「レトロプログラム」

「BSE](狂牛病)の発端は、人類の食人習慣から発生したウィルスがヤギへの感染能力を獲得し、そこから牛への感染機能を得たものと言う説が有り、発見当初は人体への感染は無いと考えられていたが、人体感染能力は限りなく疑われるところであり、しかも元々霊長類が持つウィルスだった可能性が有る。

我々の食の安全を脅かす驚異的なウィルスの発端は、人が人を食べる習慣から始まっているかも知れないのだが、今日でこそ人が人を殺す事を禁忌としているものの、その禁忌の正統性の歴史は人類全体の流れの中では普遍性的なものではない。

身近な例を取るなら150年程前の日本を考えても良い。
晒し首は日常茶飯事で、飢饉では道に死体が無造作に転がっている状態だった。

世界各地で人類が殺人に関して一定の理論を構築したのは何故か皆同時期になっているが6000年ほど前の事であり、4000年前にはそれが少し後退し、2000年前には正統性の数や幅が広がって、そこから徐々に殺人に関する禁忌意識の整備が進んで来る。

しかし現実に殺人の数が減少して来たのかどうかは判断が難しく、社会が醸成する宗教や思想は元々死生観を拠り所とするものだが、こうした殺人に対する禁忌の正統性が戦争を引き起こしている事もまた事実であり、戦争が無くなった時代が人類史に刻まれた時などこれまでに一度も無かった事を考えるなら、人は殺人をしたいが為に戦争や抗争を起こすのか、それとも戦争や抗争が有るから殺人が有るのかは、両手を打って拍手した時の音は右手の音か、否左手の音かと言う議論と同じである可能性が否定できない。

人間の性意識は生物学的には母親の胎内で決定されるが、これは半分の状態で、残りの4分の1は4歳までに、そしてもう4年かけて最後の4分の1が加えられ、やっと男女の概念、自分の性の意識が形作られ、これらに作用しているものは視覚とそれを通して得られる「言語」であり、言うならば半生体プログラムなのである。

だが「人間としての意識」と言うものは母親の胎内で基礎が形成されない。
それゆえ「人間としての意識」は社会や環境によって形作られる環境プログラムなのであり、この中で殺人に関する禁忌の歴史は比較的浅く、未だに男女の性意識のように生体プログラム化されていない。

どちらかと言うと社会のルールと言う側面が強いのである。
人類は何故人を殺してはならないのかと尋ねられた時、社会を外してそれに答えることが出来ない。
悪い事だからだめなんだとしか言いようが無く、では何故だめなんだと言われると答えられない。
牛やブタは殺されて食べられてもいるのに、人間と牛は何が違うのかと言う子供の問いに大人は答えられない。

でも皆が人を殺してはいけないと思っている、この部分が社会のルールから半ば生体プログラム化している部分なのだが、これを担保しているものが明確に社会である事が、性意識のように生体プログラムになり切っていない事を示している。

生体プログラムでは明確な理由が存在している場合、まだ完成されていない状態なのである。

そしてこうした生体プログラムは不完全では有るものの性意識同様、生まれてから4歳までの環境と、その後の4年間の視覚環境、言語環境によって形作られ、この期間に何かが欠損した場合と何かが過剰だった場合に変調が発生し易いと言われている。

レトロプログラムの発生が疑われるのである。
殺人に関する禁忌意識が通常よりは希薄な意識の人間が出現する事になるが、これでも濃度が存在し、その濃度の濃い者が犯す殺人は理由が存在しないのであり、男女比率はほぼ同じである。

またこれらの禁忌意識変調は必ずしも異常ではなく、性的な完成年代にピークを迎え、この年代で問題を起こさない者は変調が抑制される。
男なら精子が作られる頃、女なら排卵が始まる頃にピークが有り、統計でも常習性の無い無意識の万引きはこの年代が多く、特に女の場合は生理期間の無意識行動が多い。

殺人の禁忌意識は社会的なものである。
従って社会やそれが醸し出す宗教観を外したフラットな状態では、殺人はただの行為でしかない。
そこに理由は存在していないのであり、破壊は生物の持つ半分の本能である。

2014年7月27日発覚した、長崎、佐世保の高校一年生の女子生徒による同級生の殺害と死体損壊(切断)事件では、その動機の解明が重要になるが、この殺人にはおそらく動機が存在していないだろう。

精神鑑定で精神科医が質問した言葉に「そうかも知れない」と答えた、それが動機になって終わるだろうが、こんなことは意味の無い事である。
女子生徒は何千万人かに1人、何億人かに1人は必ず生まれて来るその1人だったと思う以外に無い。

犯罪の全てが理由が有って発生するわけではない。
後に「何であんな事をしたのだろう」と本人が思う犯罪も多いのだが、この佐世保の女子高校生の場合は、それすらも超えたところに原因が有る。

そしてこうした事件を完全に防ぐ事は不可能かも知れないが、生まれてから10年間の子供の環境、視覚を通した言語の環境を安定させる事でしか、我々は解決方法を見出す事はできないだろう。

視覚を通した言語の環境とは、テレビゲームやネットゲームではない。

母親の体温が伝わり、父親の子供を見つめる目の動きが有り、そこから感触や言葉を通して見ているものの整合性が理解し得る環境、それこそがこうした何千万、何億に1人のレトロプログラム濃度から子供を守る道かも知れない・・・。

[本文は2014年7月29日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

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