「無意識の革命」

権威や威信と言ったものは、被権力者、被権威者の許容、もしくは理解によって成立し、権威の存在するところには「秩序」が保たれる。

だが一般的に権威を背景としなければならないのは権力者であり、権力者の所有する権力を担保するものが権威であるとするなら、権威は常に権力者が執行する権力に対して発生するものと言える。

しかし権力者が既に国民の信頼を失っている場合、その国家の国民は自身が持つ正義感や道徳観を暫定的な権威として行動し、尚且つこうした個人の権威の質に個人的な相違が少ない場合、権力者が権力を執行しない状態でも、そこに国民の自主的権威が形成され、結果として国民総意に基づく自主的権力による統治状態が生まれる。

ゆえにこうした状態は、ある種本質的な国民自主権による「government」(政府)と言う理想的な「形無き形」を生じせしめるが、この事は何を意味しているかと言えば、その国家の国民が時の政府に対して全く何も期待していない状態を指していて、その時の政府は完全に国家統治能力、政治の本質である調整能力を喪失していると言う意味を持つ。

更に言えば、こうした状態で暴力や組織的な武力が行使されるなら、それは「暴動」や「革命」と呼ばれるが、政府が統治能力を失っている状態でも暴力や武力が行使されず、特段の形式も持たずして秩序が維持される場合、これも厳密には「革命」と同じことである。

既にその国家の国民は自主判断で自身を統治していると言え、こうした状態の「革命」は形を持たない、無意識の「革命」とも言うべきものである。

そしてこれはどこの国の話かと言えば、「日本」のことである。

2011年に入って民主党、菅直人政権は完全に国民の信頼を失った状態になっていたが、そこへ3月11日、日本海溝に沿って全ての地殻が崩れ落ちる「日本海溝地震」(注・気象庁は東日本大震災としたが、これでは後世の者がこの地震の震源を理解しにくくなるので、ここでは日本海溝地震と表記する)が発生し、これによって福島県の福島原子力発電所が放射能漏れ事故を起こし、尚且つ東北では実に死者、行方不明者が3万人を超える巨大災害となったが、ここでも菅政権は官房長官を通して言葉による不明瞭な説明に終始し、菅総理は全く何の対策も取らず被害を拡大させ、国民の不安を増長させた。

こうした事態にもはや完全な混乱状態に陥った日本及び日本国民は、それぞれ国民一人一人が持つ価値観や道徳観、正義感で行動せざるを得なくなり、しかもその個人の価値観や道徳観はほぼ多数の国民によって共有されたものとして形成されて行った。
それゆえこれだけの大災害にも関わらず、被災地域での混乱は最小限度に抑えられ、また計画停電による電車運行の支障に対しても誰も文句を言わず、列を乱さない在り様となったのである。

日本は3月11日の「日本海溝地震」によって一時的に完全な無政府状態となったが、そうした場面でしっかり秩序を保つことができた。
この背景には勿論それが災害と言う非常事態だったこともあるが、日本と言う国は、もし政府が瓦解しても自主統治が可能な国家であることを世界に知らしめた。

実の世界の多くの国が、これだけの災害に遭遇しながら落ち着き、秩序を保ち続けた日本国民、日本に対して驚愕のまなざしを向けたのである。

だが一方でこうして秩序が保たれた日本の国民性に対し、海外の大衆からすれば到底理解し難い部分が存在するのも事実で、国家が騒乱の危機にあって、国民生活が非常事態に晒されながら黙っている日本国民の姿に、まるで飼われていることを何も考えない羊のような姿、若しくは黙って秩序を維持している光景に対して、底知れぬ全体主義的な国民性を感じた者も少なくない。

この意識の差はどこから来るか、その問いの答えは比較的容易である。
日本の民主制は前時代的な民主主義であり、ここには国民による法案提出権が存在していない。

つまりどれだけ騒いでも国民は国会に法案を提出することができないからで、一定の国民の要望があれば、代議士は国会に相当する機関に必ず法案提出しなければならない諸外国の憲法との相異があり、尚且つ戦争放棄の観点から日本国憲法に対し、暴力で訴えることに対する国民的抵抗感があるからだ。

その上、日本国民の5人に1人が公務員かそれに順ずる仕事に携わっていること、4人に1人が年金生活者であることから、国家には逆らえない状況が存在している。
だから日本国民は暴動や武力革命を起こさないが、その結果として現れてきたものが、今回の震災に措ける混乱時の秩序であり、これは政府に命令されて維持された秩序ではない。

国民一人一人の良心や道徳観、価値観や正義感などが共有された結果もたらされたものであり、少なくとも日本人は日本独特の優しい価値観を失ってはいなかったと言う事に他ならず、これはある種無能化した日本政府に対する国民の無抵抗、非暴力、無意識の「革命」であったと私は思いたい。

革命と聞けば自動小銃が火を噴き、戦車が繰り出されることを想像するかも知れないが、今回の震災で日本人が示している秩序は、最も理想的な「革命」と言う側面を持っているのではないか、そう思うのである。
また基本的にこうして国民によって秩序が保たれたと言うことは、そこに個人個人の力が失われていない、すなわち日本にはこの震災には負けない国力が有ると言うことだ。

今回の震災では諸外国の日本人に対する評価が大きく向上した反面、日本政府は以前にも増して大きく信用を失った。

そして日本がこれから後に迎える災害は、地震を始めとして容易なものではなく、日本のこの愚かな政治をして、次に災害が訪れたとき、国民がそれに対して再度秩序を維持できるだけの国力を失わせることの無いよう、それだけをこれからの日本の政治家にはお願いしておきたいものだ・・・。

もしかしたら自然災害も一つの「革命」の形なのかも知れない・・・。

[本文は2011年4月2日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。