「視覚情報と記憶」

例えば春、菜の花の咲く河原辺を歩く男女二人の中学生がいたとしようか・・・。

卒業式を明日に迎え、互いにもうすぐ訪れるであろう新たなる船出と、それに伴う別れに際し、思いのたけを一言伝えんと思うも、意識すればするほど赤面し、並んで歩けば良いものを、唯黙って一人が少し後ろをうつむき加減で歩く・・・。

やがて彼等は大人になり、いつしか自身の子供が中学校を卒業する頃になり、たまたま通りがかった川辺に咲く一本の菜の花を目にしたとき、そこに去来する思いは恐らく言葉にできまい。

人間の情報と言うものは、実は「情報」だけだと何らの意味も持たない。

唯菜の花を認識しただけでは、それは情報でも知識でもなく、自分の脳内に有ろうが図書館に有ろうが、ウキペディアに有ろうが同じ事でしかない。

それゆえ人間の脳はこうした外からの情報に「記憶」を加え、それをパターン同士で整理していると考えられているが、このパターンはそんな広い分野のものではなく、ごく狭い範囲のパターンの中で処理されている可能性が高い。

従って人間の情報に対する処理は、基本的には「記憶」と連動したものであり、これは視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の全てに置いて同じことが言えるが、中でも「記憶」と密接な関係にあるのが「視覚」である。

人間の情報処理分野の中で最大の情報となるのが「視覚」による情報だが、それだけにこの視覚が「記憶」に関与する部分は大きく、記憶の広がりは菜の花で言うなら、菜の花、卒業式、川辺の道、中学校、好きだった、子供、などと繋がって出てくる事になる。

しかもこうしたキーワードはそれぞれがまた別のパターン中でも記憶されていて、そこでは中学生と言うキーワードは受験、夜食、ラジオの深夜放送と言う別のパターンの中にも存在しているかも知れない。

人間の視覚による記憶のシステムはこのようにして、その時必要な情報を多くの連動した記憶の中から最速で引き出し、また多くの他の情報を連動させて記憶処理している。

ゆえに人間の記憶情報は例え一つの情報であっても、常に周囲の他の情報と連動していなければ記憶されにくい面を持っている。

つまり自分が実際経験する、その場に立ち周囲の情景や人の言葉を実際に聞かなければ、情報は大変薄いものとなり正確な判断材料を得ることは難しいばかりでなく、記憶もされにくくなってしまうのである。

家でパソコン画面やテレビ画面で、老婆が泣いて拝んでいる映像が流れたとき、この老婆が軍隊に銃口を向けられているから泣いて拝んでいるのか、それとも友軍の支援が来て食料を貰えそうなので泣いて拝んでいるのかを決めるのは「キャプション」、即ちそれを取材した者の説明書きである。

だが現実はその老婆が幻覚から、目の前に神が降りてくる姿を見て拝んでいたかも知れない。

それを場所が戦場、そして泣いて拝むと言うキーワードはいとも簡単に、敵に銃口を向けられ命乞いをしていると取材記者を錯誤させ、更にそれをテレビやパソコンで観ている者はたった一つの考え方しか持たない情報を見て判断し、また脳はそれを何とか他の乏しい情景と連動して記憶しようとするが、これは大変困難な状態である。

10日前一体どんな事件があり、日本ではどんなことが話題になっていたか記憶している人はいるだろうか、更に言えばおよそ30日ほど前は何が報道紙面を騒がせていたか記憶している人はいるだろうか、恐らく記憶している人は少ないはずである。

しかしこれが20年ほど前のバブル崩壊の時期を考えたら恐らくまた違った展開が出てくるだろう。

そこではこんなことが有った、あんなことが有った等々、色んなことが思い出されてくるはずである。

勿論年齢による記憶力の問題もあるが、実は年齢による記憶力の低下よりも、実際は人間の記憶力の低下はその情報の質にあるとも言え、より多くの周辺ディテールを持つ情報は益々鮮明に記憶され、ディテールの少ない情報は、どんどん記憶の片隅に追いやられていくのである。

現代の情報を鑑みるなら、パソコンやテレビを通じてあらゆる世界の情報が錯綜し、そこでは情報がまるでディテールを持たないため、唯眼前をよぎっていく情報にしかなっていない。

つまりここでは余りにも膨大な情報に、ディテールを含めて記憶によって情報化する作業が追いつかない状態が現れ、視覚によってこれを繰り返すなら、そこに記憶の情報に対する免疫が起こってくる。

つまり情報化に対する脳の麻痺が発生してくるのであり、そのために周辺ディテールを欠落させた情報は逐次忘れらてしまうことになるのだが、同じ脳の感覚麻痺は第一次欲求、食欲や性欲でも同じ性質を持っている。

過剰な食は、食そのものを増長させ、最後は食の意味を失わせ、そもそも性欲は男が好き、女が好きと言った社会上の概念や、それと連動するディテールが無いと成立しない。

視覚に限らずこうしたものが簡単に手に入る状況や、毎日こうした情報のみが錯綜する社会はそこから本質や意味を奪い、それによって麻痺した社会は情報を受ける側の思考能力を浅くして、より突き詰められた凶暴性を持った感覚、若しくは限りなく表面的な優しさしかもたらさない事になり、さらに情報を起こしてしまう側、これは犯罪を犯す者だが、彼等の犯罪も全く生物に対するイメージの欠落した、まるで人間を物としか考えないような感覚へと貶めたものが多くなるのである。

情報化社会、情報のグローバリズムは必ずしも人間の生活に潤いをもたらすとは限らない。

情報化社会によって人類が手に入れたものはより深い知識ではなく、記憶力の低下であり、知識の軽薄化でしかなかった側面があり、またこうした社会を自由に意見が言える良い社会と言うのではなく、皆が暴言を吐ける軽薄な社会になったと言うのである。

そして冒頭の菜の花に戻るなら、菜の花の情報は全てを表現することすら難しい沢山のディテールがそれを囲んでいて、言葉にすることは難しい。

即ち大切な情報と言うものは軽々に感情表現できないものであり、ここから推し量るなら、最も重要な情報とは例えば笑い、涙、単音の叫び、嗚咽などと言った、およそ言葉に表すことも説明もできないものの中にこそ、存在しているのかも知れない。

[本文は2011年3月6日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。