「言葉には意味がない」

組織運営、これは企業でも同じだが、もしその組織で情報の漏洩が感じられた場合、その情報が敵やライバルに取って有利になるものでなければ放置しておくと良いが、機密情報が漏洩する場合の管理方法は比較的容易な方法で管理できる。

少なくともその組織の頂点にある者は軽々に機密を拡散しない慎重さが必要だが、重要機密の漏洩ルートを探るなら、もっともらしいデタラメな情報をわざと側近の一人一人個別に、それぞれ1週間ほど間を開けて話していくと良い。

そうすると一週間ほどしてその情報が自分の耳に入るようになれば、誰が情報を漏らしているかをおぼろげながらでも知ることができるが、この場合もしかしたらその情報漏洩の疑いのある者は「濡れ衣」を着せられている可能性もある。

そしてもう一つは完全に情報漏洩をやっている者が判明した時、ここで激怒してしまう組織トップはまことに芸の無い者で、その時点で組織トップを辞めることをお勧めする。

実は情報と言うものは双方向に使えないと、守ることはできても攻めることができず、いざとなったとき使える最後の手を残しておくのが組織トップの在り様と言うものだ。

つまり情報漏洩でその疑いのある者の濡れ衣が確定した場合は別として、途中で情報漏洩のルートが不確定になる、簡単に言えば白か黒か分らない者は、これを切り捨てなければならない。

もしかして濡れ衣かも知れない。

だがその状況にあると言う事は、機密情報の漏洩と同じことであり、尚且つこうした不安定な者はその後のこの者を使った攻撃も不安定になる。

それゆえ可哀想だが、こうした場合は組織中央から遠ざける処置を講じなければならず、それによってこの者の真偽を確かめ、誤解であったなら後日詫びて復帰させる処置を取ることだ。

また情報漏洩をしている者が判明した場合、これは利用価値がある。

すなわち組織に対して敵対している者との関係者は、その組織にとっても唯一の敵情報提供者なのであり、その者が何を探っているのかを知ることで、敵の目的を知ることができる。

こうした存在を簡単に感情的に処理することは、その組織にとっては大きな損失になるのである。

更にもしこの敵に情報を流している者が、どこかで自分が疑われていることを察知した場合、このときは信頼できる部下に頼んで納得して貰い、その部下をスパイ容疑で処分する方法を取ると、そこから敵をかく乱し、なおスパイを安心させることが可能になる。

勿論こうして大事を頼む部下は、後に全てが終わった時には厚遇しなければならない。

大きな組織の長たるものは危険分子の一人や二人、近くに置いて知らん顔をしているようでなければ組織は守れない。

また人間は誰もみな善と悪がはっきりした観念を持って暮らしてはいない。

ゆえに人間は白か黒かと言えば、その濃度の中でしか暮らせないことを鑑みるなら、誠意や善意で人を治めるより、利と策を持って治める方が幾分かは容易い。

それはなぜか、誠意や善意と言うものはこちらが主導権を持っているものではなく、常に相手、対象者の主観でしかない。

だからこうしたものをコントロールする経費や時間を考えるなら、少しばかりの利益配分と策略の方が容易いのであり、その道具の一つは「言葉」である。

言葉はそれが実行されない限り、唯の思いであり、何の得にも損失にもならないが、それによって対象者が動揺した場合は、「損失」を発生させ、近年日本はこの言葉によって多くの損失を被っている。

例えば現在問題になっているアメリカ国務省日本部長の「沖縄はゆすりの名人」などの発言に対する日本の反応などは、そうした損失の極みである。

アメリカ国務省の人間が沖縄をどう思っているかを語っただけであり、どう思うか語るだけなら誰が何を言っても自由であり、むしろこうして正直な意見が聞けただけ日本は有り難いと思えば良い。

極端なことを言えば世界征服を豪語していても、そんなものは実現しなければ何の意味もないし、思うだけなら誰もそれを止めることはできず、それを安易な形式感情論で訂正を求め、無理やり訂正させたところで本人の考え方は何も変化しない。

むしろその間に税金で動いている者がテレビで抗議の報道をし、それに対して形式的な謝罪が為されることの金銭的損失、時間的損失の方が遥かに大きく、それで気分がすっきりしたところで沖縄の基地問題は何らの進展を見せる訳でもない。

人の言葉に過剰に反応している時間が有ったら、アメリカも日本も少しでも沖縄からアメリカ基地を少なくすることを協議するために時間を使うべきで、人に頭を下げさせて満足しているようではチンピラと何も変わりはしない。

そして日本と言う国は、こうして海に来ていながら眼前の鯛の群れを見ず、小さな貝殻を見て騒いでる愚かさを続け過ぎている。

だから同じように他国から小さな言葉のミスを指摘されると、大変な労力を要してこれを弁明し無ければならなくなるのであり、これは国民にも責任がある。

人から何を言われても、それで何も変わりはしない。

ましてや自分の価値観で騒ぎ相手に謝罪させたとしても、それで腹が一杯になる訳でもなく、気分的にすっきりしただけなら、そんなものを求めるならそれは独裁者と同じことだ。

国益とは何かを考えるとき、そこに感情的満足を得たとしても実質何も変わらなければ騒いだだけが損失になる。

アメリカの一役人の言葉、しかもそんな感情論で影響される程度なら日本の誇りなど大したことが無く、それで侮辱されたと思う方の度量が逆に問題のように思える。

韓国や中国が日本の教科書にまで文句を言う現実に、「そんなことまで言われなければならないのか」と思う日本人は多いが、アメリカの役人が一言思うことを言っただけで大騒ぎする日本の姿は、アメリカ人からすれば日本が韓国や中国に対して抱く思いと同じである。

胸に手を当てて考えてみると良い。

自分はいつも誰も憎まず、誰も悪く思ったことはないと言い切れるだろうか。

そしてそんな感情を持ってはいけないと人から言われて、それで本当に思わないようになるだろうか・・・。

決して心は変わっていないはずだが、それを平気で人に求めることには躊躇が無い在り様、更にそれで損失が生まれるとしたら、意味の無い言葉によって振り回わされただけだとは思わないだろうか。

今日本が言う事ははアメリカの木っ端役人の感想に目くじらを立てることではなく、「沖縄から基地を撤収しろ!」だ。

「本文は2011年3月9日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。