「時系列的整合性の欠如」1

人間にはズレがあり、このズレは何を起点としているかと言うと、その起点すらもはっきりしないが、若干の違和感にして深く、大した事ではないにも拘わらず、常にひっかかるズレが在る。

しかも多くの人間はこのズレに気付かない。

ズレは善と悪の双方に存在するが、悪の側は直近の比較が存在する為、「濃度」の形をとり、問題は「善」や「美」の側となる

「善」や「美」の近くはそれが良いものだと思う為、ズレが在っても認識することはできず、信じれば信じるほどズレを大きくし、その大きなズレも認識することができないが、小さなズレは多くの人間に共感される、若しくは伝搬、いや、感染と言った方が良いのかも知れない、そう言う性質を持っている。

何か対象物が在る時、それを見て感動する道は大まかに2つ在る。

一つはその対象物が紛れもなく感動の対象である場合、もう1つは感動したい自分が在って、それを対象物に乗じる場合だが、この2者は自身の内に在って区別がつかない。

厳密には区別する事すら難しいのかも知れないが、個人差が存在する為、それが見える人間に取ってはこうした個人差をして、それが本質ではない事が見えてしまうのかも知れない。

だが元々差が存在するものからズレを認識すると言う場合、つまり比較の起点がはっきりしないものの誤差を何で測るのかと言えば、それは「数の多さ」と「時系列的整合性」の欠如なのかも知れない。

こうした閉塞して動きのない時代、多くの人間は大きな変化を求めず、小さな喜び、感動、満足を欲する傾向が在り、例えば1970年頃の日本の一般大衆の夢は「家を持つ」事だったが、失われた30年が継続中の今の時代、それがディズニーやユニバーサルスタジオ、或いはおいしい食事やスィーツと言う具合で小さく細分化される。

同様に感動も少なくなって、何か感動できるものが在れば、沢山の人間がそれに群がる事になり、これは本質的感動ではなく、何かの祭りのようなもので、感動したいが為に自身の言動思想の時系列的整合性を考えずに飛びつき、これに気付く少数の者は、こうした大衆の時系列的整合性の欠如をして、それがズレである事を認識している可能性がある。

多くの人間がこうして時系列的整合性を欠いた状態の中、これがズレである事に気が付く少数の人間が「ズレ」を主張しても、その時の大衆は気が付かないどころか、「善」や「美」に対するアンチと捉えてしまう。

今の時代で言えば「炎上」になってしまう訳である。

ただ、こうした時系列的整合性の欠如は、現在が過去になって行くと、過去の中で時系列的整合を獲得して行く。

つまり今それがズレである事に気付いた者は、それを記録し、5年後、10年後と言う時期を見計らって、それを世に出せば賛同者や理解者が多くなるのである。

ズレに気付いた者は、何故これが小さくても深く自分の中に残るのかと言えば、グレーの沢山の粒の中に、周囲のグレーより僅かに薄いグレーの粒が1つ存在した場合、これが僅かな差でも認識できる事、数が少ない故に際立つのである。

時系列的整合性の欠如は、一種の感情の増殖である事から、もう一つ例を挙げるなら、上に木の枝が在って、降ってくる雪は自分の所では積もらないが、周囲にはどんどん積雪量が増え、自分が周囲より沈んで見える。

この事が不安感に繋がり、自分が正しい、言い換えれば時系列的整合性を欠いていない事を主張したくなる為、焦燥感を覚える事になるが、春が来て雪が解ければ皆春を楽しみ、過ぎ去った雪の事は考えない。

大衆とはそうしたものだ。

今大衆の「ズレ」に気付いた者の心を埋めるのは難しいが、チャーチルが「最低だけど今はこれがベストだ」と言った民主主義と同じように、必ずしも正解ではないが、気付いた者は「利」を求めるしかない。

多くの者がズレを認識できない状態なのだから、これに便乗して「利」を得る事を考え、後にそのズレが解消された時、多くの者の油断を付いて利を上げた事をして対価とするしかないだろう。

利益は虚しいかも知れない。

豪華なホテルに泊まろうが、高額な食事をしようが、見目麗しい異性を傍らに侍らそうが、決して心は満たされない。

しかし、「利」は今の時代、人間社会で形なきものを形した、その形の最上位だから、虚しくてもこれを確保するを怠らないのが、人間社会に措ける唯一の正義、「善」だろう・・・。

[時系列整合性の欠如」2に続く

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。