大切な部分を「明文化」して止めてしまった。

自由を文書化し、それを規定したときから自由はなくなり、民主主義と言う、人の「劣化」の原理を考えるなら必然的に劣化し、衆愚化するものを最も理想的な政治の在り様と考えたときから、人は権利と言うもので自身によって縛られ始めた。

また平等とは、基本的に社会が出来る最低ラインを基準にして始まるものであり、ここにはその高邁な言葉とは裏腹に怠惰がはびこり、広く分散された責任が民衆の責任を忘れさせ、なお、自身と異なる価値観の芽を摘み、社会思想を均一化させて行く。

さらに一方で例えば「人権」と言うもの一つを取っても、それは人間社会の仮定の中でしか存在できず、例えば人間は明日の天気さへどうすることも出来ないにも関わらず、この地球を無視した所に「人権」を置き、しかもそれがいまだ世界のどの国でも実現されていないにも関わらず、絶対的なものとして声高に叫んでいるのである。

自由、平等、民主主義にしてもそうだが、こうしたものに「完全」があってはならない。

そしてこうしたものの(better)は常に劣化したものであり、そこに存在するものは「腐敗」でしかないが、(best)もまた存在し得る。

唯この(best)は細かく規定された文書や言葉ではなく、その国家や民衆の上に透明で漠然と漂う姿形のないものであり、如何なる言葉にても表現できるものではないが、強いて言えば「運命や自然に対する畏敬」と言うものかも知れない・・・・。

 

 

 

 

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 結論的な「運命や自然に対する畏敬」・・

    現代人は、もっと具体的に言えとか、説明責任がなされていない、とか言いそうだが・・
    政治家~評論家~特にコメンテーターと言う人々は、最善でも次善でも、最悪でも次悪でも、どっかに典型的な解答・回答があると思いこんでいるようであり、それに引き合わせて、評価している風でもある。良く評価基準とか言うけれど、刻々と変化する社会や、戦争なら天候も含めて状況が変わって行くのであり、全ての策は次の瞬間に陳腐化する。又彼らの最も弱い点は、現場を知らない事であり、目の前に展開していることでさえ、自分の知識内の或る定型で動いているとしか、認識が出来ない。平和憲法の第9条は、全く平和を担保しない事が、分からない。
    ものはありのままに有り、その中で変化して行くのであり、有るべき様に有るわけでもなく、有るべくように変化するわけではない。

    仕事は完璧を期したが、最悪でない状況で終了すれば、良しとせざるを得ない事が多かった様に思う。

    1. ハシビロコウさま、有り難うございます。

      アダム・スミスなどを読むと、この最後の方に書かれた話などが良く理解できるかと思いますが、実は国家や社会を形成している大きな部分は文書化できる代物であったり、こうだとはっきり言えるものは少ないと思います。

      それは漠然としていながら、それでも絶対無比なものであり、よくよく突き詰めると人間のやっている事は合理的、かつ理論通りに動ける事は存在していないかも知れません。
      その意味ですべての営みは環境の一部とさへ言えるかも知れません。
      風に揺れるススキの穂、流れて行く川、泳ぐ魚・・・と同じかも知れません。

      コメント、有り難うございました。

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